温かい皿

第六の皿 desserts
甘く、熱く…




(そう言えば、ガブリエルの夢が何なのか、聞いたことはなかったな。僕の夢については、話したことはあったけれど)
 アパルトメントでローランが語ったことを思い出しながら、真志が考えた時、リムジンはレストランに到着した。
(ガブリエルが、ここで僕を待っている)
 運転手が車のドアを開ける。真志は大きく深呼吸をして、外に出た。
 もう、ここまで来たのだから腹をくくるしかない。
 そうだ、ガブリエルに会って、はっきりと自分の意思を伝えるのだ。日本に帰国する。たったこれだけのことを話すのに、どうしてこんなに緊張を覚えるのか。何だか、本当に果し合いにでも来たかのようだ。
 三ツ星レストラン、ミシェル・デュカスの前には、黒服のドアマンが待ち構えていた。
 アルマーニ仕立ての『戦闘服』に身を包んでいても、思わず腰が引けそうになる。
「ボン・ソワール、ムッシュ」
 真志の姿を一瞬値踏みでもするかのように見つめた後、ドアマンはにっこり笑って、デザインが美しい鉄の扉を開いた。どうやら、この店にふさわしい客とみなしてくれたらしい。
(料理修行をやってる身としては、勉強のために一度は食べに訪れたかったレストランではあるけれど…おいそれと入れる雰囲気じゃないよ、これは)
 フランスでもっとも権威あるレストランガイド、ミシュラン・ガイドがレストランを評価する基準とは、次のようなものである。
 まず、一ツ星とは、『旅先で立ち寄る価値のある』非常に質のよい料理を出すレストランであるということを意味する。
 二ツ星は、素晴らしい料理のために『旅を回り道しても訪れる価値のある』レストラン。
 そして、三ツ星とは、忘れがたい料理を味わうためだけに『旅をする価値のある』レストランなのである。
 フランス全土で僅か二十店程度しか選ばれない三ツ星は、食の国フランスが誇るレストランの最高峰。その敷居はとてつもなく高い。真志にとっては、遥か天高くに神々しく聳えるエベレストの尾根のごとく感じられた。
 こんな店、真志だけでは、とてもじゃないが恐くて入れない。
 ミシェル・デュカスの真紅とゴールドを基調とした高級ホテルのフロントのような一階はレセプションになっており、二階のレストランへはエレベーターで上がるようになっていた。
 エレベーターから降りた真志は、完璧な物腰のレセプショニストに案内されるがまま、レストランに隣接するバーに入っていった。
 足下の厚みのある絨毯が、足音を消す。
 天井からつりさがった豪華なシャンデリアの灯りの下では、エレガントな男女が談笑しながら食事前のカクテルタイムを楽しんでいた。
 真志の胸の鼓動は、急速に早くなってきた。
(どうしよう…僕って、ういてないかな…?)
 ふいに、案内の女性が真志に奥の席を示した。
 真志がそちらを見ると、1人の細身の男性がソファからゆっくりと身を起こすところだった。
 とたんに、室内のすべての物音が真志から遠ざかっていった。
 深く暗い薔薇色の柔らかな素材の上下に身を包んだ、その人は、真志の方に体を向けると、後ろに手を回し、彼を待ち受けるかのように静止した。
 初めは何の表情もうかんでいなかった顔に、何かしら含みを感じさせる魅惑的な笑みが広がっていく。
「待ちわびましたよ、シンジ」
 その声は、遥か別の世界から響き渡る心地よい音楽のよう。
 背景を飾るアールデコ調の豪華な調度品も着飾った他の客達も、彼の前には全て、影か幻のようにかすんだ。
 その圧倒的な存在感が、その美しさが、真志に向かってぐんぐん迫り、波のように押し寄せてくる。めまいがしそうだった。
 呆然となって立ち止まった真志に向けて、ガブリエルは歓迎するかのように両手を軽く広げた。
 真志をまっすぐに見据える青い目が、瞬間、炎のようにきらめいたのは、煌々と輝くシャンデリアのせいばかりではなかったかもしれない。
「ようこそ、我が晩餐に」
 

  
 もしかしたら、ガブリエルは怒っているのかもしれない。いや、絶対にそうだ。



 真志は、ガブリエルと共に、レストランの奥まった場所にある席に案内された。素晴らしく大きな大理石と花のデコレーションがテーブルの隣にあるため、他のテーブルからは隔絶された親密な空間を作り出している。
 高い天井からは淡い金のシャンデリアが光を投げかけ、四方の壁にはめ込まれた鏡が空間に広がりを与える。重厚な本棚を描いた騙し絵。真紅の絨毯。
 真っ白なテーブルクロスのかけられたテーブルの上には、瑞々しい紅薔薇で囲まれたキャンドルが燃えていて、抑えめな照明の下、ロマンチックな雰囲気を醸しだしていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…!」
 初めに謝っておけとのローランの助言に従って、真志は椅子に座るなり、テーブルに着きそうなくらい頭を下げて、ガブリエルに謝りまくった。
「ガブリエルが僕を心配してせっかく訪ねてきてくれたのに、会いたくないって一方的に追い返して…その後もずっと連絡しなくて…おまけに、こんなすごいレストランに招待してくれたのに、その返事すらしてなかった…」
「そうですねぇ。私が気をもんだのは、確かですが…」
「本当に悪気はなかったんだ。ただ、アランのことやボン・ヴィザージュのことや、ずっと気持ちの整理がつかなくって、ガブリエルに話せる状態じゃなかったし…招待状の返事のことは、ついうっかり忘れてて…」
「つい、うっかり?」
「あわわ…ガブリエル、やっぱり怒ったよね?」
 真志が顔を上げて、おっかなびっくりガブリエルを見ると、彼は、シャンパンのグラスにしなやかな指を滑らせながら、どこか人事めかした調子で言った。
「さあ…私も、気にかけた人からここまでの仕打ちを受けたことは初めてなものですから、何と言えばいいのか、ちょっと言葉が見つかりませんよ」
 真志を横目でちらりと見やった、冷たい青い目。真志は悪寒を覚えた。
「怒ってはいませんよ、シンジ。あなたに悪気はなかったことは分かっていますから。ええ、いつだって、あなたには欠片ほども悪気などなかったんですよね。ただ、非常に察しが悪くて鈍感なだけなんです」
「すみません…おっしゃるとおりです…」
 蚊の鳴くような小さな声で答える真志を見て、ガブリエルは吐息をもらした。
「もう、いいですよ、シンジ。ただ、あなたを見ていると、これまでの私のやり方は間違っていたと思わないわけにはいかない。だから、あなたに対する私の態度を、今後改めることにします」
「えっ?」
 何となく不穏なものを感じ取って真志が身を固くするのに、ガブリエルは、それまでの近づきがたい雰囲気を取り払って、嫣然と笑った。それは、真志が思わず息を呑んだくらい、艶かしさを帯びた顔だった。
「仲直りの乾杯をしましょう」
 給仕が再びシャンパンで満たしたグラスを、ガブリエルは目の高さに持ち上げた。真志もそれを真似てグラスを掲げ、シャンパンをぐいっと飲んだ。
 真志がシャンパンを飲み干すのをじっと見つめる、ガブリエルの熱っぽい眼差し。真志は胸が苦しくなってくるのを意識した。
「あ、あのさ…そう言えば、エリックさんはその後どうなったの? マルセルさんとは仲直りできた?」
 半ばガブリエルの注視から逃れるために、真志は口を開いた。
「エリックは今、マルセルのレストランの厨房でスー・シェフとして働いていますよ。何しろ3年のブランクがあるので、リハビリがてらマルセルにしごいてもらって、その後うちのレストランの1つを任せようと思っています。あの兄弟のことは心配いりませんよ。余計な言葉を交わすより、一緒に料理をした方が簡単に分かり合えるようですね。どちらも馬鹿がつくほどの料理好きですから」
「そう…よかったね」
 ほっとしかかったものの、真志はふと胸の奥にしまっておいた引っ掛かりを思い出した。
「あのさ、ガブリエルって…もしかしてエリックさんのこと…ほら、定例会の日にぽつりと漏らしてたでしょ、好きになりかけたとか何とか…もしかして、それって…?」
 なるべくさり気なく聞こうとしたのだが、実際は不自然極まりない問いかけになってしまい、真志は思わず赤面してしまった。
「ああ、そんなことを聞きとがめていたんですか、シンジ」
 ガブリエルは意外そうに微笑んだ。
「そうですね、昔は確かにあの人のことをいいなと思っていましたよ。エリックの作る味に夢中になった勢いで、あの人自身にも恋をしそうになりました。でも、過ぎたことです」
「今は、違う?」
「ありえません」 
 その瞬間、ほっと力を抜いた真志は、突き出しのエスカルゴを専用のトングと呼ばれるハサミではさもうしていたのを滑らせてしまった。
 バターのついたカタツムリは、よく滑って、飛んだ。真志の皿から見事な放物線を描いて高々とジャンプし、テーブルの隣の美しいフラワーアレンジメントの大きな葉っぱの上に上手に着地した。
「あっ…あっ……」
 真っ赤な顔をしてそれを見守った真志の耳に、ガブリエルの笑いをかみ殺した声が届いた。
「長年このレストランで食事をしていますが、飛ぶカタツムリを見たのは初めてですよ」
「どうしよう、あれ…」
「放っておきなさい。…結構、可愛いじゃないですか、葉っぱにカタツムリがとまっているなんて…」
 また笑いが込み上げてきたらしい、ガブリエルはナプキンでそっと口もとを押さえた。
「そ、そんなに笑わないでよ」
 そう言いながら、真志も何だかおかしくなってきて笑い崩れた。おかげで気持ちがほぐれた。
(それにしても、ガブリエルが昔はどうあれ今はエリックさんを何とも思ってないと聞いて、どうして僕はこんなにほっとしているんだろう…?)
鶏肉とレバーとレンズマメが具になっているポタージュの上品な味に真志が感心するのに、ガブリエルも頷く。
 アントレに選んだカエルのソテー赤タマネギソースも身が柔らかくておいしく、添えられたパセリの絶妙の揚げ方がレストランの底力を感じさせた。
 2人がオーダーした料理は、別にあわせた訳ではないが、肉料理以外は同じだった。
「好みが似ているのかな」
 真志が言うと、ガブリエルは、ふっくらと美しい唇でキスを交わすようにグラスのワインを味わいながら、囁いた。
「知っていますか、シンジ? 食べ物の好みが同じ相手とは、セックスの相性も抜群なんですよ」
 がしゃん。真志の手から、フォークが皿の上に落ちた。
「へっ?」
 思わず耳を疑い聞き直す真志の顔を、ガブリエルは、そっと重ね合わせた手の上に軽く顎を添えるようにして、つくづくと眺めた。
「ですから、私の持論がそうなんです」
 青い瞳は微動だにせず、真志の心臓を射抜くかのような力を発していた。
「ガ、ガブリエル…」
 いきなり強烈なカウンターパンチを食らったように、ひたすら絶句するだけの真志を尻目に、ガブリエルは、何事もなかったかのように細いカエルの足を指先でつまみ上げ、かぶりついた。
(ど、どういう意味なんだろう…単に僕をからかっただけなんだろうか…?)
 こういう心臓に悪い冗談は、ローランこそ言いそうな気がするのだが。そういえば、ローランとガブリエルは遠い親戚なのだった。案外、似たところがあるのかもしれない。
「あ、ガブリエル…さっきローランがうちに来たよ」
 一瞬ためらった後、真志は言った。
「ああ、そうでしょうね」
 澄ました顔をして、ガブリエルはフィンガーボウルで指を洗っている。
「彼って、いつもあんなふうなの? その…何て言うのか、ガブリエルに尽くすことに命かけてるみたい…この前はボルドーから、今日はマルセイユから飛んで帰ってきたって言ってた。結構、忙しいんでしょ、ルレ・ロスコーの実質的な責任者っていうんなら? そ、それなのにさ、ガブリエルのことが最優先なんだよね…ちょっとびっくりしたよ…あんな…」
「気になるんですか?」
 真志は言葉に詰まった。
「気になるっていうか…だって…その…」
 真志は膝の上に置いた真っ白なナプキンを指先でこねくり回した。
「あ、あのね、ローランってば恥ずかしげもなく僕にこんなことを言ったんだよ…ガブリエルをあ…あい…」
「愛しているって? どこなと行っては誰なと言いふらすんですよ。私に悪い虫がつかないようにという牽制の意味もあるんでしょうね。気にしないで下さい」
 熟れたトマトのように真っ赤な顔をして汗をかきまくっている真志に、ガブリエルは小さく吹き出した。
「ローランが私をどう思っているかは知っていますよ。でも、私にとって、今更それは重要なことではないんです」
 ガブリエルは、ワイングラスの陰で悪戯っぽく言った。
「彼は私のものですが、私は彼のものではありません」
 この王子様は、尽くされることが当たり前だとでも思っているのだろうか。
 開いた口がふさがらなくなりながら、真志はローランに少し同情した。
「ローランは現実の世界に生きる人です。私とは違う。彼がどんなに私を好ましく思ってくれても、所詮彼には私を理解することはできません」
「ガブリエル」
「私は、私自身が造りだした夢の世界に生きています」 
 いつの間にか、ガブリエルの青く澄んだ瞳が真志をまっすぐに見つめていた。
「私が求めるのは、同じ夢を見、一緒に叶えようとしてくれるパートナー、私と同じ世界を共有できる人です」
 真志は息がとまりそうになった。ガブリエルの強い視線に絡め取られて、身動きすることも目を逸らすこともできなかった。
「ガブリエルの夢って…何?」
 うわごとのように、そう囁いた。
「いつか、あなたが語ったのと同じですよ、シンジ。料理によって、人を幸せにする。多くの人に、感動や驚き、あるいは生きている喜びをつくづく感じてもらえるような食卓を演出できる会食者でありたい。私が取り仕切った晩餐でゲストが幸福な笑顔を見せてくれれば。私にとって、それに勝る喜びはありません」
 真志は、ガブリエルの顔をひたと見つめたまま、胸の鼓動が高鳴ってくるのを意識した。そうだ、確かに以前、真志は己の夢をそう語ったのだ。
 料理の天使も同じ夢を抱いていた? 
 ちっぽけな見習い料理人の真志と同じ夢を?
 そう、料理で人に幸せを。
「あなたの料理を初めて食べた時、クリスマスのプレゼントを開ける時のようなわくわくした気分になりました。初めて出会った、とても新鮮で、それでいて何か懐かしいような優しさも感じさせる味でした。一方で、私は隙一つない完璧な芸術品のような皿を作る料理人も知っています。それらは全く素晴らしい『作品』ではありますが、時として客を疲れさせる。芸術家というのは、自分の世界をあまりにも造りすぎているのかもしれませんね。その点、あなたの料理は食べる人を威嚇しません。あなたはきっと、食べてくれる人の顔を想像しながらいつも料理を作っているんでしょうね。幸せな笑顔であって欲しいと願っている」
 そんなふうに自分の料理を評してもらって、真志は嬉しさのあまり涙ぐみそうになった。自分が皿にこめた思いを汲み取ってもらえたことに、有頂天になりかけた
 ああ、ガブリエル。
「私は、そんなあなたの皿に恋をしたんです。そんな皿を作る、あなたにもね、シンジ」
 夢見心地で天に舞い上がりかけた真志は、その言葉にも思わずうんうんと頷きかけた。
「え?」
 少し間を置いて馬鹿みたいに聞き返す真志を前に、ガブリエルはやはり落ち着き払っていた。しかし、その眼差しの真摯さ、真率さ。やがて彼は、問いかけるかのごとく、僅かに首を傾げた。
「シャトー・カロン・セギュールの逸話は知っていますね?」
 ガブリエルが真志のアパルトメントに置いて帰った、あのワインだ。
 無名でありながら、セギュール侯爵に最も愛されたカロン。
 真志ははっと息を吸い込んだ。
「私にとっては、シンジ、あなたこそがカロンです」
 しんと、自分を取り巻く世界が静まり返ったような気がした。
 真志はぽかんと口を開けて、ガブリエルをただ見つめ返すことしかできなかった。
 今、何かすごいことを言われたような気がする。空耳ではないようだ。
「あ…」
 頬に熱い血が上ってくるのを意識しながら、真志が肩を大きく上下させて息をついた、その時、メインの肉料理がテーブルに運ばれてきた。
「お待たせしました。ウズラのクリとトリュフ詰めロースト、仔鴨のローストイチヂクの葉包みでございます」
 しつけの行き届いた給仕が、洗練された身のこなしでテーブルに皿を置く。皿の上の蓋を取られた瞬間に広がる、何とも言えないいい匂いに、ガブリエルが鼻をひくっとさせた。
「実に素晴らしいですね」
 その指が皿の縁をいとおしむようにそっと滑るのを、真志は息を詰めて見守った。
 ガブリエルは、そうして愛する厨房の熱の片鱗を味わった後、真志に向けてにこやかに頷きかけた。
「さあ、温かいうちにいただきましょうか」


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