天使の血

第六章 謝肉祭

 四旬節の始まりを数刻後に控えた夜の通りを、レギオンはミハイに導かれるがまま歩いていた。

 露店で飲んだワインのせいか、頬は火照り、体はふわふわして、よい気持ちだ。

「どこに行くんだい?」

 ミハイに手を引っ張られながら、レギオンは陽気に尋ねた。

「さあ、どこかな」

 ミハイの口調はいつもの彼のものに戻りつつあるようだ。

 仮装も仮面も大通りを離れたこの辺りではまばらだし、次第に頭が冷えてくるとやはり照れくさくなったのだろう。

「なあ、もう少し遊び歩かないか。このまま2人で酔いつぶれるまで飲みまくろう」

 ミハイは溜め息をついた。

「酔っ払いは嫌いだよ、レギオン」

「ついさっきまではあんなにたくさん愛していると言ってくれたのに、いきなり手の平を返すなんてひどいな」 

 レギオンは膨れっ面をしてそう訴えると、いきなりミハイの手を引いて彼を抱きしめ唇を唇でふさいだ。

「愛しているよ、ミハイ…」

 レギオンが囁くのに、ミハイはあまやかな吐息を漏らした。

「僕もだよ、レギオン…それに、ああ、祭りはまだ終わっていない…僕達の夜はまだ続くんだ…」

「何だよ、別に祭りが終わったからって私達が終わるわけではないだろう?」

 ミハイはレギオンの口元にそっと唇を押し当てて身を離すと、再び歩き出した。

 狭い小路に建ち並ぶ家々の窓にはあまたの蝋燭の火が揺れていた。戸口に佇む女や子供たち、通りを歩きすぎていく人々の手にも瞬く小さな炎が灯っている。

「また来年もあるさ」

 レギオンははかなげに揺らめく蝋燭の炎を目の端にとめながら、自分に言い聞かせるように呟いた。

「ここだよ」

 ミハイがレギオンを連れてきたのは小路の中にある一軒の古びた家だった。 外から見る限り人が住んでいる気配はなく、ほとんど廃屋じみていた。

 扉の閂が外され、レギオンはミハイに手を取られて家の長い階段を上っていった。

 いつの間にかレギオンの酔いは醒めていた。前を行くミハイのまっすぐ伸びた背をひたと見つめていた。

「ハンスと彼の友人達が、僕達のために色々手配してくれたんだ。僕のこの格好もそうだし、この家を見つけて部屋を整えてくれた。ここならばオルシーニ様の手も届かない。誰にも邪魔されることなく、君と一晩共に過ごせる」

 階段の先にあった部屋の扉をミハイが開いた。

 中に入ると、暖炉には既に火が燃えており、部屋は快適に暖まっていた。

 外からはあばら家然としていたが、この部屋だけは人が入って綺麗に整えたのだろう、清潔に掃き清められ、家具は美しく磨かれ、窓に引かれたカーテンも新しいものに取り替えられている。

 部屋の真ん中のテーブルには、ワインと軽い食事、果物が用意されていた。そして、花を盛られた大きな琺瑯の器が部屋に華やいだ彩を添えた。

 部屋の奥にはもう1つの部屋に続く扉があった。おそらく寝室なのだろう。

(まるで新婚の夫婦のために備えられた初夜の部屋のようだな)

 そんなことをふと考えた途端、レギオンは頭の中がかあっとなり、激しく汗をかき始めた。

「ミ、ミハイ」

 レギオンが内心焦りながら恋人の姿を求めると、逆に落ち着き払ったミハイはテーブルの上の果物篭から林檎を取ってかじっている。

「君も何か食べたらどうだい?」

「うん…」

 レギオンは素直に頷いて椅子に腰を下ろすとパンを食べゴブレットに注いだワインで流し込んだ。

 そうして2人はしばらく黙り込んだまま向き合って食事を続けた。

 ミハイの存在を意識して落ち着かないレギオンはワインをよく飲んだ。酔いの力を借りなければミハイと2人きりでいられる勇気が持てないとは何とも情けないことだった。

 レギオンはワインをすすりながら目の前に座っているミハイをちらちらと盗み見たが、なかなか話しかけられなかった。やがて、彼はそんな自分にほとほと嫌気が差した。

「全く、一体どうしたんだ、私は…!」 

 思わずそう吐き捨てるレギオンに、ミハイが問いかけるような眼差しを送ってきた。レギオンは慌てて俯いた。

「レギオン、ここに来てからずっと黙っているんだね」

 ミハイは低い声で囁いた。

「もしかして気が進まないのかな…? 君の気持ちも聞かないで強引に引っ張ってきたりして、悪かったろうか…?」

 おずおずと尋ねるミハイに、レギオンははっと息を飲んだ。

「ち、違う、そんなことはない! ただ少しびっくりしたんだ…変だな、こんなこと、私はいつも平気なはずなのに…急に何も知らない子供になったようなおぼつかない心地がして…君とここでこうしていることに緊張しているみたいなんだ」

「僕だって、緊張しているよ」と、ミハイがぽつりと呟いた。

「僕の方こそ、こんな大胆なことをするのは初めてなんだから…」

「ああ、そうだろうね」

 レギオンは微笑んだ。

「全く、今日の君には驚かされたよ。まさか君がそんな仮装で現れるとは夢にも思っていなかったし、君の振る舞いの全てがいつもとは違っていた。まるで別人に化けたかのようにね」

「僕は君を驚かせることに成功したのかな?」

「ああ。大成功だったさ」

 ミハイははにかむように笑った。そして、改めて意識したように己のレースの襟をぎこちなく引っ張った。

「よく似合っているよ、そのドレス。君ほど美しく、愛らしく、素晴らしい気品と威厳を備えた美女は世界中探しても見つからないさ」

 ミハイはぐっと何かが喉に詰まったような顔をした。

「そんなことを真顔で言われると…駄目だ、耐えられない…」

 ミハイは真っ赤な顔をして立ち上がると、頭にかぶった金髪の巻き毛のかつらを真珠の飾りごと乱暴な手つきで引き剥がし部屋の隅に投げ捨てた。

「ああぁっ、ちょっと待った、せっかくの夢を壊さないでくれ!」

 レギオンは悲鳴をあげてミハイに駆け寄ると、むきになったようにドレスも脱ぎにかかるその手を掴んだ。

「こらこら、せっかくハンス達が用意してくれたドレスを破ってしまうつもりかい」

「いくら仮装だからって…別に女の衣装でなくても僕はよかったんだ…」

 拗ねたように顔を俯けるミハイをレギオンは優しくなだめた。

「けれど、これ程完璧な変装は他になかったと思うよ。いくらオルシーニでも今の君の姿を見てミハイだと見抜けるはずはない」

 うろたえ恥ずかしがっているミハイを前に、レギオンはやっといつもの調子を取り戻した。

「君はそれほど完璧だったんだ。性別も何もかもを超越して君はこの世で最も美しい」

 レギオンの手放しの賛辞に、暗い皮肉な笑みがミハイの口元にうかんだ。

「男でもない女でもない怪物だということさ」

 するとレギオンはミハイの言葉を強く否定した。

「怪物じゃない」

 レギオンはミハイの手をいとおしむように撫でながら、愛情を込めて囁いた。

「天使だ」

 ミハイがレギオンを見上げた。大きく見開いた目。長いまつげは微かに震えている。

「レギオン」

 掠れた声でミハイは囁いた。

「胸が苦しいんだ…このドレス…ずっと我慢してきたけれど、もう限界だ…脱がしてくれないか…僕がすると本当に引き裂いてしまいそうだから…」

「お安い御用だよ」

 レギオンは楽しげに笑って、慣れた手つきでミハイの胸の下の金の留め金を緩め、ビロードのドレスを開き、ペチコートや体を締め付けるコルセットを慎重に取り除けていった。

 胸が解放されると、ミハイはやっと息が出来るというように深呼吸をした。それから、いきなりむき出しになった肌に寒気を覚えたのか小さく身震いをした。

「寒いのかい?」

「ううん、そうじゃない…」

 レギオンは薔薇の花弁を一枚ずつ剥がしていくような気分で、ミハイの体を覆う衣装を一枚ずつ丁寧に脱がしていった。

 スカートの紐を解いて引き下ろそうとするとミハイは一瞬身を強張らせたが、レギオンの手を止めようとはしなかった。

 そうして真っ白な薔薇の花の芯が現れた。レギオンは床にひざまずいたまま、しばし恋人の美しい裸身に見惚れた。

 だが、ミハイはレギオンの注視に身をさらすことが耐え難いというように顔を背けている。それは普通の男性の体とは異なっていたが、かといって女性のものでもなかった。どこまでも白く滑らかな絹のような肌、しなやかに長い手足、歌の訓練のために広がった胸には少女のような可憐なふくらみさえある。

 レギオンは思わず吐息をついた。

「ああ、やっぱり君は天使だよ、ミハイ。この世に君ほど美しい生き物はいない」

「いいや、僕は醜い。こんな姿におとしめられてまで、僕は生き伸びたかった訳じゃない」

 固い声で言い哀しげに首を振るミハイにレギオンは眉根を寄せた。

「ずっと君が羨ましかったよ、レギオン。君のように僕はなりたかった。君が当然のように備えたもの全てが、僕は喉から手が出るほど欲しかったんだ」

 ミハイの瞳からきらきらと光る涙がこぼれるのをレギオンは呆然と見守った。

「ミハイ」

 ふいに熱いものが胸の奥から込み上げてきて、レギオンは立ち上がった。

「それほど欲しいのなら、君のものにしろよ」

 涙で濡れた目を上げるミハイの前で、レギオンは己の長い髪をひっ詰めた飾り紐を解いて、輝く金髪を振りたてた。

 そうして、分厚い黒のチュニックやその下の濃い緑のダブレットも脱いで、床に無造作に落とした。

「レギオン…」

 ミハイの声には動揺がにじみ出ていたが、レギオンは身につけているものを全て取り除いてしまうまであえて応えなかった。

 そうして、暖炉の火が投げかける金とオレンジの光の前で2人は裸になって向き合った。揺らめく光とほの暗い影が彼らの肌の上で踊っている。

 ミハイは眩しくて見ていられないというようにとっさにレギオンから目を逸らそうとした。

「逃げるなよ、ミハイ。私から目を逸らすな」

 ミハイは唇を噛み締め、きっとなってレギオンを睨みつけた。一瞬後にはミハイの表情は溶け、レギオンに対する感嘆と共に苦しげな渇望がうかんだ。

 そんなミハイに歩み寄ると、レギオンは激しく上下する互いの胸が今にも触れ合いそうなほど近くに立った。

「これが君の欲しいものなのだろう、ミハイ。ならば自分から手を伸ばして触れてみろ、私を感じてみろ」

 レギオンは身動きすることもままならずに立ち尽くしているミハイの手を取り、己の体に導いて触れさせた。

「私の全ては、君のものだよ」

 レギオンを見上げるミハイの青い瞳に涙が盛り上がった。

「レギオン」

 ミハイはレギオンの肩を引っつかむようにして引き寄せ、彼の唇に己の戦慄く唇を押し付けた。

 レギオンは迷わずミハイの震える体を抱き寄せ、今にも壊れそうなほどの力で強く抱きしめた。

 ヴァンパイアであるレギオン。人間であるミハイ。この瞬間、またしてもレギオンはそのことを忘れた。

 ミハイへの愛情と彼と交わすこの悦びの前に何もかもが消し飛んだような気がした。

 不思議なことだ。束の間の愛人達と交わす行為など、レギオンにとってあまりにも慣れきったものであったはずなのに、こんな歓喜は初めて知るような気がした。

 不思議なことだ。愛とは奪うように手に入れるものだと思っていたレギオンが、誰かに愛を与えるということにこんなにも深い喜びを覚えている。

 ミハイが何者であってもレギオンはよかった。自分が何であるかなど、もっとどうでもよかった。

 外の世界では、この年の謝肉祭は終わりを迎えつつある。明日からは人々は再び常の自分に戻って生きなければならない。

 だが、激しく求め合うがまま抱き合う彼らにとって、束の間の夢から覚めた時に訪れる現実はまだ遠い。

 レギオンとミハイ。ヴァンパイアと人間。だが今は、名もないただの恋人達にすぎなかった。




 私が幼かった頃、母がよくこんな物語を聞かせてくれた。

 昔々、天に住まう天使達が、地上に住む美しい人間の娘達に恋をした。

 そうして、その娘達と一緒になるために、彼らは神に仕える役目を捨て肉の体をまとって地上に降りた。

 だが、やがて神の怒りが引き起こした洪水によって地上は滅ぼされ、もと天使達は再び肉体を捨てて大地を去らなければならなくなった。

 彼らの人間の恋人は皆死んでしまった。

 だが、天使とその恋人の間に生まれた子供達は生き残り、その一部がやがて私達のような血を吸う者となった。ヴァンパイアが自分達を『堕ちた神の子』と呼ぶ理由はそこからきているのだ。

 つまり私達は、神に背いた恋人達の許されぬ恋の形見なのだ―。





「レギオン?」

 金糸で透かし織りのされたカーテンのかけられた天蓋付きの寝台の中、レギオンが頭台に軽く背中をもたせかけて深い物思いにふけっていると、傍らで気を失うように眠っているとばかり思っていた恋人が温かい体をすり寄せてきた。

「ああ…目が覚めたのかい、ミハイ…」

 気だるげに身を起こしレギオンの隣に膝を抱えて座るミハイを彼は愛しげに見つめた。

「大丈夫かい、その…」

 言いかけて、いきなり色々思い出してしまったレギオンは、つい照れくさくなって口ごもった。

「やっぱりちょっと…辛かったかな…?」

 ミハイはまだ少し放心しているようだった。甘えかかるようにレギオンの肩に頭を乗せた。こんな可愛い仕草は普段のミハイは絶対見せてくれないだろうと、レギオンは胸がきゅっとしめつけられるような気がした。

「うん…」

 ミハイはおぼつかなげに手を上げて、実感を確かめようとするかのごとく己の顔に触れ、それからレギオンを見上げた。

 ミハイはとろけるような笑みを満ち足りた美しい顔にうかべた。

「でも…これが、こんなに素晴らしいことだとは初めて知ったよ…」

「ミハイ…」

「かつて僕の主人だった男に命じられて閨房での務めを嫌々果たしたことはあったけれど…僕にとってそれは忌まわしいだけの行為だった…それがこんなにいいなんて驚いた…何と言うのか、僕の受けた傷や痛みが君によって癒されていくような気がした…」

 レギオンも同じような驚きや発見があったのだとミハイに伝えたかったが、どうにも気恥ずかしくて打ち明けられなかった。

(私の方こそ、君を抱きながら、幸福のあまり身震いし転げまわるような気分だった…あれは切り離されたものが再び1つに結びつくような行為なんだ。誰にも君を傷つけさせたくないと思った…私の体の一部であるかのように君を感じていたよ…)

 ミハイはレギオンの肩にそっと唇を押し当てたかと思うと彼の指に己の指を絡ませた。

「僕は、もう他の誰にもこの体を触れさせない。今までは生き延びるために立身のために武器として道具として体を使ったこともあったけれど、もう二度とあんなことはしない…誰にも許さない。僕は君だけのものだから…僕の誇りにかけて誓うよ」

 生真面目なミハイらしい誓いだと、生来多情なレギオンはちょっとくすぐったかったが、彼のひたむきさが可愛かった。

 レギオンはミハイの肩に腕を回し、彼の艶やかな髪を指先で愛しげに梳いた。するとミハイはレギオンにもたれかかったまま心地よさそうに目を閉じる。

 レギオンはミハイがそのまま再びとろとろとし始めたのだと思ったが、しばらくして、ミハイはぽつりと呟いた。

「僕に去勢手術をしたのはギリシャ人の医者だった…」

「ミハイ?」

「僕が異教徒どもの奴隷だったコンスタンチノープルでのことだよ…僕の主に取り入るためにそのギリシャ人は僕に声を保つための施術を行ったんだ。僕は薬を飲まされて朦朧としていたけれど…その瞬間の食い込む刃の痛みははっきりと覚えている。後になって自分が何をされたのか分かって僕は怒り狂ったけれど、もう何もかも遅かった。それにね、結局僕にコンスタンチノープルを脱出させてくれたのもそのギリシャ人だったんだ。たぶんトルコ人の不興を買っていづらくなったんだろうね、僕の他にもう1人の去勢者を伴ってイタリアに逃げた。彼らとは僕がフィレンツェに行く前に別れたよ。人体の研究のためにボローニャの大学に行くとか言っていたが…。ああ、急に何を言い出すんだろうね、僕は。ごめんよ、レギオン、退屈な話をして…

「いや…君のことは何であれ私は知りたいと思うよ。そんなことを話すのは君にとって辛いだろうに、どうしていきなり打ち明ける気になったんだろうと不思議には思うけれど…」

「どうしてだろう…ただ、急に昔のことを色々思い出すんだ。辛く苦しかったこと、怒りや恨みに身を焼いた記憶…けれど、なぜかな、以前は思い出すだけで胸が痛んだのに、今はほとんど辛くない。あの医者のことも、今度どこかで出会うことがあればあの時の恨みを晴らしてやる、殺してやるとまで憎んだこともあったのに、もう恨む気持ちもなくなってしまった。どうしてだろうと考えていたんだけれど…」

 ミハイはふいに身じろぎしたかと思うと、微笑めいた吐息をもらし、レギオンの顔を覗き込んだ。

「ああ、分かったよ…たぶん僕は今幸福だからだ。自分が不幸だと思い込んで、自分の境遇が苦痛で不満な時は、過ぎ去った昔のあれこれが口惜しく、どうしてあの時僕だけが生き残ってしまったのと運命を呪い、どうして異教徒どもに僕の歌を聞かせたのかと後悔し、僕の男としての尊厳を奪ったあのギリシャ人のことも憎くて仕方がなかったけれど…今ならみんな許せる…」

 ミハイはふと言葉を切ると、レギオンの胸にそっと指先を滑らせ、小首をかしげた。

「ねえ、レギオン、僕のことを愛している…?」

 どことなく甘えたふうに問いかけるミハイの体をレギオンは思わず強く抱きしめた。

「ああ、愛しているよ、ミハイ」

「…嬉しい」

 ミハイはレギオンのきついくらいの抱擁にうっとりと目を閉じた。

「これまで生きてきた時間の中で今が一番幸せだよ、レギオン。色んなことがあったけれど、僕は生まれてきてよかった…今なら迷わずにそう言える。君に会えてよかったよ、レギオン。本当に…ありがとう」

「礼なんて言うようなことじゃないよ、ミハイ。ありがとうだなんて…まるでこれが最後の逢瀬みたいに聞こえるじゃないか…まさかいきなり別れようなんて言い出す気じゃないだろう?」

「違うよ、ただ…今と同じ気持ちでお互いずっといられるとは限らないから…この幸福の絶頂にある今のうちに、君に僕の思いの全てを話しおこうと…」

「ああ、また君の無粋な現実主義が始まったのかな? やめろよ、今が幸せだと言うのなら、余計なことは考えずに溺れればいいのさ。それに、私はずっと今と同じ気持ちで君を愛するよ、ミハイ。ずっと君だけさ」

「それは、あまりうけあわないほうがいいと思うけれどね、レギオン」

 駄々っ子をあやすような口調で言うミハイにレギオンは少しむっとしたが、ミハイが手を伸ばしてレギオンの頭を引き寄せ口付けを求めるのに黙って応えた。

「もしも明日君が心変わりしたとしても、僕は…僕の方こそ、ずっと君だけだよ、レギオン」

「どうして、そんなことを言うんだ?」

「それは、僕にとって今こそが最高だからだよ、レギオン。これ以上の幸福は僕にはもう想像できないから…すべての夢が叶って涙が出るほど嬉しくて、そして、たまらなく恐い…」

「恐い?」

「だって、今が絶頂だということはもう後はないということだよ…これほど不安なことはない…」

「馬鹿な考えだ。どうして今よりもっと幸せになれるとは思わないんだ? この短い一時だけで満足することなどないんだ、もっと欲張りになれよ、ミハイ。私は君とずっと一緒にいたい。せめて…君がいつか年老い人の寿命が尽きて死ぬまで…君が満ち足りた幸せな生涯を閉じるまで、どうか私に君を守らせてくれ」

 レギオンは彼にしてはかなり真剣に訴えたつもりだったが、ミハイは冗談だと思ったのか軽く眉を跳ね上げた。

「気が遠くなるような話だね…一体君は、そんな皺くちゃの年寄りになった、今よりもっと頑固で手に付けられないような僕でも愛してくれるのかな」

 レギオンはむきになって言い張った。

「ああ、もちろんだよ。どれほど時間が過ぎても、私が愛した君の魂の炎は色あせない。永遠にね」

「永遠…」

 ミハイはふと遠い表情になって、黙り込んだ。

「レギオン、君は本当に、僕をその気にさせる魔法の力でも持っているかのようだね。君といると現実的で疑い深い僕までも世間知らずの夢想家になってしまう」

 穏やかに微笑むミハイの美しい顔に、レギオンはそっと手を伸ばして指先で触れた。滑らかな頬を掌で包み込んだ。

「それでいいんだよ、私達は共に夢の世界の住人なのさ」

 レギオンは何か言いたげなミハイの口に素早くキスをした。余計なことを考えすぎる、この理屈屋を黙らせるため。それから、彼の華奢な体を己の腕の中に巻き込み寝台の上に押し倒した。

「一緒にもっともっと上まで登りつめていこう」

 たぎる情熱を込めてレギオンはミハイをかき抱いた。ヴァンパイアの抱擁に一瞬ミハイは苦しげに吐息をついたが抗わず、むしろ果敢に、熱く湿った手足を絡ませてレギオンに応えた。

 レギオンが真の力をぶつければ簡単に壊れてしまうもろい肉体を持つ人間の恋人は、だがレギオンを容易に傷つけ打ちのめす力を備えている。 

 ミハイを失うことなど、レギオンには考えられなかった。

 命に限りのある人間であれば、いつかは別れがくることは避けられない。レギオンも頭ではそう理解しているつもりだが、ミハイがこの世からいなくなってしまうということがどうしても信じられなくて、こんなことまで考えた。

(君は、きっと本当は人間じゃないんだ。私と同じ、時間を越えた不滅の存在に違いない。だって、君ほど鮮やかな燃えるような命の輝きを私は見たことがない…ああ、ミハイ、君ならば永遠にだって生きられるよ…)

 レギオンは既に自分のものとなったミハイの体を再びまさぐり、指先と唇であらゆる部分を探索しながら、まるで祈りを捧げるように胸のうちで囁きかけていた。

 ミハイもほっそりとした手を伸ばして、レギオンの体を隅々に至るまで知り尽くそうとするかのごとく探っていた。レギオンもまた彼のものだった。

 ミハイは完全にレギオンに向かって開かれ、そして、レギオンもまた己の全てが彼に向かって開放されていくのを感じた。互いの心が通い合い、肉体が結ばれ、2人は1つとなった。

 だが、その時―。

 恋人の熱い体の中に埋もれ、溺れながら、レギオンは肌が粟立つような強烈な芳香が鼻腔に忍び込み、体の隅々にまで激しい戦慄が走るのを感じた。

 レギオンの人間そっくりな肌の下で凶暴な獣が蠢いた。

(ミハイ…!)

 レギオンは愕然となって腕の中の恋人を見下ろした。

 一体何が起こったのか、レギオンの目に映るミハイの姿は一瞬前とは違っていた。いきなり乱暴になったレギオンに激しく突き上げられて、息も絶え絶えになりながら恍惚の表情をうかべているミハイの薄い皮膚を通して血が透けて見える。その全身から甘く芳しい血の匂いが立ち上ってくる。

 レギオンの鮮やかな緑の瞳の奥で、もう一対の獣の目が瞬いた。急激に鋭くなり伸びてこようする牙を、レギオンは必死の思いで唇の下に隠した。

(血、血、血が匂う。飲み干してくれと私を誘う。これこそ私が欲する唯一の血。私が愛した人間の恋人よ、お前でなければ、もうこの渇きは癒せない)

 レギオンの中で、もう1人の彼が―獣がそう叫んだ。

(違う!)

 レギオンは頭を振りたてて絶叫し、己を取り込もうとする獣を追いやった。すると獣は再び静かになって、レギオンの体の奥深くに消えていった。少なくとも、今は―。

(違う、こんなことはあり得ない…いつもの飢えとは違う、こんな恐ろしい飢渇をなぜ私の恋人に―ああ、どうして…どうしてミハイなんだ…!)

 レギオンはしばし動きをとめひたすら呆然となっていた。体は熱く燃え立っていたが、胸のうちの心臓は恐怖のあまり凍り付いていた。

 そんなレギオンの頬にミハイの温かい手が触れた。

 レギオンは慄いたように身震いし、自分の下にある優しく気遣わしげな顔を見下ろした。青い目は大きく見開かれ、やわらぎ、レギオンに対する純粋な愛情に溢れている。

「大丈夫かい…?」

 ミハイの柔らかな低い囁きを聞いた途端、レギオンは涙が出そうになった。

「ミハイ、私は君を愛しているんだ…!」

 ミハイは、取り乱したレギオンを見ることを悲しんでいるような顔をして、彼を強くかき抱いた。まるでレギオンの苦痛を癒したいというかのごとく。

 ミハイの血の匂いが再びレギオンを惑乱させたが、彼の肌に牙を立てるなどレギオンにはとても考えられなかった。

「ミハイ、ミハイ…」

 ミハイの指先はレギオンの髪の上を思いやりに満ちた仕草で滑っている。

 レギオンは震える瞼を閉じ、手探りで見つけたミハイの唇に唇を重ねた。彼の全てを受け入れるように、ミハイの口は優しく開かれた。

 レギオンは再びミハイの中に深く分け入り、貫いた。そうして、まるで己を束の間襲ったあの抗いがたい恐慌を忘れようとするかのごとく、恋人と交わす熱く親密なこの行為に我を忘れてのめりこんでいった。





「いいかい、僕が出て行ったら、君もなるべく早くここを立ち去るんだよ」

 予め部屋に用意していた男の服を身につけて、ミハイは現実的なきびきびとした口調で、先程からずっとぼんやりしているレギオンに念を押した。

「この部屋も後でハンスの仲間が来て何もなかったように片付けてくれるはずだから、君は心配しなくていい」

 レギオンは黒い地味な外套を着て帽子を被ったミハイを凝然と眺めた。

 女装であろうが男装であろうが、ミハイの素晴らしさは変わらない。レギオンは同じほど惹きつけられた。だが今は、それとは違う別の誘惑も恋人から感じている。

「ねえ、レギオン?」

 ミハイが心配そうに囁くのに、レギオンはまばたきをした。

「一体どうしてしまったのかな、君は…あんなに上機嫌で僕にたくさん話しかけてきた君がそんな憂鬱な顔で黙りこんでいるのを見ると調子が狂うよ…別に今生の別れというわけではないと君の方が僕に何度も言い聞かせてくれたのにね。レギオン、僕のことは自分で何とかするから心配しなくていいんだよ。またすぐに会えるさ。君が僕のことを忘れない限りね」

 レギオンはほろ苦い気分で微笑んだ。

「私が君を忘れることなどあるもんか」

 レギオンはたまらなくなって、ミハイの体をひしと抱きしめた。

 夢のような一夜は過ぎ、夜明けが次第に忍び寄っていた。

 ミハイをオルシーニのもとに返さなければならないことにレギオンは激しい抵抗を覚えていたが、同時に、今の自分こそミハイには最も危険な存在かもしれないという恐れがレギオンを踏みとどまらせた。

「必ず…必ず君を迎えにいく。今度会ったらもう君を離さない…永遠に一緒だから…」

 苦しげに囁くレギオンをミハイは聡明な青い瞳で探るように見つめた。

「レギオン、さっき…その…君と抱き合っていた時…」

 ミハイは赤くなって喉に何かが引っかかったようにちょっと咳込んだが、すぐに真摯な顔になって続けた。

「ほんの一瞬だけれど、君が…君の顔が違うように見えたよ。僕を抱いている、僕が抱きしめている相手は一体何者なんだろうとふと思うくらい、君がいつもと違うように感じられた」

 ミハイはよく分からないというように首をかしげた。

「おかしいな、まるで君が人間ではない…別の何かのように感じられたんだ…もしかしたらぼくは君にこのまま食べられてしまうのではないかと思ったよ」

 レギオンの心臓はどくどくと打ち鳴らされていた。彼は緊張のあまり喉が渇くのを意識した。

「私を恐いと思ったかい、その時…?」

 するとミハイは意外そうに瞬きをして、不思議なほど透き通った笑みをレギオンに向けた。

「いや。恐くなどなかった。君が何であるかなど、僕にはどうでもいいんだ。君が天使や悪魔であったとしてもそれ程僕は不思議には思わないような気がするよ。たとえ怪物であったとしてもね。大体、もっと恐いものなら世の中にはたくさんある」

 一点の曇りもない清々しい顔をしてそう告げるミハイに、レギオンは胸を揺さぶられた。

 ミハイを返したくない。このまま2人で逃げられる所まで逃げたい。自分達を引き裂こうとする人間の手からも、そして、レギオンがついに我がこととして理解したこの避けがたい現実からも―。

「ミハイ、私は…」

 レギオンは声を震わせた。喉につかえて言葉にならず、潤んだ目でじっとミハイを見つめていると、彼はレギオンの唇に優しく口付けをした。

「さあ、僕はもういくよ。ありがとう、レギオン。短い時間だったけれど君と一緒に過ごせて本当によかった」

 引きとめようと伸ばしかけるレギオンの腕からするりとぬけて、ミハイは部屋の扉を開けた。

 階段の下から外の冷たい空気が流れ込んできて、暖炉の中で死にかけている暗い炎を揺らした。

 ミハイは一瞬立ち止まり、レギオンを振り返った。

 レギオンのすべてを目に焼き付けようとするかのごとくじっと彼を見つめたかと思うと、ミハイは鮮やかな微笑を残して扉の向こうに消えていった。

「ミハイ…」

 レギオンはよろよろと歩き、閉ざされた扉に身を押し付けた。

「ああ、ミハイ―」

 扉に頭を押し付けて低い声で苦しげに呻くと、レギオンはついに耐えられなくなったかのようにそのままずるずると床に崩れ落ちた。

 震える手を上げ口元を覆った。レギオンの唇はまくれ上がり、そこからは鋭い牙がむき出されていた。

 ミハイの血への欲望がついに自制を上回り、レギオンの顔を変貌させていた。人間の貌ではなかった。血を吸う神、ヴァンパイアのものだ。

「まさか、こんなことだったとは…私は知らなかったんだ…!」

 レギオンは悲鳴のような声をあげて、己の輝く髪をかきむしり、扉に頭を打ち付けた。

 レギオンの双眸から涙が溢れ出し、微かに震える頬を伝って流れ落ちた。

 ミハイとレギオン。人間とヴァンパイア。祭りの熱夢が醒めた今、レギオンはその過酷な現実を思い知らされていた。





 君を幸せにしたい。君とずっと一緒にいたい。永遠なんて無理は言わないよ。でも、せめて君が限りある人間の一生を幸福に終えられるよう、私が君を守りたいんだ。

 いつか君が年を取ったら―若い姿のままの私を見て君は不思議に思い、どうして私は変わらないのかと尋ねるだろう。

 そうしたら、私は答えるんだ。

 私の君に対する愛が出会った時からずっと変わらないからさ。

 そして、私もまた君のうちに昔と少しも変わらぬ美しい命の輝きをいつも見ているのだよ、と―。





 夜明け前に、ミハイはオルシーニ邸に戻ってきた。

 外から見る限り、館は暗く静まり返っており、皆眠っているように思われた。

 ミハイは思わず安堵の吐息をついた。 

(館を出て行く前は、うまく脱け出せるだろうか、途中で捕まるか、街に出てもレギオンに会えずじまいになるのではないかと心配だったけれど、こんなに何もかもがうまくいくなんて―)

 暗闇にそびえたつ館はそこの主を思わせて冷たく余所余所しく見えたが、ミハイの胸は温かだった。

 レギオンと祭り見物をしてはしゃぎまくった昨日のことはどんな小さな出来事も鮮やかに思い出せるし、あの時の高揚感もまだ胸に残っている。それに、レギオンと過ごした一夜の幸福は、何年経ってもミハイは決して忘れないだろう。

(レギオン…まだ君の名残りを僕は体中に感じている。君の温もりや肌の感触、吐く息の熱さや僕に囁く君の声…)

 ミハイは熱くなった頬に触れ小さく吐息をついた。

(あの一瞬の幸福のためなら、僕は何を犠牲にしても後悔しないだろう。例え、そのためにどんな悲惨な目にあったとしても構わない。だって僕の最後の夢は叶ったんだから…そう、僕は今、幸せなんだ)

 ミハイはそれでも一瞬館の中に入ることを躊躇ったが、人の気配がないことをもう一度確認して、裏門を潜り闇に沈んだ庭を横切って、近くに厨房などがある召使い専用の小さな扉を目差した。

 そこはハンスが開けておいてくれることになっている。

 ミハイが用心深く木の扉を開くとそれはほとんど音もたてずに滑らかに開いた。

 ミハイは猫のように身軽に中に入り込み、扉を閉じて、何事もなかったかのように閂をおろした。

(ハンスはきっと心配しているだろうな…先に彼の部屋に寄って僕が無事に帰ってきたことを知らせたい気もするけれど、やはりこのまま自分の部屋に戻って夜が明けるまで待った方がいいか)

 ミハイが静まり返った館の中を息を殺して足早に歩き、ようやく自分の部屋の近くまでたどり着いた、その時、ミハイははっとなって足を止めた。

 廊下の向こうにあるミハイの部屋の前に灯りが揺れていた。

 目をすがめるようにして眺めてみると、灯りの傍には数人の兵士達が、1人の男を取り囲むようにして佇んでいる。

(ハンス…!)

 ミハイは唇を噛み締めた。

 そうして、このままにはしておけないと、己の存在を示すよう足音をたてて彼らのもとに近づいていった。

 近くなるとハンスはどうやら怪我をしているらしいとミハイは気がついた。ハンスは剣も奪われて兵士達に威嚇されるようにミハイの部屋の前に立ち尽くしている。

「一体、何事だ!」

 ミハイはついかっとなって厳しい声で叫んでいた。

「ハンスに一体何をした?! 彼は僕の護衛だぞ、誰の命令でこんな―」

 闇の中からいきなり現れたミハイに兵士達は一瞬怯んだようだ。じりっと後じさりする彼らは放っておいて、ミハイはハンスの傍に駆け寄った。

「ハンス、誰かに痛めつけられたのか? ああ、まさか僕のせいで―」

 ハンスの顔に残るあざを見て、ミハイは胸を痛めた。

「いや、俺の方こそ、すまない、ミハイ。あなたを街に脱け出させたことがばれてしまった…あんなに皆に口止めをして計画もちゃんとたてたのに、一体どこから秘密が漏れたのか―」

 すまなそうに謝るハンスにミハイは首を振った。

「君は僕のために本当によくしてくれたよ。僕の無茶な冒険に君を巻き込んでしまったことが、僕にはむしろすまなく思われるくらいだ。でも、ハンス、君のおかげで僕は素晴らしい時間を持てた。君には、いくら感謝しても足りないくらいだよ、だから謝らないでくれ」

「ミハイ…」

 差し出したミハイの手をハンスは震える手でぐっと握りしめた。 

「ミハイ様」

 聞き覚えのある声に呼ばれてミハイが顔を上げると、オルシーニの従僕が兵士達の間から進み出た。

「祭りを楽しんで来られたようですな」

 どことなく嫌らしい含みを感じさせる口調で、彼は言った。ミハイを足先から頭まで執拗に眺め回す彼の視線に、ミハイは思わず身震いした。

「さて、快楽を貪った後は、その代償を払わなければなりません」

 改まった口調で言う従僕に、ミハイは眉を吊り上げた。

「あなた様のお帰りを猊下はじりじりしながらお待ちになられています。どうぞ、そのまま猊下の私室においでになってください」

 ミハイは探るような目で男の慇懃な顔を眺めた。

「昨日のことは全て僕の我侭から起きたもので、ハンスには罪はない。これ以上彼には何もしないと約束できるか」

「ミハイ様、その男はあなたがどこに行かれたかどうしても口を割らなかったので、我々は少しばかり乱暴なこともしましたが、あなた様がこうして無事に戻られたからには、もうこれ以上どうしようというつもりはありません」

 ミハイは溜め息をつき、従者に向き直った。

「分かった。オルシーニ様のもとに行こう」

「ミハイ!」

 ミハイの肩にハンスの逞しい手がかけられた。

「駄目だ、行くんじゃない」

 切迫した声で訴えるハンスを、ミハイは肩越しにそっと振り返った。

「大丈夫だよ。それに、オルシーニ様は僕の主だ。僕が自分の道を貫こうとするのなら、あの方との対決はやはり避けて通れないんだ」

 ハンスはミハイを引きとめたそうにしたが、兵士達が彼の腕を掴み強引にミハイから引き離した。

「ハンスに乱暴はするな」

 ミハイが低い声で凄むと、兵士達はハンスを捕まえる手を離したがミハイに近づけようとはしなかった。

 ハンスは苦しげな顔でミハイを見つめ続けている。

「さあ、猊下に目通りさせてくれ」

 ミハイは、心配するなというような目配せをハンスにした後、従僕に言った。

 男は丁寧な仕草でミハイに一礼すると先に立って歩き始めた。

 その後ろを厳しい顔つきのミハイがついていく。

 ミハイはオルシーニのもとへ続く暗い廊下の向こうを鋭く見据えた。

(ああ、レギオン…僕の恋人、唯一の神、僕に力を貸してくれ。何が起ころうと君との恋だけは僕は誰にも奪わせない、必ず守り抜くよ)

 常の自分を捨てて狂える祭りの一時は終わった。夢から醒めたら人は現実に立ち向かわなければならないのだと、ミハイも初めから覚悟していた。

(僕がもう一度君のもとにたどり着くには、この試練を乗り越えなければならないんだ)

 ミハイの青い瞳は、彼の強靭な魂そのままの燃える熾火と化して行く手を塞ぐ暗闇に挑みかけているのだった。


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