初恋

 ボクシング部の部室で気を失っていた僕がようやく意識を取り戻した時、クリスターさんの姿はそこになかった。
 床の上に寝かされていた僕の体の上には、ボタンの飛んだシャツが申し訳のようにそっと乗せられていた。
(ああ、そうか…僕は、クリスターさんに…)
 僕は、痛みを堪えながらそろそろと体を動かし、やっとの思いで立ちあがった。
 鏡に映さなくても、自分が今どれほどひどい有様になっているのか、僕にはよく分かっていた。そうだ、こんな姿を人に見られる訳には、絶対にいかない。
 強引で一方的な交わりによって傷めつけられた体は、ともすれば再び床の上に崩れ落ちてしまいそうだ。
がくがくと震えて力の入らない脚の間は、僕の流した血とクリスターさんの残した体液でべっとりと濡れている。
 レイプされたショックは当然大きかったが、僕が取り乱さなかったのは、自己抑制の塊のようなクリスターさんをあそこまで追い詰めたのは自分だという自覚があったからだ。
(いつまでもレイフさんと一緒にいることはできませんよ…)
あんなふうにぎりぎりまで神経が張り詰めて切れやすくなっている人に、僕は、一番言ってはいけないことを言ってしまった。
『クリスターさん…』
 僕は、自分の体を蹂躙した相手を思って、ほろほろと泣いた。
 それから僕は、シャワー室で体の汚れを流し去り、ここであったことの痕跡も綺麗に消し去ると、人目を避けるようにして寮に戻った。
 それから数日間、僕は熱を出して、クラスを休むことになった。痣や鬱血した跡の残る体を医者に診せるわけにはいかず、僕は心配するルーム・メイトに口で適当なことを言って、入手可能な薬を持ってきてもらい、後は自力で回復に努めるしかなかった。
 僕は、熱にうかされながら、クリスターさんのことを考え続けた。時折夢の中であの人にされたことを思い出せば、恐怖のあまり悲鳴を上げそうになったが、僕が本当に恐れていたのは、このことをきっかけに僕とクリスターさんの関係が一変してしまうことだった。
 一時的な感情と体の暴走によって僕を傷つけてしまったことを、我に返ったクリスターさんはきっと激しく後悔しているはずだ。
 人一倍責任感が強くて、自分に厳しく、プライドも高いクリスターさん。
 自分よりもか弱い存在にあたってしまった自分を許せずに、あの人は、僕の欲しがるものを与えることで、罪を償おうとするかもしれない。
(最悪…こんなことなら、あの人に好きだなんて告白しなければよかった。僕の恋がどうせ叶わないのは分かっているけど、せめて、ちゃんと自分の気持ちだけは伝えておきたいなんて…考えてみれば、随分独りよがりな幼稚な考えだったんだ)
 クリスターさんが思いつくことなら、僕にもちょっと似た考えをする傾向があるので、予測がつきやすかった。
 今回ばかりはどうか取り越し苦労に終わって欲しいと祈っていたけれど、三日後、やっと熱が引いてクラスに出席した僕を訪ねて来たクリスターさんの顔を見た瞬間、僕は自分の予想が当たってしまったことを悟った。
 そうして、クリスターさんに誘われるがままついて行った、校舎の裏の目立たない場所で、僕は彼と話し合った。
『僕が恐いかい?』
 僕の上に注がれるクリスターさんのすまなげな眼差し、その声にこもった気遣いに、僕は息苦しくなってきた。
『はい…少し…』
 クリスターさんがおかしなことを言い出す前にとめなければと焦ったものの、僕にも、どうしたらいいのか分からなかった。
 あなたが僕にしたことを、僕は忘れます、許します…違う、そんな言葉をクリスターさんは求めているわけじゃない。僕の願いを叶えることで、自分の失態をなかったことにしたいのだ。
 僕が願うのはただ一つ、このまま何も変わらないでいて欲しいということなのに―。
『…僕の傍にいてくれないか、ダニエル』
 クリスターさんは悲しい目をして僕にしたことを詫びた後、こう切り出した。
 心身ともに追いつめられて限界に達している自分をどうか支えて欲しいとかき口説くクリスターさんは、本当に辛そうで見ていられなかった。
 クリスターさんが、誰かに支えてもらなければ自分を保てなくなるという不安を覚えていたのは事実だろう。けれど、クリスターさんが本当に支えてもらいたがっている相手は、僕ではない。
『あなたがそう言うべき相手は、レイフさんじゃないんですか?』
 思わず口走ってしまったが、それは言っても仕方のないことだった。この人が、こんなふうに他人の僕に訴えて助けを求めようとするまでには、きっと凄まじい葛藤があったはずだ。
 クリスターさんは、レイフさんと道を分かつ決心をしていた。フットボールも今季限りでやめるのだという。
(ああ、だから、我が身を切り裂かれるような、こんな辛そうな顔をしているのだ)
 僕に対する償いのために付き合うのではなく、自分の弱さやもろさをさらけ出した上で、僕が必要だから傍にいて欲しいのだと訴えるクリスターさんの口調には、確かに真実味があった。
 なまじクリスターさんの苦しい心が透けて見えるだけに、こんな形で頼まれたら、僕はもう拒むこともできない。
 クリスターさんは、どんなふうに話を進めれば、僕が素直に自分を受け入れるか、こんな時でもちゃんと計算している。
(ずるい人だ)
 それでも、泣くまいと噛みしめていた唇にクリスターさんのキスを受けると、僕は込み上げてくる感情を抑えきれず、クリスターさんの胸に飛び込んでいった。
『ごめんなさい、僕は…それでも、あなたのことが好きなんです。そんなにも苦しんでいるあなたを前にして、必要だと言われただけで嬉しくなってしまうくらいに、あなたが好きなんです』
 クリスターさんの腕の中にすっぽりと収まり、抑えようもなくあふれ出す喜びに胸を震わせ、今にも舞い上がってしまいそうな僕を、心の片隅で、もう一人の別の僕が冷やかにたしなめる。
(ほら、見たことか。やっぱり嬉しいくせに、この人とこんなふうになりたかった訳じゃないと嘯くなんて、白々しい。いい子ぶった、この偽善者め!)
 ああ、もしも僕がもっとうんと馬鹿だったら―いつだったか強引にクリスターさんに迫った挙句しばらく付き合っていたチアのキャサリンみたいに、この人は僕のものなのだと何も考えず有頂天になれたら、よかったろうか。
 そうしたらきっと、『僕を幸せにする』という、クリスターさんが自分に課した命題も容易く達成できたはずだし…?
 でも、僕はそこまで身の程知らずにはなれない。この人にとっての自分の立ち位置くらい、ちゃんと心得ている。だから―。
 僕は、クリスターさんの恋人にはなりたくなかった。
 それは、不自然に縛り付けあう関係に陥ることで、せっかく2人の間に少しずつ築きあげてきた、温かな信頼関係が根本から崩されてしまうことを惜しんだからだった。



「…あの、クリスターさん、そう言えばさっき話の中で、レイフさんの名前が出てきましたけれど、今でもクリスターさんは、レイフさんと生活や仕事を一緒にしているんですか?」
 クリスターさんと話しこんでいくうち、最初に覚えた天にも舞い上がらんばかりの興奮や喜びに代わって、僕の胸には、次第にほろ苦く切ない思いが広がってきた。
 この人との思い出を深く掘り起こしていけば、当然そうなってしまう。
出会ってしばらくした頃、向こうっ気の強さをクリスターさんに気に入られ、可愛がられていた、あの時期が、僕にとっては単純に幸せだったような気がする。
 そんなことを考えながら、僕は、ともすれば過去に引き込まれてしまう自分を無理やり現在に引き戻した。
「ああ…レイフは私にとって、今でも欠かすことのできないパートナーだよ」
 クリスターさんは、どうしてそんな当たり前のことを聞くのかというかのごとく、不思議そうに僕を見つめた。
「仕事の上では無論そうだし、プライベートでも…ううん、空気みたいに身近にあることが当たり前すぎて、あいつがいない暮らしがどんなものか、今では想像することもできないくらいだね」
 その空気がなくなったら、あなたはやっぱり昔のように、窒息して死にそうになるんですか? 口から出かかった言葉を僕はとっさに飲み込み、代わりに別のことを言った。
「それじゃあ、今日はたまたまクリスターさん1人で…どこかに出張にでも行く途中という訳なんですか…?」
 尋ね方がちょっと露骨だったろうかと思い、僕はクリスターさんの反応を窺ったが、彼は別に気にした素振りも見せなかった。
「…実は、急な仕事が入って、ロンドンに向かう途中なんだ。私はすぐには手の離せない別な用事があったりで、レイフだけが先にロンドン入りして、向こうで私を待っているよ。昨日電話をしたら、クリスマスの飾りつけが綺麗だとか、ミュージカルを見に行ったとかのんびりしたことを言うものだから、私達は別に休暇をもらった訳じゃないんだぞと叱ったよ」
 受話器越しにクリスターさんにたしなめられて、しゅんとうなだれているレイフさんを想像し、僕は思わず吹き出しそうになった。
「相変わらずなんですね…クリスターさんがレイフさんにお説教って…」
「きっと根っこの部分は、高校時代のままなんだろうね、私もレイフも…生活環境は激変したけれど、少なくとも2人きりでいる時は―たとえどこにいて、どんな暮らしをしていたとしても、私達は昔と何一つ変わってはいないんだという気持ちになれる」
 ここにはいないレイフさんのことを語るクリスターさんの口調には、確かに昔と同じ深い愛情が滲み出ていた。いや、かつてのように、それを抑えつけよう忘れようという苦労の影はなく、聞いていて、安心できるものだった。
 それは僕をほっとさせると同時に、なぜかちょっぴり寂しい気分にもさせた。
(まるで今のあなたは、かつて自分が、レイフさんを切り離そうと悲壮な決意をして、代わりに僕の手を取ろうとしたことなんか、すっかり忘れ果ててしまったみたいですよ、クリスターさん…)
 胸の内でひっそりと呟きながら、僕はカップに残っていたコーヒーを一口飲んだ。既に冷めかけている、その味は、僕の舌に甘く、苦く、いつまでも残った。



 僕とクリスターさんの付き合いは、どちらかがそう提案した訳でもなく、自然と周囲には秘密することになっていた。
 きっかけがきっかけだったし、僕もクリスターさんも、どこか作り物めいたこの関係を、アイザックのようなやたらと鋭い友人や知れば反対するかもしれない家族の前で、あからさまにする気にはなれなかったせいだろう。
 クリスターさんは、特にレイフさんには知られたくなかったらしく、僕を自宅に連れていくことはなかった。一方の僕も寮生活だったから、僕達が2人きりで『恋人』らしい親密な時間を過ごせる場所や機会は、限られたものだった。
 例えば放課後、生徒会が終わった後の生徒会室だとか、人気のないクラブ・ハウス―休日に一緒に出かけた際に外泊したことが、一、二度あったくらいだ。
 最初僕を散々恐がらせたので、クリスターさんは気を使って、なかなか僕に触れようとはしなかった。抱きしめたりキスをしたりするのも慎重だったし、それ以上のことは、僕がクリスターさんに触られても緊張しなくなった頃合いを見計らってやっと、今度はできる限り優しく、壊れものを扱うようにしてくれた。
 こういうことは二度としないとクリスターさんは宣言していたはずだけれど、僕との仲がはかばかしく進展しないので、いっそ抱いてしまった方が少しは恋人らしくなれるだろうとでも考えたのか。全く、変な所で真面目な人だ。
 クリスターさんとそうなることに、僕自身複雑な思いはあった。肌を合わせることに対する恐れや抵抗がなくなっても、恋人らしい甘い雰囲気に浸って、あの人に甘えられるものでもない。けれど、2人きりで寄り添いあってうとうとしながら、クリスターさんが無意識にぎゅっと僕の体を抱きしめたり、頭や肩に頬や唇を押しあてたりするのを感じる時、僕の胸はどうしようもなく熱くなった。
 もしかしたら、本当に僕はクリスターさんの心の支えになれているのだろうか。僕がいることで、この人は、少しでも楽でいられるのだろうか。
 レイフさんに、大学進学のことも、今季でフットボールをやめるつもりだという話すらも、まだできないでいるクリスターさん。他のことならいくらでも勇敢に果断になれる人なのに、レイフさんが相手となるとたちまち心が挫けてしまう。
 ただ僕は、クリスターさんのレイフさんに対する考えについてだけは、何も気づいていないふりを装って、もう二度と口出しないようにしていた。僕にだって、どうすることが一番正しいのか、判断がつきかねたからだ。
(僕が傍にいたって、レイフさんと一緒にいる時ほどクリスターさんが満足できるとは思わない…ただ、レイフさんを遠ざけて、独りでいるクリスターさんの辛さを紛らわすことくらいできているのならいい。けれど、それさえできず、ただあの人の重荷にしかならないなら…僕がクリスターさんの『恋人』でいる意味なんかないんだ)
 諦めと期待の狭間で心を揺らしながら、僕はあの日も、クリスターさん相手に、こんな思いを打ち明けていた。
『クリスターさん、僕は、あなたのことは好きだけれど…あなたにこんなふうに扱われるのは、何だか違うような気がします…』
 生徒会が終わって他の委員達は帰った後、僕はクリスターさんと2人で生徒会室に残っていた。片づけものしながら新聞部の部室へアイザックに会いに行くまでの時間を潰していたのだが、これが人目のない場所で2人きりになれるチャンスだったのは確かだ。
『こんなふうにって…?』
 クリスターさんは僕の腰を軽々と抱え上げてテーブルの上にのせると、僕の髪を指先で撫でつけながらキスをしようと身を屈めてきたが、僕が浮かぬ顔をしているものだから、ちょっと不満げに眉を潜めた。
『僕にキスされるのは、嫌…?』
『い、嫌じゃあないから悩むんです…ううん、そんなことじゃなくて―ほら、クリスターさんは今、J・B対策で大変なはずなのに、僕とこんなことをしている場合じゃないというか…』
『J・Bの件は、君と僕の付き合いとは関係ないじゃないか…? 別に僕は、恋人にかまけて隙を作っているつもりはないし、君は仲間としてもとてもよくやってくれている…何も心配することはないよ』
 クリスターさんにしてみれば、僕が自分と一緒にいていつも幸せで満足している訳ではないことが引っかかるのだろう。
 クリスターさんにここまで優しく扱われ、普通の女の子だったらたぶんうっとりしてしまうのだろうけど、時々僕は、窒息しそうな息苦しさに胸が詰まった。
 だから、クリスターさんと二人きりでいる時より、アイザックも交えて対J・Bの相談や作戦に熱中している時の方が、気持ち的に楽だった。
『ダニエル、僕に対して何か言いたいことがあるのかい…? それなら、包み隠さず打ち明けてくれないか?』
 僕がいつまでも機嫌を直さないので、クリスターさんはいささか焦れたように、直截的な尋ね方をした。
 それで、つい僕も、心の内をほろりと垣間見せることを言ってしまった。
『もう元には戻れないものなんでしょうか、僕とあなたは…?』
 クリスターさんは一瞬虚を突かれたようになって、沈鬱な表情で黙り込んでしまった僕をじっと見つめた。
『ダニエル…』
 クリスターさんは、適当な言葉が見つからないかのように、しばし押し黙り、それから僕の頭に手を置いて、そっと囁きかけた。
『君はとても聡明な子だから、僕の定まらない心もある程度透けて見えてしまうんだろうね。でも、僕はずっと、こんなふうになる前から君を大切に思ってきたよ…今でも大事に思っている、恋人であろうとなかろうとね。そのことだけは、信じてくれ』
 クリスターさんの声の中にある、真実らしい響きが、僕の胸を打った。
『クリスターさん』
 クリスターさんは手を僕の頬に滑らせて、僕の様子を窺うかのようにおずおずと唇を寄せてきた。
 僕は、今度は素直に目を閉じ、クリスターさんのキスを受け入れた。瞼の間からじんわりと涙が滲みそうになるのを感じながら、僕がクリスターさんの背中に手をまわしかけた、その時、生徒会室のドアがガタンと音をたてた。
 僕はクリスターさんの腕から身をもぎ離し、ドアの方を振り返った。
 半ば開いたドアの向こうに一瞬垣間見えた人影は、僕達の姿によほど衝撃を受けたらしく、弾かれたように、そこから逃げ出した。
 レイフさんだった。
『クリスターさん!』
 顔面蒼白になりながら僕が呼びかけると、クリスターさんは、レイフさんが立ち去ったばかりのドアを食い入るように見つめていた。
『何をしているんですか! 早く、レイフさんを追いかけてください!』
 ほとんど何も考えずに、僕は口走っていた。
 そんな僕を、クリスターさんは途方に暮れたように見下ろした。こんなにも動揺しているクリスターさんを見るのは、初めてのような気がした。
『ダニエル、駄目だ、僕は…』
 僕は、たじろぐクリスターさんの体をドアの方に押しやった。
『いいから、早く行ってください! 今ちゃんと話しておかないと、あなたはますますレイフさんに対して、大切なことは何ひとつ言えなくなってしまいますよ』
 クリスターさんは、再びドアを振り返った。その喉が苦しげに上下し、唇が微かに震えるのを僕は見守った。
『レイフ…』
 次の瞬間、クリスターさんはレイフさんを追って、凄い勢いで生徒会室を飛び出していった。よほど切羽詰まっていたのだろう、僕を振り返って一言声をかけることもなかった。
 1人ぽつんと残された僕は、何だかひどい虚しさを覚えて、しばし放心した。
『こんな役割、やっぱり僕には荷が重いですよ、クリスターさん…』
 それでも、やはりクリスターさんとレイフさんがどうなったのか心配だった僕は、気を取り直して、彼らの後を追い、すぐに生徒会室を出て行った。
 僕の足では追いつけないのではないかと思われた二人は、予想に反し、すぐに見つかった。
 体育館別の裏手で剣呑な雰囲気で言い合っている双子を、僕は、少し離れた場所から、はらはらしながら窺うことになった。
 突然、クリスターさんはレイフさんに何事か言い捨てて、踵を返し、その場から立ち去ろうとした。
 それを呆然と見送りかけたレイフさんが、『行くな』と鋭く叫ぶ声は、僕の耳にも届いた。
 レイフさんは、離れていくクリスターさんの背中に向かって突進すると、逃がすまいとするかのように強く抱きすくめた。
 羽交い絞めにされた格好のクリスターさんは一瞬抵抗したようだが、結局レイフさんの荒っぽい抱擁に身を委ね、そのまましばし2人は動かなくなった。
 その間、彼らが、どのような言葉を交わしたのか、それとも交わさなかったのか、僕には分からない。いや、本音を覆い隠す言葉なんて余計なものは、彼らにはそもそも必要ない、傍にいるだけで、お互いの全てを分かり合うことができるのではないだろうか。
 まるで一体と化したかのようにじっと寄り添い合っている2人を目の当たりにして、僕は、世の中のどんな力をもってしても、彼らを切り離すことなどできないのだと思い知らされたような気がした。
 生まれた時から、等しく、お互いのために作られたかのような完璧な一対―クリスターさんが希求する唯一の相棒、僕なんかが、その穴埋めになれるはずがなかったのだ。
(もう、いいじゃないですか、クリスターさん…これ以上無駄に思い煩うのはやめて、自分の気持ちに正直になればいい…レイフさんだって、ほら、あなたを求めている。余計なことは考えず、自分に向かって伸ばされた手を取ればいいんです…)
 てっきり、そうなるかと思ったのに、クリスターさんはこの期に及んでも感情には流されず、かき集めた自制心の力でレイフさんを振り切ってしまった。
 クリスターさんにはまだ、社会の常識や良識に逆らって、レイフさんと共に幸せになれる自信が持てないのだろうか。
 ただ、レイフさんから必死に逃れた、その姿はとても頼りなげで、痛々しく、歩く足取りも力ないものだった。
 僕は、クリスターさんが、先程まで僕達がいた校舎の方角にとぼとぼと歩いていくのを認め、一瞬僕も戻るべきかどうか迷った。
 クリスターさんが本当に僕の支えを必要としているのか、今となっては全く自信が持てなかった。それに僕自身、ひどく動揺してしまって、クリスターさんの顔を見てまともな態度を取れるとは思えなかった。
 僕は結局、クリスターさんの元には戻らずに、人気のない体育館の陰に小さくうずくまった。
(僕はクリスターさんにとって、一体何なのだろう、あの人の傍いる意味があるのだろうか…? 恋人になりきることはできず、昔のように、ただの後輩に戻ることももうできない)
 急に、今まで迷いながらも自分に言い聞かせてしてきた、何もかもがたまらなくなってきた。
『無理…無理です、もう限界…クリスターさん…』
 僕は、人目がないことを幸いに、顔を両手で覆って、わんわん泣いた。クリスターさんの前で、こんなふうに身も世もなく泣いたことは一度もなかった僕だけれど、感情の堰が切れたように、溢れだした涙はとまらなかった。
(僕はあなたの恋人じゃない…いつまで傍にいたって、本当には愛してもらえない…)
 それでも次の日には、僕は素知らぬ顔をして、これまでと同じようにクリスターさんの傍らに寄り添っていた。
 ひとしきり溜まりに溜まった鬱憤を吐き出したおかげで、僕は平静を取り戻し、何やら達観した気分にさえなっていた。
 そして、この時僕が行き着いた結論が、こうだ。
 クリスターさんのパートナーになれるのは、この世でただ一人、レイフさんだけだ。
 だから僕はもう、この人に対する自分の恋、想い続ければいつか叶うかもという淡い夢は、全部諦めよう。
 クリスターさんの傍にいられるだけで幸せだと、僕はもともと思っていたはずではないか。だから、クリスターさんが本当の幸せにたどり着くその日まで、あの人が僕の支えが必要だと言い張るのなら素直に聞くふりをして、見守っていよう。
 クリスターさんは言ってくれたではないか、恋人であろうとなかろうと、今でも僕を大切に思っていると…。
 その言葉に込められたあの人の心だけは少なくとも僕のものだから、素直に信じ受け入れようと、僕は心に誓っていた。


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