天使の血
五
まだ薄暗い土曜日の早朝、レギオンの家を突然ハンスが訪ねてきた。
「こんな時間に起こしてしまってすまないな」
連日のお祭り騒ぎと夜更かしのせいで眠い目をこすりながら扉を開けたレギオンは、落ち着かなげにしきりと背後を気にしているハンスを見つけて、はっと息を吸い飲んだ。
「ハンス、どうしたんだ、いきなり…?」
一瞬面食らった後、レギオンは急に不安に駆られた。
「まさか、ミハイに何か?」
木曜日、レギオンはパレードに潜り込むという形でミハイの前に姿を現した。オルシーニと共にあの館のバルコニーからパレードを見物すると前もって聞き及んでのことだ。ボルジア邸での再会以来会う機会の持てないミハイを一目でも見たかったし、それにミハイを捕らえこんでいるオルシーニに対するちょっとした意趣返しでもあったのだ。だが、レギオンがあんな挑発をしたことで、もしかしたらオルシーニはミハイにつらく当たったのではないだろうか。ハンスの緊張した面持ちを見た途端、レギオンは急に心配になってきた。
「レギオン、彼を中に入れてやれよ。以前見かけたことがあるが、ミハイの従者か護衛の男だろう? 誰かにつけられていたり人に見られたりすることを心配しているんだ」
レギオンが後ろを振り返ると、戸口での物音と話し声に目を覚ましたのだろう、ガウンを羽織って、祭りの期間レギオンに連日引張り回されたおかげで眠そうな顔のサンティーノが立っていた。
「あ、ああ、そうだな」
レギオンは慌てて後ろに下がり、ハンスを家の中に導いた。
ハンスは、階段の下に佇んだままこちらに気遣わしげな視線を送ってくるサンティーノを訝しげにちらっと見た後、レギオンに向き直った。
「俺は用件が済んだらすぐに出て行くから、何も構ってくれなくてもいい。俺にまで監視が付けられているとは思わないが、それでも念のため人目にとまりにくい時間を選んでここに来たんだ。レギオン、ミハイからの手紙だ」
ハンスは懐から一通の手紙を取り出してレギオンに差し出した。
「ミハイからの…」
レギオンはほとんど我を忘れてハンスの手から手紙をひったくると、すぐに封を切って広げた。
「まあ、中身は後でゆっくり読んでやってくれ」
ハンスがいることも忘れてむさぼるように手紙を読んでいるレギオンに、彼はふっと微笑した。
「ミハイが…ハンス、ミハイが私に会いたいと…!」
レギオンは少年のように頬を紅潮させ、興奮気味にハンスに訴えた。
「ああ、肝心なのはそのことだ。祭りの期間ならば誰も彼もが浮き足立って館の警備も緩むし、ミハイも脱け出しやすい。それに一旦街に出てしまえば、いたるところ仮装だらけで監視もおまえ達を見つけようがない。おまえさんとミハイが人目を忍んで会うには絶好の機会だろう」
「だが、もしオルシーニにそんなことがばれたら…」
「それは、おまえさんが心配する必要はない…ミハイはそう言っていた。まあ、ミハイが館を無事に脱出して、おまえさんと一緒に祭りの一時くらい楽しめるよう、俺や俺の仲間がちゃんと手配するさ」
レギオンは希望に顔をぱっと輝かせたものの、ふと胸に引っかかっていることを思い出して眉をひそめた。
「ハンス、私はおとつい、パレードにもぐりこんでミハイとオルシーニの前に姿を見せたんだ。まさか、そのことを不愉快に思ったオルシーニがミハイに八つ当たりしたなんてことは…?」
「今更そんな心配をするのなら、初めからオルシーニ様を挑発などせんことだな、レギオン。だが、まあ、おまえさんが何をしようが…またしなかったところで、オルシーニ様のミハイに対する態度はもう変わらないだろうからな…」
苦い口調で言うハンスに、レギオンは更に不安をかきたてられた。
「ハンス…」
「いや、そんな話はいい。レギオン、取りあえずその手紙の返事を聞かせてくれ。ミハイに、俺は何と伝えればいい?」
レギオンは勢い込んで、はっきりと答えた。
「もちろん、ミハイに会いに行くとも! 私はずっとそうしたくてうずうずしていたんだ! スペイン行きを控えた今は時期的にまずいだろうと自分を抑えていたけれど、本当はすぐにでもオルシーニの館から彼をひっさらってやりたかった…ああ、その打ち合わせも彼と会った時にしなければならないな…一体どこまで計画が進んでいるのか、自分で動けないミハイはさぞかし気を揉んでいるだろう…」
「スペイン行きか…そのことは、俺はついおとつい知らされたばかりなんだぞ、レギオン」
「え、知らなかったのか?」
ミハイが誰よりも信頼しているだろうハンスにも打ち明けていなかったことが、レギオンには意外だった。
「ミハイは変に水臭いところがあるからな…オルシーニ様に雇われている俺を主人に対する裏切りに加担させるのは忍びないと思っていたんだろうさ。俺はオルシーニ様に命じられたからミハイを守っている訳じゃないとちょっと怒ったんだが…けれど、その話を聞いて、俺は正直ほっとしたよ。オルシーニ様のもとにこのまま留まってもミハイに幸福な未来はないと感じていたからな」
ハンスは不意に黙りこんだ。絡み付いてくる嫌なものを振り払うかのごとく頭を振ると、いきなりレギオンの肩を強く掴んだ。
「おい、レギオン、ミハイのことをくれぐれも頼むぞ。彼をローマから引っ張り出して、無事スペインまで逃がしてやってくれ…連れていってやってくれ…彼が新しい土地でやり直せるよう力を貸してやってくれ。そうだ、もうミハイを1人にさせるな…おまえを見込んで頼んでいるんだぞ。この際…えい、神よ許したまえ、おまえが男だろうが構わん。とにかくミハイを幸せにしてやってくれ!」
「ハンス…」
朴訥なハンスの真剣で必死な訴えに、レギオンは胸を揺さぶられた。
「ああ。約束するよ」
するとハンスは嬉しそうに少し照れたように笑って、レギオンの腕を軽く叩いた。
「それじゃ、俺はこれで帰るぞ」
ハンスは再び真面目な顔に戻ってマントのフードを被りなおすと、後ろの扉を振り返って出て行こうとした。
「あ…ハンス…」
レギオンは一瞬迷うように首をかしげた。
「何だ?」
ハンスはいぶかしげに振り返った。
「もしかして、君も…ミハイのことを…?」
レギオンはおずおずと尋ねた。
「…まさか」
ハンスは眉間にしわを寄せた。
「同性愛はいかんのだ。地獄落ちだからな」
軽く首をすくめ、冗談めかして言い残し、ハンスはそのまま家から出て行った。その無骨な顔が微かに赤らんでいたように見えたのは目の錯覚だろうか。
レギオンは、しばしその場に佇んでハンスが出て行った扉をぼんやりと眺めていた。その手に、後ろから近づいてきたサンティーノがそっと触れた。
「サンティーノ」
レギオンは幾分うろたえながら、体の向きを変えた。
影のようにひっそりとおとなしく控えていたサンティーノの存在を、レギオンはハンスとの話に熱中するあまり束の間忘れ果てていたのだ。ハンスとの会話を彼がどう受け止めたのか、レギオンは気になった。
「ミハイと会うんだね」
だが、サンティーノは別に動揺も見せず、レギオンの戸惑い顔を覗き込んで微笑んだ。
「いつ?」
「肉食火曜日(マルテデイ・グラツソ)だよ」
「祭りの最終日だね。行って来たら、いいよ」
レギオンは、サンティーノの静かな顔から彼の真意を読み取ろうしたが、煙るような銀灰色の瞳には戸惑う己の顔が映るばかりでよく分からなかった。
「僕に遠慮することなんてないんだよ。君らしくないな」
サンティーノは苦笑し、レギオンの頬を指先で軽く弾いた。
レギオンは目が覚めたように瞬きをする。
「ああ、でも、その日は君がいないなら、僕は1人で過ごさなきゃならないね。地区対抗の歩兵戦か闘牛でも見に行こうかな」
サンティーノは大きなあくびをして、レギオンに背を向けると階段の方へ歩き出した。
「さて、僕は寝なおすよ」
ごく自然で穏やかな態度でそう告げるサンティーノをレギオンはそのまま見送りかけたが、つい何か言葉をかけてやりたくなった。
「サンティーノ、ごめん…」
とっさに謝ってしまったレギオンを、サンティーノは階段の手すりに手を置いたまま肩越しに振り返った。
「あ…いや、その…」
口ごもるレギオンに、サンティーノは優しく目を細めた。
「いいんだよ、レギオン。でも…最終日以外の日は僕と一緒に祭り見物をしてくれるんだろう?」
レギオンはサンティーノをつくづくと眺めた。
サンティーノはこの頃少し変わったような気がする。ここにレギオンを訪ねてきた時のあの見るからに打ちしおれた思いつめた様子はなくなったし、以前よりもずっと精神的に落ち着いて、達観したような態度でレギオンとも接する。レギオンに対する想いに何らかの形で整理がついたのだろうか。もともとサンティーノの方がレギオンよりも大人ではあったのだが、いつも彼を引っ掻き回して動揺させていたので、レギオンにはそう意識したことはあまりなかったのだ。
(どうしたんだろう、急に、まるで何もかも悟ったような顔をして…何だかまた少し引き離されてしまったようで、ちょっと癪に障るな。けれど、別に構わないさ。大体8才くらいの年の差なんて、永遠に生きる私達にはないも同然なんだ。見ていろよ、すぐに追いつき追い越してやるからな)
つい本来の負けん気を思い出してそうひとりごちた後、レギオンは、恋人とは呼べずただの友人にしては近すぎる、この無二の相手に向けて親愛の情を込めて笑いかけた。
「ああ、喜んで」
若いヴァンパイアであるレギオンにはこれから己が重ねていく時間の長さなど想像できなかったが、この時、彼は漠然と感じた。
たぶんサンティーノとはこの先ずっと一緒に歩いていくのではないか。
何百年経とうとも彼だけは傍にいてくれるような気がする。
その時、サンティーノはレギオンの親友であるのか、恋人となっているのか、それは分からない。
それでも、これはきっと永遠に続く絆になるのだとレギオンは密かに確信していた。
謝肉祭の最終日、街の通りでは早くも夜明けから、祭りとなると血沸き肉踊るローマっ子達が浮かれ騒いでいた。
明日は灰の水曜日。40日間続く四旬節が始まる。
謝肉祭の最後の日は、誰も彼もが断食と禁欲の期間を前に思い存分享楽を味わおうとしており、いやがうえにも盛り上がった。
古代ローマの皇帝に仮装している者がいると思えば、トルコのスルタンがやけに色っぽい聖母マリアを巡って道化師と喧嘩をしている。骸骨の仮面をつけた不気味な死神の一団が肩で風を切るように通り過ぎていく。だらしなく道の脇で酔いつぶれたバッカスを、ニンフ達が指差し笑っている。
仮装した人々で埋まった極彩色の通りを飾り立てた馬車が通り、両側の家々の窓からはアーモンド菓子が降り注ぐ。
そして、ミハイとの再会に胸を躍らせるレギオンも、この日は約束の時間まで家でじっとしてはいられずに日の出から外に出かけていた。
長く伸びた髪を後ろできつく縛り、黒いマントに顔を半分覆う蝶のような形の仮面をつけて、レギオンは様々な露店の並ぶ大通りや広場を人の流れに身を任せるようにぼんやりとさ迷っていた。
(ミハイ…今日こそは君に会えるだろうか。何事もなく君がオルシーニ邸を抜け出すことができればいいのだが―)
実際的なハンスが助けになってくれるのは頼もしいが、ミハイの無事な姿をこの目で見るまではレギオンも安心できなかった。
レースのためにヴェネツィア広場へ引かれていく馬を横目に、午後になってますます込み合う通りを、レギオンは約束の場所であるポポロ広場を目差してゆっくりと歩いていった。
(私が力を使えばオルシーニ邸に難なく忍び込みミハイを連れ出すことくらい朝飯前なんだがな。人間の流儀に従うというのは、全く面倒なことこの上ない。でも、ミハイは人間だ。私がヴァンパイアであることも知らない。人間の常識を超えたヴァンパイアの力を見せつけたら、ミハイは私をどう思うだろう。怪物、悪魔と恐れ戦くだろうか…人間が私達に対して本能的に覚える恐怖は、この恋さえも簡単に打ち砕いてしまうのだろうか…?)
見知らぬ大勢の人間達の中に紛れ、漂いながら、レギオンはいつしか深い物思いに沈んでいた。
(ミハイ、君は私が何者であろうと構わないと言ってくれた…私が人間でなくても愛してくれるか…それとも…?)
千鳥足のキリストがレギオンにぶつかって、口汚く彼をののしったかと思うと人込みの中に消えていった。
男装した娼婦達がレギオンに媚態を見せて笑いさざめきながら行き過ぎる。と思えば、かつらをつけて女装した男達もいる。
(ああ、何だか不思議だな…この祭りの間中、人間達は仮装して別の誰かになることを楽しんでいる。いつもヴァンパイアの素顔を隠して人間であることを演じている私の場合は、さながらもう1つ別の仮面をつけるようなものか…それとも、この異教も身分も性別も何もかもがごちゃまぜの絢爛たる非日常の中では、逆に私が正体をあらわにしたところで自然に許されるかもしれないな)
やがてレギオンはヴィア・ラータの大通りを抜けてポポロ広場に流れ着いた。
ここでも大道芸や寸劇、露店の周りに集まる人々の喧騒は物凄かった。
人の熱気にあてられたのか、ちょっとふらふらしてきたレギオンは、広場に面したサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の階段を上がり、戸口の前に立って色とりどりに仮装した人々をぼんやりと眺め下ろした。
(ミハイとの約束の刻限はそろそろだな。この教会の前で待っていろと手紙には書かれてあったが、本当に彼は現れるだろうか…)
何故か、レギオンは急に自信がなくなってきた。ミハイが危険を冒してまでレギオンに会ってくれるかどうか。もしミハイがレギオンの正体を知ったとして、それでもなお彼の態度は変わらないか。本当に、ミハイはレギオンを愛してくれているのか。
(私は君にふさわしい相手だろうか、ミハイ…ヴァンパイアの私が君を幸せになどできるのか…)
サンティーノに指摘されるまでもなく、レギオンは己がミハイの血に対する飢えを感じ始めていることを知っていた。彼を奪うことなど、何としても避けたい。逃げ道はきっとあるはずだと自分に言い聞かせてはいるが、ヴァンパイアの本能に反する恋の行く末がどうなるか不安は晴れない。
(ミハイ、君が人間でなければよかったのに…それとも私がただの人間の男であればよかったのか…)
広場のどこかで爆竹が弾ける音がして、レギオンははっとなってそちらを見やった。
人垣の向こうで煙があがり微かな火薬の臭いが風に乗って運ばれてくる。
(あ…?)
その時、レギオンの眉が怪訝そうに寄せられた。
群衆の間から滑るような足取りで現れた一人の女性の姿に、レギオンの視線は吸い寄せられた。
あでやかな紫のビロードと絹のドレスに身を包んだ、ほっそりと背の高いその女は昂然と顔を上げ、教会の戸口の前に立つレギオンを見つめた。繊細なレースの被りものの陰から、煙る熾のような青い瞳が覗いた。
彼女は美しかった。陶器を思わす白い肌、蠱惑的な珊瑚色の唇、細い鼻梁、くっきりと形のいい眉。何もかもが素晴らしかった。だが、その顔は―。
深い衝撃がレギオンの胸を貫いた。心臓の鼓動が急に早くなった。
(これは…幻覚か…?)
レギオンは食い入るように彼女を見つめたまま、のろのろと手を上げて、己の顔を覆う仮面を外した。
レギオンが素顔を見せると、女は微笑んだ。魅惑をたたえた唇が誘うように開き何事かを呟くのを、レギオンは呆然と見守った。
「あっ…!」
女は急にレギオンに背を向けると、素早い足取りで群集の中に消えていこうとした。その身のこなしは猫のように隙がなく、優美でありながら力に満ち溢れていた。
「ま、待ってくれ!」
レギオンは慌てて階段を駆け下り、彼女の後を追いかけた。
人間の女の足になどすぐに追いつくはずが、この人ごみでは思うように動けず、レギオンは行きかう人々の頭や肩越しにちらちらと覗く、彼女の黒いベールや紫のドレスの切れ端を見失うまいと必死になって追い続けた。
やがて人はまばらになり、気がつけばレギオンはサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の隣にあるフラミニア門の前に立っていた。
女は門を背にレギオンを待ち受けるかのごとく佇んでいた。
「シニョーラ、君はまさか―」
言いかけて、レギオンは絶句してしまった。
近くで見れば彼女の美しさは圧倒的だった。カールした長いまつげに縁取られた大きな目。甘美な額。その顔は天使のように愛らしかったが、何かしら激しく強いものを感じさせた。大体、彼女は女性にしては背が高すぎる。凛として立つその姿には、ずっしりとした存在感が備わっていた。
レギオンは喉がからからに渇いているのを意識した。
「ああ…君なのか…」
掠れた声でレギオンが問いかけると、彼女は羽のような足取りで動き彼のもとにたどり着いた。
「ミハ…?」
彼女は素早く手を上げて、レギオンの唇を指先でそっと押さえた。
「その名で呼んではいけません」
レギオンは問いかけるように瞬きをした。
「ここは謝肉祭の只中。誰も彼もが我を忘れ別の誰かになりきることで生の喜びを謳歌しています。だから私も、今だけは常の自分を捨てられるのです」
甘やかに掠れた声でそう囁く『彼女』の顔を、レギオンは食い入るように見つめた。
「常の自分を捨てて、別の誰かに…」
レギオンの顔に祭りの興奮と高揚、束の間の楽しみと共に微かなほろ苦さがうかんだ。
「では今の君は何ものなのだろう。男性にはない優美さと女性には持ちえない力を備えた、この美しい生き物は…。とても人間とは思えない、君は天使か…?」
すると黒いベールに取り巻かれた神々しいばかりの顔に悪戯っぽい笑みが閃いた。
「では、あなたは、誰?」
レギオンは口ごもった。
「私は―」
しばらくレギオンを捕らえこんでいた深い想念がその胸に甦った。
ヴァンパイアであるレギオン。人間である恋人。2人の恋に幸せな未来など望めるのだろうかと、レギオンは不安に駆られていた。
だが、今は。我を忘れて狂える、この一時ならば―。
「ただの人間だよ」
衝動的に腕を伸ばし、鮮やかな夢のような紫のドレスに包まれた体の実感を確かめるかのごとく、レギオンは美しい恋人を抱き寄せた。
「君に恋する、ただの男だ」
震える声で囁いて、レギオンは腕の中に従順におさまっているミハイ―かつてはそうだったが今は別人に変身した恋人に口付けをした。
抱き合う恋人達に行き交う人々が冷やかしの言葉を投げかけ、口笛を吹いた。
2人は恥らうように顔を上げた。しばし互いを見詰め合った。
近くで行われている寸劇を見物している人々の笑い声が爆発した。仮装した人々が大勢、こちらの方に押し寄せてくる。
「さあ、行こうか」
レギオンが誘うと、ミハイは喜びに顔を輝かせながら頷いた。
そうして、2人は手を取り合って祭りの喧騒に飛び込んでいった。
それは、まさに夢のような時間であった。
レギオンとミハイは、子供のようにはしゃいで、祭りの最後の狂熱に満ちた街を走り回った。後半日もすれば今年の謝肉祭も終わる。街中、老いも若きも富めるものも貧しいものも快楽を貪ることしか頭にないようだった。
この日の夕刻、ヴィア・ラータの大通りでは毎年恒例の競馬が行われた。見事なアラビア馬やイタリアのマントヴァ産の馬がポポロ広場から通りの先にあるヴェネツィア広場目差して、一斉に放たれる。15頭の馬には馬丁がついて走るとはいえ、旗手は乗せないので、例年誰かが蹄に踏み潰されたり、観客の中に突っ込んだ馬が暴れたりとかなり危険な呼び物である。
レギオンも傍らにミハイを引き寄せながら人のひしめく通りに立ち、目の前をすごい勢いで駆けていく馬を見送った。
今にも馬が飛び込んでくるのではないかと怯んで後ろに退こうとする観客もいたが、ミハイは恐れ気もなく顔を上げて競馬を楽しんでいる様子だった。
ミハイの圧倒的な美しさは通りで擦れ違う男達も引き寄せたようで、ちらちらと彼を見やる者は多かった。レギオンが露店で熱いワインと肉の焼いたものを買うためにミハイから離れた隙に、彼に絡んできた不埒な男もいた。酔っ払ってしつこく付きまとう男相手についに切れたのだろう、レギオンが手を出す前に、ミハイはそいつに肘鉄を食らわして撃退してしまった。
「やれやれ、私に恋人を救う栄誉も与えてはくれないのかい?」
レギオンがからかうと、ミハイはちょっとばつの悪そうな顔をしてあいまいに微笑んだ。
祭りのどんちゃん騒ぎを練り歩く間、2人は互いを名前で呼ばず、恋人同士という役になりきって愛しい人とか恋人とか呼び合っていた。それもまた、街中がさながら1つの舞台と化した、この一時にはいっそふさわしいように感じられた。
浮かれ騒ぎはいつまでも際限なく続くかに思われたが、やがて陽は沈み街中に煌々と輝く灯りが灯された。
かがり火に照らし出された広場や通りを2人は新たな楽しみを求めてさ迷い、疲れると教会の戸口の陰や人いきれを避けて入り込んだ細い路地の暗がりで身を寄せ合い口付けを交わしながら休んだ。
ヴェネツィア広場に入ったところで、レギオンはふと、かがり火のたかれた建物の前でマンドリンをかき鳴らす旅芸人の一座と曲にあわせて踊る仮装した人々を見つけ、足を止めた。
「ダンスか」
レギオンがぽつりと呟くのを聞いたのか、ミハイはしばらく彼と共に踊りを楽しむ人々を眺めた後、ふいに舞い手達の方に近づいていった。
「ミハイ?」
レギオンが呼びかけるとミハイは振り返り、彼を誘うように手を広げた。
「私と踊っていただけませんか?」
優雅にお辞儀をするミハイにレギオンは目を瞬いた。
「ダンスは普通男の方から申し込むものだぞ」
先を越されたことに苦笑しながらレギオンはミハイに近づき、その手を取った。するとミハイは挑むような口調で囁いた。
「男であるとか女であるとか、そんな些細なことは、今の私達は超越しているのでしょう?」
人間であるとか、ヴァンパイアであるとか。レギオンは目を細めた。
「ああ、そうだな」
レギオンはミハイの手を引いて、火の周りでくるくると回転しながら踊っている人々の中に滑り込んでいった。
ミハイがダンスに、それも女の舞いに慣れているとは思えなかったが、そこはレギオンがうまくリードした。それにミハイ自身も勘がよく、カップルが抱き合うようにして踊る、このダンスをすぐに覚えこんだ。
レギオンはミハイを巧みに導き、腕の下をくぐらせたかと思えば、体を支えながら回転させて外に送り出し、また引き寄せた。
ミハイは黒いビーズに飾られたベールを翼のようになびかせ、ふわふわしたスカートを鮮やかにさばいて、レギオンの舞いに見事についていきながら、楽しげな笑い声をたてた。
紅潮したミハイの顔は、生きることの楽しさや喜びに照り輝いていた。
見守るレギオンの胸は熱くなった。
(ヴァンパイアの私が君を幸せになどできるのか、自信がなかった…けれど、今は―)
レギオンは胸のつぶれるような幸福に溺れながら、うっとりと囁いた。
「幸せかい、愛しい人?」
ミハイは星のようにきらきらと輝く目をして応えた。
「ええ、私が生きてきた時間の中で、今が一番」
レギオンはダンスの動作の中で自然にミハイを引き寄せるふりをしながら、その口に掠めるようなキスを与えた。
「私もだよ」
やがて楽曲が終わり、疲れた人々はダンスの輪から離れ、また新たなカップルが加わった。
ミハイは曲を奏でる外国から流れてきたらしい旅芸人達の顔をじっと眺め、何を思いついたのか彼らに近づいていくと、マンドリンを奏でていた男に何事か頼み込んだ。
「何を話したんだい?」
戻ってくるミハイにレギオンが問いかけると、ミハイは再びレギオンの腕に手を巻きつけながら、言った。
「もし知っているなら演奏して欲しいと一曲頼んだのです。私の故郷、ワラキアの舞曲を、ね」
やがて始まった曲にミハイは懐かしげに目を細めた。
「踊りましょう、愛するあなた」
そうして、2人は再び踊り出した。
ゆっくりとしたステップから始まり、やがて激しい回転と華麗な動作が入る、このダンスも彼らは見事にこなした。
いつしか周りの人々は踊りをやめ、祭りの幻想が作り出したかのようなこの完璧なカップルが踊る様にうっとりと見惚れていた。
「時間がこのまま止まってしまえばいいのに…」
レギオンが夢見るように呟く。
「そう、あまりにも完璧で、望みがすべて叶ったかのようで…このままここで死ねたら、いっそ幸せなくらいでしょうね…」
ミハイが溜め息混じりに囁く。
その時、ずしんと体に響く轟音と共に夜空一杯に華麗な光と色が振りまかれた。
わあっと人々の歓声が湧き起こった。
レギオンとミハイも思わず足を止めて、空を見上げる。花火が大きく広がっては消えていった。
「ああ、テヴェレの河岸で花火が打ち上げられているんだ」
常世の憂さを吹き飛ばすような花火を、広場に集まった人々と共にレギオンとミハイはしばし眺めた。
「綺麗」
ミハイの頭がレギオンにもたれかかる。レギオンはその肩を優しく包み込んだ。
陽気な轟音と光の下、楽しげな笑い声が爆発し、色鮮やかな仮装の波が打ち寄せて引き、仮面の上には菓子の雨が降り注ぐ―。
この年の謝肉祭も終わりが近づいていた。
レギオンは空を見上げたまま、溜め息をついた。
「何だか名残惜しいな」
消えていく花火とやがて終わる祭りに一抹の物悲しさを覚えながら、レギオンは離すまいとするかのごとく、己にそっと寄り添うミハイの体を抱く手に力を込めるのだった。