初恋


 浅い夢だから―今も、胸を離れない…。



「うん、そういうこと…結局、今日のフライトは全便キャンセルになって、今夜はここに足止め…空港で一晩過ごすことになるかなぁ。仕方ないよ、この大雪だもの」
 僕は、大きなガラス窓の向こうの雪に降りこめられた滑走路を眺めやりながら、深いため息をついた。
予定より長引いた仕事を終えてやっとアムステルダムに帰れることになったのに、いきなり経由地のデトロイトで足止めだなんて、全くついてない。
 この時期のアメリカ北東部にはよくあることなのだが、殺気立った大勢の乗客達でひしめく空港内に長時間留まるのは、何度経験しても気持ちのいいものではない。
『ダニエル…おい、聞いてるのかよ、ダニエル!』
既に長時間フライトを待ち続けて疲れていたためか、ついぼんやりしていた僕は、携帯電話の向こうの恋人が大声で呼びかけるのに、我に返った。
「ああ、聞いているよ、レオ」
 僕は搭乗ゲート前の椅子の一つに腰を下ろし、昔傷めた左脚を手で擦りながら、落ち着いた声で答えた。
『明日はダニエルの誕生日だから、2人でお祝いしようって約束だったのにさ…いや、天気ばかりはどうしようもないんだけれど―でもさ、ダニエル、そのまま空港で一晩待つなんて大変じゃないのか…? ホテルとか取れないのかよ?』
 五つも年下の恋人の堪え性のなさに苦笑しつつ、僕は辛抱強く言い聞かせた。 
「取れないことはないと思うけれど、ここで足止めされている全員が付近のホテルを取ろうとするとしたら、空きを見つけるのは至難の業だよ。明日はできるだけ早い便に乗りたいし、あんまり空港から遠く離れた不便なホテルに泊まるくらいなら、いっそ一晩ここで夜明かしした方がましかな。まあ、一応、電話で問い合わせくらいはしてみようと思っているよ。でも、まず明日の朝の代替便に乗れるよう手続きもしないといけないし…僕なら大丈夫だよ。こう見えても、仕事であちこち飛び回ってきて、旅先でのトラブルには慣れているから」
『ああ、オレ、こんなことなら、ついていきゃよかった。ダニエルの顔早く見たいのに、我慢しなきゃいけないなんてさ、がっかりだよ』
「馬鹿。僕は仕事でこっちに来ているんだよ。のんびり冬休み気分の学生の君とは違うんだから…ともかく一度切るよ。明日の何時の便で帰れるかちゃんと分かったら、また電話をするからね」
 素っ気ない口調で僕が言うと、レオは黙り込んだ。子供のような脹れっ面をしているのが目に浮かぶようだ。
「レ―オ、レオ…ほら、こんなことくらいで、むくれるのはやめろよ。僕だって、早く君に会いたいのは同じなんだからさ。大丈夫だよ、いくらなんでも明日中には帰れるだろうから、僕の誕生日を祝ってくれるのは、それからでも遅くないだろ?」
「そ、そうだな…」
 僕の甘い言葉に、レオはたちまち機嫌を直して、明るい声で返してきた。
 単純と言おうか、可愛いと言おうか…年下だから仕方ないのかもしれないけれど、たまに、恋人のこういう所が物足りなく感じることもある。
 僕は更に二言三言、レオと短い言葉を交わした後、携帯電話を切った。
 大学生のレオとは、付き合い初めてまだ半年足らずだ。夏休み中、インターンとして僕の会社に出入りしていた頃に知り合った。
 炎のような紅い髪が目を引く、大柄なスポーツマン・タイプのハンサム。黙っていれば知的にも見える綺麗な横顔の印象といい、器用に動く指の長い手といい、あの人をどこか思い出させて、僕はレオに惹かれた。
 そうして、何くれと気にかけているふうを装って親切にし、どうやら彼が、経験はそれほどなくても同性愛を受け入れるくちだと確認してから、僕の方から誘惑した。
 付き合いだすと、意外に子供っぽくて騒がしくて、おおらかと言うより大雑把で、僕の理想のあの人よりも、むしろ、その弟のタイプだということに気付かされたが、それでも、ひたむきに僕を慕ってくれている純粋さは、とても愛しい。
 若いレオほど素直ではない僕は、なかなか、彼のそんな所が好きなのだと言ってあげられないのだけれど。
 むしろ、こんないい子に自分の理想を押し付けてはいけないと思いながら、外見が似ているので、ついついあの人と比較してしまう。
(僕が昔付き合っていた人は、君に少し似てたんだけれど、物凄く素敵だったんだよ。思わず見惚れてしまうくらいにハンサムだったし、スポーツでも勉強でも何をやらせても一流で、僕は尊敬していたし、こんなふうになれたらと憧れた。とにかく文句がつけようがない、パーフェクトな人だったんだ)
 そんな仕様もないことを、僕がことあるごとにぽろりと漏らしてしまうせいか、レオは、会ったこともないあの人を『伝説の彼氏』と呼んで、ライバル心を燃やしている。
(伝説の彼氏かぁ…変なことをレオの頭にすりこんじゃったな。僕が、あんまり手放しであの人を誉めちぎるからいけないんだけれど…)
 僕はちょっと考え込むと、ポケットから取り出した革財布を開いて、そこに入れてある、一枚の古い写真を引っ張り出した。
(いつまでもこんな写真を財布に入れている時点で、僕は恋人失格だよね。レオに見つかったら、殺されちゃうかな…?)
 長い間肌身離さず持ち歩いているせいで、少々傷みかけている写真の中央には、黒いフットボールのユニフォームに身を固めた1人の若者が佇んでいる。
 すっと背筋の伸びた美しい立ち姿から放たれる、人の目を引き付けずにはおかない、強烈なオーラ。
 その横顔は厳しく引き締まり、どこか一点を鋭く見据えている。試合開始前の緊迫した場面、勝利を勝ち取りに行くため、ひたすら神経を集中し、身の内にたぎる力を制御しようとしているのだろうか。
 あの人がハンサムだということは昔から知っている僕だけれど、ここに写った若者の姿にははっと胸を突かれた。
 単なる容姿の美しさ以上の何か、一つの目標に向かって努力し、自身をひたすら高めようとしている孤高の精神の醸し出す強さや誇り、気品までもが、この若者には備わっている。
 完璧なる青春。この写真を見る度、思わず、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
 そう、これは、たぶん誰もが経験しているはずなのに知らぬ間に通り過ぎている、あの青春の輝かしい肖像なのだ。
「クリスターさん…」
 唇から洩れる僕の声は、小さく震えた。十年も前に別れたきりのあの人を思う時、僕の胸は今でも切なく締め付けられる。
 近くでノートパソコンを叩いていたビジネンマン風の男が怪しむようにこちらを振り返ったので、僕は慌てて写真を財布の中に戻し、椅子から立ちあがった。
(クリスターさん、僕は、いつか必ずあなたに追いついてみせます)
(ああ、待っているよ、ダニエル)
 高校時代、大怪我をしたため、学校をやめてロンドンの両親のもとに行かなければならなくなった僕を、クリスターさんは空港まで見送りに来てくれた。その時、僕達は、いつかもう一度会おうと約束を交わした。でも、それは、ついに叶えられることはなかった。
 ハーバードに進学したはずのあの人は、一年もたたないうちに中退して、よりにもよって陸軍に入ってしまったのだ。
(あの時は、ショックだったな…僕はイギリスの高校を卒業したら、クリスターさんを追って、ハーバードに入るつもりでがんばっていたんだから…どうして陸軍なんかにって、ほんの少しあの人を恨みさえした。だって、僕がどんなに努力したって…軍隊に入ることばかりは、無理だったんだ。少しでも見込みはないかと調べてみたけれど、脚に障害のある僕には、入隊の資格は得られそうになかった。そう、僕は、クリスターさんを追う夢を断念するしかなかった)
 全便欠航が決まった今、先程までいたゲート前の待合室に人気はなかったが、ロビー付近は、家族や職場に連絡を入れるために電話の前に並んでいたり、明日の代替便の手続きのために航空会社のカウンターの前にひしめき合ったりと、とにかく大勢の人で混み合っていた。
 僕はふと立ち止まって、傍を落ちつかなげに行き交い通り過ぎていく、見知らぬ人々を眺めやった。
(あれから十年も経つのに、僕は今でも、すれ違う大勢の人達の中にあの人の姿が見えないか、つい目で探してしまうんだ。もしかしたら、どこかでばったりと出会うことがあるんじゃないかって…)
 クリスターさんが今どこで何をしているのか、僕には確かめる手掛かりすらない。レイフさんと共に陸軍で活躍したという話は聞いたが、やがて除隊し、その後については真偽も怪しい、嫌な噂がちらほら耳に入ってくるくらいだ。
(一度軍隊をやめたものの、結局また傭兵になって、どこかの国の戦場に駆り出され、生きているのか死んでいるのかも分からないとか…アメリカでは指名手配されているとか…いや、除隊後は普通に大学に行って、事業を興してうまくやってる、今じゃ結婚して子供までいるなんて話もあったけれど、ううん、それはそれで信じたくないような気もするな) 
 少なくとも、レイフさんと今でも一緒にいるのは間違いないだろう。どんな形であれ、あの人は、あれほど愛した相棒の傍らで今でも幸せに生きていているのだと僕は信じる―そうだ、もしかしたら、真実など知る必要はないのかもしれない。
(ダニエルは『伝説の彼氏』の思い出を美化しすぎてるんだよ。現実の人間が、そこまで完全無欠でキラキラ輝いているはずないじゃないか、ありえねぇよ。大体さ、若い頃は素敵でも、十年もたった今は人変わりして、案外腹の出たおっさんになってたりして―)
 クリスターさんにやきもちを焼いたレオは、こんなふうにぼやいて、僕はひどく怒らせたことがある。
 確かに、少しは美化もしているだろう。クリスターさんは、深く付き合おうとするにはなかなか難しい人だったし、僕だって傷ついて辛い思いもしたはずなのに、今となって思い出すのは、あの人の素晴らしかった点ばかり、傍にいられて幸せだったという記憶ばかりだ。
(レオの言う通りだよ…クリスターさんのことが忘れられない僕だけれど、もしも今、突然あの人に会えるとなったら、きっと怯んでしまう。会いたくないとさえ思うかもしれない。それは、僕の胸と写真の中に残るクリスターさん、あの『完璧な青春』のその後を知るのが恐いからなんだ…)
 クリスターさんは、僕が初めて好きになった人だった。
 あんなふうに人を愛したのは、最初で最後…レオのことは大好きだけれど、クリスターさんに対する想いは特別で、たぶん一生これを超える恋をすることはないと思う。
(だから、会いたい。だから、会いたくない…)
 明日の朝の便の搭乗手続きをやっとの思いで済ませた僕は、殺気立った客達にもまれたせいで更にげっそりしながら、食堂のある階へとエスカレーターで上っていた。
(この分だと、どこの店も混んでいそうだけれど、とにかくコーヒーでも飲んで一息ついてから、もう一度レオに電話しよう)
 さっきは邪険にしたけれど、殺伐とした気分を紛らわせるために、恋人の温かい声を聞きたいと僕は心から思っていた。
(あ、免税店でさっき見た腕時計、レオに買ってあげようかな…そんなに高くなかったから、学生の彼がつけても嫌みじゃないし、僕も同じデザインのものを買ってペアにしたりしたら、彼のことだからすごく喜んだりして…)
 そんなことを取りとめもなく考えながら、僕は何気なく顔を上げて、エスカレーターの向かう先に見えてきたフロアーの方を眺めやった。
 大勢の搭乗客達がそこでも歩きまわっていたが、僕の視線は、こちらに近づいてくる1人の男に吸い寄せられた。
いかにも強靭そうな大柄な体。しなやかで無駄のない身のこなし。その姿は、ゆったりと密林を歩く野生の虎にも似て、優雅でありながら、秘められた圧倒的な力で辺りを払うかのようだ。
 何よりも、男の広い肩にかかった長い髪の鮮血を思わせる色彩が、僕の目を鋭く射抜いた。
(あっ…)
 たちまち溢れだした記憶の奔流。それと共に、セピア色がかった古い写真のようだった思い出が、急に生き生きと鮮やかな色彩を取り戻して動き出し、僕に迫る。
 名状しがたい怪しいめまいに襲われて、僕は、とっさにエスカレーターの手すりにつかまった。
(こんな瞬間を想像したことなら、何度もある)
 あの人が近くに来たら、僕にはすぐ、それと分かるよ。
 その時どんなに大勢の人達が周りにいても、そんな有象無象にあの人が紛れ込んでしまうはずがない。モノトーンの世界の中、あの人の姿だけがまるで原色で描かれたような鮮やかさで、僕の目を捕え、釘づけにするはずだから―。
(ああ、でも…でも、まさか本当に…)
 衝撃のあまり息もできないでいる僕のすぐ脇を、紅い髪の男は風のようにすり抜けていく。
 カツン、カツン…。エスカレーターの隣の階段を叩く硬質な靴音が、これは夢ではない、現実なのだと僕に知らせ、激しく胸を揺さぶった。
(本当に、あなたなんですか…?)
 エスカレーターはすぐにフロアーにたどりついたが、僕はとっさに動くことができず、後から来た乗客に文句を言われながら、脇に押しのけられた。
 そこでやっと身動きできるようになった僕は、エスカレーターの隣にあるその階段の上に立って、男の姿を改めて目で確認した。
 本当に、そこにいた。
 男は、シンプルな黒のセータを身につけ、グレーのコートを腕に軽く引っかけて、滑るように階段を下りていく。その背筋のすっと伸びた後ろ姿に、僕は確信した。
「ま、待って…」
 彼を追って階段を駆け下りようとし、僕は躊躇った。
 障害のある左脚を庇って、僕が階段を使うことはめったにない。普通に歩く分には差し支えはなくても、急いで階段を駆け下りるのは、なかなか勇気がいった。しかし―。
「待ってください…!」
 迷っている間にも、あの背中はどんどん遠くなっていく。焦りを覚えた僕は、思い切って階段に足を踏み出し、可能な限り急いで下りて行くことにした。
 ぐらぐらと揺れる体を手すりで支え、もう片方の手でアタッシュ・ケースを振り回しながら不器用に階段を下りる僕の姿は、はたから見れば格好のよいものではなかったろう。
(不格好でもいい…とにかく、僕はあの人を捕まえなきゃならないんだ…!)
 全く、十代の子供じゃあるまいし、何をやっているんだろうと自分の奇行に呆れながらも、僕の胸は高鳴っていた。
(あ、そう言えば、昔…これと似たようなことがあったな)
 本当ならものを考える余裕などないはずの切羽詰まった状況にもかかわらず、唐突に、僕の意識は遠くに飛び、高校時代の出来事を思い起していた。
 もう十年以上も前の懐かしい記憶。
 まだ本当に子供だった僕が、ひたむきに、純粋に、あの人の後ろ姿を追いかけていた日々のことを―。



 
「何だよ、おまえ?」
 フットボール・チームの部室のドアを開いて、怪訝そうに僕を見下ろす赤毛の上級生に、僕はちょっと怯んだ。
 アーバン高校の新入生だった僕は、この日、かつてアマチュア・チェス界で天才児と騒がれたクリスター・オルソンの噂を聞きつけて、チェスの試合を挑むべく、クラブ・ハウスまで彼を訪ねて行ったのだ。
「あの…ク、クリスター・オルソンさんですよね…?」
 僕が蚊の鳴くような小さな声で確認すると、上級生はぱちっと瞬きをして、値踏みでもするかのように僕をしげしげと眺めた。
 その顔は、確かに家にあるチェス雑誌の写真の少年と同一人物だと思われたが、撮影当時に比べて、ぐんと大きく逞しく成長したようだ。むしろ、成長しすぎと言おうか…。
(まさか、あの賢そうな美少年がこんな大男になっているなんて…もうちょっと違う雰囲気の人を想像していたんだけれどな。チェス界の王子というより、僕の苦手なマッチョな体育会系じゃないか。これはあてが外れたかなぁ…)
 僕が俯いて密かに落胆を噛みしめていると、赤毛の上級生は、いきなり後ろに向かって大声を張り上げた。
「おおい、クリスター、おまえに客だぜ」
 僕はえっとなって、顔を上げた。すると、目の前を塞いでいる上級生の後ろから、また別の、しかしとてもよく似た声が聞こえてきた。
「誰が、この僕を訪ねてきたんだって、レイフ?」
「分かんないよ。見たこともない、ちっちゃな可愛い下級生だよ」
 僕がむっとして言い返そうとしたら、もう1人、僕が話していた上級生と同じ顔をした青年が部屋の奥から姿を現した。
「ええっ、嘘っ?!」
 思わず喫驚の叫びをあげてしまったくらい、目の前の2人はそっくりで、僕を訳もなく不安にさせたほどだった。
 しかし、よく見れば、2人の違う点が分かってきた。初めのいかにも体育会系のからっと明るい上級生に比べて、同じ顔でも、後から現れた方は、知的な雰囲気の面差しと思慮深く涼しげ目の印象が、写真の少年のそれと重なった。
(そうか…クリスター・オルソンが双子だなんて、雑誌には載ってなかったけれど、ともかく、こっちが僕の目指す相手なのは確かなようだ)
 束の間呆然となっていた僕だったが、目の前の事態を正しく認識するや居住まいを正し、大きく息を吸いこんで、堂々と言い放った。
「僕はチェス・クラブの部長のダニエル・フォスター。あなたは、2年前全米チェス・チャンピオンに輝いたクリスター・オルソンですよね? 僕は、あなたに試合を申し込むために来たんです」
「…このガッコにチェス・クラブなんかあったっけ?」
 首を傾げて呟いたのは、同じ顔をした弟の方だ。
「作ったんですよ、僕が…まだ部員も少ないけれど、これからどんどん部員を勧誘して、大きなクラブにしていくつもりです」
 胸を張って答えた僕に、クリスターさんは特に感銘を受けたふうもなく、冷たく無関心な目を向けて言った。
「ふうん、それで、僕との試合なんてイベントを目論んだ訳だね。でも、残念ながら僕は、2年も前にチェスはきれいさっぱりやめた身なんだ。今更誰かと試合をする気は皆無だし、ましてや部員集めのため、君に利用されるほど暇でもお人よしでもないよ」
 クリスター・オルソンに挑戦したいという気持ちは本当だが、同時にそんな計算も働かせていた、胸の内を見透かされたようで、僕はぎくりとした。
「レイフ、その子を部室に入れるなよ。今から大事なミーティングなんだから、部外者に邪魔をしてほしくない」
 言うべきことはがつんと言ってやったとすぐに部室の中に引っ込もうとするクリスターさんに、僕は慌てて取りすがろうとした。
「ま、待ってください!」
 しかし、そんな僕を彼の弟が軽く押し返し、ふざけた口調で言い聞かせる。
「そういうこと〜。残念でした、あきらめな、ちっちゃいの☆」
 こんな具合に、双子は僕を簡単にあしらって、ぴしゃんとドアを閉じてしまった。
 言いたいこともほとんど言えず、腹が立つやら悔しいやらで、僕はドアの前で1人身悶えした。
 (正々堂々真正面から申し込んだのに、あんなふうに邪険に追い返されてしまったなんて屈辱だ。こうなったら、クリスター・オルソンが折れるまで、試合を申し込み続けるぞ)
 そうして、粘り強さには自信のある僕は、一度拒否されたくらいではめげず、クリスターさんが学校にいる間中付きまとい続けた。
 後から考えたら少々やりすぎたと思うくらいだったが、たぶん僕も意地になっていたのだ。
 何度冷たく断られても諦めず、教室の前で待ち伏せしたり、クラブ・ハウスに張り込んでいたりする僕を見つける度に、クリスターさんは呆れ顔をしたが、彼の方もかなり強情なタイプのようで、決して自分から折れて、一度退けた僕の願いを聞き届けようとはしなかった。
 むしろ弟のレイフさんの方が僕の存在を気にして、頑固な兄に向って、可哀そうだからちゃんと話を聞いてやれよとか、一度くらいチェスの相手をしてやれよとか訴えかけていた。
 レイフさんの親切は、しかし、僕にとって余計なお世話だった。
 僕は、クリスターさんに僕の存在を認めさせて、せめて一局だけでも真剣勝負をしたい。チェス・クラブの部員集めなどという目的など、いつの間にか僕は忘れ果てていた。ただ彼を振り返らせたかったのだ。
 そして、あの日も―僕は、校内で見つけた双子の後ろを追いかけていた。
 クリスターさんは僕の方をちらっと横目で見はしたものの、何も言わず、弟と何事か話しこみながら、廊下をずんずん進んでいく。
 全く、僕のことなど、周囲を飛び回るうるさいハエ程度にも思っていないかのような冷淡さだ。
 決して溶けることのない氷のようなクリスターさんの態度に、さすがの僕も一瞬気持ちが折れかけたが、レイフさんに気の毒そうな目を向けられると、俄然むきになって2人の後を追っていった。
「…待ってください、クリスター・オルソン…クリスターさん!」
 僕は幼い頃に事故にあったせいで、左脚が少し不自由だった。だから、走ったり速く歩いたりするのは苦手で、この2人について歩くのも、かなりな努力を要した。
 別に2人にしてみればわざと早く歩いている訳ではないのだろうが、背が高い分、脚の長さも当然違う訳で、特に階段を一段飛ばしで降りて行かれれば、僕はたちまち大きく引き離されてしまう。
「お願いです、僕の話を聞いてくださいっ」
 大勢の生徒達が行き交う階段を楽々下りていく2人に、僕は息を切らしながら、必死に追い縋ろうとした。
 クリスターさんの冷たい背中は目の前にあるのに、とても遠くに感じられて、僕の胸を言いようのない焦燥感で焼き焦がす。
(僕はあなたに追いつきたい…あなたに振り返って見てもらうためなら、どんな努力だってするから…)
 その時、無理をしすぎた僕は脚をつまずかせ、階段の途中で不安定によろめいた。
(うわっ、落ちる…!)
 階段を転がり落ちて全身をしたたかに打ちつける自分の姿が脳裏にまざまざとうかんで、僕は凍りついた。
 その時だ。
 下方からぐんと伸びてきた力強い腕が、落ちかかる僕の体を素早く抱きとめ、すくい上げるようにして階段に立たせてくれた。
 気がつけば僕は、クリスターさんの腕に半ばぶら下がるように格好で、すがりついていた。
「あっ…? ク、クリスターさん…?」
 僕は信じられないように目を見開いて、クリスターさんの冷静な顔を見上げた。
 僕など、この人の視界には全く入っていないとばかり思っていた。
 それなのに、僕が足をもつれさせたことに目敏く気付いたクリスターさんは、とっさに階段を駆け上って、僕を助けてくれたのだ。
 クリスターさんは大丈夫かと確認するでもなく、僕の顔を無言でじっと見下ろしていた。
 その鋭利な琥珀色の瞳に、自分の脚の障害のことを見抜かれたのではないかと思った僕は、つい逃げるように顔を背けてしまった。
 人から同情を向けられることが嫌で、僕は今まで、このことを進んで誰かに打ち明けようとはしてこなかったからだ。
「ダニエル、おい、大丈夫か? いきなり転びそうなるんだからな、ひやっとしたよ」
 レイフさんが心配そうな声をかけてきたのに、我に返った僕は、ぎこちなくクリスターさんの腕から身を引いた。
「クリスターを一生懸命追いかけるのはいいけど、ちっとは自分のことにも気をつけろよ、ダニエル。全く、見ていて冷や冷やするぜ」
 まるで小さな子供に言い聞かせるように、レイフさんは僕にお説教だ。普段は自分がクリスターさんにお説教されて、しゅんとなっているくせに―。
「は、はい…」
 僕が珍しくも素直な返事をしたのに、気を良くしたレイフさんは、僕の頭を両手でガシガシ撫でくりまわし、クリスターさんと一緒に階段を悠然と下りて行った。
 僕は、何も言わずに去っていくクリスターさんの背中をそのまま見送りかけた。しかし、急に強い感情が突き上げてくるのに、声を張り上げた。
「ク、クリスターさん…!」
 クリスターさんは足を止めて、僕を振り返った。全く、こんなことは初めてだ。
 そのまま、まるで僕の言葉の続きを待ちうけるかのように佇んでいる彼に、僕は何だか胸がいっぱいになってしまって、やっとの思いでこう言った。
「あ…ありがとうございました、僕を助けてくれて…」
 瞬間、クリスターさんの冷たく整った顔が花のように綻んで、柔らかな笑みを浮かべた。
「ああ」
 意外にも優しく温かなものを感じさせる眼差しに、僕はなぜか胸を刺し貫かれたような痛みを覚え、息をとめた。
 僕に向かって軽く頷きかけると、クリスターさんは再び背中を向け、弟と一緒に歩き去った。
 僕は階段に呆然と立ち尽くし、彼を見送った。なぜか胸が苦しくて、体が熱くて仕方がなかった。
 その日、僕はずっとクリスターさんのことを考えて、胸がときめいたり息が苦しくなったりするのに、どうしてだろうと戸惑いながら過ごした。
 次の日から、僕はクリスターさんの姿を校内で探し追いかけることはやめなかったが、これまでのように強引に自分の話に彼を引き込もうとはしなくなった。
 チェスの試合を挑むというのは、僕にとってクリスターさんの傍にいるための口実にすぎないということに気付いたからだ。
 そして、僕に対するクリスターさんの態度も、一見すると以前と同じ素っ気ないものではあったが、その微妙な変化に僕は気付いていた。
 僕がクリスターさんの後を少し遅れて歩く時、彼は僕が無理しなくてもついてこられる程度に、さりげなく歩く速度を落としてくれている。
 僕の不自由な脚には気づいていても、それは僕が触れて欲しくないことだから、あえて黙っていてくれる。
(クリスターさんは冷たくて打ち解けにくそうに見えるけれど、危なっかしい僕をそれとなく見てくれたり、僕のちっぽけなプライドを尊重してくれたりするような、とても繊細な優しさを持っている人なんだ)
 クリスターさんは、僕が傍に寄ってきても、もう嫌な顔を見せなくなっていた。
 うぬぼれかもしないけれど、僕に合わせて少しゆっくりとしたペースで歩いてくれるクリスターさんの広い背中を目で追いながら、僕は、彼に受け入れられているというささやかな幸福を噛みしめていた。
 それから間もなく、僕のかねてからの願いを受け入れて、クリスターさんは一度だけチェスの試合をしてくれた。
 手加減など一切しなかったクリスターさんの実力の前に、僕は完敗したけれど、不思議な程気持ちは晴れやかで―。
 ただ、これでもうクリスターさんの傍にいる理由がなくなってしまうのが、辛かった。
 だから僕は、クリスターさんが見つめている世界を―フットボールに今度は没頭することにしたんだ。




「待ってください、あなた…」
 蘇った過去の記憶に胸を揺さぶられながら、僕は、目の前を行く広い背中を必死に追いかけていた。
(そうだ、クリスターさんと出会って間もない頃の僕は、こんなふうに来る日も来る日も、この人を追いかけていたんだ)
 動悸がやけに激しいのは、自由にならない脚を必死に動かして慣れない階段を駆け下りているせいばかりではなさそうだ。
 背の高い赤毛の男は、そんな僕に気付きもせずに階段を下り続け、僕との距離は遠ざかっていくばかりだ。
「ク、クリスターさん…!」
 ついに、堪え切れなく僕は叫んだ。思わず赤面したくなるくらい切迫した、まるで十代の少年のような甲高い声をしていた。
 僕の呼びかけが届いたのか、赤毛の男は足をとめ、うろんそうにこちらを振り返った。
 その瞬間、無理を強いた左脚は軽い痙攣を起こし、バランスを失った僕は階段を無様に転がり落ちそうになった。
「うわっ…」
 僕は転倒の衝撃を想像して身を固くし、とっさに目を閉じた。
(落ちる…!)
 カツンと階段を叩く靴音を聞いたと思った、次の瞬間、僕の体は誰かの腕にしっかりと抱きとめられていた。
 僕の手から離れたアタッシュ・ケースだけが、派手な音をたてて階段を落ちていった。
(あ…)
 僕はがっしりと逞しい腕に支えられたまま、アタッシュ・ケースが下の階の床に行きついてやっととまるのを目で追っていた。
「大丈夫か?」
 低く張りある声が頭の上から降ってくるのに、僕が恐る恐る顔を上げると、冷たく冴え返った琥珀色の双眸が探るように僕を見つめていた。
 二十代後半と思しき男の精悍な美貌が、僕の胸にしまわれて輝いていた、あの懐かしい人の面影に重なる。
「クリスターさん…」
 今にも卒倒しそうな気分になりながら、僕は震える声で呼びかけた。
 僕の呼びかけに、どことなく怪しむようだった男の目が、はっとしたように見開かれた。
 僕の存在は、彼の胸の記憶の扉を叩いて、そこにあるものを溢れださせたようだ。
 いまや彼の顔から、他人めいた余所余所しさは消えていた。それは、長い間なくしていた大切な宝物を、思いがけぬ所で見つけ出したかのような驚きと喜びに照り輝いている。
「ダニエル・フォスター?」
 クリスターさんは、あの時と少しも変わらぬ口調で、僕の名前を呼んだ。

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