初恋
二
チェスの試合で負けた後も、周囲の予想や期待を裏切って、僕はクリスターさんにまつわりつくのをやめなかった。
それどころか、全く興味のなかったフットボールの勉強まで始めて、クリスターさんとのつながりを保とうと必死になっていた。
ブラック・ナイツの試合は必ず見に行ったし、テレビで放映されるプロやカレッジ・リーグの試合もまめにチェックするようにした。たとえ僕が選手としてフットボール・チームに入ることは不可能でも、クリスターさんが夢中になっているものを好きになることで、少しでも彼に近付くことができるような気がしたのだ。
クリスターさんはと言えば、僕を遠ざけることはもう諦めたのか、そのことについては何も言わなかった。
実際、僕はそれほどクリスターさんに煙たがられているという気はしていなかった。
僕が傍にいることにクリスターさんも慣れてきたのだろう、初めの頃のような取っつきにくさはなくなっていたし、ふとした時、僕に無防備な表情を垣間見せることさえあった。
クリスターさんにとって僕は、無害で可愛い子犬のような後輩に過ぎなかったから、心の内を見透かされるのではないかと警戒することもなかったのだろう。言いかえれば、僕をちょっぴり見くびっていたのだ。
僕は、クリスターさんの傍では、何も聞こえていないふりや気づいていないふりをよくした。でも、実際には、クリスターさんをいつも見ているうちに、僕は、あの人の言葉や行動の裏に隠された心情にも次第に気づくようになっていたのだ。
クリスターさんは、とにかくレイフさんと仲がいい。双子だから普通の兄弟以上に絆が強いのだと周りも勝手に解釈しているけれど、寄り添って話に熱中している時の2人には誰も入り込めないような独特の雰囲気があって、それが時として友人達を不安にさせる。
微妙な空気を読むのが苦手なレイフさんは気付かない、周囲からの冷やかな視線―けれど、そんな時、敏感なクリスターさんはふいに我に返って、弟から離れ、他の仲間達の話の輪に入っていく。チーム・メイトに訳もない疎外感や嫉妬を覚えさせるのはまずいと思うのだろう。
何もかも同じに生まれ、あらゆるものを共有して育ち、フットボールも子供の頃から一緒にしてきて、共にプロになるという夢を追っている双子の兄弟。
そうは言っても、そろそろお互いから離れて自立するべき年だ。レイフさんが望むように2人が将来確実にプロになれるという保証はどこにもない。
だから、クリスターさんはクリスターさんで、もっと現実的な進路を考えているそうだ。医者や科学者、弁護士や企業家…言っていることは、いつも違うけれど…。
なかなか兄離れのできない甘ったれのレイフさんを、クリスターさんは口や態度では冷たく突き放そうとしている。でも、自立するという点に関しては、これまで一度も成功していない。
だって、他でもないクリスターさん自身が、レイフさんをどうしても手放したくないのだ。離れることなど、はなから無理な話ではないか。
レイフさんが傍にいるだけで、クリスターさんの冷たい瞳は生き生きと輝き、その声にも隠しきれない喜びがにじむ。友人達の内の誰と話す時よりも自然で、心からくつろいでいる。
そうだ、クリスターさんは他の誰よりも、何よりも、レイフさんが大切なのだ。クリスターさんが今まで付き合ってきた恋人やガールフレンド達よりも、ずっと弟のことが可愛い。
ブラザー・コンプレックスもここまで至ると病気の域ではないかと、さすがの僕もちょっとがっかりした。でも、仕方がない、それが、僕の好きになった人なのだから。
あそこまでクリスターさんに想われている、レイフさんが羨ましくなかったと言えば、嘘になる。でも、彼の代わりになろうなんて、僕はこれっぽっちも考えていなかった。
それでも、ある事件をきっかけにレイフさんの知らない秘密をクリスターさんと共有できたことに関しては、ささやかな優越感に浸らせてもらった。
校内を密かに牛耳っていた悪党J・Bとクリスターさんの間で、苛烈な闘いが勃発したのだ。J・Bとその一味に対抗するため、クリスターさんはいつの間にか新聞部の連中と手を組み、動き始めていた。
当初クリスターさんには、僕をJ・Bとの危険な闘いに関わらせるつもりは全くなかった。クリスターさんの不審な行動を怪しんだ僕が、彼が新聞部の連中と何をしているのか突き止め、強引に頼み込んで仲間に入れてもらったのだ。
そうして僕は、クリスターさんと怪物J・Bの闘いを間近でつぶさに眺められる立場を手に入れ、その過程で、僕はクリスターさんのレイフさんに対する執着の凄まじさに改めて気づかされていった。
レイフさんを取り戻すため、クリスターさんがJ・Bのアジトに単身乗り込んで一騎打ちをした経緯については、僕は直接関係した訳ではなく、その場にいたアイザックに後から教えてもらっただけだ。
それでも、レイフさんのためだけに、そこまで常軌を逸した行動に出てしまう、自分の命さえ躊躇もなく賭けてしまう、クリスターさんの心を測りかね、僕はしばらく悩んだ。
アイザックにも何度か尋ねてみたが、クリスターさんの右腕として絶対の信頼を勝ち得ているように見えた彼にすら、自らのリーダーと仰ぐクリスターさんの異常な行動は理解できず、それどころか少し腹を立てているようだった。
一枚岩であった僕達の間に亀裂を生じさせるのではないかと危惧するくらい、クリスターさんのレイフさんに対する気持ちは、突出している。あれは、一体、何なのだろう…?
クリスターさんは、レイフさんが傍にいるととても幸せそうで、そのくせ、どこか辛そうにも見える。相反する二つの感情に引き裂かれようとしているかのようなクリスターさんの姿に、ある時僕は、はっと思いついた。
きっかけは、アイザックが僕をこんなふうにからかったことだった。
『おまえは、クリスターの傍にいると目をきらきら輝かせて幸せそうで、そのくせちょっと寂しそうな何とも言えない顔をしているよな』
そうだ、クリスターさんがレイフさんを見る眼差しの切なさは、僕があの人を目で追う時の切ない気持ちに重なるような気がする。
だとすれば、あの人が引き裂かれそうになっている感情が何なのか、僕にも理解することはたやすい。
クリスターさんは、レイフさんを愛している。命がけで愛している。
でも、それはこの世界では決して許されない想いなんだ…。
十年ぶりに再会したクリスターさんの胸は、僕の記憶にあるより逞しく厚みを増していて、仄かな煙草の香りがした…。
空港で捕まえた相手が本当に本物のクリスターさんだと分かった途端、僕は完全に舞い上がってしまい、彼が話しかけてくれた言葉に対する答えもしどろもどろで要領を得ないものになってしまった。
結局、どこか落ち着いた場所で話そうということになり、ぼうっとしてしまった僕の代わりに、クリスターさんが階段の下に落ちていたアタッシュ・ケースを拾いに行ってくれ、そうして今、空席を見つけて入ったカフェで僕は彼と向き合う形で座っている。
(ああぁっ、久しぶりの再会なのに、すごくみっともない所を見せちゃった…高校時代から成長していない奴だなと思われたんじゃないだろうか…?)
なかなか動悸の静まらない胸をもてあましている僕とは対照的に、クリスターさんは落ち着いた態度で注文を取りに来たウエイトレスにコーヒーをオーダーしている。僕もとっさに同じものを注文したのだが、その間ウエイトレスはクリスターさんの顔ばかりうっとりと眺めていて、僕など見向きもしなかった。
(気持ちは分かるけれどね…学生の時から女の子にもてた人だけれど、今はまたぐんと男っぷりが上がったもの…精悍な外見とは裏腹の知的で落ちついた態度や物腰…どこか危険な香りがするって、この雰囲気に、きっと多くの女性達は参ってしまうだろうな。まともに見られると射すくめられそうな力のある目も、低く艶のある声の響きも…そう、すごくセクシーだ…)
あんまりじろじろ見るのは失礼かと思ったが、僕の目はどうしてもクリスターさんに釘づけになってしまい、昔と変わらぬ部分、変わった部分を探し求めた。
ブラック・ナイツの黒いユニフォームによく映えた、鮮やかな紅い髪は、今は肩よりも長く伸ばされていて、高校時代とはまた違う印象だ。
もともと着痩せする人だったし、上背がある分、今でも筋骨隆々のマッチョという印象ではないけれど、その肉体から発せられる力は圧倒的で、傍にいると男の僕でさえ、何だか自分がひどく非力でか弱い存在のような気にさせられてしまう。
そのうち先ほどと同じウエイトレスが戻ってきて、コーヒーを二つテーブルの上に置いていったが、やはり今度もクリスターさんにばかり気を取られていて、こんなにも舞い上がっていなかったら、僕はきっと一言注意してやったことだろう。
クリスターさんは、温かい湯気の上がるコーヒーのカップを持ち上げて一口飲む。その指の長い手がしなやかに動くのを見守るうち、僕はふと、彼の指の皮膚の一部が固く変色していることに目敏く気付いた。
(何だろう、ペンだこじゃないよね…?)
そう言えば、どこかで、日常的に銃を扱っていると手に射撃だこができるという話を聞いたことがあった。これもクリスターさんが軍隊生活をしていた頃の名残なのだろうか。
でも、クリスターさんがレイフさんと共に軍隊をやめたのは、もう随分前の話のはずだ。今は一体どこで何をして暮らしているのだろうと、激しく興味を掻き立てられた。
「あの…」と、口を開きかけたものの、つい気持ちがくじけて、僕は黙り込んでしまう。
クリスターさんの印象からは、僕と同じような普通の会社に勤めている姿も、ましてや結婚して平和な家庭を築き、子供が生まれて、穏当に暮らしている姿など、どうしても想像できない。僕にとっては当たり前の日常とはかけ離れた別世界―危険で過酷な、命がけの日々を当たり前にして生きているような気がした。
(クリスターさんは今、何をしているんですか…そう尋ねてみればいいだけなのに、何を躊躇っているんだろう、僕は…?)
別に、クリスターさんが指名手配中であるとかいう、ろくでもない噂を信じたわけではないが、本人の口からどんな答えが返ってくるのか、ちょっと怖かったのだ。
「ダニエル」
クリスターさんにいきなり呼びかけられた僕は、奇妙な程うろたえながら、顔を上げた。
「どうしたんだい、さっきは私を見つけたと言ってあんなに大騒ぎをした君なのに、今は随分おとなしくなって…もしかして緊張しているのかな? 私は、昔に比べて、そんなに変ったかい?」
僕が返事に窮して黙りこんでいると、クリスターさんは困ったように微笑みながら、首を傾げた。
「どういう訳か、初対面の人間に、私はよく恐がられるんだよ。別にそんなつもりはないんだけれど、相手を無意識に威圧してしまうみたいなんだ…いつだったか、フライトの最中、隣の座席にいた子供が私と目があった途端泣き出してね。後ろに座っていたレイフが話しかけて宥めたら、すぐに泣きやんでくれたんだけれど、あれには、さすがに少々へこんだよ。過酷な仕事を続けてきたのがいけなかったのか、私はいつの間にか、むやみやたらと人を恐がらせる凶悪な顔になってしまったのだろうかと…君の様子を窺いながら、そんなことを思い出していたんだ」
「ち、違いますよ、クリスターさん、僕は別に怯んでなんかいないですから」
僕は慌てて、手を振り回しながら、クリスターさんに言い返した。
「ただ、そうですね…やっぱり、ちょっと緊張していたんです。だって、すごく久しぶりだったから、どんなふうにあなたに話しかけたらいいのか分からなくて…それに、別にクリスターさんは強面になんかなってないですよ。確かに、高校時代に比べれば雰囲気は少し変わったし、迫力も増したけれど、とても…魅力的な大人の男性になったと思います」
そう言った途端、僕は、今の自分がこの人の目にどう映っているか、無性に気になりだした。僕だって、高校時代とはかなり変わっているはずなのだ。相変わらず細身だけれど、背だって随分伸びたし、それなりに世慣れした雰囲気の大人の男になっているはずだ。クリスターさんが可愛がってくれた、小賢しくて生意気な、初恋に目を輝かしていた純真な少年は、どこにもいない。
(クリスターさんは素敵になったけれど、僕はどうなんだろう…ううん、レオは僕のことを、すごく綺麗だって褒めちぎるけれど、僕に関する限り、あの子の目には薔薇色のフィルターがかかっているみたいだから、あてにならないし…今のクリスターさんと引き比べると、どうにも自分が貧相に感じられてくる…)
クリスターさんの傍にいる多くの男達が程度の差はあれ覚えるだろう、軽い嫉妬と劣等感に苛まれた僕は、小さなため息を1つついて、苦笑の混じった目を怪訝そうなクリスターさんに向けた。
「すみません、僕は僕で、気になっていたんです。10年ぶりに再会した僕は、あなたの目に一体どう映っているんだろうって…僕があのダニエルだとあなたが気づくのに、少し時間がかかりましたよね…僕ももう26才にもなっているんですから、当たり前のことなのかもしれないだけれど、相手があなただから、再会してがっかりしたなんて思われていないか、心配になります。どうです、昔の面影は、少しは残っていますか…?」
僕の声は思いのほか不安そうに響いたのかもしれない、クリスターさんは冷たく冴え返った琥珀色の双眸を和ませて、言った。
「君は、自分が思っているほど変わってはいないよ、ダニエル…少なくとも、君が心配するような意味ではね」
「そうですか…?」
そう言われて僕が少し安心したのは事実だが、同時に、それはあまり成長していないという意味なのかと考え込んでいると、クリスターさんは素早く付け加えた。
「私を見る目が、昔と同じなんだ。だから、さっき君の瞳を間近で覗きこんだ瞬間、ああ、あのダニエルだとすぐに思い至った。そんなふうに私をまっすぐに恐れ気もなく見つめられる人間には、この頃、出会ったことがないから…そうだね、君の瞳を見ていて、私は、忘れかけていた、昔の自分につながる何かをそこに見つけたような、不思議な衝撃を覚えたよ」
ゆったりと微笑んで、クリスターさんは僕を見つめながら、懐かしげに目を細めている。初めの内少し感じられた余所余所しさは消え、すっかりくつろいでいるクリスターさんを見ているうちに、僕も緊張が解けていくのを感じていた。
2人とも、こうやってぎこちないながらも言葉を交わしていくうちに、少しずつ昔の勘を取り戻してきたのだろう。
僕は、僕に向けられたクリスターさんの瞳を見つめる。すると、彼が言ったように、その内に確かに、かつての自分―一途にこの人を追いかけ、傍にいられる幸せを噛みしめていた小さな少年の面影が映っているのに気がついた。
そうだ、あの頃の僕とクリスターさんは、いつもこんなふうに言葉を交わしていたのだ。
崇拝する憧れの先輩を相手にしていても、生来鼻っ柱が強くて自分の意見を曲げることの嫌いな僕は、言うべきことははっきりと言っていた。時に、僕の鋭い指摘はクリスターさんにとって痛い所を突くこともあったようだけれど、彼はむしろ、そんな僕の率直さを喜んでいたような節があった。
クリスターさんには、崇拝者は多かったけれど、深い話をすることのできる、対等な友人や仲間は少なかったからだろう。
今思えば僕は、ひたすらクリスターさんの後ろを追いかけているつもりで、いつの間にか、その懐に深く入り込んでいたのだ。レイフさんと比べる余地などなく、全てを許された訳でもないけれど、この人の心は僕の手の届く所にあった。
僕は、それだけで十分幸せだったし、満足していた。決して、それ以上を望んだ訳じゃない。
そう、クリスターさんの『恋人』になんて、僕はなりたくなかった…。