天使の血

第七章 夜明け前


 従僕は幾つかの部屋が連なるオルシーニの私室の中へミハイを案内し、一番奥の扉の前まで導いた。

「あなた様の裏切りをお聞きになった猊下は、憤懣やるかたなく昨夜は一睡もなさっておりません。どうぞあなた様が直接申し開きをなさって、猊下の心をお静めになってください」

 従僕が開いた扉の向こうに、ミハイは無言で足を踏み入れた。

 そろそろ外では夜明けの最初の印が空に見える頃だろうが、鎧戸を閉ざしカーテンも締め切った部屋は真夜中のように暗かった。蝋燭の光が、壁のタペストリーに描かれた古代の男や女達を照らし出し、小卓の上に置かれた黄金の杯や水差しを妖しくきらめかせている。

 部屋の半ばを占める巨大な天蓋付きの寝台を見つけ、ミハイはようやくここが枢機卿の寝室であることに気がついた。

「ずっと…お前の帰りを待っていたよ、ミハイ」

 疲れきったようなしわがれた声が、ミハイに呼びかけた。

 ミハイが躊躇いがちにそちらを見ると、黒いガウンを着たオルシーニが、蝋燭の光の届かない影に半ば沈みながらワインの杯を傾けていた。彼はミハイの姿をよく見ようとするかのごとく、身を乗り出した。

「猊下…」

 ミハイは何と言うべきかとっさに迷った。この見るからに思いつめた、深い憂悶のあまりにやつれきった男に対して。

「祭りは…楽しかったようだな。おまえの顔の明るさや目の輝きを見れば分かる…私を騙してまで手に入れた自由をおまえはさぞかし謳歌したのだろう」

 低い呟きじみたオルシーニの声に、ふいに根深い怨嗟がこもった。

「おまえが何も言わずとも分かっておる…あの忌まわしい男…レギオンと一緒だったのだな…?」

 ミハイは緊張のあまり全身の筋肉が強張るのを意識した。

「猊下、僕があなたの目を盗んで館を脱け出したことは事実です。ですが、それが…あなたをそこまで苦しめるような裏切りなのでしょうか?」

 ミハイは一瞬躊躇った後、オルシーニのぎらぎらした目をまっすぐに見据えながら言った。

「裏切りではないと? ミハイ、おまえには私に対して後ろめたく思うことは何もないのか? 私には知られたくない秘密を抱えていた訳ではないと、私の前で言い切れるのか?」

「それは―」

 ミハイはとっさに口ごもった。オルシーニにすまなさを感じていない訳ではなかったのだ。オルシーニの苦しみをミハイはよく理解していた。自分がそれに対して何もできないことも辛かった。お互いのためにも離れた方がいいと自分に言い聞かせてスペインへの脱出計画を進めてはいるが、それが大恩あるオルシーニに対する裏切りでないと豪語できるほど、ミハイは薄情ではない。

 ミハイの動揺をどう受け取ったのか、オルシーニは悪意に満ちた笑みに顔を歪めた。

「私が何も知らないとでも思っているのか、ミハイ? おまえはおとなしく私に従うふりをしながら私を出し抜こうとしていた。おまえがレギオンと結託してスペインへ逃亡する計画を立てていることが、最後まで私にばれないと思っていたのなら、甘いぞ!」

 オルシーニの鋭い一撃で胸を突かれたように、瞬間、ミハイは息がとまった。

「実際にはおまえ達は私を見事にだましおおせていたがな…つい昨日まで私は何も知らなかったし、疑いもしなかった…まさかおまえが、私が今まで示してやった好意にこんな悪意で返そうとしているとはな。昨日夜会に招かれたボルジア邸でロドリーゴが私に教えてくれた…私は慌てて館に引き返しおまえを探し求めたがおまえは館にはおらず、私はおまえが街に逃亡したことを知った訳だ」

 ミハイは衝撃のあまりくらくらする頭を支えようとするかのごとく手で押さえた。

(ああ、やっぱり陰謀家の大だぬきなんか信用できない…!)

 ボルジア枢機卿の突然の翻意と裏切りは、ミハイにとって頭にはくるが別に不思議ではなかった。あれは初めからそういう男なのだ。何らかの理由で、レギオンとミハイの味方につくよりも、オルシーニに2人の逃亡計画の情報を伝えた方がよいと気を変えたのだろう。

「生憎だが、ミハイ、スペインにはもう行けぬよ。あの忌々しい外交官を捕まえて散々脅しつけてやったからな。もう二度とおまえに余計な誘いはかけないぬだろう」

 オルシーニの呪詛のこもった言葉をミハイは呆然と聞いていた。

「スペインだけではない、おまえをどこにもやりはしないよ、ミハイ。ここ以外の場所ではおまえは歌えないようにしてやるとも…私の権力を最大限に使い、あらゆる手段を講じて阻んでやる」

 ミハイはたまりかねて、口を開いた。

「オルシーニ様、どうして…どうして、そこまで―?」

 するとオルシーニは一瞬言葉を切り、渇望に苛まれた表情でミハイを見た。

「私は…おまえの歌を愛しているからだ。おまえを守れるのは私だけだと…いいや、そうではない、私は…私はおまえを…愛しているからだ…自分でもどうしようもないほどに…」

 オルシーニは震える手を思わずミハイに向かって差し伸べたが、ミハイが怯えたようにわずかに身を退けるのに、哀しげに頭を振って手を下ろした。

「猊下、あなたのお気持ちは僕にも痛いほどに伝わってきます。だからと言って、僕にはそれを受け入れることはできないのです」

 ミハイは意を決し、オルシーニに向かって真摯な気持ちで語りかけた。

「なぜなら、僕が愛しているのはレギオンだからです。これは、僕の生涯で初めての、そして唯一の恋なんです。大切な歌でさえも埋めることのできなかった、僕の胸に空いた空虚を彼が喜びで満たしてくれました。彼のおかげで、僕は初めて生まれてきてよかったと思えたんです。今の僕にとって、レギオン以上に大切な存在はありません。彼こそが、僕の生きる所以なんです」

 もしかしたら情理を尽くして訴えればオルシーニも分かってくれるのではないかと、この時のミハイはまだ期待していた。

「どうかお分かりになってください、猊下。僕は、あなたにはどんな感謝してもしきれないほどの恩を感じています。ですが、それは恋情に変わるものではないのです。例えお傍にいたとしても僕にはあなたをこれ以上お慰めすることはできない…むしろ苦しめるだけ…」

 オルシーニが神経質な笑い声をたてるのに、ミハイの最後の言葉は不安げに揺れ、途切れた。

「レギオンを愛していると…そんなことを恥ずかしげもなくよくも言えたな、ミハイ。それが罪だとおまえは思わぬのか。そんな晴れやかな顔をして…私がおまえへのこの許されぬ恋情にこんなにも苦しみ悶えているというのに…おまえはいつの間に、そのような劣情に躊躇いなく身を委ねられるほど堕落したのだ…?」

 ミハイはさっと頬を紅潮させた。

「猊下、僕は…レギオンに対する気持ちに何ら恥ずべき所はありません! 僕は彼を愛しています。魂が引かれあうがまま真実愛する人と触れ合う行為のために、人は地獄に落ちるのでしょうか? 僕には信じられません。少なくともレギオンが僕に与えてくれた愛のおかげで、僕は救われたんです…!」

 ミハイの足元に何かが叩きつけられた。ミハイが息を飲んで見下ろすと、オルシーニが手にしていた杯が床に転がっていた。

「ああ、そうだ、おまえは一晩中レギオンと共にいた…まさか奴に触れさせたのか…?」

 その震える声に表れた、今にも爆発寸前の危険な怒りの兆候にミハイは身構えた。

「卑しい男娼のように、あの男に体を開いたのか、ミハイ…私がせっかく罪から救い出してやったというのに…自ら吐き戻したものに喰らいつく犬のように、おまえはまたしても…あの忌まわしい肉欲に自ら溺れたのか?」

 ミハイはぎりっと歯を食いしばった。怒りと屈辱に身震いするほどだった。

「おまえはかつて、男色の主人の手からどうか救い出してくれと私に助けを求めてきた。だから私はおまえの庇護者となって、誰にもおまえを汚させぬよう守ってきたというのに…それを、おまえは―」

 オルシーニはよろよろと椅子から立ち上がって、ミハイを掴みしめようとするかのごとく狂おしげに手を伸ばした。

「よくも私の気持ちを踏みにじって、私の愛情を裏切ってくれたな、ミハイ」

 揺らめく蝋燭がつけた陰のせい一層悪鬼じみた形相でじりじりと迫ってくるオルシーニに、ミハイは怖気をふるって我が身を守ろうとするかのごとくひしとかき抱いた。

「違う!」

 ミハイは悲鳴のように叫んでいた。

「それは愛なんかじゃない! 猊下、貴方が僕に向けている、それはただの妄執だ!」

 次の瞬間、ミハイは頭を殴られた。ふいを突かれてよろめいた彼に、荒れ狂ったオルシーニが襲い掛かった。

 意外にオルシーニには力があった。ミハイをもう一度殴りつけると、その軽い体を引きずり回し、寝台の上に荒々しく投げ出した。

「猊下?!」

 喫驚するミハイの上にオルシーニはのしかかった。

「ミハイ、おまえは私を堕落させた…その美しい顔で、誘惑的な声で…!」

 オルシーニはミハイの唇に噛み付いた。ミハイは思わず苦鳴をもらした。ミハイの唇は切られ、錆びた鉄のような血の味が舌に伝わった。

 あまりの展開についていけずにミハイは呆然となっていた。ひどく打たれた頭はがんがんと響いている。

「何を…やめてください、猊下!」

 慌ててオルシーニの体を押し返そうとすると、ミハイはまた顔を殴られた。一瞬気が遠くなった。

「おまえなど呪われよ、地獄に落ちて火に焼かれればよい、この…男でも女でもない怪物め!」

 ミハイは目を剥いた。

 硬直するミハイの服を掴む枢機卿の手に力がこもった。チュニックのボタンが弾け飛んだ。

(レギオン…!)

 怒りに我を忘れたオルシーニの暴力にさらされながら、ミハイは心の中で彼の唯一の神である恋人の名を絶叫した。





「レ、レギオンかい?」

 早朝、荒々しく家の扉を打つ音に叩き起こされたサンティーノは、昨日からずっと外出していたレギオンがきっと帰ってきたのだと思い、寝起きの頭をなでつけながら慌てて一階に下りてきた。

 だが、扉を開けた所に立っていたのは、レギオンではなかった。

「あ…君はミハイの―」

 サンティーノは出かかった言葉をとっさに飲み込んだ。

「レギオンは…レギオンは戻っているか?!」

 それはハンスだった。頬に殴られような跡を残し、ひどく差し迫ったその表情を見れば、何か大変なことが起きたのだとはすぐに分かった。サンティーノがちらりと後ろを見ると、彼の馬が家の前にある木につながれている。こちらもひどく息を乱して、よほど無理をしてここまで駆けさせられた様子だ。

「君は、確かハンスだったね。残念だけれど、レギオンは昨日の朝から出かけたきりまだ戻っていないよ。昨夜はたぶんミハイと一緒に過ごしたんだろうと思うのだけれど―」

 サンティーノが内心不安に駆られながらも落ち着いた声音でそう告げると、ハンスの男らしい顔が微かに震えた。

「そんな…何てこった、こんな時に…!」

 悔しげに吐き捨てるハンスに、サンティーノは冷静に尋ねた。

「ハンス、一体何があったんだい、そんなふうに血相を変えてここに飛んで来るなんて…まさか、ミハイに何か…?」

 ハンスは混乱する気持ちを静めようとするかのごとく、激しく頭をかきむしった。

「ああ、最悪だ。ミハイとレギオンが密かに会っていたことがオルシーニ様にばれてしまった」

「何だって?」

「ミハイは夜明け前に館に戻ってきたところを、待ち構えていた猊下の召使いと兵士に捕まり、猊下の元へ引っ立てられていった。こうなる前に俺がミハイにこのことを知らせに行けたらよかったんだが…逆に捕まって、ミハイはどこに行ったのかレギオンと一緒なのだろうと尋問されて、どうしても脱け出せなかった。俺はミハイが館に戻ってきてやっと解放された…それで、ともかくも一刻も早くこのことをレギオンに知らせようとここに来たんだ。それなのに、あいつめ、肝心要な時にどこにいるのか!」

 サンティーノはハンスの話にじっと耳を傾け、しばし慎重に考えを巡らせた。

「ハンス、君はずいぶん焦っている様子だけれど…それは、つまり今のオルシーニはミハイに何をするか分からないほど危険だということなんだね? ミハイは彼の寵愛を一身に受ける歌手だけれど、レギオンと一緒にいたことが知られればミハイの身が危うくなるほど、2人の逢瀬は危ない橋を渡るようなものだったんだね」

 ハンスは辛そうに顔を歪めた。

「ああ、オルシーニ様はミハイに恋をしているのだと思う。それも決して叶う見込みのない絶望的な想いだ。それが、あの方の心を恐ろしいものに変えてしまった」

 やりきれないような溜め息をつき、ハンスはあざになった己の頬に触れながら一瞬考え込んだ。

「ミハイは、この裏切りが猊下に知られればどんなひどい罰を受けることになるか、おそらく覚悟していたんだろう。それでも構わない、一度でもいいから自分の感情の赴くまま行動したいと…ミハイにとってレギオンと過ごす祭りの一時はそれ程の価値があったんだ」

「そう…ミハイはそこまでレギオンを愛しているんだね」

 そうして、レギオンもまたミハイを―。サンティーノは瞳を揺らした。

「事情は分かったよ、ハンス。ともかく、ここでじっとしていてもしようがない。僕もすぐに支度をするから、一緒にレギオンを探しに行こう。心あたりはあるのかい?」

 鎮まったはずの小さな嫉妬の火が胸を微かに焼いたが、サンティーノはそれを振り払うように、ハンスに向かって言った。

「ああ、ミハイとレギオンの逢引のために部屋を借りたんだが、もしかしたらまだそこにいるかもしれんな」

「では、まずそこに行ってみよう。大丈夫だよ、ハンス。レギオンはすぐに見つかるだろう。そうしたら、今度はミハイを救い出す相談だ」

 サンティーノが励ますように肩を叩くと、ハンスは少し気持ちが落ち着いてきたのか照れたように笑った。

 そうして、サンティーノは慌しく身支度を整えるとハンスと共に明るい朝日に照らされ始めた街に飛び出していった。

(全てはレギオンのためだ。レギオンが大切に思っているミハイだから、無事であって欲しいと僕も願う。彼らの気持ちを見せつけられて全く辛くないかと言えば嘘になるけれど、僕の恋は少なくとも愛する人を苦しめ破滅させるようなものではないと信じたいから―)

 嫉妬に狂った哀れなオルシーニ。権力を使って恋人達を引き裂こうとする行為を醜く浅ましいとは思うが、サンティーノには理解できない感情ではなかった。

(僕もたぶん1つ間違えば、彼のようになってしまうところだったんだ。恋というのは、本当に恐ろしいものだな…人を惑わし、狂わせ、時として心の底に潜む悪魔を目覚めさせてしまう…)

 そういうサンティーノもかつて自らの心の闇を覗き込んだことがあった。 レギオンへの愛と憎しみを持て余していた頃。

 だが、今は―。

(レギオン、僕は君を守りたい。君には誰よりも幸福で、安全でいて欲しい…君が僕には与えられないものを望んで身を焼くよりは、僕が君のためにできる精一杯のことをしよう)

 レギオンのために尽くせる、彼を助けられるだけの力が自分にはある、これはこれで結構幸せなことなのだとサンティーノは思っていた。





 もしかしたら、これは呪いなのだろうか。

 昔々、私達の遠い先祖が神よりも人間の恋人を選んだことの?

 心の底から愛しい、かけがえのないと思う気持ちが、どうしてこんな衝動に結びついてしまうのか。

 ヴァンパイアと人間が幸せになどなれるはずがないとは嫌というほど聞かされた。それでも、何とかなるのではないかと期待した。別に恋人の血でなくても渇きは抑えられるかもしれない、逃げ道はきっとあるはずだ。

 だが、まさかこんなことだとは全く夢にも思っていなかった。

 まるで、互いの心と体が開かれ固く結びついた、その瞬間を合図に私の中にある狂暴な何かが目覚めたかのようだ。

 私ではないもう1人の私が、彼の全てを奪い取り込み、己の一部にしてしまえと叫んでいる。

 そう、私はミハイの血が欲しい―。





 レギオンは逃げていた。

 ミハイの血の誘惑を振り切ろうと、翼のない鳥あるいは天使となって、まだ暗い空へと駆け上がり、風の速度で上空を駆け抜け、ローマの都から遠く離れていった。

(ミハイから遠ざかればこの飢えも消えさるかもしれない。発作的なものに過ぎないのかもしれない。大体、渇きを覚えるにはまだ早過ぎる。サンティーノから血をもらったばかりだというのに、もう次の血が欲しくなるなどありえない)

 レギオンはそれをすぐに醒める悪夢だと思いたかったが、現実は彼の期待を裏切っていた。

(いや、私は飢えている…それもミハイの血だけが欲しい…他の獲物では駄目なんだ。ああ、なんてことだ…)

 レギオンは都を遠く離れ、名も知らぬ小さな村々を眼下に眺めながら通り過ぎ、刈り込まれた畑や丘の上を飛び続けた。恐慌に駆られたまま力の続く限り飛び続け、やがて紫と薔薇色に染まった空の彼方からゆっくりと昇る陽と出会った。

 力に満ちたレギオンも夜が完全に明ける頃には限界に達し、緩やかに空から落ちていった。

 レギオンが舞い降りた場所は街道や人里からそう離れていない森の中だった。そこで初めて我に返って、街中や人里の上を飛行するなど無謀だったかもしれない、夜明け前でおそらく誰にも見られてはいないだろうが、ヴァンパイアの能力を使うならもっと用心しなければと頭の片隅で思った。

 いや、そんなことは今はどうでもいい。人に見られるのが一体何だというのだ。

 疲労と喉の渇きを覚えたレギオンは、近くに水の流れる音が聞こえたので、そちらに向かってふらふらと歩いていった。

 すると程なくして梢の向こうに清らかに流れる小川を見つけ、レギオンは澄んだ水を手ですくって飲み、汗ばんだ顔を洗ってほっと一息ついた。

 レギオンは川べりに腰を下ろし、頭上から差してくる朝日が水面できらきらと踊る様にぼんやりと見入った。

「ああ…私はどうすればいい…?」

 途方に暮れた声で呟き、レギオンは抱え込んだ膝の上に顔を伏せた。

「ミハイ」

 怯えながら、レギオンは恋人を呼んだ。

 たちまち慕わしさと恋しさが胸の奥からあふれ出し、レギオンの酷使されて疲れきった体の隅々まで温かく満たした。

 衝動的な飢えはいつの間にかおさまったらしく、レギオンの牙も唇の陰に綺麗に隠れていた。ひとまずほっとしたが、体の芯に暗い炎がちろちろと燃えていることもレギオンは感じていた。

 この火が消えることは決してない。一旦鎮まってもきっかけがあれば激しい炎となって吹き上がり、レギオンを圧倒するだろう。これはレギオンがミハイの血を飲み干すか、おそらく欲望の対象であるミハイがこの世からいなくなるまで、終わらないのだ。

「嫌だ…嫌だ、そんなことはできない…私はミハイを幸せにしたいんだ、彼と一緒に生きたい……」

 レギオンは震える手を上げ、己の頭をまるで壊そうとするかのごとく強く掴みしめた。

「ミハイの血など飲みたくない…どうか私に殺させないでくれ…大切な人なんだ」

 弱々しい声でレギオンは懇願した。

 誰に? 己のうちに住まう恐ろしい獣だろうか、それとも人間達が神と呼ぶ遠い存在だろうか。

 だが、ヴァンパイアの本能で、レギオン自身も実際には悟っていた。

 逃げ道はない。レギオンは遅かれ早かれミハイを奪うことになるだろう。

 レギオンに残された唯一の選択は、いつ、どんな形でミハイとの恋を終わらせるかということなのだ。

「ミハイ、ミハイ…」

 ヴァンパイアである自分を恐ろしいと、レギオンは生まれて初めて感じた。束の間でさえ『恋人』と呼んだ人間の命を糧にして生きる身を呪った。

 ましてやレギオンはミハイを愛している。彼を殺して自分だけが永遠に生き続けることに一体何の意味があるのだろう。

 ヴァンパイアの宿命とミハイへの愛の板ばさみになって苦しむレギオンだったが、その時、ふいに言い知れぬ奇妙な感覚を覚えて、顔を上げた。

 今、誰かに呼ばれたような気がした。

「え…?」

 レギオンは戸惑いながら耳を澄ましたが、何も聞こえない。空耳だろうか。

 レギオンは立ち上がった。不安な胸騒ぎを覚えて胸を押さえた。心臓の鼓動が早くなっている。

 レギオンはゆっくりと頭を巡らせると恋人がいるはずのローマの都がある方角に向かって、怯えた声で囁きかけた。

「ミハイ…?」 





「レギオン…!」

 寝台の上でオルシーニと格闘しながら、追い詰められたミハイが思わず恋人の名を呼ぶと、オルシーニは聞きたくないというようにミハイの喉を締め上げて黙らせた。

「レギオンになど渡さない。ミハイ、お前は私のものだ。決して、おまえ達を幸せになどさせるものか…どこに逃げようとも必ず私の手のものがおまえ達を追い詰める…闇の貴族の力を借りても、きっと…そう、お前だけでなくレギオンも破滅させてやる!」

 息を乱し服の下に隠されたミハイの肌を荒々しく探る枢機卿の激昂ぶりに圧倒されていたミハイは、その言葉を聞いてかっとなった。

 ミハイは低い唸り声と共にオルシーニの腹を膝で蹴り上げた。腹を押さえて呻くオルシーニの体を押しのけて、ミハイはやっとの思いで寝台から脱け出した。

「逃がさんぞ、ミハイ」

 締め付けられた喉を押さえ咳込みながらミハイがよろよろと扉の方へ歩いていくと、オルシーニの呪詛を含んだ声と激しい息遣いが背後に迫ってきた。

 ミハイは、振り返りざまオルシーニの顔を殴りつけた。寝室の扉に駆け寄り開け放つと、続きの部屋も走りぬけて外の廊下へ飛び出した。

 するとミハイは枢機卿の私室を警護していた兵士達と出くわした。

 衣服を乱し唇から血を流したミハイを前に、彼らは驚きを隠せない。

「何をしておるか! その無礼者を捕らえよ!」

 部屋の奥からオルシーニが興奮した声をあげるのに、戸惑い顔の兵士達も反射的に身構える。

(捕まる訳にはいかない)

 ミハイは兵士達を振り切り逃げ出した。

 締め切った部屋の中では分からなかったが、いつの間にか夜は明けたらしい、明るくなった廊下をミハイは逃げ道を求めさ迷った。

 すぐに階段に行き着いたが、どうやら騒ぎを聞きつけたらしい武装した男達が下から駆け上がってきた。

 後ろからも枢機卿の護衛がミハイを捕まえようと迫ってくる。

 ミハイは悔しげに唇を噛んだ。

 館から脱出する逃げ道は断たれてしまった。

(それでも、僕はオルシーニの手に落ちるわけにはいかないんだ)

 ミハイは悲壮な顔で階段の上方を見上げた。

(僕の部屋までなら何とか逃げて、立てこもることができるだろうか…あそこには、僕の剣がある…)

 ミハイは追っ手から逃げるため階段を駆け上った。

(オルシーニは本気だった…ああ、彼の怒り、嫉妬、欲望も露に迫ってきた顔…駄目だ、彼のもとになど僕は決して戻らない)

 思い出しただけでも、ミハイは怒りと恐怖のあまり涙が溢れ震え出しそうになる。

 レギオンと愛し合ったのはほんの数刻前のことだ。恋人のぬくもりや愛撫の感触も、彼と分かち合った幸福も、ミハイの心と体はまだ鮮やかに覚えている。それを、どうして他の男に汚させることなどできるだろうか。

(僕はレギオンのものだ…僕が愛し選んだ、彼以外の誰のものにもならない…!)

 死に物狂いで走ったミハイは、何とか兵士達が追いつく前に自分の部屋にたどり着くことができた。

 ふらつきながら部屋に入り鍵を下ろすと、ミハイは扉にもたれかかるようにして激しく上下する胸を押さえしばし喘いだ。 

「何てざまだ…」

 ボタンを引きちぎられて半ばはだけたチュニックの前をかきあわせ、唇に残る血を手の甲でぬぐって、ミハイは自嘲的に吐き捨てた。

 気を取り直すと、ミハイは部屋の片隅に置かれたチェストを開いて剣を取り出した。

 ミハイの剣は、普通の男性に比べて腕の筋力のない彼でも簡単に扱えるよう細く軽く作られていた。使い慣れた剣を手に取ると、取り乱したミハイの心は随分と平静さを取り戻してきた。

(さっき何も武器を持たず兵士達に追われた時は、まるで猟犬をけしかけられた無力なウサギにでもなったような恐ろしい心地だったけれど、それが剣を握るだけで気持ちが落ち着くなんて、やはり僕は、こんなになっても武人の子なのかな…)

 ミハイは押し頂くようにした剣の鞘にそっと唇を押し当てた。

 その時、扉を激しく打ち叩く音がした。

 ミハイは剣を胸に抱いたまま、きっとなって扉を睨みつけた。

「ミハイ、ミハイ、この扉を開けるんだ!」

「もうどこにも逃げられんぞ。あきらめて出て来るんだ」

 オルシーニの兵士達が怒鳴りながら、今にも扉を打ち壊さんばかりの勢いで叩いている。

「あきらめる…?」

 ミハイは爛々と目を光らせながら、込み上げてくる激しいものを抑えかねたかのように身震いした。

 一瞬、兵士達の恫喝と扉を叩く音がやんだ。

 そして、今度はまた別の声がミハイに向かって呼びかけてきた。

「扉を開けよ、ミハイ」

 その声に、ミハイは総毛だった。

「オルシーニ…」

 兵士らがミハイを捕らえて連れてくるのを待っていられなかったのだろう、オルシーニは自らここまで足を運んでミハイを引きずり出そうというのか。

「扉を開けて出てくるのだ。ミハイよ、おまえは私の前で神に許しを乞わねばならない…犯した罪を悔い懺悔するのだ…」

 オルシーニは兵士達の手前平静を装っているようだが、いかにも取り繕った彼の言葉はぞっとするほどの欺瞞に満ちて、ミハイは吐き気がしそうだった。

「僕は誰に対しても罪を犯した覚えはない。ましてや貴方に許しを請わねばならない理由などない。それは貴方が一番ご存知のはずだ!」

 ミハイは峻烈な言葉でオルシーニに言い返した。

「ミハイ…!」

 扉の向こうから聞こえるオルシーニの声が怒気をはらんだ。

 今彼がどんな顔をしているか、ミハイには手に取るように分かった。

「おまえは、せっかく目をかけて取り立ててやった私を裏切っただけでなく、その類稀な声で仕えるべき神をも裏切ったのだ。歌うおまえに、かつて私は神の祝福を感じた。天使だとさえ思ったが、実は…おまえは堕落した、罪深く、忌まわしい怪物だったのだ。せめて自ら悔い改めれば、その汚れきった魂にも救われる道が見つかるやも知れぬぞ」

「よくも…そのようなことを―」

 オルシーニのひどい言い草に、さすがのミハイもとっさに言葉が出てこなかった。

 後ろで聞き耳を立てているだろう兵士達を気にしてオルシーニは取り繕っているのか、それとも本気で自分の言うことを信じているのだろうか。寝室での狂気を帯びたオルシーニの様子を思いだし、ミハイには判断がつきかねた。

「猊下、あなたは僕が自分の前に屈することをお望みか。あなたの足元にひれ伏して、僕があなたの思い通りになれば…あなたは満足されるのか」

 ミハイは怒りを押し殺しながら用心深く囁いた。

「ミハイよ、そうだ、おまえの態度によっては私はおまえを許してやらないでもない。さあ、いつまでも無駄な言い争いを続けても埒が明かない。あきらめて、そこから出てくるのだ」

 オルシーニは、今度は口調を和らげ猫なで声で話しかけてきた。後少しでミハイを篭絡できるとでも思ったのだろうか。

「もし僕が嫌だと言ったら、どうなさるおつもりか?」

 オルシーニの声が再び危険な気配を帯びた。

「ならば、この扉を打ち壊し力づくでおまえを引き出そう」

 ミハイは吐息をついた。むしろ哀しい気分になりながら扉に近づくとそこに手を押し当て、向こう側でじっと待ち受けているオルシーニに対して、静かに、しかし明確な意志を込めた声で伝えた。

「僕の気持ちならば既にお話したとおりです、猊下。先程、貴方の部屋で…。貴方が僕に求めるのが結局あのようなことならば、僕には受け入れられません。僕は貴方の所有物ではないのです」

 オルシーニが息を飲む音が微かに聞こえた。

 ミハイは扉から身を引いた。

「扉を叩き壊せ…!」

 火を吐くように、オルシーニは兵士らに命じた。

「レギオン…」

 ミハイは鞘から剣をすらりと抜くと震える声でまた恋人の名を呼んだ。

 レギオンがここにミハイを助けに現れるなどとても無理だと思ったが、それでも呼びかけずにはいられなかった。

(もしハンスが館を上手く抜け出してレギオンのもとに行き僕の危機を知らせてくれたとしても、とても間に合わない)

 誰か屈強な者が扉に体当たりした衝撃に、ミハイはびくっと震えた。

(もしも…今からでも僕が謝罪し諦めて投降すれば、オルシーニは僕の命まで取らないだろう。そうして時間を稼げばここから逃げ出す機会もまた得られるかもしれない、でも…)

 ミハイは一瞬魔が差したようにオルシーニに屈してしまいたい衝動に駆られたが、すぐに気持ちを変えた。オルシーニに負けた後に受けるだろう屈辱にはとても耐えられないと思った。

(そんなことになったら、僕は二度とレギオンの顔をまっすぐ見られなくなる。もう決して彼以外の誰のものにもならないと約束した。そう、僕の誇りにかけて誓ったんだ)

 ミハイは剣の柄をぐっと握り締めると、激しく何かがぶつかるたびに大きく揺れる扉に対して切っ先を向け、構えた。

 オルシーニはミハイが生きている限り彼を許しはしない、レギオン共々どこまでも追いつめるつもりだ。

(いっそ、この剣でオルシーニを刺し殺し、襲い掛かってくる兵士達も倒せる限り倒して、逃げてみようか。もしかしたら館からうまく脱出して、レギオンのもとまでたどり着けるかもしれない。それにもっと運がよければ、レギオンと2人で追っ手がかかる前にローマから逃げ出しどこか遠くに落ち延びることができるかもしれない)

 決然と剣を構えていたミハイの顔に悲愴感が漂った。

(ああ、でも一体どこへ…? こうなったら、もうスペインへは行けない。枢機卿殺しの罪人として追われて一体どこに…そんな希望のない逃避行にレギオンまで巻き込むのか…)

 ミハイの前で扉はぎしぎしときしんだ音をたて続けている。打ち破られるのは時間の問題だ。

「ああ、レギオン…」

 ミハイは顔を歪めた。今にも泣き出しそうに、その目元は赤らみうっすら涙がにじんでいる。

「ごめんよ…僕はもう限界だ。君を…傷つけることになってしまうけれど、でも、もう…他に方法が見つからない」

 ミハイは大きく見開いた瞳からはらはらと涙をこぼした。

(僕は何よりも君を守りたい。君との、この恋を守り抜きたい)

 ミハイは涙を振り払い扉に背を向けると窓の方へ歩いていった。鎧戸を大きく開け放つと明るく澄んだ朝の光がミハイの顔に降り注いだ。

「眩しい…」

 目を細めるようにしてミハイが澄み渡った朝の空を見上げると、遠くに群れをなして飛んでいく鳥達の白い影が見えた。張り詰めた朝の空気がミハイの火照った頬に触れ、流れていく。一瞬前までは苦悶に引き裂かれそうになっていた彼の顔は、今は凪いだ水面のように穏やかで―。

「レギオン、君は僕にとって人生の最後の章を温かく照らし出してくれた太陽だったよ」

 不思議なほど晴れやかな表情で呟くと、ミハイは手にした細剣を天に向かって高く突き出すようにした。手入れの行き届いた剣は、切っ先から柄まで朝日を受けて美しくきらめいた。

 ミハイは剣をくるりと回転させて持ち返ると、鋭い切っ先を己の胸にぴたりと当てた。

「僕の夢は叶ったんだから、これ以上欲張りになるつもりはなかったんだけれど、それでも、やっぱり…もう少し君と一緒にいたかったな…」

 目を閉じると、金色の炎のような恋人の面影が鮮やかに浮かび上がる。その悪戯っ子のような人懐っこい笑顔、新緑を思わす輝く瞳、表情豊かな口元―。

 ミハイの唇にほのかな微笑がうかんだ。

「君を愛している」

 次の瞬間、ミハイの背後で扉が音をたてて打ち壊され、兵士達が怒涛のように部屋の中に押し入ってきた―。


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