初恋


「あっ…」
 僕は涙を振り払いながら、慌てて、ポケットに手を突っ込み、しつこく鳴り続けている携帯電話を取り出した。
 表示をちらっと確認すると、レオからだった。
(ああ、そう言えば、後でもう一度電話すると言って、それきりだったから…)
 一気に現実に引き戻された僕は、クリスターさんを振り返った。
「すみません、ちょっと…」
「ああ、構わないよ」
 少々気をそがれたように椅子に座りなおしながら、クリスターさんは僕に向かって、頷いた。
「…レオ、どうしたの?」
 僕はテーブルを立ち上がって、滑走路が見える大きなウインドウの前まで歩いて行きながら、素っ気ない口調で応対に出た。
『ダニエル!』
 たちまち耳に飛び込んできたレオの大声に、僕は思わず顔をしかめ、携帯電話を顔から遠ざけた。
『そっちこそ、何してんだよ。明日のフライトの時間が分かったら電話をくれるって約束だったろ? オレ、ずっと待ってたんだぞ!』
「あ…ああ、ごめん、確かにそういう約束だったね」
 そうだ、クリスターさんとの思わぬ再会にすっかり舞い上がってしまった僕は、恋人のレオが待っていることなどすっかり忘れていたのだ。
「…代替便の手続きは結構時間がかかって大変だったけれど、明日の朝8時発の便に、無事に座席は取れたよ、レオ」
 内心の動揺が声に出ないよう苦労しながら、僕はレオに応えた。
『そっか、そりゃよかった…なら、オレ、空港までダニエルを迎えに行くよ』
 怒っていたのが一転、心底ほっとしたような声に変って、レオは言う。
「う、うん…ありがとう、レオ」
 レオは電話の向こうでふと黙りこんだかと思うと、だしぬけにこんなことを尋ねてきた。
『なあ、ダニエル、もしかしてそっちで何かあったのか…?』
「えっ?」
 日頃細かいことにはあまり気がつかないレオにしては鋭い突っ込みに、僕はぎくりとなった。
『いや、オレならついうっかり約束を忘れちまうこともありだけれど、ダニエルはその点いつもきちんとしているからさ。もしかしたら空港で何かトラブルに巻き込まれたんじゃないかなって心配になったんだ…悪天候で閉鎖された空港なんて、客もスタッフも皆苛々して殺気立ってそうだし、1人じゃやっぱり危ないんじゃないか…?』
 レオの気がかりそうな言葉に、僕は思わず苦笑しそうになった。
「僕なら大丈夫だよ、レオ。全く、君は心配性すぎるよ…女の子の1人旅ならともかく、僕は君より年上のれっきとした男なんだよ」
 常日頃年下扱いされることに不満なレオは一瞬沈黙した後、ぼそっと言い返してきた。
『でも、オレよりはずっとか弱いだろっ? 口は達者でも、腕っ節は全然頼りにならないじゃん、いざって時にはやっぱオレが守ってやんないと…』
「あのねぇ…よりによって君みたいなマッチョと僕を比べるのはどうかなぁ…!」
 思わず声を張り上げかけた僕は、後ろでクリスターさんの小さな忍び笑いを聞いて、とっさに口から出かかった言葉を飲み込んだ。そう言えば、この人は物凄く聴力がいいのだ。レオとの仕様もない痴話喧嘩など聞かれたくはない。
「レオ、君に連絡するのをうっかり忘れてしまったことは謝るよ…実は―」
 僕はちょっと迷いながら、肩越しにクリスターさんの様子を窺った。こちらに背中を向けているため表情は分からないが、ウイスキーのグラスを傾けながらぼんやりしている。
「偶然、昔の知り合いに空港で出会ったんだ。それで、懐かしくて、カフェで話し込んでいるうちに、すっかり時間が経つのを忘れてしまっていたんだよ」
『昔の知り合い…? アメリカに住んでいた時の友達か?』
「うん、高校時代に親しかった人だよ。ずっと音信不通だったし、会うのは十年ぶりくらいかな」
 レオを納得させるためには、少しは本当のことも言った方がいいだろう。しかし、彼が常日頃ライバル視する『伝説の彼氏』その人がここにいるのだとまでは、僕もさすがに打ち明けられなかった。
『そうか、十年ぶりに会った友達かぁ…そりゃ懐かしくて、積もる話もあるよな…ごめんよ、オレ、邪魔しちまったみたいだ』
 全く、この子と話しているといつも僕は、自分が随分とすれた、ずるい大人になってしまったような気分になる。
「ううん、邪魔なんかじゃないよ、レオ。僕が先に気付かなくちゃいけなかったのに…心配させてしまってごめんね」
 良心がチクチク痛むのを覚えながら、僕は、疑うことを知らない若い恋人に、できる限り優しい声をかけた。
『いや、ともかくオレも、ダニエルが知り合いと一緒にいるって確認できてちょっと安心したよ。ホテルには行かずに本気でそこで夜明かしする気なら、なるべく明るくて人の大勢いる場所にしろよ』
「もう、また僕を女の子みたいに扱う…」
 僕は堪え切れずに吹きだしてしまった。少々子供じみてうるさいが、僕に対する正直でまっすぐなレオの愛情に、少し胸が温かくなるのを覚えた。
「それじゃあ、もう切るよ、レオ」
『あっ、ちょっと待って』
 レオが慌てて、電話の向こうでがさがさと物音をたてながら何かを探している気配に、僕はじっと耳を傾けていた。
『まだ2時間ほど早いけど、先に言っちまおう―ダニエル、誕生日おめでとう!』
 携帯電話の向こうで、レオの明るい声と共にクラッカーの弾ける音が聞こえた。
「レオ…」
 不意を突かれた僕は、とっさに言葉が出なくなった。
(誕生日くらいで浮かれるような年でもないのにね…ああ、こんなことで感激しているなんて、僕もまだまだ子供っぽい所があるのかな。それとも、相手がレオだから、嬉しいんだろうか…? ああ、明日は、何があってもレオのもとに戻ろう。1人で僕の帰りを待っている、大好きな、可愛いレオ…)
 レオは、お世辞にもうまいとは言えない歌声で、『ハッピー・バースデー』をひとくさり聞かせて僕を笑わせると、どこまでも僕を甘やかす優しい声で付け加えた。
『続きは、明日ダニエルが帰ってきてからな…友達も呼ぼうかと思ったけれど、やっぱ疲れてるだろうから、2人きりで簡単なパーティーだけしような』
「うん…ありがとう、レオ…愛してるよ」
 僕が珍しくも素直に言った言葉に、レオは小さく息をのんだ。それから、単純だけれど深い愛情のこもった言葉を返してくれた。
「オレもすごく愛しているよ」
 僕は顔が熱く火照るのを感じながら、携帯に向かってちゅっと軽いキスを1つ送って―レオからしつこいくらい何回も返ってくるキスにはちょっと閉口したが―電話を切った。
 目の前の暗いウインドウにぼんやりと映る自分の顔―全く馬鹿みたいな、幸せそうな微笑みを浮かべている!―をじっと見つめながら、僕は肩で息をついた。
 クリスターさんとの親密なやり取りですっかり心を乱されていた僕だが、いつの間にか胸の鼓動は静まっていた。
(ありがとう、レオ…)
 レオのおかげで、どうやら僕は自分を取り戻すことができたようだ。
(初恋以上の恋は二度とできないなんて思っていた僕だけれど、それは僕が昔とは変わったからだ。そして、今の僕は、やっぱりレオを愛している)
 この十年間、新しい出会いをたくさん重ね、新たな絆を結んできたのはクリスターさんだけではなく、僕も同じだったのだ。今の僕にはちゃんと帰るべき場所があり、そこでは愛する人が僕を待っていてくれる。
 僕は何だか目の前を覆う霧が晴れたような清々しい気持ちで、クリスターさんの待つテーブルに戻った。
「すみません、お騒がせしました」
 クリスターさんは笑いを含んだ優しい目で僕を見た。
「恋人かい?」
 ストレートに聞かれて、僕は少し顔が赤らむのを覚えたが、声に出しては、はっきりと迷いなく答えた。
「はい」
「そうか…」
 男性が相手ということはレオの大声が洩れていたなら気づいていそうだなと思っていたら、クリスターさんは僕の方に少し身を傾けながら、さり気なく尋ねてきた。
「どんな男なんだい?」
 ああ、やっぱりばれていると気恥ずかしく思ったが、別にクリスターさんは僕のセクシャリティについて説明や言い訳を求めている訳ではなさそうだったので、彼の質問に素直に答えることにした。
「ええと…レオは僕より五つも年下の大学生なんです」
 こんな適当な説明を恋敵に向かってされたとレオが知ったら、さぞ怒りそうだと想像しながら、僕はジュースで喉を潤した。
「そんな坊やじゃ、頼りなくはないかい…?」
 クリスターさんは、あまり賛同しかねるというように首を傾げる。
「あなたみたいな人に『坊や』と言われたら、レオは返す言葉もなくなってしまいそうですけれど…」
 僕は恋人を庇うべく、俄然むきになって言い返した。
「確かに、レオには子供じみた所はたくさんあります。でも、あれは年のせいというより、性格なんです。素直でまっすぐで…細かいことは気にしないおおらかなところは、僕にはない彼の長所だと思いますし…そんな彼と一緒にいると、小さなことに神経をすり減らして苛々するのが馬鹿馬鹿しくなってくるというか…力を抜いてほっとすることができるんです」
 口に出してみて、ああそうなのかと、僕はレオに対する自分の気持ちを再認識していた。レオが、僕の欠点など気にせずに僕を丸ごと包み込んでくれるから、僕は無理をしたり、取り繕ったりすることもない、素のままの自分でいられるのか。
 振り返れば、高校時代の僕は、クリスターさんに認めてもらいたくて、一生懸命背伸びばかりしていた。あれは、あの年頃の僕だからできたことであって、今、他人に対してあそこまで傾倒することはできないし、そんな一方的な恋愛は幸せなものにはならないだろう。
「大らかで、まっすぐで…ふふ、私とも正反対の男のようだね」
 僕の言葉に目を細めて頷くクリスターさんは、そういうタイプには物凄く身近な所で心当たりがあるはずだ。
「そうですね、外見はともかく…この際白状しますけれど、最初はちょっとあなたに似ているかなと思って惹かれたんです。でも、付き合いだすと全然違っていて―」
 むしろあなたの弟にそっくりなんですよと、ここでクリスターさんに打ち明けたら、どんな反応が返って来るだろう。興味はあったが、やはり照れくさくて、言いだせなかった。
「安心したよ、ダニエル、君が恋人に選んだのが、また私のような男ではなくて…」
 クリスターさんはそんな感想を漏らして、確認するかのように僕の目を覗き込んだ。
「彼は君を大切にしてくれるかい?」
 その顔つきは、僕が戸惑うくらいに真剣だった。もしもここにレオがいて、少しでもクリスターさんの眼鏡にかなわない言動でもすれば、大変な目にあわされるのではないかと疑うほどに…。
「ええ、ちょっと大げさすぎるとは思いますけれど、レオは僕をとても大切にし、愛してくれています。僕も彼を愛しています。この先いつまでレオと付き合うのか、将来のことは分からないけれど…ずっと彼と一緒に歩いて行けたらいいなんて、現実主義の僕らしくもなく、ちょっと夢見てしまうくらいには…」
 クリスターさんは一瞬遠い目をして何事か考え込んだかと思うと、改めて、僕を振り返った。
「それでは、君は今、幸せなんだね?」
 可愛いダニエルと、クリスターさんの目が昔のように僕に語りかけていた。
 懐かしい思い出の中できらきらと輝いていた宝物―僕にとってのクリスターさんがそうであるように、僕もまたクリスターさんの大切な記憶の一部なのだ。
「はい…僕は今、とても幸せですよ、クリスターさん」
 僕は微笑みながら、クリスターさんの目をまっすぐ見て、答えた。
 クリスターさんも微笑み、空になった自分と僕のコップにウイスキーを注いで、機嫌良さそうに乾杯と言いながら、一息に空けた。ストレートのウイスキーに恐る恐る口をつけた僕とは言えば、軽くむせて、咳込んでしまった。
「クリスターさん、僕はもうひとつ白状します。レオには内緒なんですけど、僕は高校時代のあなたの写真を今も大事に持っているんですよ…ほら…海外出張の多い僕だから、旅先でもしもあなたに似た傭兵を見かけたなんて話を聞いたら、これを見せて確かめられるかなと思って、待ち歩きだしたんですけれどね」
「ああ…これは、もしかして写真魔のアイザックが記事に使うとか言って撮りまくっていた奴か…?」
「そう言えば、新聞部の運営資金にするって、勝手に売りさばいていましたよね…」
 僕とクリスターさんの思い出話、よもやま話は、よく種が尽きないものだと呆れるくらい、それからも果てしなく続いた。
 こんな偶然の素晴らしい出会いが、そうそうあるものではないと2人とも分かっていたからだろう。
 セピア色をした古い写真が色彩を取り戻して生き生きと動きだしたかのような、この再会は、しかし、僕達を再び過去の自分に戻すことができる魔法ではない。
 僕とクリスターさんの道は十年前のあの時に二つに分かれ、たまたまこうしてと交叉することはあっても、それが再び1つになることは、この先二度とないのだろう。
 それでも―僕は、今この一時、僕の傍らにいて笑っているクリスターさんに向かって、心の中で何度も囁きかけていた。
(僕はあなたが好きでした。もう十年も昔のことだけれど、あなたは紛れもなく僕の初恋の人でした)




 クリスターさんと僕の別れは、僕達の意思とはかかわりなく突然、他人によって無理矢理に決められたことだった。
 その時、車椅子に座らされた僕は、人形のように黙りこくったまま母親と空港係員の介助を受けて、セキュリティ・チェックを受けていた。
 そう、僕はこれからボストンを離れて、ロンドンに行くのだ。
 こんなこと、僕は全く望んではいなかった。
 しかし、どんなに僕が嫌がっても、言葉を尽くして訴え、涙ながらにかき口説いても、両親は僕がこれ以上ボストンに留まることを許してはくれなかった。
 僕が親元を離れている間に巻き込まれた事件、その結果心身ともに受けた傷を親の立場で考えれば、彼らの決定はやむを得ないものなのかもしれない。しかし、僕にしてみれば、手術を受けた脚の痛みより、ブラック邸での悪夢のような出来事よりも、クリスターさんと引き離されることの方が辛かった。
(せめて最後に一目あなたに会って、僕の口からさよならを言うこともできないなんて、あんまりだ―ああ、この体が自由に動けたら、僕は何としても病院を抜け出して、あなたに会いに行っただろうに…)
 まだ自分の足で歩くこともできない僕には、それすらも不可能な願いだった。
(ここであったことは全部忘れて、新しい生活を始めようと、親は僕を慰めるかのように言う…でも、クリスターさんのいないロンドンで、僕に一体何の希望や夢が持てるんだろう…ああ、彼らは僕の気持ちを分かってくれない…)
 母親がしきりに声をかけてきたが、僕は答える気力を全くなくしていた。怒りを通り越して、絶望し、心を凍りつかせていた。
 その時、セキュリティの向こうから、場違いな程よく響く大声が聞こえていた。 
「ダニエル・フォスター!」
 紛れもなく僕の名前を呼ぶ声に、僕は訝しげに頭をめぐらせ、大勢の人々がチェックを待って並んでいるセキュリティ・ゾーンのシールドを振り返った。
 シールドの向こうの出発ロビーで何者かが騒ぎを起こしているらしく、列に並ぶ人達も一体何事かと後ろを覗き見ている。
「ダニエル!」
 またしても名前を呼ばれ、僕は胸が急に苦しくなるのを覚えて、喘いだ。
 あの非常識な怒鳴り声には、聞き覚えがある。
「聞こえるか、ダニエル・フォスター! クリスターがおまえに会いに来ているぞ。早く、出てこいっ」
 僕は反射的に母親の手を振り払い、車椅子を自分で操ってセキュリティの外に戻ろうとした。
「何をする気、ダニエル!」
 慌てて止めに来る母や係員に向かって訴えかける僕の顔は、よほど切羽詰まったものだったに違いない。
「お願いです、ここから出して下さい! 僕の大切な人が見送りに来てくれたんです…ロンドンにはどうしても行かなければならないにしても、クリスターさんに何も言わずに別れるなんて、僕は嫌だ。今会わなければ、きっと一生悔いが残る…少しの間だけでいいから、どうか彼に会わせて!」
 母はもう何も言わなかった。
 係員達は少し相談しあった後、僕を誘導して、セキュリティの外に出してくれた。
「クリスターさん!?」
 期待と不安で狂わんばかりになりながら、僕は辺りをきょろきょろと見渡した。心臓は激しく打ち震え、今にも胸が破られそうだ。
(ああ、本当に…あなたは僕に会いに来てくれたんですか…?)
 入院中、僕は、もしかしたらクリスターさんが見舞いに来てくれるのではないかと期待しながら、ずっと待っていた。しかし結局、両親の妨害のせいか、クリスターさんは現れなかった。僕がブラック邸で酷い目に会ったことで、負い目を覚えていたからかもしれない。
(でも、そんなこと、今はどうでもいい…僕はあなたに会いたい。最後にもう一度だけ会って、あなたに僕の口から伝えたいことがあるんです)
 必死に探し求める僕の目は、ほどなくして、人波の向こうに呆然とたたずむ背の高い赤毛の青年を見つけた。
 クリスターさんだ。その背後には、先程の大音声の主、レイフさんもいる。
「クリスター…さん…!」
 僕の呼びかけに、クリスターさんは微かに身を震わせ、大きく目を見開いた。「ダニエル…」
 頭の中がかあっとなってしまった僕は、死に物狂いで車椅子を動かし、クリスターさんに近づこうとした。しかし、人混みの中で車椅子を操るのももどかしく、つい僕は自分の足で立ちあがろうとした。
「ダニエル!」
 僕の無謀な行動を叱りつけるクリスターさんの声。ああ、そうだ、僕は脚を手術したばかりなのだった。
「馬鹿、動くな…!」
 案の定、僕は数歩歩いた所でバランスを崩し、よろめいた。
「クリスターさんっ」
 僕が必死に手を伸ばす先、こちらに駆け寄ってくるクリスターさんの姿が見えた。次の瞬間、僕の体は彼の力強い腕にしっかりと抱きとめられていた。
「無茶をするな、ダニエル…」
 胸がいっぱいになってしまった僕は、とっさに答えることができず、クリスターさんの腕にしがみついまま、ぽろぽろと涙をこぼすことしかできなかった。
(ああ、ずっとずっと会いたいと願い続けてきた人が、ここにいる。夢じゃない、本当にクリスターさんだ)
 クリスターさんもブラック邸で酷い怪我をしたという話を聞いていただけに、包帯で固定された肩や少し痩せたように思える顔を見て、僕は胸を痛めた。しかし、そんな心配も消し飛ぶほど、クリスターさんに会えた喜びは大きかった。
 子供のように泣きじゃくる僕の頭をクリスターさんは大きな手で撫でてくれたり、感極まったかのようにぎゅっと抱き寄せ、唇を押しあてたりしてくれた。
「クリスターさん、クリスターさん…」
 数分前まで氷塊でも詰めたかのように凍りついて無感情になっていた僕の胸は、たちまち温かなものに満たされていく。
「ダニエル、ダニエル…顔を見せてくれ…」
 優しい声に懇願され、僕は慌てて、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた顔をぬぐい、僕を心配そうに覗きこんでいるクリスターさんを見上げた。
「クリスター…さん…ありがとうございます、僕を見送りに来てくれて…」
「いや、もっと早くに、僕は君に会いにいくべきだったんだ。一体何をぐずぐずしていたんだろう…すまない、ダニエル、僕のために、君を酷い目にあわせて―こんな怪我まで負わせてしまった…」
「それは違います、クリスターさん」
 やはり僕に対して負い目を覚えているクリスターさんの言葉を遮り、僕は言い返した。
「全て、僕が自分の意思で決めたことです。その結果を受け止めるのも僕…あなたに気に病んでもらう必要はないんです」
「ダニエル…?」
「あなたに会ったら、一言言っておかなきゃと思っていたんです、クリスターさん…」
 深呼吸して気持ちを落ち着けると、僕は、怪訝そうな顔をしているクリスターさんに向かって、言った。
「僕なら大丈夫ですから、安心してください。確かに、僕が散々な目にあったのは事実だし、まだ当分夢にうなされることもありそうだけれど、あれしきのことで僕は駄目になったりはしません。負けたりなんかしません。僕は、あなたが考えている程か弱くはないんですよ」
 クリスターさんは信じられないことを聞いたかのように、瞠目した。しばらく僕の本心を探るかのような目を向けていたが、ようやく納得したように、ゆっくりと頷いた。
「僕は、君を見損なっていたみたいだね」
「そうですよ…でも、あなたに壊れものを扱うみたいに大事にされるのは心地よくなかったと言えば、嘘になるんですけれどね」
 嘯く僕に、クリスターさんはおやおやというように軽く眉をはね上げた。
「向う気が強くて、生意気な、可愛いダニエル…」
 笑いを含んだ口調で、愛しげに呼びかけるクリスターさんに、僕は胸をきゅっと掴まれたような気がした。
「君に出会えてよかったよ…僕の心が折れかけていた時、傍にいて僕を支えてくれて、ありがとう、ダニエル」
 クリスターさんの手が僕の顔を包み、覚えようとするかのように指先で撫でている。
 僕はまたしてもこみ上げてきそうになる涙を抑えるよう、わざと明るい声を出して、訴えかけた。
「クリスターさん…僕、向こうに行っても一生懸命勉強して、きっといつか自分の力でアメリカに戻ってきます。あなたに認めてもらえるような立派な大人になって、もう一度あなたに追いついてみせるから―どうか、僕のことを心の片隅にでも覚えていてください」
 僕の宣言はクリスターさんを喜ばせたようだ。優しく目を細める彼からは、先程の張りつめたような緊張感や不安はすっかり失せ、安堵と満足感が漂ってくる。
「ああ、ダニエル、それじゃあ僕は、君がいつか戻ってくるのを楽しみに待っていよう」
 僕は、クリスターさんに半分支えられるような格好ながら、その胸を叩いて、言い返した。
「僕は本気ですからね。死ぬ気で勉強して、ハーバードだろうがMITだろうが、あなたの行く大学なら絶対入ってみせます」 
 後ろの方で、僕の母がそろそろ時間だから行かなくてはというようなことを遠慮がちに訴えてきた。
 僕とクリスターさんはとっさに黙りこみ、名残を惜しむような視線を交わし合った。
「ダニエル…お母さんが待っている。もう行くんだ」
「はい…」
 そう言いながらも、僕は、僕を見下ろすクリスターさんの顔から目が離せなかった。
 次に、この人と会えるのはいつだろう。数カ月後? それとも数年後?
 それまで忘れないよう、この人の姿を目に焼き付けよう。この胸に、大切にしまいこんでおこう。
「さよなら、クリスターさん…僕はあなたが好きでした」
 クリスターさんは瞳を揺らせたかと思うと、僕の肩を引き寄せて、最後にもう一度抱擁してくれた。
「僕も、君が好きだったよ」
 自分の本当の気持ちを伝えることは意外と苦手だったクリスターさんが別れ際に僕にくれた、単純で短い告白―僕の胸に自然にすっと入ってきた、それはきっと彼の本心だったに違いない。
 クリスターさんの本当の『恋人』にはなりえなかった僕だけれど、彼に愛されてはいたのだ…。




「…こんな朝早くに電話なんかかけてくるなよ…空港で独りきりじゃ、寂しくて熟睡できなかったろうし、退屈しただろうって…? ふん、別にそうでもないさ」
 夢うつつに僕は、クリスターさんの低い声を聞いていた。僕の眠りを妨げぬよう気遣ってか、一緒に仮眠をとっていた椅子から立ち上がって、少し離れた場所にいるようだ。
「おまえこそ、ミュージカルだの博物館巡りだのすっかり観光客気分でいたくせに、やっぱり独りじゃ手持無沙汰になってきたんだろ…べン達が来るのは来週だからな。連中が来たら、パブに飲みに繰り出すって…? それくらい別に構わないけれど、仕事が優先だよ」
 僕に話しかける時よりもずっと砕けて打ち解けた調子―ああ、話相手はレイフさんだとすぐに分かる。
「…今朝は、昨夜の大雪が嘘のように風もやんで、上々の天気になりそうだよ。全く、クリスマス間近のこの時期に、嵐だの大雪だのに巻き込まれて同じような目に会うのはこれで何度目かな…私はよほどついていないらしい。ああ、そうだな…今日から12月だ…」
 何か引っかかったかのように、クリスターさんはふっと黙りこんだ。
「…いや、ちょっと考え事をしていただけだよ。ところで、レイフ…その…今年のクリスマスなんだけれど、今回の仕事がスムーズに片付いたら、一度母さんに会いに行かないか…?」
 僕はうっすらと目を開けた。声の主を探し求め、早朝の淡い光が差してくる、滑走路に面したウインドウの前に立つクリスターさんの後ろ姿を見つけた。
「いきなり、どういう心境の変化だって…? まあ、詳しいことはそっちに行ったら、話すよ…ただ、いつまでも理由をつけて、実家に戻ることを避け続けるもどうかと思うし、やはり久しぶりに母さんの顔を見たいかなって…何だ、おまえもそう思っていたのか…ああ、私達の今後の計画のことも、せっかくの機会だから話しておこうか。…ううん、安心どころかまた心配させるかもしれないけれど、それは仕方ないさ…母さんのことだから、大丈夫、理解を示してくれると思うよ…」
 僕はひっそりと微笑んで、目を閉じた。クリスターさんに突然の心境の変化をもたらしたのは、僕かもしれないし、それだけではないのかもしれない。
(ともかく、ヘレナさんに会いに行く決心がついたことは、よかった…過去のわだかまりは綺麗に清算して、これからは普通に実家に戻れるようになったらいい…それがきっと、クリスターさん達にとって、新しい未来につながる一歩になる…そう、クリスターさん達の今後の計画が何であろうとも…)
 まだ眠気のさめきれない頭で、僕はクリスターさんの声を拾いながら、取り留めもない思いを巡らせていた。
「…ともかく、全ては、今回の依頼を片付けてからだ。ペン達はいい傭兵だし、私とお前でチームを率いれば、何も恐れることはない…きっと最高の仕事ができるさ」
 僕が再び目を開けると、レイフさんとの通話を終えたらしいクリスターさんは、こちらに横顔を見せ、ウインドウの前に腕を組んで立ったまま、東の空の果て、厚い雲の間から姿を現した太陽の方をじっと目を凝らすように見据えている。
 すっと背筋の伸びた美しい立ち姿からは、これこそ自らの力と才覚のみで厳しい戦場で勝ち残ってきた者の自信と誇りなのだろうか、否応なく人を引き付けると同時に畏怖させ屈服させずにはおかない強烈なオーラが放たれている。
 一体何に思いを馳せるのか―戦いを前に心を研ぎ澄まし、身の内にたぎる力を制御しようとしているかのような―その横顔は厳しく引き締まり、近づきがたいほどの気迫に満ちていた。
 奇妙な既視感にくらくらしそうになったほど、その姿は、僕が大事に持っている写真の中に残るクリスターさんのそれに重なる。
 不思議でもなんでもない、僕が見ているのは、紛れもなく、あの完璧な青春の『その後』なのだ。
(ああ、あの時と変わらないあなたがここにいる。そして同時に、とてつもなく変わってしまったあなたも…)
 懐かしさと恋しさ、切なさとほろ苦さが入り混じった感情に満たされながら、僕は、今のクリスターさんの姿をしっかりと覚えておこうとするかのように見つめ続けた。
 僕がここで出会った、このクリスターさんの肖像も、僕の胸に深く、思い出の続きとして焼き付いて、ずっと消え去ることはないだろう。
「…くしゅんっ…!」
 いきなり僕は、椅子の上で身を二つに折りながら、大きなくしゃみをした。その拍子に、体に巻き付けていた毛布―空港職員が配りに来たものだ―が滑り落ちそうになり、とっさに掴み占める。
「ダニエル、起きたのかい…?」
 僕が慌てて顔を上げると、クリスターさんがゆったりとこちらに向かって歩いてきた。一瞬前までの恐いような迫力はたちどころに消え去って、その表情や物腰は柔らかく、人当たりがよさそうな雰囲気に変わっている。
「一体、いつの間につぶれてしまったのか、よく覚えていません。コーヒー・スタンドのテーブル席よりは、こっちの椅子の方が少しは楽かなと移動したのは記憶にありますけど…」
 斜め後ろにあるテーブル席をちらっと振りかると、そこには空になったウイスキーのボトルが残されていた。僕はそれほど飲んだ記憶はないから、たぶんクリスターさんがほとんど1人で空けたのだ。
「…お酒、強いんですね」
「ふふ、酒も煙草も、私達が軍隊に入ってから覚えた悪癖だな…」
 クリスターさんは、欠伸をしながら肩をもみほぐしている僕の隣にどさりと腰を下ろし、唐突に言った。
「今日から、12月だ」
「ああ…はい、そうですね」
「誕生日おめでとう、ダニエル」
 僕は目を擦っていた手から顔を上げ、クリスターさんの笑いを含んだ顔をまじまじと見返した。
「…覚えていてくれたんですか?」
「いや、さすがにすぐには思い出さなかったよ。今日から12月だとさっきふと思った時に、ああ、そう言えば、確かダニエルの誕生日は1日だったなと気がついたんだ。…よかったな、今日はちゃんと恋人のもとに戻れそうで…」
 昨夜レオに携帯電話越しにおめでとうと言われた時にも柄にもなく感激した僕だけれど、不意打ちのようなクリスターさんの言葉もちょっとぐっときてしまった。
「ええ、帰ったら、レオと2人でささやかなパーティーをする予定です。大雑把なようでいて、案外イベント好きな子で、まめにプレゼントとか用意してくれるんですよ…でも、僕にとって、ここであなたと再会できたことは、思わぬ誕生日プレゼントみたいなものでした。空港で1人迎える誕生日なんて最悪と思っていたのが、あなたとレオのおかげで、今は最高の気分ですから」
「そうか。そう言ってもらえて、私も嬉しいよ、ダニエル」 
 僕とクリスターさんは、その後、カフェで簡単な朝食を取った。本当に今朝は昨夜とは一変よく晴れて、窓から眺める空は清々しいほどに青い。
 カフェを出ると、そろそろ僕が乗るアムステルダム行きの便の搭乗時間が近づいていたので、カウンターで手続きをした後、僕はゲートに向かうことにした。
 そして、僕より一時間遅れのロンドン行きのフライトに乗るクリスターさんは、僕を見送りにゲートまで一緒に来てくれた。
「また、いつか…きっと会えますよね、クリスターさん」
「ああ。今度は、アイザックも一緒に同窓会をするんだろう?」
「あなたのロンドンでの仕事が終わったら、必ず連絡をくださいよ? 僕もメールを送るつもりですけれど…」
 僕は、クリスターさんとの再会を繰り返し約束して、最後まで明るく振舞っていたが、いざ搭乗が始まって、その列に並ぶ段になると、急に胸が詰まりそうになった。
「ダニエル、どうした…?」
 クリスターさんが、無言で立ちつくしてしまった僕の肩を軽く叩く。
「ああ、ごめんなさい…何だか、ボストンで、あなたが僕を空港まで見送りに来てくれた、あの時のことを思い出してしまって…」
 さすがに、あの時のように大泣きすることは憚られた。僕は手で目元をぐいっと拭うと、傍らのクリスターさんを振り仰いで、にっこりと笑いかけた。
「では、僕は行きます。クリスターさん、どうか元気でいてください」
「君も元気で、ダニエル…例えどこにいようとも、私は君の幸せを祈っているよ」
 クリスターさんの手がおもむろに伸びてきて、体の脇に垂らしていた僕の手を取り、ぐっと握り締めた。
 はっと息を吸い込む僕の顔を、クリスターさんは記憶にとどめようとするかのように、じっと見つめた。
 そうだ、ボストンで別れた際も、クリスターさんはこんなふうに熱心に僕を見つめて、忘れないと言ってくれたのだ。
「さよなら…」
 これ以上クリスターさんの顔をまともに見ていられなくなった僕は、目を背けるようにして彼から離れ、列に並ぶ搭乗客達の後ろについた。
(大丈夫、クリスターさんの連絡先も教えてもらったし、近いうちにまたきっと会える)
 僕は自分にそう言い聞かせて何とか気持ちを鎮めると、ちらっと後ろを振り返った。
 壁際に下がっていたクリスターさんは、僕に向かって手を差し上げ、微笑みながら片目を瞑ってみせた後、ゆっくりともと来た道を歩き出した。
「さよなら、クリスターさん…」
 口の中でもう一度小さく呟いて、僕は目の前で礼儀正しく待ちうけている係員に搭乗券を手渡そうとした。
 その時、唐突に、強い感情が僕の胸の底から突き上げてきた。
(さよなら、さよなら…クリスターさん、もう二度と会えない…)
 僕は搭乗券を係員に差し出しかけた手を止め、喘ぐように息をした。のろのろと後ろを振り返った。
「クリスターさん…!」
 訳もない圧倒的な感情に押し流されて、僕は搭乗客の列を飛び出し、クリスターさんを追って、先程彼が歩き去った通路が見える場所まで駆け戻った。
 しかし、大勢の人々が行き交う通路には、あの鮮血のような紅い髪が印象的な丈高く美しい姿はもう見えなかった。
 あの人は行ってしまったのだ。
「クリスター…さん…」
 僕は不思議な胸騒ぎと悲しみに襲われて、肩を小さく震わせ、溢れだしそうになる涙を堪えるよう、俯いた。


 

 アムステルダム、スキポール空港。
 僕は心ここにあらずの態で、愛用のアタッシュ・ケース1つを携え、とぼとぼと到着ロビーに出ていった。
 デトロイト発の便の中では、僕は、別れたばかりのクリスターさんを想って泣きそうになるのを必死に堪えているうちに、いつの間にか眠り込んでしまった。
 やはり一晩空港で夜明かしなどしたせいで、疲れていたのだろう。
 夢の中では、高校時代に戻った僕が、前を歩いているクリスターさんの背中を一生懸命追いかけていた。
 待って下さいと僕は必死に訴えるが、クリスターさんは立ち止ってはくれず、どんどん僕は引き離されていき、ついには彼を見失ってしまう。
 途方に暮れた僕は、姿の見えなくなったクリスターさんを探してあちこち歩き回るが、見つけ出すことはついにできずに、涙と共に目が覚めた。
(僕ってやっぱり諦めが悪いんだな…クリスターさんに会えて、連絡先まで分かったんだから、それで満足すべきなのに、別れたすぐ後にこんなに取り乱してしまうなんて…)
 僕はぶるぶると頭を振り、頬を両手で叩いて、ともすれば沈みがちな気持ちを引き上げようとした。
 その時だ。
「ダニエル、ダニエル…!」
 馴染みのある大声に名前を呼ばれて、僕は弾かれたように顔を上げた。
 すると、家族や恋人を出迎えに来た大勢の人々の中、一際目を引く赤毛の背の高い青年が、両手をぶんぶんと振り回して、自分の存在をアピールしていた。
「レオ…」
 大きな体をして、相変わらず子供のようだ。僕を見つけて満面の笑みを浮かべているレオに近づくにつれ、僕は、ああ、帰ってきたんだなという実感と共に、安堵の気持ちが胸に広がっていくのを覚えた。 
「お帰り、ダニエル…昨夜はほんとに大変だったよなぁ」
 レオは、尻尾を振りながら駆け寄ってくる大型犬さながらやってきたかと思うと、ぼんやりしている僕を何のためらいもなく引き寄せ、息が苦しくなるほど思い切り抱きしめた。
「…ただいま、レオ」
 衆人環視の場でのこんな真似、普段の僕なら恥ずかしくて抵抗しただろうが、今はほっと力を抜いて、恋人の胸に抱きしめられる心地よさに浸った。
「ともかく、ダニエルが無事に帰ってこられてよかったよ。オレ、昨晩は心配でなかなか眠れなかった。なあ、もっと顔見してくれよ…ああ、やっぱりオレのダニエルは綺麗で可愛いや」
 レオは僕の顔を両手ではさみこんで、うっとりと覗きこみ、ついに我慢しきれなくなったかのように唇を寄せてくれる。
「こらっ…レオってば、もう、ここでキスは駄目だって…」
 僕は、何かと愛情表現のオーバーな恋人を優しくたしなめようとしたが、その時、唐突に僕の目から涙がこぼれおちた。
「あれ…どうしたんだろ…?」
 僕は戸惑いながら、濡れた目元を手でぬぐった。
「ダ、ダニエル…?」 
 いきなり僕が涙など見せたものだから、すっかり動転したレオは、僕の体を支えようとするかのように腕をまわして、心配そうに囁きかけてくる。
「どうした、気分でも悪いのか…?」
「ごめんね、レオの顔を見たら急に涙がこみ上げてきて…気が緩んだせいかな…」
 自分の醜態を笑い飛ばそうとして、僕はしくじった。唇から出る言葉は掠れ、どうしても嗚咽になってしまう。
「向うで何かトラブルでもあったのか?」
 僕は泣き笑いのような顔になりながら、僕を気遣って、不器用でたどたどしい言葉をかけてくるレオに答えた。
「ううん、トラブルなんか、何もない…ただ、今の僕は感情のコントロールがうまくできなくなっているんだ」
 僕は、恋人の実感を確かめるかのように、レオの分厚い胸に頬を押し当て、その腕をぎゅっと掴んだ。
「昨夜はね、懐かしい人と2人きり、何時間も語り明かして過ごしたんだ。今まですっかり忘れていた小さな出来事も、そうしていると不思議と思いだせるものなんだね…昔あの人と過ごした日々は、楽しいことも嫌ことも含めて皆、僕にとって大切な思い出で…それらが生き生きと蘇ったような、とても楽しい一夜だったんだ。でも、あの人はまた行ってしまった…僕の行かれない世界に戻ってしまった」
 レオには何の話かさっぱり分からなかったろうに、取り乱す僕をあえて追求することはなく、ぎゅっと抱きしめながら、僕の気持ちが落ち着くまで辛抱強く待ってくれた。
「…ごめんね、レオ…僕は今、変なことばかり言ったりしたりしている…」
 ようやく発作的な気持の高ぶりがおさまった僕は、レオの腕からそっと身を引いて、照れくさくなりながら微笑みかけた。
「ダニエル…」
 レオは一瞬尋ねたそうな素振りをしたが、やはり情緒不安定な僕を心配してか、質問攻めに合わせようとはしなかった。
「そんな遠慮なんかすんなよ。ダニエルはオレにとって特別な人なんだ…年上だからって、苦しい時まで無理しないで、もっと甘えたり泣いたりしてくれていいんだぞ」
 レオは僕の頭を両手でくしゃくしゃと撫でくりまわしながら、大きな口を開けて、お日様のように明るく笑った。
「レオ」
 えい、この際もう人目など気にするものか。ホモのカップルがいちゃいちゃ、べたべた、見苦しかろうが、それがどうした。
 感極まった僕は、レオの腕を掴んで背伸びしながら、その頬に軽くキスをした。
「大好き…愛してるよ、レオ」
 めったにこんな直截的な言葉をかけたりしない僕の告白に、レオは一瞬固まり、それから顔をぱっと赤くした。
「さあ、早く帰ろうよ…今日は約束通り、僕の傍にずっといてくれるよね、レオ?」
 僕がはにかみながらちょっと甘えた調子で囁くと、レオはやけに真剣な面持ちをして、僕の差しだした手をぎゅっと握りしめた。
「もちろんだよ…オレはずっと傍にいる、どこにも行かないからさ。安心して、家に戻ったら少し眠れよ、ダニエル…」
「うん…」
 ああ、僕があんなことを口走って泣いたものだから、ただでさえ過剰なレオの庇護欲を変に刺激してしまったようだ。
 建物から外に出ると、昨夜のデトロイトほどではないが、道路には溶けきっていない雪がたくさん残っていた。空を仰ぐと、灰色の空からはちらちらと雪が舞い降りてくる。
 クリスターさんはそろそろロンドンに着いた頃だろうか。あの人が彼の地で見る空は、どんな色をしているのだろう。
 目を閉じれば、僕が今朝目覚めた時、白く霞むウインドウの前に腕を組んで佇んで、何かに思いを馳せていたクリスターさん―僕にはついに追いつけなかった遠い世界で、様々な困難や試練を乗り越えてきた男の自信と矜持に満ちた姿が鮮やかに浮かび上がる。
 今度はいつ、僕はクリスターさんに会えるだろうか。数カ月後、あるいは数年後―クリスターさんが戦うことに今度こそ飽きた時、それとも疲れて羽を休めに戻ってきた時だろうか…?
 あの人の無事を祈りながらその日を待つことは、でも、今はそれほど辛くはない。
 僕がずっと願い続けてきたように、クリスターさんは愛する人と共に、自らの意思で選んだ幸せな人生を送っているのだ。そして、この僕も―。
「ダニエル、車を止めてある所に着くまでに冷えちまいそうだから、これ、貸してやるよ」
 駐車場に向かって凍った道をぼんやりと歩いている途中、レオは薄着の僕を風邪をひきそうだと見かねて、自分のマフラーを外しぐるぐると僕の首に巻いてくれた。
「ありがとう、レオ」
 そうだ、クリスターさんに向かって宣言したように、僕は今、すごく幸せなのだ。
 僕が微笑みながら振り仰げば、温かく優しい目で僕を見つめ返し、差し出した手をしっかりと握りしめてくれる、大切な人が傍にいる。
 僕はレオと一緒に彼の車に乗り込むと、本格的にまた雪の降り始めた空港を後にし、2人で過ごす温かい家に向かった。
 道中僕が、取り留めのないレオの話に耳を傾けながらうとうとすることはあったけれど、僕の前から再び去ってしまったあの人の背中を追いかける夢を見ることは、もう二度となかった。
 
 
 
(さよなら、僕の初恋の人)



BACK

INDEX