温かい皿

第六の皿 desserts
甘く、熱く…



 出会った時から、真志はガブリエルに運命的なものを感じていたような気がする。
 初めて自分が作った皿を食べてもらい感想を聞いた時の、天にも舞い上がるような気持ちのよさは忘れられない。
 ガブリエルに気に入られて、度々店に訪ねてきてもらえるようになって、真志は有頂天になっていた。
 戸惑いながら始めたガブリエルのための『お任せ料理』も、そこから自分自身の新しい発見ができるようで、いつしか楽しくなった。
 ガブリエルは変人だ。料理の鬼だ。
 しかし、それを言うなら、真志もどっこいな部分はあった。
 料理以外に興味は覚えられず、そのくせ、料理がらみだとどんなことでも身についた。英語もフランス語も、留学という目的のためなら、あっという間に習得した。料理以外のことに関してはてんで疎くて鈍感で、普通の友達からは面白くない奴と思われたが、料理関係の友達ならたくさんできたし、いつまででも話していられた。
 ガブリエルとは、真志は確かに波長があった。
 それに、ガブリエルが夢を語った時に、すごく共感する自分がいたことも本当だ。
 しかし―。
(身分違いって言葉があるよ。古臭いけれど、ガブリエルと僕を比べると、ひしひしとそれを感じる)
 真志はガブリエルの背景にあるものにおじけていた。小市民的な暮らししか知らない、根っからの庶民の真志には、ガブリエルの豪勢な暮らしぶりも洗練されたマナーも、彼を取り巻くハイクラスな家族や友人関係も、所詮別世界のものとしか捉えられない。
 真志が唯一ガブリエルの役に立てるかもしれない料理の腕についても、ガブリエルが日頃接している立派な料理人達のことを考えると、とても自信など持てなかった。
 真志が一生懸命に腕を磨いても、名だたる星つきシェフたちのレベルになど到達できるものだろうか。目をかけてもらいながら、ガブリエルの期待を裏切るのは死んでも嫌だ。
 真志の皿に恋をしたというガブリエル。
 そして、真志自身にも恋をしたと言った。
(恋って…恋って…ねえ、ガブリエル、どういう意味で言ったんだよ…)
 その思いが、今、真志の頭の中をぐるぐると回っていた。確かめたくて仕方がないのだが、つい、そうする機会を逃がしてしまった。
 ガブリエルは、真志の焦りなどどこ吹く風、泰然として、目の前の皿を味わうことに熱中している様子だ。
(ガブリエルは、僕のこと、す、好きだって…それって、どういう…アランが僕を好きだと言ってくれたのと同じ意味なんだろうか…? それとも、単に料理人として僕が好きだということ…?)
 真志は恋の場数もあまり踏んでいない。日本にいた時、料理専門学校の先輩の女の子と付き合ったことはあったけれど、すぐに別れてしまった。真志の鈍感さに愛想をつかされてのことだ。そんな真志に、相手の気持ちを推し量ることや、ましてや恋の駆け引きなどできるはずもない。
(そうだ、ぼ、僕は…ガブリエルのこと、どう思ってるんだろ)
 ぼうっとした頭でそんなことを考えながら、真志はウズラのローストを口に運んだ。
 皮はパリパリとして、身はジューシー。中には贅沢なことにたくさんのトリュフがクリと一緒に詰められていた。口に入れると、その香りが一杯に広がり、鼻の方に抜けていく。真志は一瞬、陶然となった。
 思わず溜め息をつくと、ガブリエルが言った。
「気に入ったようですね」
「うん」
 真志は、ガブリエルの方を見るのが恐いように、おずおずと目を向けた。
「知っていますか、シンジ、かつてトリュフにはエロティックな効用があると信じられていたんですよ。媚薬としての効果があるとして、珍重されたんです」
「媚薬?」
 ガブリエルはうっすらと微笑んで、頷いた。その意味深な表情に、真志はまた頬が赤らむのを覚えた。さっきの告白のせいで、必要以上に意識してしまう。
 目を皿の方に落とし、何も気づいていない風を装って、真志はウズラの肉とトリュフを口に運んだ。
 エロティックな効用? まさか。
 ふと顔を上げると、ガブリエルが食事を取る手を休めて真志の食べる様子をじっと見守っている。薄く開いた唇、半ば伏せられた目は、何かしら艶めいて、真志はとっさにトリュフを喉に詰めそうになった。
「な、何? ガブリエル…何見てるんだよ?」
 ガブリエルの官能的な唇が、柔らかく動いた。
「あなたが食べる姿を」
「それって、楽しい?」
「ええ、シンジ。あなたが咀嚼し飲み込む時の唇と喉の動きは、私を酔わせます」 
 ぐうっと真志は唸った。手元のグラスをつかみ、一気にワインを喉に流しこんだ。
「そんな飲み方をすると、また酔っ払いますよ?」
「ガ、ガブリエルが変なことを言うからじゃないかっ」
 ふふっと笑って、ガブリエルは再び己の鴨料理を食べ始めた。血の色が残る鴨の肉を口に運び、ゆっくりと味わうように咀嚼し、飲み込む。うっすらと油のついた形のいい唇をちらりと覗いた赤い舌が舐めるのに、真志は何故か戸惑い、目を逸らした。何だか、ひどく妖艶に見えた。
 ガブリエルがあんなおかしなことを言うからだ。変に意識してしまう。それとも、真志が食べたトリュフの媚薬めいた効用のせいだろうか。
 目を向けないようにしようと思いながらも、真志の目は、ついついガブリエルの方に行った。
 食事をする姿も、ガブリエルは美しい。
「私が食べる姿を見るのは、楽しいですか?」
 目も上げず、ガブリエルがクスリと笑って言い返すのに、真志の心臓は飛び上がって喉から出そうになった。
「それとも…ああ、この鴨のローストを味見したいんですね。いいですよ、皿を交換しましょう」
 そういうことにしておいて、真志は半分食べた皿をガブリエルの皿と交換した。 
 イチヂクの葉に包まれた鴨の肉は絶品だったが、真志がそれを食べながらドキドキしたのは、味のせいではない。これって間接キスかなぁなどと、馬鹿なことを考えたからだ。
「ウズラの方もいけますね」
 ガブリエルが真志のウズラを食べる様子にも、ちょっと変な気持ちになった。
 トリュフのせいにするには、効果がてきめん過ぎた。いっそ、ワインに罪をなすりつけようか。
 緊張感と共にのぼってきた、酔っ払ったような不思議な幸福感に、真志は溺れかけていたが、その時、はっと思い出した。
(そ、そうだ、僕は、こんなふうにガブリエルと一緒にご飯を食べるためだけに、ここに来たわけじゃなかったんだ。日本に帰国するって話すためだったんだ)
 ガブリエルのペースに巻き込まれて、ついうっかり忘れそうになった。
 そうだ、真志、目を覚ませ! 所詮叶わない夢なんか追うものじゃない!
「ガブリエル!」
「はい?」
 勢い込んで言う真志に、ガブリエルはうろん気に顔を上げた。
「僕、僕…今夜は、あなたに話さなければならないことがあったんだ。前から考えてたことだけれど、決心したよ。僕は日本に帰国する!」
 言った瞬間、真志は胸が張り裂けるかと思った。ガブリエルから離れることを思うと、絶望的な気分になった。
「ごめん…ガブリエルには、こんなに目をかけてもらっているのに…でも、やっぱり僕には自信がない。自分があなたの期待に応えられる器だとは思えない。あなたに会えて本当に嬉しかったけれど、でも…この辺りで目を覚まさないといけないんだ。日本に帰って、少し頭を冷やすことにしようと思って…本当にごめんなさい」
 所々つかえながら、やっとの思いで真志は言った。体が震え出しそうになるのを抑えるために、テーブルの下でぐっと拳を握りしめていた。
「ガブリエル…」
 そこに見出すものを恐れるかのように、真志は向かいの席を見た。
「なるほど」
 ガブリエルは、皿に残った最後の一切れを口に運びながら、じっと真志を見据えていた。
「怖気づいたというわけですか」
 真志は、どっと汗が噴き出すのを感じた。
「自信がないから。どうせ無理だから。あなたの情けなさはよく分かりました。でも、あなたの本心は違うはずですよ?」
「えっ?」
「あなたにはパリを離れることなどできませんよ、シンジ」
「ど、どうしてっ?」
「なぜなら、あなたはこの私と出会ったからです。私の傍にいなさい、シンジ。それが運命です」
 宗教家か預言者のような口調で言い切るガブリエルに、真志はたじたじとなった。
「あなたはきっと今まで、どんなことをしても、どんな努力を払い犠牲を払ってでも、何かを欲しいと思ったことはないんでしょうね。好きな料理を作っていられれば楽しくて、それを誰かが食べておいしいと言ってくれれば幸福だったんです。でもね、それでは、あなたの夢などいつまでたっても叶いませんよ。ちっぽけな鳥篭の中で好きな歌だけ歌っていられれば満足なんて、馬鹿げている。あなたはもっと欲張りになるべきです。もっと…必死になって、足掻いて、みっともなくても、自信がなくても、どうしても手に入れるのだと、そんな気概を持つべきなんです。そして、あなたはそうできる人です。本気になる、きっかけさえあれば」
「どうして…どうしてそんなこと、ガブリエルに分かるんだよ…ガブリエルは僕じゃないだろ…勝手に決めないでよ…!」
 真志は喘ぐようにそう言った。捕まえられてしまいそうな気がして、恐かった。
 ガブリエルは黙り込んだ。
 やがて、給仕がやってきて2人の皿を片付けると、今度はデザートのメニューを持ってきた。
 その間も、己に注がれるガブリエルの強い視線を真志は顔をうつむけたまま全身で感じていた。
「デザートは私に選ばせてもらいますよ、シンジ。あなたに是非食べてもらいたい、この店のスペシャリテがあるんです」
 ガブリエルは給仕に向かって言った。
「ババを」
 ババというのは、ラム酒をたっぷりかけたスポンジケーキのようなものだ。
「ラムはどれにいたしましょう」
 ラムのボトルが8本も入ったワゴンを押してやってきたソムリエに、ガブリエルは嫣然と言った。
「もっとも情熱的なものを」
「おお、それでは、フランスのラムに勝るものはございません」
 真志は気を引かれて、顔を上げた。
「えっ、フランス産のラム酒ってあるの?」
 いかめしい顔つきのソムリエは、茶目っ気たっぷりに笑った。
「カリブ海にある、フランス領マルティニック島のラムでございますよ」
 どくどくと銀の器のババにラム酒が注がれる。たちまち何ともいえない魅惑的な香りが、周囲に立ち込める。琥珀色をしたラムの海に溺れんばかりのババに、とろりとした生クリームを添えて。一口食べると、それは舌の上でとろけるように甘く、そして、喉越しは火のように熱い。
「実にセクシーなデザートでしょう?」
「うん…」
 ラムの強い香りに、真志まで溺れそうになっていた。溜め息をついた。
「シンジ、さっき私が言ったことは、決して間違いではありませんよ」
 ガブリエルが再び切り出すのに、真志は小さく震えた。
「私には、あなたを分かることができます。何故か、分かりますか?」
「う…僕の料理を食べたからだなんて、また言う気?」
「砕けた言い方をすると、私とあなたは波長があうんですよ。味覚も好みも、料理に対して盲目的なところもね。私はあなたを手放す気にはなれません。やっと見つけた、私のただ1人のパートナーとなり得る人ですからね」
 ガブリエルの直截的な言葉に、真志はうろたえた。さっきから真志が焦るようなことばかり言ったりしたり。こんな人だったろうか。
「パートナー? 僕が?」
「ええ。私はずっと探してきたんです。祖父にとってのシェフ・レニエのような、共に同じ夢を追い続けることができる人、愛し愛されることのできる伴侶をです。あなたは、もちろん料理人としても恋人としても未熟だけれど、私を惹きつけ捕らえるだけの可能性を持っています」
「伴侶って、僕が? お、男だよ」
「それが、何か?」
 真志は焦りまくって、目をぐるぐる回した。
「ガブリエル、な、何だか、今夜はいつもと様子が違うよ…?」
 すると、ガブリエルは滑らかに動いて、真志の隣の席に移ってきた。
 真志は、戸惑いつつ、急接近したガブリエルの美しい顔を見返した。
「あなたの鈍感さは、私も腹に据えかねました。一体どこまで私に言わせるつもりなんですか、私にさせるつもりなんですか?」
 その青い瞳を間近に覗き込んだ時、さすがの真志もしまったと思った。
 あんまりガブリエルが平静だったから、優雅なマナーを崩さなかったから、その内心まで真志は読めなかった。実際、ガブリエルは切れる寸前まできていたのだ。
 あの手この手の殺し文句に決め言葉、あからさまな誘いも、分かっているのかいないのか。ぼうっとした顔で出された料理を黙々と食べ続けるだけの真志に、ガブリエルは、はらわたが煮えくりかえるような思いを味わっていたのだ。
 日本人の微妙な表情は、非日本人には分かりにくいとよく言われる。
「私は、アラン・コルノーの二の舞になるのはごめんですよ」
 ガブリエルの手がテーブルの下で動き、真志の膝の上に乗せられた。
「いい人だけれど、所詮あなたにとっては『どうでもいい人』だなんて、しゃれにもならない」
 吐き捨てるように、彼は言った。
「ガブリエル」
 烈火のごとく燃え上がっていた瞳が、ふっとやわらいだものになった。
 真志の膝の上に乗せられたガブリエルの手が、優しく愛撫するように動いた。
「あなたは、本当はパリから離れたくないと思っている。この私がいるからです」
 ガブリエルの顔に一瞬閃いた怒りと、その後に現れたこの謎めいた微笑に、真志は圧倒され声も出せないでいた。
「ねえ、シンジ、私達がどのくらい『あう』のか、私の持論を試してみましょうか?」 
 真志ははっと息を呑んだ。
「ちょっ…ちょっと…ガブリエル、ふざけないで…」
 真志が動転するのも無理はなかった。ガブリエルの手は、真志の脚を撫で、さすり、内腿を這い登るように執拗に愛撫し始めたのだ。
「私はふざけてなんかいませんよ、シンジ」
「ガブリ…エル…!」
 真志の唇からとっさに上擦った声がもれそうになった。ぞくりと、悪寒にも似た感覚が触れられた部分から全身に広がる。困惑した真志は身を引いて逃げようとした。
「いっ…!」
 瞬間、真志の体が硬直した。
「本気です」
 ガブリエルは真志の太腿に手を滑らせ、上等の布の上から股間の膨らみをわしづかみにしていた。
「やっ…やめ…っ」
 真志は必死に悲鳴を押し殺し、ガブリエルに懇願の目を向けた。
「物分かりの悪いあなたには、いっそ、このくらいの直截的なやり方でないと、私の気持ちなど理解してもらえないんでしょうね」
「な、何…を…?」
「そう、ずっと思っていましたよ、シンジ。あなたのことを、食べてしまいたいくらいに可愛い、と」 
 この上もなく美しい慈悲深げな笑顔の陰で鎌首をもたげる毒蛇。ガブリエル(大天使)ではなくルシフェル(大悪魔)とでも、彼は改名するべきではないだろうか。
 強引な力技で迫ってくるローランより、ガブリエルの方がある意味もっと恐かった。
「え…っ?!」
 真志は小さな叫び声を発した。
 ガブリエルの器用な指先が、真志のズボンのジッパーを引き下ろして中に滑り込んできたのだ。止める間もなく、それは探り当てた真志のセックスに蛇のように絡みつく。
「ひ…いぃっ…!」
 真志の体は衝撃に跳ねた。
「シッ、おとなしくなさい、シンジ。こんな所で騒ぎ立てたりして、怪しく思った給仕が飛んできたり、他の客達に覗きこまれたりしたら、どうするんです?」
 猫のように喉の奥で笑い声をたてるガブリエルの涼しい顔を、真志は愕然と見返した。
「幸い、このテーブルは壁の仕切りと大きな盛り花の陰になっていて、他の席からも離れていますが、それでも、あんまり大きな声をあげるのはお行儀が悪いですよ?」
 それなら、ガブリエルが今やっているこのことは、一体どういうお行儀なのか。
 ここは公共の場だ。天下の三ツ星レストランの中だ。こんな不埒な行為に及んでいい場所では、決してない。
 触られ、刺激を与えられて、真志のそこはどんどん過敏になっていく。抵抗したくても、抗議の声をあげたくても、そんな場所を捕まえられていては、真志は逆らえなかった。
「やめ…お願い…あ……」
 必死の訴えも、ややもすると甘い吐息に変わってしまう。
 ガブリエルのしなやかな指は、真志の体の中心を柔らかく締め付け、残酷になぶったかと思うと、この上もなく優しく撫でさすった。その指技は、信じられないくらいに巧みだった。こんなおかしな状況にあって、真志の身を苛む緊張も羞恥心さえも快感に変えてしまうほどに。
「どうしたんですか、シンジ、そんな泣きそうな目をして。いけませんね、そんな可愛い表情をされては、もっと泣かせたくなってしまいますよ」
 いきなり強くしごき上げられて、真志はとっさにつかんだナプキンで口元を押さえ、出かかった悲鳴を飲み込んだ。
 もうどうすることもできず、真志はナプキンで顔を覆い隠して、身の内を走り抜けていく快感に耐えていた。
「シンジ、顔を隠すのはやめるんです」
 ガブリエルが、小さい子を叱るような口調で囁いた。
「顔を上げて、私を見なさい」
 ガブリエルの声は変わらず柔らかで少しも威圧的ではなかったが、命令しなれた者独特の有無を言わせぬ力を持っていた。
 弾かれたようになって、真志はおずおずと顔を上げた。
「どう…して…こんな…?」
 あがった息の合間から、真志は切れ切れの声で尋ねた。その間も、ガブリエルは真志を愛撫する手を休めない。まるで甘美な拷問だ。
「あなたを愛しているからですよ、シンジ」
 充分に固く張り詰めた真志のセックスが、びくんと震えた。
「私がどれほどあなたを愛しいと思っているか、骨の髄まで分からせてあげます」
 ガブリエルは椅子をちょっと動かすと、がたがたと震え揺れだした真志の体を引き寄せ肩を抱くようにした。傍目からは、酔いの回ってしまった連れを優しく介抱しているようにしか見えなかっただろう。
「あ…ふ…あぁ……んっ…」
 ガブリエルの手は真志の持ち上がったセックスを握りしめ、根元から先端にかけて激しくしごきだした。我慢しきれずに、真志の腰も自然に動き出した。
「ガブリ…エル…ガブリエル…」
 すすり泣きながら、真志は己を執拗に責め立てる男の体にしがみ付いた。
 頭の中で脳が沸騰している。体中の血が、ガブリエルに触れられている、その一点に集まっていく。
「可愛い人」
 熱くなった耳をついばむようにして囁くガブリエルの声を、真志は聞いた。
「あの定例会の日、地下室で弱気になった私を叱り飛ばした時のように、私のために必死で助けを呼んでこようしてくれた時のように、本気を出せばあなたはきっと変われる…シンジ、本当のあなたをどうか私に見せてください」
 ガブリエルの懇願めいた囁きに答えることも問いかえすこともできず、真志は嫌々をするように頭を振るばかりだ。
「もう…駄目……っちゃう…よぉ…」
 ガブリエルはふと手を止めて、先走りの液に濡れた真志のセックスの先端に指を滑らせ、爪を立てた。
「いいですよ、シンジ…おいきなさい」
 股間から突き上げた衝撃に弓なりに反る真志の体を、ガブリエルの腕が支えた。彼はわななく真志の唇を唇で覆い、舌でこじ開けるようにして口の中を味わった。
 ガブリエルの舌は、『情熱的』なフランスのラムの味がしたかもしれない。
 解放を促す手の動きに、ついに真志の抑制は吹き飛んだ。
 爆発。
(あぁぁぁっ…!)
 ガブリエルの手の内に興奮の証の熱い液を迸らせながら、真志は叫び声を上げたが、それは、喉の奥まで進入し息を塞ぐガブリエルの舌に押さえ込まれた。
「あ…ああ…」
 真志はガブリエルの体にぐったりともたれかかって、荒い息をついた。
 瞼のあわいからこぼれた涙をガブリエルの唇がぬぐうのに、彼はびっくりして目を開けた。
「ガブリエル…」
 力の抜けた真志の体をしっかり支えたまま、ガブリエルは満足げな顔で笑った。
「ガブリ…」
 問いかけようとする真志の声は、ガブリエルがテーブルの下に隠していた手を持ち上げるのに途中で消えた。真志が吐き出した体液で、その手はしとどに濡れている。
「よかったでしょう、すごく? 私達の相性は、そっちの方でも抜群なんです」
 絶句する真志の目の前で、ガブリエルは手についた汚れを舌で丁寧に舐め取った。
「ああ、おいしいですよ、シンジ、あなたの……は」
 真志の目の前が、ふっと暗くなった。
 そういえば、ガブリエルに『おいしい』と言わせた料理人は、この世界で成功するそうだ。
 こういうのは、しかし、ありなのだろうか。
「おや、どうなされましたか?」
 そろそろデザートが終わった頃だろうと様子を見に来た給仕が呼びかけるのに、真志は硬直した。
「ああ、すみませんが、ミネラルウォーターにレモンを絞って持ってきてくれませんか。連れが、少し酔ってしまったようです」
 申し訳なさそうに言うガブリエルの声を聞きながら、真志はばれたらどうしようと心底怯えていた。
 だが、給仕の方は、まさかあのような不届きな行為がここで行われていたなどと夢にも思わないようだった。そうした疑いをこの場に差し挟むには、ガブリエルの姿はあまりに洗練され優雅でありすぎる。
「おやおや、そちらの方には、このデザートは刺激が強すぎたようですな」
「ええ、そのようです。何しろ、フランスのラムの強さは世界一ですからね」
 澄まして答えるガブリエルの声を遠い世界のもののように聞きながら、真志はその腕の中でがっくりと沈没した。
「モン・プティ・シェフ」
 私の小さな料理長。
 一瞬失神しかけた真志が我に返ると、ガブリエルがしっかりと彼を腕に抱いて甘い声で囁いていた。
 真志には、赤い顔をして黙って頷くことしかできなかった。
 あまりにも想像を超えた事態を前にして、人はかくも無力になるのだ。
 あらゆる感情が麻痺してしまったようで、あんなとんでもないことをしてくれたガブリエルに対して、真志は怒ることすら考え付かなかった。
 食後のコーヒーと小菓子を前に、真志が魂が抜けたようにぼんやりと座っていると、ガブリエルが話しかけてきた。
「シンジ、私は、心からあなたを求めています」
 真志は、ガブリエルを見つめながら、瞳を揺らした。
「でも、あなたが同じ強さで私を求めてくれないのなら、私にはこれ以上どうすることもできません」
 真志は目をしばたたいた。
「えっ?」
 ガブリエルは真志の注視に何も答えず、給仕に精算を頼んだ。そして、カードで支払いを終えると、真志を見ようともせずに席から立ち上がった。
「ガ、ガブリエル…?」
 先程とは打って変わってそっけないガブリエルの態度に戸惑いながら、真志は彼を見上げた。
「今夜は、色々と失礼なことをしましたね、シンジ。どうぞ、日本に帰っても、お元気で。あなたがいつか立派な料理人となれることを祈っていますよ」
 これでは、まるで今生の別れのようではないか。
「ガブリエル、どうして…?」
 すると、ガブリエルは冷ややかな顔で真志を見下ろした。
「あなたが私を拒んだんですよ、シンジ。私は確かにあなたを愛しているけれど、奴隷のように跪いて乞い求めようとまでは思いません。ですから、あなたの望みどおり、私達の縁もここで終らせましょう」
「そ、そんな…」
 引きとめようと手を伸ばしかける真志からすっと身をかわすと、ガブリエルはレストランの出口に向かって歩き出した。
 真志は何が起こったのか理解できず、椅子の上で凍りついたまま、どんどん遠くなっていくガブリエルの背中を見送った。
「あっ…ああ…」
 真志は、華奢な体を波打たせるようにして大きく息をついた。
 ガブリエルが行ってしまう。
 真志がはっきりしなかったからだ。戸惑いびっくりするばかりで、ガブリエルの気持ちにちゃんと答えられなかったからだ。
「まっ…待って…!」
 真志は椅子から跳ね起きた。
「ガブリエル!」
 とっさに走り出そうとしたが、足をもつれさせ転んでしまった。
「大丈夫ですか、ムッシュ?」
 慌てて飛んでくる給仕に目もくれず、真志は起き上がってガブリエルを追いかけた。
(行かないで、行かないで…)
 今逃したら、多分一生会えない。そんなのは絶対嫌だ。 
「ガブリエル、とまってよ!」
 真志の悲鳴のような声も、ガブリエルに届いたようには思えない。
 真志は、レストランを飛び出した所で入ってきた客にぶつかりかけたが、謝るのもそこそこに、ガブリエルを追いかけた。
 バーを抜けると、ガブリエルがエレベーターに乗り込むのが見えた。
 真志は駆け出した。
「ガブリエル!」
 追いついたと思ったのに、真志の目の前で無情にもエレベーターのドアは閉じられてしまった。
「あああっ、どうしよう、どうしよう…」
 真志は頭をかきむしった。
 ガブリエルが行ってしまう。
 追い詰められた目で周囲を見渡すと、廊下の奥に階段が見えた。真志はまた走り出した。
(お願いだよ、ガブリエル、僕を置いていかないで…あなたと二度と会えないなんて…絶対に嫌だ、嫌だ!)
 真志は熱くなった頭の中でそのことばかり考えながら、白い大理石の階段を駆け下りた。
「あっ」
 アルコールが回っていたせいか、それともあまりに焦りすぎたからか、真志は足を滑らせ階段を転がり落ちた。
「いっ…痛い…」
 どうやら足をひねったらしい。階段を後数段残した所で、ほうほうの態で起き上がった真志は顔をしかめた。
「ガブリエル…」
 1階のレセプションがすぐそこに見えている。ガブリエルを乗せたエレベーターはもう着いただろうか。
「待って…」
 真志は涙ぐみながら、よろよろと階段を下りていった。
「行かないで」
 ガブリエルに言われたとおりだった。真志には今まで、どんなことをしても、何を犠牲にしても、どうしても欲しいとまで思ったものはなかった。
 好きだった先輩に振られた時も、真志はただ泣くばかりで、必死になって引きとめようとはしなかった。自信がなく諦めもいいのが、今までの真志だった。
 けれど、ガブリエルだけはどうしても逃がしたくない。
 真志の前に舞い降りた料理の天使。いや、ひょっとしたら悪魔なのかもしれないが、彼が何であっても構うものか。逃したくない。
 真志が何かに対してこんなにも必死になったのは初めてだった。
 相変わらず自分に自信などない。どうせ振られるかもしれないものを、こんなふうに追いすがるのも惨めだしみっともない。
 けれど、このままでは、真志は何一つ終わることはできない。
(だって、僕…僕、まだ、ガブリエルにちゃんと答えてないよ。ガブリエルは、こんなつまらない僕のことを好きだって言ってくれたけど、僕の気持ちは伝えてない…)
 真志は痛む足を引きずり引きずり、レセプションの煌々たるシャンデリアの灯りの下によろめき出た。
「ガブリエル…」
 服を乱し足を引きずった必死の形相の真志に向かって、心配そうなレセプショニストが寄ってきたが、真志は無視した。
 ドアに向かってまっすぐに歩いていくガブリエルの姿を見つけた時、真志の両目から涙が迸った。
「待って、まっ…」
 声が詰まって言葉にならない。懸命に追いすがろうとしても、足が痛くて走れない。
 ガブリエルが行ってしまう。
「くっ…」
 真志は激しく頭を振った。
 何とかして、ガブリエルを捕まえなくては。
 ああ、何か、ガブリエルの足を止める方法はないものか。
 彼を立ち止まらせ振り向かせる、バックからの強烈な一撃。
「あ」
 その時、真志の頭の中に天啓のごとく閃いたものがあった。そうだ、これこそ、まさに神の啓示。
「なっ…」
 真志は大きく息を吸い込むと、今まさにドアにたどり着こうとしていたガブリエルの背中に向かって、叫んだ。
「鳴門金時!」
 ぴたりと、ガブリエルの足が止まった。
「何…?」
 怪訝そうに振り返るガブリエルに、真志は思わず脱力しそうになった。最高級サツマイモの名前を聞いて立ち止まってしまうなんて、ガブリエルらしすぎて、笑ってしまう。
「ガブリエル」 
 ここで逃がしてなるものかと、真志は歯を食いしばってガブリエルの傍まで歩いていった。
(ガブリエル…僕は、やっと分かったよ…)
 今まで真志はすごく幸運だった。神戸の叔父やアランにオーナー、そしてガブリエル。自信のない真志をそれでも愛し、見込んでくれた誰かに助けられ、励まされ、引っ張られるようにして、ここまで来られた。けれど、彼らの想いに見合うだけの努力を、真志はこれまで払ってきただろうか。否だ。
(僕の夢の卵を孵してあげられるかどうかは、本当に僕次第なんだ)
 夢とはいつか現実になるべく育まれている卵だと、ガブリエルは言った。夢をあきらめた時に、それは死ぬのだとも。
 真志の夢。料理で人を幸せにできるような料理人になるという夢。それを自ら殺してしまうことは、やはり真志にはできない。
(もう僕は逃げだしたりしないよ。努力の汗も涙も流さないうちにあきらめたりしない…自分から掴もうとしなければ、いつまでたっても夢は掴めないって分かったから…どんなことをしても叶えたい夢が見つかったから、一緒に叶えたいと思う人と出会ったから…)
 ガブリエルを行かせたりしない。
 真志はありったけの勇気を総動員して、ガブリエルの前に立った。
「今日、実家から届いたんだよ。サツマイモとお米…」
 ガブリエルは疑い深げな顔で真志を凝然と見ている。
「ガブリエルと約束したよね、芋粥…僕は、やっぱりあなたに食べてもらいたい」 
 真志は勇気を振り絞って手を伸ばし、ガブリエルの手をそっと握った。
「僕の家族が僕の料理を食べて喜んでくれた時、僕はとても幸せだったよ。それと同じように、僕はあなたにも喜んでもらいたい…誰よりも、すっ…好きな人に…食べてもらいたいよ」
 ためらいがちに、ガブリエルの指を軽く引っ張った。
「今から僕のアパルトメントに…こ、来れない…?」
 かあっと頬が熱くなった。慣れない誘い文句に、自分が真っ赤になっているのが分かる。
「芋粥、作ってあげるから」
 フルコース平らげている相手に、この上まだ何か食わせようという気か。しかし、ガブリエルなら、別腹のスペースも限りなく大きいに違いない。
「あ、それにね、ガブリエルが置いていったカロン・セギュールもまだ開けないで取ってあるんだよ。僕だってさ、一応特別な思い入れあるんだよ、あのワイン…1人で飲むのって惨めじゃないか。どうせなら、恋人同士で飲みたいよ?」
 自分で言って、倒れそうになるくらい照れくさい。
 真志は、ついにうつむいてしまった。
「だ…駄目かなぁ…?」
 ガブリエルの長い沈黙に耐えかねたようにそう呟いた時、いきなり手を強く引かれ真志はよろめいた。
「わっ」
 気がつけば、真志はガブリエルの腕の中にしっかり抱きしめられていた。
「ガブリエル」 
 ガブリエルは無言のまま、真志を更に強く抱きすくめた。
 真志はうっとりと目を閉じた。
 ふわふわと酒に酔ったような幸福感。このまま、いつまでも溺れてしまおうか。
 ガブリエルと一緒に夢の世界に生きようか。
 真志が出会った、料理の天使。
「大好き」
 ガブリエルはそっと身を離すと、真志の顔を真摯な目で見下ろした。両手で真志の熱く火照った頬を包み込み、指先で愛しげに探った。愛する厨房の熱を味わうのに負けぬほどの熱心さで、今、彼は真志に触れていた。
 ガブリエルが身をかがめキスを求めようとするのに、とっさにここがまだレセプションの中であるということを、固唾を呑んで見守っている人々の視線を思い出し、真志は慌てて抵抗した。
「ここじゃ駄目、ここじゃ!」
 2人がレストランの外に出ると、ちらちらと粉雪が舞っていた。
「寒いですか? 今、リムジンが来ますからね」
 携帯で連絡したらしい、ガブリエルは小さく震える真志を抱き寄せた。
「ああ、父さん達にちゃんと話さないとな」
「何て、話す気なんです?」
「うん」
 真志は照れた。
「ありのまま、話すよ。こっちで好きな人ができたって。その人は僕も、僕の料理もすごく愛してくれて、僕はその人のためにこっちで一生懸命修行して一人前の料理人なる決意をしたんだって。その人にふさわしい人間になれるよう、死ぬ気でがんばるつもりだって」
「ああ、シンジ」
 ガブリエルは真志の顎を捕らえ、顔を近づけてきた。今度は人目もないし、真志は目を閉じて素直に彼のキスを受け入れた。
 とろけるように甘く、熱い、ガブリエルのキス。真志の舌を求め探ってくる舌に息が詰まる。じんと体の奥がうずいた。
「ちょっ…ちょっと…?」
 キスだけではおさまらないかのようにガブリエルの手が真志の体を這いだし、またもけしからぬ場所に伸びてこようとするのに、真志は焦った。
 ここはまだ天下の往来だ。
「ガ、ガブリエル、僕のアパルトメントに着くまで、それは待とうよ」
「待てません」
 ガブリエルの答えは、真志が呆気に取られるくらい、きっぱりとしていた。
「あなたは一度出してすっきりしたからいいかもしれませんが、私はまだ一度も出していません」
 天使の顔で何と言うことをいうのだ、この男は。真志は耳を塞ぎたくなった。
「さっき私を誘ったのはあなたですよ、シンジ」
 真志の手を捕まえると、ガブリエルは上等な布地の上から己のその部分に触れさせた。
「うわ」 
 青ざめる真志に向かって、ガブリエルは極めて真剣な顔つきで言った。
「責任、取ってくださいね」 
 黒塗りのリムジンが滑るように走ってきて、2人の前で停車した。
「あなたのアパルトメントに着くまでに、1回くらいはできるでしょう」
 ちょっと待て。食堂姦の次は車姦だと。道行く人に覗き込まれたら、どうする。運転手だっているではないか。
 じりっとひるんだように後じさりする真志の手をガブリエルは捕まえ、その甲にうやうくしく口付けをした。
「パリの夜はとても長いんですよ、シンジ」
 天使の顔で笑う悪魔を呆然と見ながら、真志は早くも自分の決断を少し後悔していた。
「朝まで、じっくり楽しみましょう」
 鉄面皮の運転手が丁重にドアを開く。天国か、はたまた地獄への入り口か。
「ぼ、僕は、料理狂いは平気だけど、そっちだけは普通の人がいい!」
 悲鳴をあげる真志を、ガブリエルは黒塗りのリムジンに苦もなく引きずりこんだ。
 すかさず、運転手がドアを閉じる。
「ガ、ガブリエル…」
 真志は泣いた。
 どたんばたんと、しばらくは猫の喧嘩のような物音がリムジンの中で聞こえたかもしれない。
 悲鳴や抗議の声が、次第に甘くとろけた囁きや嬌声に変わっていっただろうか。
 リムジンは再び華やかな夜の街を走り出した。
 ここは、パリ。日本人の1人や2人、その深く濃い闇に飲み込まれても実際どうということはないのだ。
 いつかは真志も、この街で燦然と輝く綺羅星の1人となれるかもしれない。彼の名が料理界を騒がせる、そんな日が本当に訪れるかもしれない。
 アカデミー・グルマンディーズの定例会で、真志が賓客達を相手に堂々と腕を振るい、その傍らには彼の大天使が寄り添っている。
 その席では至福の一時が、生きている喜びや感動が、最高の料理と共に供されるのだと人々は語るだろう。料理の天使とその料理長が共に織り成していく、それは夢の晩餐だ。
 この街には、そんな夢達が巣くう場所がたくさんある。
 今は名もないちっぽけな夢の卵の一人にすぎなくても、夢を追い続ける限り、真志がパリを離れることはないだろう。



 あるいは、そんな夢が現実となった後も、ずっと…。




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