初恋
四
空港のカフェの中、僕とクリスターさんは、この十年に互いの身に起こった出来事について、熱心に話し込んだ。
もっとも、普通に大学を出て就職した僕の身の上などクリスターさんのそれを比べると平凡で、僕はひたすら驚かされながら、クリスターさんの辿った運命の変転ぶりに聞き入るばかりだった。
クリスターさんがレイフさんと共に軍隊をやめた後、傭兵として世界を転々としたというのは事実だった。その頃の話も、戦争などとは無縁な僕が聞いても無難なものを、ショックを受けない程度に表現を選びながらではあるが、彼は語ってくれた。
それでも、東南アジアやボスニア、アフリカの戦場での、どこに地雷が埋まっていたり、どこから銃弾が飛んでくるかしれなかったりするような日々の話は、僕を十分はらはらさせるものだった。
全く、高校時代から群を抜いて優秀で将来を嘱望されていた人が、軍を除隊した後も、どうしてそんな危険な仕事をわざわざ選んだのか。
頭に浮かんだ素朴な疑問を、僕はともすればクリスターさんに投げかけたくなったが、じっと堪えていた。ともかく先に、この人の言葉に素直に耳を傾けようと思ったからだ。
幸いなことに、さすがに戦場にはもう嫌気がさしたというクリスターさんは、傭兵稼業からはひとまず足を洗い、平和なアメリカに戻ってきていた。
「…コックス・バイオメディカルの名前なら、僕も聞いたことがありますよ。アメリカとヨーロッパを中心に展開している製薬会社ですよね。もしかしたら、うちの会社とも取引があったかもしれません。もっとも、クリスターさんのいるセキュリティ部門とは接点はあまりなさそうですけれど…それにしても、どういう経緯で今の仕事についたんです?」
武器を捨てた後のクリスターさんの仕事や暮らしぶりを聞き出した僕は、意外に思うと同時に、かなりほっとした。消費財メーカーの営業職の僕が、名前くらいは知っていた企業だったからだ。
「君が疑問に思うのはもっともだろうね…私やレイフのような異色の経歴の人間が、名の通った企業でそれなりの職務につけたのは、ひとえに社長…いや、今の会長のおかげなんだよ。私達は、そもそもコックス会長の身辺警護のために雇われた…彼女と親しく、私達とも面識のあった、さる上院議員を通じてね」
クリスターさんの話では、その政治家はかつて南米某国を訪れた際にゲリラ組織に誘拐され、陸軍時代にクリスターさんの所属していた部隊が救出の任務にあたったのだという。その時の縁で、帰国して普通の仕事を探していたクリスターさん達兄弟をコックス社長に紹介してくれた。
コックス・バイオメディカルは、当時人クローンに関する違法な研究を行った嫌疑をかけられて捜査が入り、世間からのバッシングにあっていた。特にキリスト教系の保守団体からの非難や中傷は日増しにエスカレートし、ついには社長の自宅や講演予定だった会場に爆弾がしかけられる事件にまで発展した。それでも表に出ることをやめようとはしない強気の社長を守るため、プロのボディガード、それもセキュリティや爆発物にも精通する人物が求められたのだ。
実際、爆弾をしかけた容疑で後に逮捕されたのは、特殊部隊の爆発物処理班出身の極右の男だったという。
「裁判には確か勝ったんでしたよね…それでも、コックス社長は責任を取って辞任した」
「それは表向きの理由で、厳しい裁判を闘う中で体調を崩し、これ以上一線に立つのは無理だったからだよ。ほとぼりが冷めるまでアメリカを離れて、ロンドンに移り住みながら、今でもその声は絶大な力を持っている…驚嘆するくらいにタフで、カリスマ的な女性だよ」
「でも、雇い主がそんな状態なら、ホディガードとしてのあなた方の必要はなくなったはずですよね?」
「ああ、私達もそう考えて、次の仕事を探すか、そろそろまた戦地に戻ろうかなんて相談をしていたんだ」
何やら雲行きの怪しくなってきた彼の話に、僕は眉をひそめた。戦場には嫌気がさしたと言っていたはずなのに、早くも戦地に戻る相談をレイフさんとしていたのか。
「だが、そんな私達に、コックス会長は、社内に新たにセキュリティ部門を立ち上げて、今後強化していきたい、好きなように作っていいから、そこのチーフとしてやってみないかと提案してきた。それが、もう1年以上前の話になるな…軍隊しか知らない私だから、最初はどうしたものかと途方に暮れたけれど、別にこうするものだというモデルがある訳でもない部門だから、本当に好き勝手にやらせてもらったよ。1年かけてチームを育てシステムを社内に定着させた…会長もそれでよしとしてくれたから、私の仕事はそう悪くはなかったんだろうね」
「何だか、肩の荷が下りたって顔をしていますよ、クリスターさん。その仕事は、あまり性にあわなかったんですか?」
「自分が会社なんて組織の中でどこまでできるか、新しいことに挑戦するのはそれなりに面白かったよ。でも、ひと段落ついて、毎日が決まったことに繰り返しになってくると…たまらなくなってくる。私はともかく、レイフは窒息しそうになっていてね…戦場での暮らしが変に馴染んでしまった私達だから、命の危険のない、夜も安心してぐっすり眠ることができる…戦闘中はどんなにか恋しかった平和な日常なのに、いざ手に入れてしまうと長くは耐えられないんだ…皮肉なことにね」
苦笑しながら言うクリスターさんに、さすがに僕はもう黙っていられなくなった。
「そんな…せっかく落ちついた生活を手に入れたのに、まさかまた戦地に戻りたくなったなんて言い出すつもりじゃないですよね? 大体傭兵なんて一生できるものでもなし、死線をくぐり抜けるような冒険はもう十分でしょう…?」
クリスターさんは僕をちらりと見やった。その琥珀色の瞳の奥に、刺すような冷たい光を垣間見た気がして、僕は思わず身を固くした。
「…実は、会長に話してみたことがあったんだよ。そろそろ、私達がいなくなってもセキュリティ部門はうまく回っていきそうだし、辞めさせてもらえないかとね。そうしたら、私達がそう言いだすのを見越していたかのように、別の仕事を依頼されたよ。社での籍は今のままにして、南米に飛んでくれないかとね」
「それって…現地のコックス製薬の支社に転勤という訳じゃないんですよね…?」
「大きな研究所がひとつあるんだ。密林の中に入って、新薬を作り出すための原料になりうる物質を探し出す。ただ新薬発見が期待されているエリアが政情不安定な国の中、ゲリラの活動拠点に重なっていてね。なかなか思うようなサンプル採取ができずプロジェクトが滞っている…だから私達に、今度は密林を探索するチームのボディガードをしてくれという訳さ。ジャングルの中の仕事ならデスクワークより刺激的だし、慣れているだろうってね…まあ、その通りなんだが…」
クリスターさんはちょっと複雑そうな顔をして、言葉を濁した。
「肩書きこそ今でも便宜上チーフ・セキュリティ・オフィサーなんて偉そうに名乗っているけれど、実情は会長直属の何でも屋という訳さ」
僕は体から力が抜けそうになりながら、気のない返事をした。
「はぁ…」
物騒な世界からは綺麗に足を洗ったなんて、とんでもない。コックス会長に引き留められたから、この人はしぶしぶ、かろうじてこちら側に踏みとどまっている訳か。
もっとも、地雷の埋まっている戦場とゲリラのうようよしているジャングルと、どちらがより危険度が高いのか、僕にはさっぱり分からなかった。
「何と言うか、コックス会長は随分クリスターさん達を高く買っているようですけれど…クリスターさんも、そんなふうに頼まれるがまま突拍子もない仕事の依頼を素直に引き受ける所を見ると、今の雇い主とは結構気が合うんじゃないですか?」
どうにか気を取り直して、僕はクリスターさんに再び問いかけた。
「そうだな…確かに、会長のことは、尊敬に値する人物だと思っているよ。私はめったに他人に肩入れしたり感銘を受けたりすることはないんだが、彼女に関しては違うようだ」
僕はつい興味をそそられて、追求した。
「へぇ…クリスターさんが、そこまで言い切るコックス会長って、どんな人なんです…?」
「信じられないくらいに心根の強い人だよ。強すぎるがゆえに、自ら折れることを知らず、何かと誤解を招いて敵を作りやすい…雰囲気はまた違うけれど、私の母に似たところがあるんだ。独りで何でもできる、男の助けなどよほどのことがない限り必要としない人だけれど、なまじ力も才覚もあるものだから、その『よほどのこと』に果敢に突っ込んでいこうとするんだね。黙って見ていられなくて、つい手助けをしてしまう…」
「ああ…それは何となく分かるような―」
僕はつい納得してしまって、ぽんと膝を打ちそうになった。
そう言えば、クリスターさんは、母親のヘレナさんの影響がとても強かった。高校時代、色んな人と付き合っていたけれど、年上で自立した、母親に似たタイプが相手とは比較的うまくいっていたような気がする。
「それじゃあ、これからも当分の間は、コックス会長の下で働くつもりだということですか?」
僕の言葉にクリスターさんはふと表情を曇らせ、しんみりと呟くように言った。
「当分の間か…そうだな、病魔と闘う会長の体力と気力が続く限り、私達が必要だと呼ばれれば、世界中どこにいても駆けつけるつもりだよ。今度のロンドン入りも実はそうなんだが―レイフの話では、会長の健康状態は噂以上によくないらしい。もしかしたら、私達が彼女のために働くのは、これが最後になるかもしれないな」
「クリスターさん、それって…」
僕が不安に駆られるがまま口を開こうとした時、カフェのウエイトレスがそろそろ閉店だと告げに来た。
僕とクリスターさんが時間も経つのも忘れて話し込んでいるうち、いつの間にか閉店時間の9時を過ぎようとしていた。
それでもまだ語り足りない僕達は、場所を比較的人の少ない、ターミナルの外れにあるゲート近くに移動し―途中でかろうじてまだ営業していた免税店でスコッチ・ウイスキーを買い、プラスチックのコップも二つ手に入れて―既に閉店した小さなコーヒー・スタンド前のテーブルに身を落ちつけるや、話の続きを再開した。
「高校時代の他の友達に連絡を取ることはありますか? 僕は結局イギリスの大学を出て、仕事も現地で見つけたから、ほとんどの友達とはせいぜいクリスマス・カードを交わすくらいで疎遠になってしまいました…そうだ、アイザックは今頃、どうしているんでしょうね。カナダの大学でジャーナリズムを専攻した後、ロスの新聞社か何かに就職したって、僕は聞いています」
「…アイザックとは一度会ったことがあるよ」
意外な答えに、僕は目を丸くした。
「えっ、本当ですか?」
「ボスニアで外国人兵士として戦っていた頃、現地に取材に来ていた彼と偶然にね…アイザックは新聞社に数年勤めた後はフリーになって、主に紛争地の取材ばかりして世界中を飛び回っているんだと言ってたな。父親が辿ったのと同じ道を彼も選んだ訳だ。外見までますますウォルターそっくりになっていて、おかしいくらいだったよ」
僕は、ボスニアなんて遠い場所で彼らを巡り合わせた運命に素直に感じ入りながら、しみじみと呟いた。
「そう言えば、軍隊に入ってからのあなたは、アイザックとも一切連絡を取らなくなってしまったんですよね。一言の相談もなしにいきなり大学を辞めてしまうなんて水臭いって、当時あなたのことをなじっていたのを思い出します。口調は怒っていたけれど、あなたをとても心配していたんですよ。素直じゃないアイザックは絶対認めようとしなかったけれど、僕とは違った意味で、あなたのことがずっと好きで好きでたまらなかったんですから…除隊した後のあなたの行方を、アイザックもまた僕と同じように尋ねていたんじゃないでしょうか…? そのあなたと思いもよらず再会できて、すごく喜んでいたでしょう?」
ところが、僕の言葉に黙って耳を傾けたクリスターさんは、悄然と肩を落として、ぽつりとこう漏らしたのだ。
「それがそうでもなかったんだ、お互いにね…何しろ私は戦争をしにわざわざ他人の国にまで乗り込んできた傭兵で、アイザックは戦地の悲惨さを取材しにきたジャーナリストだ。大体、我々傭兵はジャーナリスト連中とは仲が良くない…向こうは、我々のことを血に植えた殺人狂のように見ているし、我々は、実際血や汗を流したこともないくせに薄っぺらな正義を振りかざし、カメラやペンの力だけで世界に平和をもたらせるとうそぶく類の連中を軽蔑している。アイザックはそういう輩と違って、少なくとも自分の足でできる限り戦地に深く分け入り、自分の目で見た事実のみを公平な視点で書こうとしていた。その真摯な姿勢には、私も感銘を受けたが…それでも、彼と私の間には、なかなか埋めがたい深い溝ができていたんだ」
クリスターさんは暗然と胸に腕を組んだまま、また少し黙り込んだ後、再び口を開いた。
「前線はとても旧交を温めるにふさわしい場所ではない…だから、休暇をもらった時に改めて会おうと約束して、私達はすぐに別れた。そうして後日、クロアチアのザグレブで…アイザックの泊まっていたホテルのバーで待ち合わせ、君と今こうしているように、昔話に熱中したよ。私は、高校時代にはできなかった打ち明け話を思い切ってしてみたし…アイザックは苦笑いしながらも昔のことだからと水に流してくれた…それは、まあ、よかったんだけれどね。私とレイフの生き方についてだけは、どんなに言葉を尽くしても、アイザックは決して納得してくれなかった」
クリスターさんはプラスチックのコップに先程買ったウイスキーを注いで、僕にも1つくれながら、どこか寂しげな口ぶりで話を続けた。
「彼は、ボスニアで兵士による民間人の虐殺やレイプを目撃してきたから、戦闘服を着ている人間を見ると、どうしても怒りが抑えられなくなるんだと言っていた。当然の反応だと思うよ…私も戦地で、レイプされたという女性に会ったこともあれば、難民の子供達の暗い目にいたたまれなくなったこともある…我々が好き好んで戦闘をするのは、その術に長け、命のやり取りの中に他では得られない生きがいを感じるからだ。だが、戦争そのものを奨励するつもりはいささかもない。実際、戦争につきものの悲惨な現実を目の前に突き付けられると心が萎みそうになる…戦争を否定しながら、そこに居場所を見出している自分は一体何ものなのだろうと存在価値を見いだせなくなる。そんなジレンマに陥って抜け出せなくなると傭兵はもう戦えない…戦地を去るか、でなければ死ぬしかない」
「クリスターさん…」
焦って口を開きかける僕には注意を払わず、クリスターさんは己の想念に深く捕らわれたまま、低く呟いた。
「アイザックとは、戦争と平和についてとか、もっと現実的に目の前の紛争の行く末だとか、たくさん話し合ったものの、意見は噛みあわなかった。傭兵なんて仕事はいつまでも続けられるものじゃない、五体満足なうちにまともな生活に戻れとかき口説かれた時には、私もつい感情的になって…最後はほとんど口論になってしまった。せっかく和解できた大切な友人なのに、またしても喧嘩別れだなんて、全く、高校時代から進歩がないな。どうして私とアイザックとは、会えばこう、ぶつかり合ってしまうのか」
無念そうに溜息をついて天を仰ぐクリスターさんを見ていて、僕は何だか高校時代に戻ったような錯覚を覚えてしまった。それで、つい、クリスターさんの慨嘆を聞いて感じたままのことを、生意気にも口走っていた。
「それは、アイザックが今でもクリスターさんを親身に思っていて、どんなに反発されても言わなければならないと思ったことを、あなたに本気でぶつけたからですよ。あなたもアイザックの言葉なら、苦々しく思いながらも、一応ちゃんと耳を傾けたんでしょう? 自分とは異なる考えや信条をあなたがどう受け止めて行動に反映するかは別にして…そんなふうに正面から意見しあって、喧嘩ができる友達がいるなんて、ありがたいことだと思いますよ」
「ああ…」
クリスターさんは一瞬鼻白んだような顔をしたが、こんなやり取りが昔僕との間でよく交わされていたことを思い出したのだろう、僕の言葉をしばし反芻するかのように黙りこんだ後、軽く肩をすくめた。
「会えば喧嘩ばかりしている相手なのに、離れてみると、今頃あいつはどうしているのだろうかと気になる…確かに、私にとって、アイザックは今でも大切な友人のようだ。私がアイザックの忠告を受け入れて生き方を改めることはできそうもないが…もしももう一度どこかで出会うことがあれば、確かめてみるよ、アイザックが私をどう思っているか…」
クリスターさんは恥ずかしげに俯き、ちょっとはにかんだような笑みを浮かべながら、随分伸びた紅い髪の一筋を指先でいらっている。
ああ、やっぱりこの人は、僕が大好きだったクリスターさんだ。頭が切れて、何でも器用にできるのに、大切な人と心を通わすことに関してだけはとても不器用なところは、今でも変わっていないらしい。
すっかり大人になったクリスターさんは、昔の欠点など全て克服したかのように隙なく完璧で、悪く言えば近寄りがたく狷介そうに見えたけれど、意外な弱点がまだ残っていたことは、随分彼を人間的で身近に感じさせた。
「きっとアイザックの方も同じように後悔して、次に会ったらあなたと仲直りしようと考えていると思いますよ…ええ、賭けてもいいです」
「思うに、君が一緒にいてくれたら、きっとうまく場を収めてくれたんだろうね…」
「ああ、それじゃあ、次は3人でゆっくりと飲みあかしましょう…新聞部の部室で集まっていた頃のように、懐かしい顔ぶれで同窓会をしましょう…もっとも僕は、あんまりお酒は強くないんで、今のあなたみたいなペースで飲んでいると途中で潰れてしまいそうですけれどね」
クリスターさんからもらったウイスキーをオレンジジュースで割って、ちびちびすすりながら僕が言うと、クリスターさんはちょっと嬉しそうに唇を綻ばせた。
「高校時代の友人と言えば…私達がアメリカに戻ってすぐの頃、レイフが、トムと連絡がついたと言って、西海岸まで会いに行ってたな。フットボール・チームの仲間も何人か集まるみたいだから、私も一緒に来ないかと誘われたが、仕事を探している最中だったので時間が取れず、1人で行かせたよ」
思い出したかのように言うクリスターさんの方に身を乗り出しながら、僕は興味津々で聞き返した。
「トムって、トム・パーマンですか? レイフさんと仲の良かった?」
トムを初めとするフットボール・チームのメンバーとはものすごく親しかった訳ではないが、僕自身も当時はチームの主務としてよく知っていたので、名前を聞けば、やはり懐かしさがこみ上げてくる。
「ちょっとした同窓会みたいなものですね…レイフさんはなんて言ってました?」
「うん…トムに会えてよかった、懐かしかったとは言ってたけれど、あまり詳しくは話してくれなかったんだ。向こうで何か嫌なことがあったのかなとあえて深く追求せずにいたら、ある日、ぼそっと、嘘をついてしまったとばつが悪そうな顔で打ち明けられたよ」
「嘘?」
「久しぶりに会ってみたら…大学卒業後すぐに映画会社に就職したトムは、早くに結婚して子供までできていたらしい。他にも夫婦同伴や恋人連れで来ている奴もいて…何となく疎外感を覚えたんだろうね。何しろレイフは、ずっと戦争ばかりしていたものだから、もちろん独り身で、アメリカに戻ったばかりで仕事もまだ見つけていない。まっとうな社会人の友達に、悪気もなく今どうしていると話を振られて、つい見栄を張ろうとしたんだ。そうして、私が起こした事業を一緒にやっている、自分はまだ独身だけれど、私は結婚して子供がいるなんて作り話を出っちあげた…深く追求されたら、どうするつもりだったんだと呆れて私が尋ねたら、その前に適当な言い訳をして逃げ出したんだそうだ。どうせほらを吹くなら自分が結婚したという話にすればいいのに、何で私なんだ…おかげで私は当分同窓会なんて行けなくなってしまったよ」
「あっ、クリスターさんが結婚して子供がいるって噂は僕も聞きましたよ。誰だろう、そんなデマを流した奴は怪しんでいたら、出どころはレイフさんだったんですか!」
いささか気色ばんで、僕は叫んだ。
「ああ、全く、馬鹿だろう…?」
情けなそうに頭を振って見せるクリスターさんと目があった途端、僕達は吹きだし、しばらくテーブルを叩いて笑い合った。
しかし、よくよく考えてみると、これは素直に笑っていい話だろうかという気がしてきた。
僕が神妙な顔を向けると、クリスターさんは僕の言いたいことは分かっているというように鷹揚に頷いて、何かしら達観したような穏やかな口調で語った。
「かつての友人達に、自分の今の仕事を尋ねられて、傭兵だと胸を張って答えるのは、なかなか勇気のいることだ。本当に親しい相手なら、それは私達の選んだ道だからと尊重し、理解しようと努めてくれるかもしれない…レイフは、トムにくらいは本当のことを打ち明けたのではないかと私は思っているんだが…話したがらない所を見ると、かつての親友との間にも今は超え難い隔たりができ、己の変貌ぶりをつくづく実感してしまったんだろうね」
何と言えばいいのか、僕には分からなかった。僕も、クリスターさんの選んだ生き方を尊重し理解したいと思っているが、心の底から共感することはまず無理だろう。
ああ、クリスターさんは、なんて遠い世界に行ってしまったのだろう。どんなに努力しても、僕にはもうこの人に追いつくことはできそうもない。
「コックス会長を紹介されたのが、レイフがその集まりから戻ったすぐ後だったよ…トム達に会ったのが仕事が決まってからだったら、レイフもそれほど所在のない思いをすることはなかったのかな。生き残ることに必死な戦場と違って、そういう些細なことが、こちら側に戻ってくると重要になってくるんだね…感覚的な違いに、しばらくは慣れるのに苦労したものさ。今でも、どちらが私達にとって本当に安らげる場所なのかと自問すると、答えに困ってしまう。もう戦争は充分だ、二度と銃など持ちたくないと思ってアメリカに戻ってきたはずだった…普通の社会生活に順応しようと努力してきたよ。だが、自分が自分でなくなったような窮屈さがいつまでも付きまとって離れない…動物園の中に閉じ込められた虎にでもなったような気分でいたんだ。それが、南米での仕事をするようになって…チームを守るために武装してジャングルの中に分け入り、そこでゲリラとのちょっとした小競り合いが起こったりすると胸が高鳴る。レイフも思う存分暴れられて、やっぱり生き生きと楽しそうでね…結局、これが私達にとって一番しっくりくる仕事であり、居場所なんだろうな」
僕は嫌な胸騒ぎを覚えて、クリスターさんの何かしら悟ったような穏やかさをたたえた顔を凝視した。
やはりこの人は、また戦場に戻るつもりなのだろうか。コックス会長に何かあって、これ以上こちら側に留まる理由がなくなれば、せっかく手に入れた安定した仕事も、死の危険にさらされることのない暮らしも振り切って、また明日をも知れない日々を生きるというのだろうか。
そんな馬鹿なことはやめてください―僕は、ともすれば口から溢れ出そうになる言葉を必死でこらえていた。
僕はアイザックではない。この人に正面からぶつかって、その生き方を変えさせようとするだけの強い信念を持っている訳ではない。
ああ、それでも、この人の身にもし何かあったらと考えると、背筋が凍る。
僕でさえこうなのだから、クリスターさんにとってもっと身近な家族は尚更だろう。ラースおじさんは亡くなっていても、まだボストンにはヘレナおばさんがいるはずだ。いきなり軍隊に入り、その後も戦地を転々とする生活を送ってきた息子達を、あの聡明な女性はどう思っているのだろう。やめさせようとは一度もしなかったのだろうか。
「クリスターさんは、ヘレナおばさんにも、こんな話をしているんですか? 時々は実家にも帰っているんですよね?」
僕は、クリスターさんによく似た華やかな容貌と才気に溢れた話し方が印象的だったヘレナさんを思い出しながら、そう尋ねた。
クリスターさんは母親想いだったから、当然、今でも行き来があると考えていたのだ。
「実は、母とはもう随分長い間会ってないんだ。時々、電話をかけて声を聞くことはあるけれど、実家に戻ったことは、ボストンを離れて軍に入って以来、一度もないよ」
クリスターさんは一瞬気まずそうに黙りこんだ後、意外な答えをした。
「えっ?」
僕が信じられないといった眼差しを向けると、クリスターさんはそれを避けるかのように、ポケットからおもむろに煙草を取り出した。
「…吸ってもいいかな?」
「あ…ああ、はい…」
カフェにいた時からずっと煙草を吸いたい素振りなど見せなかった、クリスターさんが煙草にライターで火をつける様子を、僕はじっと見守った。
「…ヘレナさんは元気なんですよね? あなた達に会いたがってはいませんか?」
煙草の煙をゆっくりと吸いながら物思いに沈んでいるクリスターさんに、僕はもう一度、慎重に問いかけてみた。
クリスターさんは夢から覚めたように瞬きをして、僕に視線を戻した。
「ああ…仕事に打ち込んで忙しくしているようだよ。父が残した会社は、母の手腕で業績が上がって、昔よりも規模も大きくなったしね。実業家としてなら十分な成功を収めていると言えるだろう…」
クリスターさんは首を傾げて、また少し考え込んだ。
「ただ、あの家で、母がずっと独り暮らしなのかと想像するとやり切れない気分なってくる…事業でいくら成功した所で、人として女性として母は幸せなのかどうか…」
「ラースおじさんが亡くなった後、ヘレナさんは再婚しなかったんですね」
「これまで話が全くなかった訳じゃないらしいけれど、結婚して一緒に暮らす相手となると、完璧すぎる母には結構難しいんだろうね。父さんはその点、母とうまくかみ合っていた…互いの必要を満たし欠けた部分を補いあえるような、本当に最高の伴侶だったんだ。私達がいくら母にもう一度幸せをと願っても…代わりになれる男なんて、そうはいないよ」
まるで自身を責めているかのような打ち沈んだ声で語るクリスターさんに、僕は戸惑った。
「でも、それなら、ヘレナさんは尚更あなた方に会いたいはずですよ。1人暮らしで、唯一の家族であるあなた達は一度も戻ってこないじゃ、いくら気丈なヘレナさんだって、寂しくなって当たり前です」
ああ、またお節介をと思いながらも、僕はつい強い口調になってクリスターさんをかき口説いていた。
「戦地にいたり、アメリカに戻っても仕事でこんなふうに飛びまわっていたりでは、頻繁に会いに行くことは難しいのかもしれないけれど、せめてクリスマスくらい実家に戻って、家族として過ごしてあげてください。それに、クリスターさんだって、今でもそんなふうにヘレナおばさんのことを気にかけているじゃないですか。やっぱり会いたいんでしょう?」
全く、母親に似たタイプの雇い主に感情移入して尽くすよりは、本物の母親に無事な顔を見せて、安心させてあげる方が先ではないか。
相も変わらず、本当に愛情表現の下手な人だと、事情を知らない僕が歯がゆく思うのも無理はなかった。
僕の話を聞いたクリスターさんは煙草をくゆらせながらしばらく黙りこんだ後、深い溜息をついた。
「分からないんだ…私達の顔など見て、本当に母が喜ぶのか。たまに電話で話してみれば、いつも親らしく私達の体を気遣い、一目会いたがってくれているのがよく分かる。だが、実際、あの家に私とレイフが戻った時、どうなるか…3人が集まれば父がいた頃はこうだったという思い出話になるだろう。そうして、きっと父が死んだ時の話もしなければならなくなる。結局私達が戻っても、母に辛い思いをさせてしまうだけのような気がして、だから、つい足が遠のいてしまうんだ。私達には、何食わぬ顔をして、ただいま母さんだなんて言って、あの家に戻る資格はないから―」
「クリスターさん、どうして、そんな…?」
当惑する僕をクリスターさんはしばし凝然と見つめ、それから絡みつく何かを振り払うかの如く頭を振って、重い口を開いた。
「…私とレイフが、今のように生涯のパートナーとして共に生きる決意をする過程で、迷惑をかけたり傷つけたりしてしまった人はたくさんいる。思えば、ダニエル、君もその一人だったね…」
「えっ…」
「私の傍では無邪気を装っていたけれど、本当はかなり鋭い観察眼を持つ君だから、ある程度気づいていたんだろう…? あの頃の私は、あいつを手放そう、自立しようと随分努力していたものだけれど、辛いだけの無駄なあがきだった…私達は2人でひとつの生き物だから、離れて生きることなど不可能なんだ。だが、ただの肉親以上、恋人や夫婦よりも固く親密な結びつきなんて、私達が兄弟である限り、この世界で受け入れられるものではない」
動揺のあまり瞳を揺らしている僕に、クリスターさんは静かな口調で語り続けた。
「ロンドンに行ってしまった君が、その後のことについては何も知らなくて当然だけれど、父があんなふうに突然死んでしまったのは…もとはと言えば、私達が原因だったんだ。彼は自分の子供達が本当は何なのかを知ってしまった。目に入れても痛くないほど私達を溺愛していた父にとっては、手ひどい裏切りも同然のことだ。人の道を踏み外した私達に怒り絶望し、自暴自棄に陥った挙句、体を壊して…私達を憎んだまま逝ってしまった」
僕は、驚愕のあまり、凍りついた。
脳裏にふっと、僕が高校時代に目撃した一場面―クリスターさんとレイフさんがまるで一体と化したかのように、身動き一つせず、じっと寄り添っていた姿が浮かび上がった。
僕はとっさにクリスターさんに問い返そうとしたが、言葉は喉の奥に引っかかったまま出てこなかった。
クリスターさんは灰皿で煙草の火を揉み消し、細い煙が上がるのをぼんやりと目を追いながら、過去の追憶に浸っている。
「父親を無残な死に追い込み、母を深い悲しみと孤独の中に叩きこんで…それでもね、片割れを忘れて独りきり、自分をだましながら虚しい毎日をただ送るよりか、やっぱり私達は一緒に幸せになりたいと思ってしまったんだ。一度きりの人生を悔いなく生きたいとね。レイフが誰にも相談せずに突然軍隊に入った意味を、私はすぐに理解したよ…全部捨てて追って来いと私に呼びかけていたんだ。大切な家族、友人、仲間達…私達が一緒にいることで、きっとまた父さんのように傷つけてしまうかもしれない人達とは永遠に決別しよう…何もかもを失っても構わないなら、今度こそ一緒に生きようとね。私は、もう迷わなかったよ。そうして19才の私達に残ったものは、お互いだけになってしまった」
クリスターさんは目を閉じて、悔いとも悲しみともつかぬ、深い感慨に浸っている。
僕はクリスターさんの言葉を頭の中でしばらく繰り返してみた後、躊躇いがちに口を開いた。
「あなた方が軍隊に入った後、すっかり音信不通になってしまったのは…そういう事情があったからなんですね。何も知らなかった僕は、消息の分からなくなってしまったあなたを心配しながら、一方で何て薄情な人だろうと少し恨んでいました。でも、あなたがあえてそうしたのは、ラースさんのように、大切な人をまた傷つけてしまうのを避けたかったからなんですね…確かに、人と人を結びつける絆というものは、裏返せばしがらみにもなってしまう。そうして、あなた方はこの10年、友人達ばかりか、肉親とも頑なに距離を置き続けた」
僕は何だか居たたまれなくなってきて、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
おそらく、これは、クリスターさんとレイフさんが自分達に課した罰でもあったのではないだろうか。
罪を犯して結ばれて、父親まで死に追い込んだ自分達が、これまで通り愛する人達に囲まれてぬくぬくと暮らすことなど許されはしないと思いつめているのではないだろうか。
「でも―クリスターさん、あなた方が自分達に課した生き方は、厳しすぎるような気がします」
クリスターさんは瞼を半ば開いて、椅子から身を乗り出し、必死の面持ちで訴えかけている僕を不思議そうに眺めやった。
「だって、消息不明のあなた方のことを今も覚えていて、心配している人達たくさんいるんですよ…人との絆なんて、一方的に絶ち切って、それで終わるものじゃないんです。僕はあなたのことを片時も忘れたことはなかったし、ヘレナさんがあなた方の母親だということはどんなに離れていても変わらない…大切だから遠ざける、それがあなたの優しさであり、償いだなんて自己満足です。僕達にしてみれば、忘れられ捨てられたと傷ついて、悲しい思いをするだけです」
ああ、また辛辣なことを言ってしまったと内心焦りながらも、僕はとめられなかった。
「生意気なことを言ってすみません…でも、僕はあなたと別れた後もずっと、あなたには幸福でいてもらいたかった―どこでどうしているか分からなくなっても、あなたはきっと今もどこかで、あれほど愛したレイフさんと一緒に幸福に生きているのだと信じたかった。だから、贖罪として、あなた方があえて自分達に傭兵のような過酷な生き方を強いているのだとしたら、黙っていられないんです」
クリスターさんは最後まで僕の言葉に耳を傾けると、まだ少し興奮状態の僕をなだめようとするかのように手を上げた。
「ダニエル…全く、君は昔と変わってないな。この私に恐れ気もなく、そこまでズバリと核心をえぐるような意見を叩きつけてくるなんて、いっそ新鮮で気持ちいいくらいだよ」
「クリスターさん!」
僕が眉を逆立てると、クリスターさんは取り繕うように言い足した。
「いや、君をからかった訳じゃないよ、ダニエル…そうだな、私は君に一部誤解されるような言い方をしてしまったようだね」
その時クリスターさんが僕に向けた眼差しにこもった優しさと親しみに、僕は胸が詰まりそうになった。それは昔、『恋人』として付き合う以前、まだ僕がクリスターさんにとって可愛い後輩だった頃、彼が僕を見つめる瞳とそっくりだったからだ。
「ダニエル、これだけは、まず分かって欲しい」
クリスターさんは改めて僕に向き直り、真剣な口調で言った。
「私とレイフは一緒に幸せになるために、2人きりで未知の世界に飛び込んで行ったんだよ。確かに父の死に対する罪悪感はずっとつきまとったし、人間関係について私達を臆病にもさせた。しかし、隣にいる大切な相棒のために、過去にずっと縛り付けられている訳にはいかなかったんだ。軍隊時代を経て、傭兵となり―確かに、命の危険もあれば、辛く大変な思いをしたことも多かった。決して楽で平坦な人生ではなかったかもしれないけれど、それでも自分達を不幸と感じたことはないよ。…まあ、小さな迷いが生じたり悔いが残ったりすることはあったかもしれないけれど、2人で貫いてきた生きざまに後悔したことは一度もない。その時々、その都度その都度、私達らしく生きるため、もっとも正しく、最善と思える選択をしてきた…その結果、例えどこかで命を落としていたとしても後悔はなかったろう」
反射的にびくりと震える僕を見つめるクリスターさんは、一片の迷いもない清々しい顔をしていた。
「だから私達は、今でも幸福なんだよ、ダニエル。君にはなかなか理解しにくい話なのかもしれないが、私達は充分満足し、誇りを持って生きている…初めからやり直す機会を与えられたとしても、これ以外の人生を送ることなどやはり想像できないと思うほどにね」
「クリスター…さん…」
返す言葉もなくぽかんとなってしまった僕に、クリスターさんは、どことなくレイフさんを思い出させる、茶目っけのある表情で片目を瞑って見せた。
「それにね…君の言う通り、私達は全くの2人きりで生きてこられたわけではない。私達がいくら孤絶した存在になりたがっても、現実として戦場では他の仲間達との連携は不可欠だからね…だから、世界中に、私達の仲間や友人達はいるんだよ。互いに信頼し命を預け合って戦った戦友達は、私達の過去や個人的な事情には深く首を突っ込んではこない…訳があって戦場に来ている奴も多いから、たとえ親しい友人同士でも相手が進んで語ろうとしない限り、過去の話はしないのが暗黙の了解なんだ。そういう関係が、私達にとって心地よかったのも確かだね。今度のロンドン入りでも、かつての仲間に召集をかけてあって、仕事の話を抜きにしても会うのを楽しみにしているんだよ」
戦友達について熱っぽく語るクリスターさんを見ていて、僕はふと、高校時代フットボール・チームの仲間達と共に熱心に練習に打ち込んでいた、この人の姿を思い出していた。
ああ、では、クリスターさんは、レイフさんと2人だけで他に理解者もおらず、孤独で過酷なばかりの人生に耐えてきた訳ではないのだ。ちゃんと分かり合える仲間との間に新たな絆を結び、自分達の居場所を作り上げてきたのだ。
思わずほっと安堵の息をつく僕を見て、クリスターさんは少し神妙な面持ちになった。
「もちろん、過去に親交のあった人達のことも…きれいに忘れてしまった訳ではないんだよ」
僕を気遣ってか、優しくかき口説くようにクリスターさんは囁いた。
「軍に飛び込んだばかりの頃は、私達も、過去は徹底的に切り捨てなければならないんだと思いこんで、友達から手紙が届いても破り捨てたり電話にも出なかったりと薄情なことをしたものだけれど…そこまでする必要はなかったなとこの頃では思っている。だから、レイフも…もしかしたら自分だけ浮くかも知れないと心配しながらも同窓会に出かけて行ったし、私だって偶然にアイザックや君に会えれば、やはり自然に懐かしさや喜びが湧き上がるのを抑えることはできない。例え、友人達と自分との間にかつてはなかった隔たりができてしまっていたとしても、共に過ごした時の大切な思い出までがなくなってしまう訳ではないからね」
クリスターさんの声にこもった温かな感情に打たれ、瞼の裏が熱くなるのを覚えた僕は、思わず俯いた。
ああ、そうだ、この人と一緒に過ごした遠い日々を僕は宝物のようにずっと胸に抱えていた。それと同じ思い出をクリスターさんもちゃんと胸にしまっていてくれた。
(放課後のグラウンドで走っているあなたを僕は遠くで見つめていた。クラブ・ハウスではチーム・メイトと一緒に騒いだり…新聞部の部室に一緒に行けば、皮肉屋のアイザックが僕達を待っていて…)
クリスターさんは、込み上げてくる涙と格闘しながら深々とうなだれている僕をじっと見守り、それから、ごく低い、気遣いに満ちた口調で語りかけてきた。
「私のことを覚えていてくれて嬉しいよ、ダニエル…私も君とあんな形で突然別れて以来、ずっと君のことが気がかりだった。君は今頃どこでどうしているのだろう、愛する人を見つけて、幸福に暮らしているのだろうかと思いを馳せることもしばしばあった。芯が強くて前向きなダニエルのことだから、心配しなくても大丈夫、今も一生懸命に生きているはずだと信じようとしてきた。君に一言も言わず連絡を絶ってしまった私なのに、今更こんなことを聞くのも身勝手かもしれないけれど…」
クリスターさんは躊躇うように一瞬言葉を切り、僕の反応を窺いながら、そっと尋ねた。
「聞かせてくれ、ダニエル…君は今、幸福かい…?」
僕の幸せを心から願うクリスターさんの率直な問いかけは、僕の胸を深く揺さぶった。
(いいんですか、泣く子も黙る凄腕の傭兵がこんなに優しい声を出したりして、いつもと勝手が違って、調子が狂うんじゃないですか?)
そうとでも言い返してやろうかとの思いが頭をかすめたものの、実際には、答えるどころか顔を上げることもできず、僕は泣き出しそうになるのを堪えるので精一杯だった。
クリスターさんはどうしたものかと困ったのだろうか、躊躇いがちに手を伸ばしてきて、小さく震えている僕の頭に触れようとした。
「ダニエル…?」
ああ、駄目だ、今触られたら、僕の理性はきっと決壊する。良識ある大人ぶった仮面なんかかなぐり捨てて、迸る感情のまま、この人の胸に飛びこんでいき、どうして本気で僕を探さなかったのかとか、軍隊なんて僕には絶対に行かれない場所に行ってしまうなんてひどいとか、やっぱり傭兵をやめるつもりなんかないあなたは今でも僕を死ぬほど心配させているとか、支離滅裂なことを口走って大泣きしてしまうだろう。
僕は、そんな愁嘆場をこの人と演じることを望まない。
十年もの時を経て、クリスターさんの僕に対する気持ちは、出会ってしばらくたった頃の一番望ましい状態に戻っていた。無理して愛情を注ごうと努力するのではなく、ごく自然に、大切な可愛い後輩として優しい目を向けてくれているこの人に、僕は心から安堵していたのだ。
ただ、人の気持ちというものは、簡単に割り切れるものではない。もしも、初恋の人の腕に抱きしめられ、その胸で泣いたりしたら―僕達は2人とも大人なのだ。昔の気持ちが一瞬蘇ったとしても、そんなものは錯覚にすぎないと言い聞かせたとして、果たして、感情に流されずにいられるだろうか。
(僕はあなたが好きでした。もしかしたら今でも…あなたに対する僕の恋心は残っているだろうか…?)
クリスターさんが身を乗り出す気配を感じて、僕がぎゅっと目を瞑って息を詰めた、その時―唐突に、僕のジャケットのポケットの中で携帯電話の着信音が鳴り響いた。