温かい皿

第一の皿amuse
胸ときめかせるもの


「ローラン!」
 有本真志は、押し込まれたリムジンの窓にすがりつくようにして叫んだ。
 窓の外には、すましたふりで歩道に佇む黒髪の男の、憎たらしいくらいに格好のいい姿がある。その顔には、満足そうで意味ありげな微笑み。
『ボン・ソワール(よい夜を)』
 ローランが軽く手で合図をするのに、真志を乗せた黒塗りのリムジンはゆるやかに動き出した。真志のアパルトメントの前に優雅に立つ長身の男の姿は、見る間に遠ざかっていく。
「ああ…」
 豪華なリムジンの座席に一人きりとなった真志は、不安げに胸をつかみしめ、吐息をついた。
 そして、ついにあきらめたように革張りのシートに体をもたせかける。
 真志が横目で窓の外をぼんやりと見やると、いつの間にかリムジンは大通りに入っていた。
 金曜の夜のパリ。街行く人々は、どことなく浮きたった様子をしている。恋人同士で、あるいは友人と過ごす、長く楽しい夜が始まるのだ。
 12月に入ったばかりの、この夜は冷え込みが厳しかったが、誰も気にする様子はない。皆、幸せそうで、思い思いに人生を謳歌している感じだ。
(やっぱり落ち着かないや)
 真新しいスーツの中で、真志はもぞもぞと身動きする。サイズはぴったり。真志のためにオーダー・メイドされた最高級のスーツなのだから、着心地が悪いはずがない。
 それでも―。
(こんなの、やっぱり僕向けじゃない)
 VIPかセレブにこそふさわしいリムジンの広々とした座席の隅っこにウズラのようにまるっこくうずくまりながら、真志は革張りのシートを神経質に手でさすり、また溜め息をついた。
(どうして、こんなことになっちゃったんだろう)
 真志は、ただの見習い料理人だ。パリの料理学校で2年学び、そこで知り合った友人のつてを頼ったレストランで修行中の、料理人としても生まれたばかりの卵のようなものだ。神戸の実家も老舗とはいえ普通の洋食屋。パリでの生活もおんぼろ安アパルトメント。
 それが一体どうして、ぴかぴかのリムジンに乗せられて、行く先は綺羅星のごとく輝くパリのレストランの中でも最高峰の三ツ星レストラン、という状況にあるのか。
 そこで真志を待っている人の顔が頭にうかんだ。とたんに、真志の心臓がわあわあと騒ぎ出した。
(やっぱり駄目だ。会えないよ。そんな勇気、僕にはないよ)
 真志はがばと身を起こした。もう何度も顔は見ているのにろくに話らしい話をしたことのない、無口な運転手の後ろ頭に向かって声をかけようとした。
「待って…やっぱり僕のアパルトメントまで引き返し…」
 その時、真志の視界の片隅に何かが飛び込んできた。
 リムジンは、信号待ちのため一時停車している。
 まさかと思いつつ、真志は、道路に面した店の明るいウィンドウの方を振り返った。
「あっ」
 真志の口から、驚きの叫びが迸った。
 この三ヶ月ですっかり見慣れたものとなった美しい顔が、真志を涼しげに見下ろしていた。
 柔らかそうな蜂蜜色の髪に縁取られた優しい顔は、聖画の中から抜け出してきた天使を思わせる。ふっくらと官能的な唇には、人の心をざわめかせる、あの謎めいた微笑。冷たく澄んだ青い瞳は、問いかけるかのごとき表情をうかべて、とっさに真志の胸を貫いた。
 そこはパリによくある大型書店の1つだった。通行人で一杯の歩道に面したウィンドウというウィンドウには、話題の新刊の発売を告げる何枚もの大きなポスターが貼られている。その中から、幾つものあの顔が真志を見つめていたのだ。
「あ…そ、そういえば、クリスマス前に新しい本が出るって言ってたかな…? もう発売になってたんだ…」
 今フランスでもっとも注目を集める美食家にして料理研究家。食通の殿堂、アカデミー・グルマンディーズの二代目主宰。『大天使』ことガブリエル・ドゥ・ロスコー。
(あなたは逃げられませんよ、シンジ)
 ポスターの中で妖しく微笑む顔を呆然と見上げながら、真志はごくりと喉を鳴らした。
 運転手の方に乗り出していた体を、真志は再びシートの背に預ける。
(どうして…?)
 魂を飛ばしたようになりながら、真志が書店のウィンドウに貼られたポスターを凝然と見つめるうちに、リムジンは再び走り出した。
 あきらめた気分で眼差しを前方に向けると、真志は、金色のイルミネーションに飾られた街路樹の彼方の闇を見るともなしに見た。
 この夜の向こうに、彼が待っている。
 目をつむり、真志は慄いたように震える体を両腕で抱きしめた。
「ガブリエル」
 ふいに、真志の脳裏にガブリエルの声が響いた。あれは、もう三ヵ月も前のことだ。初めて出会った時、彼は真志にこう問いかけたのだ。



 あなたは、運命というものを信じますか…?


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