天使の血

第七章 夜明け前


 不吉な胸騒ぎを覚えたレギオンは、すぐにローマに引き返すことにした。人里にたどり着くまでは残った力を振り絞って飛行を続けたが、さすがにそれ以上はもたず、夜が明けた後人目につく危険のある場所でヴァンパイアの能力を使うことも躊躇われたため、最初に通った村で馬を手に入れローマに至る道程をそれでもかなり急いで駆け戻ったのだ。

 嫌な予感はしていた。だが、まさかという思いの方が強かった。

 むしろ、何も起こっていないとレギオンは信じたかったのかもしれない。

(ミハイ、ミハイ…きっと大丈夫だ、君の身に悪いことが起こるはずなどない。すぐに君の元気な顔が見られるさ。私はちょっと神経質になっているんだ…血の衝動に驚いて、うっかり君をオルシーニのもとに無防備に帰したりしたことを、君から逃げ出したことを今更のように後悔しているんだ。ローマに戻って君を捕まえたら、もう何がどうなってもいいから、そのまま浚ってしまおう。君を二度と離すものか)

 自分に言い聞かせながら、レギオンは、不思議なことに身の内で燻っていたあの火が、ミハイの血に対する飢えがいつの間にか消失していることに気がついた。

 ああ、ではやはりあの飢渇は一瞬の気の迷いだったのか。だが、そんな都合のいい話を信じることは、レギオンにはできなかった。

 そして、ようやくレギオンがローマの市街に戻ってきたのは、もう昼をかなり回った頃だった。

 街は昨日までの喧騒が嘘のようにひっそりとして、喪服にも似た黒に装い道を行き買う人々の顔もどこか暗く沈んで見えた。道端には祭りの夢の残骸めいたしおれた花びらや塵屑が散らばっている。

 レギオンは何かにせきたてられるようにオルシーニ邸へ向かった。

 とにかくミハイに会いたい。例え誰が行く手を阻もうとも、力ずくで押し入ることになっても、レギオンはミハイをもう一度この腕に抱きしめるまで諦める気はなかった。

 だが、逸る気持ちを抑えかねながらたどり着いたオルシーニ邸の前で、レギオンは思わず足をとめてしまった。

 ヴァンパイアの鋭敏な感覚で、レギオンには邸内が不穏にざわついているのが感じられるのだ。

(何か妙だな…いつもと様子が違う…)

 そのままオルシーニ邸に押しかける気でいたレギオンだが、ふと気を変えて、しばらく屋敷の門の傍にある建物の陰から、そこに出入りする人々の様子を窺った。

 ばたばたと屋敷を訪れる聖職者や貴族がいるかと思えば、ちらちらと気遣わしげな視線を送りながら通り過ぎていくだけの者達もいる。門の警備に当たる衛兵の数はいつもより多く、どこか緊張をはらんで見えた。

 レギオンは耳を澄ましてみた。すると、兵士達がこっそりと交わしている言葉の断片が微かに捕らえられた。

(まさか、急にこんなことになるなんて、信じられない…オルシーニ様は大層お嘆きで半狂乱になられたとか…)

(あんまり突然すぎる…おとついまでは元気だったと言うぞ…それに…するにも急ぎすぎないか、あれ程名声ある人を…まるで人目を避けるように―実は病気なんかじゃないって言う奴も…)

(しっ、めったなことは言わないことだ…どれほど人の心を掴もうが、あの人は所詮ただの唄うたい…どうなろうとローマのお偉いさんは気にしまいよ)

 そんな切れ切れの会話を盗み聞きながら、レギオンは心臓を冷たい手でぎゅっと捕まれるような恐怖を覚えた。彼は、衛兵達に掴みかかって彼らを問い詰めるため、ほとんど駆け出そうとしていた。

 そんなレギオンの後ろから、聞き覚えのある声がかけられた。

「レギオン!」

 レギオンが振り向くと、厳しい面持ちのハンスが駆け寄ってくる所だった。

「レギオン、おまえ、一体どこに行っていたんだ?! 俺達はどんなにおまえを探し回ったか…」

 一瞬呆然となったレギオンの肩をハンスは痛いほどの力を込めてつかんだ。

「ああ、ハンス…ハンス、教えてくれ、ミハイに何かあったのか…?」

 レギオンが喘ぐように尋ねると、ハンスの頬が微かに強張り、瞳には暗い影が過ぎった。

「レギオン…ミハイは―」

 ハンスはとっさに何と言えば分からなくなったかのように口ごもり、口惜しげに唇をかみしめた。

 レギオンに向けられたハンスの男らしい顔に、怒りや悔しさ、悲しみといった様々な表情がうかんだ。

「今までどこにいたのか知らないが、レギオン、おまえは戻ってくるのが遅すぎたよ。いや、たぶん…俺達がすぐにおまえを見つけられたとしても間に合わなかっただろうが―」

 レギオンは大きく目を見開いた。

「ハンス…君が何を言っているのか、私には分からないよ…」

 そう囁く自分の声は何故こんなにも震えているのか―。レギオンは考えたくなかった。

 ハンスが痛ましげに顔を歪めた、瞬間、レギオンは彼に背を向け、衝動的にオルシーニ邸の門に向かって走り出そうとした。

 だが、その行く手を風のように突然現れたもう1人が遮った。

「サンティーノ」

 レギオンは思わず息を飲んだ。

「レギオン」

 サンティーノはレギオンの瞳をまっすぐに見つめた。どこまでも澄みきった友の瞳の奥にあるものに、レギオンは心を突かれ動けなくなった。

 サンティーノの背中の遥か向こうで、衛兵達がこちらの存在に気がついたのか疑わしげな視線を送ってくる。

「レギオン、ここを離れよう」

 サンティーノはレギオンの腕をそっと押した。

「しかし―」

 レギオンはサンティーノの静かな顔の内に真実を読み取ろうと必死に手がかりを求めたが、そこには誠実さしか感じられなかった。

「行こう、レギオン。今更オルシーニ邸に押し入っても意味はない。ミハイは、ここにはもういないんだよ」

「ここにはいないって…それなら、一体どこに―」

 サンティーノは今度はきつくレギオンの腕をつかんだと思うと、無言のまま彼をその場から引き離して歩き出した。

「案内してあげるよ、ミハイの所に」

 サンティーノの言葉に、レギオンは何故か身震いした。

「言葉だけでは、君はきっと信じないから」

 それから、3人は馬に乗り、ハンスを先頭に四旬節に入ったばかりの静かで寂しい通りを進んだ。

 レギオンはどこをどうさ迷ったのか覚えていないが、気がつけば町外れのうら寂しい墓地にたどり着いていた。

 レギオンが信じられない思いで馬上から目の前に広がる荒涼とした光景に見入っていると、サンティーノが彼に下りるよう促した。

「夜明けに血相を変えたハンスが家に来たんだ。急いで君に伝えなければならない知らせを抱えてね」

 馬から下りたレギオンは、サンティーノに手を取られて人気のない墓地に足を踏み入れた。

「僕もハンスと一緒に君を探した。けれど、どうしても見つからなかったから、取りあえず僕達だけでオルシーニ邸に向かったんだ。…今思えば、先に僕達だけですぐオルシーニ邸に引き返していれば間に合ったのかもしれない…それすらもできなかったろうか…ミハイがあんなことになる前に駆けつけることができていたら、僕はたとえ人間達の前でこの力を振るうことになっても、君のために必ず彼を助けだしていた。でも―ごめんよ、レギオン、僕ですら間に合わなかったんだ」

 レギオンは冷たい汗をかいていることに気がついた。体がどうしようもなく震えて、とめられない。サンティーノの手を振り解いて逃げたいのに、恐怖に体がすくんで抵抗できない。まるで屠殺場に引きずり出される羊の気分だった。

「サンティーノ…嫌だ、とまってくれ…これ以上行きたくない…」

 レギオンが必死の思いで懇願すると、サンティーノは一瞬足を止め、レギオンを気遣わしげに振り返った。

「ミハイに会いたくないのかい…?」

 サンティーノの言葉に、レギオンはほとんど恐慌状態に陥った。

「ミハイがこんな所にいるはずがない!」

 それ以上聞きたくないというように、レギオンは激しく頭を振った。

「信じられるものか、君達は私を騙そうとしているんだ…だって、つい昨日のことだよ、ミハイと一緒に祭りを楽しんだのは…彼と2人で街中を歩き回った、一緒に踊ったり花火を見たり…あの部屋で彼と過ごした…ミハイが何を言ったのかもよく覚えている…今が一番幸せだと言っていた…私と共にいられる今が最高だとこれ以上はもう望めないくらいだと―」

 レギオンは背筋に冷たいものが走るのを覚え、黙り込んだ。

 レギオンはすがるような目でサンティーノを見た。サンティーノは何も言わないが、その真摯な眼差しが全てを語っていた。

「ああ…嘘だ、そんなことはあり得ない…」

 取り乱したレギオンの手をサンティーノはぎゅっと握りしめた。その手にすがったままレギオンは前に進み出る。

 すると少し離れた所にうなだれたように立つハンスの背中が見えた。彼の前にはまだ新しく作られたばかりの墓があった。墓と言っても、それらしい土の盛り上がりがあるだけで墓標も何もない。ここに埋葬されている死者が何者かなど、誰も分からず通り過ぎてしまいそうだ。

 そう言えば、この墓地にある墓はどれも皆似たような寂しいものだ。貧しく身寄りのない者や行き倒れがおざなりに埋葬されるのだろう。

「どこに埋葬されたかも知られたくないのさ…彼の死を悼む者が大勢押し寄せて騒ぎになるのが恐いんだろう。噂が立つ前にととにかく急いで館からミハイの体を運び出した…いくら自殺の罪を犯したからと言っても祈りの言葉も手向けの花もないとはな…」

 ハンスのたくましい肩が微かに震えているのをレギオンは呆然と眺めていた。

「レギオン、ここに来い」

 ハンスが静かだが強い調子で言うのに、レギオンは一瞬震えた。そしてサンティーノの手から離れよろよろと近づいていった。

 レギオンはハンスの隣に立ち、掘り返されたばかりの新しい土を凝然と見下ろした。

「ミハイは死んだ」

 ハンスは感情を抑えた声で淡々と告げた。

「レギオン、おまえと別れて屋敷に戻ったミハイは、待ち構えていた兵士達によって枢機卿のもとに連れて行かれた。おまえ達の逢瀬は、オルシーニに知られていたんだ。その後オルシーニの部屋で実際何があったか俺は知らん。だが、兵士の1人を捕まえて白状させた所では、ミハイはオルシーニと激しく言い争った挙句どうやら彼に…つまり暴行を受けそうになったらしい…逃げ出したものの兵士らに追いたてられて、自分の部屋に立てこもった。おそらく素直に投降すれば命を取られることはなかったろう。だが、ミハイはそうしなかった。業を煮やしたオルシーニは兵士に命じて扉を打ち破らせた。だが、彼の手に落ちる前に、ミハイは自ら剣で胸を貫いていたんだ」

 レギオンはまるで石と化したかのように立ち尽くしていた。ハンスの声は聞こえてはいるが、どこか遠い世界からの呼びかけめいて実感がない。

「俺も信じられなかったさ。彼の身の危うさを感じ一刻も早く救い出さなくてはと思っていたが、いくらなんでもこんな急に―しかも、自刃するなんて、どうしてだ、ミハイ…そう思ったさ…!」

 込み上げてくる激しいものを一瞬抑えかねたかのように、ハンスは声を荒げた。

「だが、ミハイらしいとも思った…オルシーニに屈し辱めを受けるくらいなら誇りを守るために死ぬことを選んだのか…いや、レギオン、おまえに対する忠誠を貫こうとしたのかもな…あの石頭の頑固者め。もしかしたら、無茶を承知で館を抜け出しおまえのもとに行こうと決めた時、ミハイはどんなことになろうとも自分で始末をつける覚悟をしていたのかもしれない」

 レギオンは黙ったまま地面を見つめ続けた。こんな所に埋められたら、きっと冷たいだろう。ああ、一体誰が埋められていると―ミハイ、ミハイ…?

 レギオンははっと息を吸い込んだ。

「まさか、そんなことがあるものか。だってミハイは死なない…彼ならばきっと永遠に―」

 そう、レギオンはほとんど信じかけていた。とてもただの人間とは思えない、際立って強い魂を持つミハイだからこそ、レギオンもミハイを自分と同じような不死の存在と錯覚していた。だから、ミハイの身に危険が迫っていると薄々感じていても、彼が滅びるはずがないと心のどこかで思い込んでいた。

 何という過ちだろう。

「ミハイ…」

 レギオンは足下の地面が崩れ去っていくような気がした。

 愛した人は、もうこの世界のどこにもいない。

 立ち尽くしたきり動こうとしないレギオンにハンスが何か声をかけようとしたが、その肩をサンティーノが後ろからつかんだ。

「しばらくレギオンを1人にしてやろう」

 サンティーノはハンスを促すと、レギオンのもとから静かに離れていった。彼の哀しげな眼差しがレギオンの背中に最後に投げかけられたが、レギオンは気がつかなった。

 こうして、レギオンはミハイの墓の前に1人残された。

 霙混じりの雨がぱらぱらと降り始めたが、レギオンは気にも留めなかった。

(ミハイ、ミハイ…どうして自ら命を断った…?)

 答えは分かっていたが、レギオンは問いかけずにはいられなかった。

 ミハイはレギオンに約束した。もう決してレギオン以外の誰のものにもならない。誇りにかけて誓うと―。

 だが、ミハイのそんなひたむきさは、今のレギオンにはやるせなかった。

(それでも私は君に生きていて欲しかった。私を待っていて欲しかった―)

 それまでむしろ無表情だったレギオンの顔に、だしぬけに深い悲しみが溢れた。

「こんな別れ方は納得できない…あんまり突然すぎる、一方的過ぎる、こんな…どうして受け入れられる…?」

 レギオンは言葉にならない苦鳴を発すると、地面を食い入るように睨みつけた。そして、いきなりその上に倒れこんだ。

(ミハイ)

 レギオンは掘り返されて柔らかい地面をまるでそれが水であるかのようにするりと抜けた。彼の前にはいかなるものも障壁とはならない。泳ぐようにして更に深く潜り地中に埋められた木の棺にたどり着くと、それさえも易々と通り抜けて内部に滑り込んだ。

 狭い棺の中にレギオンはいた。

 彼の腕は、自然にそうなったように棺の中に横たわる者を抱いていた。どんな暗闇でも見通す瞳が戦きながら動いて、すぐ傍にあるその人の顔を捕らえた。

「ミハイ…」

 レギオンの唇から、かさかさと鳴る枯葉のような掠れた声がもれた。

 闇の中ほの白くうかび上がるのは、紛れもないミハイの顔。

「ミハイ、私だよ…ごめんよ、待たせてしまったね」

 眠っているようにしか見えない、穏やかな微笑さえうかべた恋人に向かって、レギオンは優しく語りかけた。

「ミハイ?」

 呼びかけてもミハイは答えない。レギオンはおずおずと手を伸ばしミハイの頬に触れた。

 冷たい。レギオンは怯えたように手を引っ込めた。

 あたかもミハイの肌の冷たさが、ようやくレギオンに恋人の死の実感をもたらしたかのように、彼は激しく戦慄いた。

「私は遅すぎた。戻ってくるのがもっと早かったら―いいや…!」

 レギオンは血を吐くような口調でつぶやいた。

「私は一時にせよ逃げ出したりなどするべきじゃなかったんだ。私自身がいつか君を殺すことになったとしても…その最後の瞬間まで君を愛し、君を守り、傍にいなければならなかったんだ!」

 心臓を千もの針で刺されたかのような痛みを覚えながら、レギオンはミハイの冷たい体にすがりついた。

「私は何もかもに失敗した…君を愛することも奪うことも…ミハイ…!」

 レギオンは震える唇をミハイの色あせた薔薇のような唇に押し付け、込み上げてくる激情のままに吸った。

 死せる恋人は応えない。

 胸に負った傷口から噴き出した哀しみを堪えきれず、少しでもミハイの命の名残りを確かめようとするかのごとく、レギオンは唇をミハイの首筋にずらし牙をたてた。

 今更こんなことをして何になるのだろう。傷口からゆっくりと流れ出す血を口に含んではみたが、それは死者のもの、レギオンにミハイの命の欠片すら与えてはくれない。ミハイの血、そこに宿っていた鮮やかな魂の輝きも熱も、ついにレギオンのものとはならなかった。

 レギオンはミハイの首筋に顔を埋めたまま泣いた。

(ごめんよ、ミハイ、君を幸せにすると約束したのに私は果たせなかった…)

 暗く冷たい影の世界に、レギオンの低い嗚咽が流れる。

(ここは何て寒いんだろう、ミハイ。こんな所に君を1人で残すことなどできないよ…いっそ、私もここでこのまま君と一緒に朽ちていければいいのに…)

 だが、それは不死の身であるレギオンにはできないこと。

(君は一体どこに行った…人間達が言う天国など私は信じたことはなかった。だが、君の全てが消えてしまったなどと信じられない、信じたくない。もし君の生がまた別の場所で続いているのならば…これから気の遠くなる時をこの世につなぎとめられ生きなければならない私にも、いつか再び見失った君を見つけることができるだろうか、遥か未来の別の場所で…けれど、それはあまりに遠い―)

 喪失の痛みがレギオンの心と体を圧倒し打ちのめしていた。今のレギオンはおさな子よりもか弱く無力で、疲れきっていた。死者の血に酔ったのだろうか、レギオンの周りで世界はぐるぐると回り出した。これ以上目を開けることもできず震える瞼を閉じて、レギオンは力なくミハイにもたれかかったまま、静かにすすり泣いていた。 

(君のいない世界など、いっそ砕け散ってなくなってしまえばいい…)

 その時だ。夢うつつのレギオンに向かって、不思議な声が囁きかけたのは。

(レギオン)

 己の体に巻きつけられる腕の感触を、レギオンは感じた。木の葉のように軽くはあったが、実体あるものの感触があった。これも錯覚なのだろうかと思いながらも、レギオンの胸はざわめいた。

(いいんだよ…幸せなら、もうたくさんもらった…だから僕のためにこれ以上泣かないでくれ)

 それは、逝ってしまった大切な人の声に似ていた。ありえないことではあるが、しかし―。

「ミハ…イ…?」

 胸のつぶれるような切なさでレギオンは呼びかけ、彼の在り処を求めるが、闇は彼の願いを無限に飲み込んでいく。

 だが、どこからともなく聞こえてくるその声は鳴りやまなかった。 

(ごめんよ、レギオン。でも、分かって欲しい。僕にとって、君との恋は命をかけても守りたいものだった。後悔はしないよ、それだけ価値のある何かを僕もついに見つけられたんだから…)

 レギオンの胸の痛みを少しでも癒したいかのような優しさで、その声は語りかけた。

(大丈夫、君はこれからも多くの人と出会い、素晴らしい恋や冒険をするだろう。今はどれほど哀しみ、怒り、打ちひしがれていても―やがて君は必ず立ち上がる。太陽が没しても朝が訪れれば必ずまた昇るように…。どうか僕の分も生きて欲しい) 

 それは別れの言葉だった。

 レギオンは嫌々をするようにもがき、足掻いた。行かないでくれと叫びたかったが、胸が詰まって言葉にならなった。

 そんなレギオンを誰かがぎゅっと抱きしめた。今度は、まるで生きているかのような確かな実在感があった。

 呆然となるレギオンの唇を、記憶にあるそのままの温かい唇が覆った。

(ミハイ…)

 レギオンの体から完全に力が抜けた。

 体に回わされる恋人の腕の力強い感触、肌のぬくもり、芳しい吐息、ミハイの全てがこの一瞬レギオンのもとに戻ってきた。

 消えゆこうとする蝋燭の炎が最後に一際明るく燃え上がったかのように、ミハイの命の輝きがレギオンの胸の中を照らし出す。 

(レギオン、君の愛が僕を呼び戻す、僕の君への愛が死を超えた力をくれる)

 幻か現実か。レギオンにはもう違いを見極めることはできなかった。

 求めるがまま、レギオンはミハイに腕を回し抱きしめる。錯覚と呼ぶにはあまりにも生々しく確かな感触に、レギオンは必死ですがりついた。

 現実と幻と、今、両者は1つとなった。

 ミハイの声が、鐘の音のようにレギオンの心の中に響き渡る。

(これは僕達が交わすことのできる最後の抱擁。レギオン、この生と死の狭間で、僕達が共有できるこの一瞬にある永遠の中で僕は歌おう)

 時は絶えた。この瞬間は、彼らにとってまさに永久にも等しかった。

 愛がもたらした奇跡の中に呆然と横たわりながら、レギオンは、人の世の常識を超えた美しい歌声が己に降りかかり、染み渡り、体の隅々まで満たしていくのを意識した。

 歌がレギオンの震える心臓にそっと口付けを落とした。ミハイの愛がレギオンの心の弦をかき鳴す。生み出された音色は、この世のものならぬ歌声と絡み合いながら美しい音楽を紡いだ。ミハイはこの瞬間、確かにレギオンの中で生きていた。

 死すべき人間の命が、不死のヴァンパイアの魂に寄り添っているのだ。

 限りのある命は、束の間であるからこそとてつもなく強い光を放つ。 

(君を愛している…愛しているよ…)

 そうしてミハイの歌はレギオンの胸の奥深くに彼という人間が存在した印を深く刻んだ。

 それこそは、ミハイが歌う最後の唄。彼がレギオンのために遺した恋唄だった。

 しかし、やがて歌は小さくなっていき、ミハイの存在感も遠のいていった。

 レギオンを照らした輝きもぬくもりも次第に消えていった。

 腕の中からすり抜けていく恋人をレギオンにはこれ以上とどめるすべはなく―。

(ミハイ、君はもうどこにもいない)

 レギオンはこの世に1人きり取り残された。 

(君があれほど輝いて見えたのは終りがある命だからこそだったのか、私を引きつけてやまなかった君の強さや美しさは限りあるものだからこそ…だが、私にとっては―)

 もはや涙も枯れ果て、冷え切った暗闇の中に力なく横たわりながら、レギオンは不死であることの重みと空しさを生まれて初めて感じていた。

 レギオンの唇から、苦いつぶやきがひっそりとこぼれた。

「ああ、命に限りある者を愛するは風を抱きしめようとすることに等しい…」


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