天使の血
四
1月6日の主題節から謝肉祭は始まる。
祭りの最高潮は何といっても最後の1週間に集約されるのだが、禁欲の四旬節が始まる前の貴重な冬の盛りの祭りに向けて、そろそろ街のあちらこちらで人々は出し物や仮装の準備に励み、気の早い貴族や金持ちの館ではにぎやかな夜会や劇が毎夜催されていた。
オルシーニ邸でも度々、お抱えの音楽家達が祭りの期間に開かれる宴で演奏する予定の新しい曲を主に捧げる、音楽の集いが持たれていた。
オルシーニの私室の扉は開かれ、そこから流れてくる音楽が控えの間にあふれ出し、廊下を伝わって、秘書室で執務に当たっている者の耳にまで聞こえた。
望めば、館の中にいる者は誰であれ控えの間に入って音楽家達の演奏を楽しむことができるのが、オルシーニ家の習いであった。
お気に入りの音楽家達に囲まれて、芸術肌の枢機卿も自らヴィオラを奏でることを楽しんだ。この頃憂鬱な面持ちであることが多い彼も、その一時はうさを忘れられるようであった。
そして、そうした夜、枢機卿の傍らにはいつもミハイがいた。
一時はミハイを遠ざけた枢機卿は、この頃はまたミハイを傍に置きたがるようになっていた。だが、以前のような温かな関係がミハイとオルシーニの間に戻ってくる気配はなかった。
皆の前では自然な様子でミハイに接するオルシーニだが、ミハイには、己に向けられる彼の冷たい怒りと執着が感じられた。枢機卿の一番のお気に入りであることを示すよう、彼に一番近い席に座って共に音楽を聞き、時には演奏の感想を求められながらも、ミハイは彼の疑心暗鬼に凝り固まった視線がしばしば体に突き刺さるのが分かった。
もしかしたらレギオンと共にスペインに逃亡するという計画が知られているのではないかと背筋が凍ったが、そうではないようだ。一度疑いに捕らわれたオルシーニの心は、ミハイの態度や言葉の中に常に裏切りや嘘を探さずにはいられなくなったのだろう。
ミハイは、実に全く息のつまる思いをしていた。
(レギオン、こうまで猊下の目が厳しければ、君に文の1つも送ることはできそうもないよ。君がどうしているかは気になるし、スペイン公使との交渉がどんなふうに進んでいるのかも知りたいけれど…こんな状態では、やはり僕の方から動くのは不可能だ。ボルジア邸で君と再会できたのは、今思えば僥倖だったんだ。あれ以来、あのような機会は得られなかったし…それに、今はあまりうかつな行動はしない方がいいだろう。もし僕がレギオンとスペインに逃亡する計画を立てているなどと猊下に知られれば、どんなにか猊下は怒り狂うだろうから)
それは想像するだに恐ろしいことのような気がした。かつての温和で鷹揚なオルシーニならば怒りに我を忘れることはないとミハイは信じられたのだが、思いつめた目をした今の彼には、何をするか分からない不気味さがあった。
世間の非難を慮ってか、以前のようにミハイが部屋に監禁されることこそなかったが、その待遇は今でも似たようなものだった。
冷たく空しく単調な毎日を過ごすうち、レギオンとのあの束の間の逢瀬もミハイはしばしば遠く感じられるようになった。レギオンに己の熱い想いを告げたことも、抱き合い唇を重ねた彼のぬくもり、そして、2人で共にスペインでやり直そうと約束を交わしたことも、もしかしたらすべて夢だったのではないだろうか。
(レギオン、君の傍で生きられたら、どんなにか僕は幸せだろうね。スペインで君の言うような新しい冒険ができたら、どんなにか楽しいだろう…僕にはとても思いつかなかった素敵な夢だ…歌を極め、君という情熱の対象を見つけて、僕は満足してしまったのかな、どうも現実にどうしようという考えが回らなかったのだけれど、それでも君を見ていると、もう少しこの夢の続きを見てもいいな、なんて思ったよ…でも、やっぱり君が傍にいないと、そんなおとぎ話が現実になるとは信じられなくなってくる…)
一方で、ミハイには自分自身の心もよく分からなかった。
(ああ…変だな、幸せを目前にして、僕は気弱になっている…? 一体、どうしたんだ、ミハイ、以前のおまえならばもっとしゃにむに夢を追いかけた、望みを叶えるためにもっと必死になって努力していた…何を迷っているんだ、おまえはレギオンと一緒にスペインに行きたくないのか…?)
奇妙に定まらない心情を抱えて過ごす中、ミハイの慰めはやはり歌だった。オルシーニの館で催される宴や教皇庁のミサに出る時、ミハイはいつも、胸に鮮やかに刻まれたレギオンの面影に向かって熱情を込めて歌いかけた。そうすると、揺れ動くミハイの心は不思議と静まり強固さを取り戻すのだった。
(いや、僕はレギオンのために2人の夢をかなえよう。レギオンは危険も顧みずに必死になって僕を救い出そうとしてくれている…彼のため、今こそ僕は強くならなければならない。レギオン、僕が初めて愛した人…この唯一の恋のためなら、僕はどんなことでもできる)
この夜の演奏会でも、いつの間にかミハイの心はレギオンのもとに流れ出していた。
心ここにあらずといったミハイの様子に、いつも彼に注意を払っているオルシーニはすぐに気づいた。
「…ミハイ」
微かな苛立ちを込めた声に呼びかけられて、ミハイは物思いから覚めた。
「あ…」
ミハイが振り返ると、疑い深げなオルシーニの顔がこちらを向いていた。
おまえの考えなどお見通しだぞ。どうせレギオンのことを思っていたのだろう。無言のうちにそう責められているようで、ミハイは何とも居心地が悪かった。
「どうしたのだ、ミハイ、ぼんやりとして…次はおまえが歌う番だぞ」
オルシーニが陰険に目を細めるのに、ミハイは体の脇で密かに拳を握り締めた。
「申し訳ありませんでした、猊下。カヴァッラ殿の奏でる切ないバラードが胸に迫ってきて、つい我を忘れてしまいました」
今しがた演奏を終えた音楽家を褒めることでオルシーニの矛先をかわし、ミハイは椅子から立ち上がった。
ユダヤ人の音楽家が作った新しい曲を彼のリュートの演奏で歌うため、ミハイは部屋の中心に立った。
幾度か練習はしていたが、楽譜を取って改めてその歌詞に目を通すと、ミハイは何かしら深い感慨を覚えた。
会えない貴女を思う程に、我が想いはつのる。
貴女を一目垣間見る喜びを知れば、貴女のもとに行かずにはおれず
我が望み叶わぬならば、せめて、その手に触れた薔薇を送っておくれ
(レギオン…君に会いたい…)
ふいに、ミハイはレギオンが強烈に恋しくなった。
この広々として豪華ではあるが牢獄めいた部屋を飛び出して、情熱の迸るがまま彼のもとに駆けていきたかった。
(愛している)
ユダヤ人演奏家がリュートを奏でると、ミハイは体が自然に歌をつむぎ出したかのように歌い始めた。
歌によって触発され、溢れ出した恋しい人への想いのたけを込めて、ミハイは歌った。
やがて曲は終わったが、歌い終えてもミハイの夢見心地はしばらく続き、ようやく我に返って辺りを見渡すと拍手をすることも忘れて呆然となっている聴衆達の顔に気がついた。
「あ…実に素晴らしい歌でしたな、ミハイ殿…」
ミハイの傍にいたユダヤ人演奏家が、初めに口を開いた。自分の曲を彼に歌ってもらえて光栄だと言わんばかりに、顔を輝かせている。
「ええ、全く…あなたの歌は一層磨きがかかったようだ。感動しましたよ」
拍手をしたくてうずうずしている人々は、枢機卿の反応を窺い見た。
オルシーニ枢機卿は、まだ呆然としていた。大きく目を見開き、頬を紅潮させ、その顔にはかつてのような音楽に対する無邪気な喜びが甦っていた。
ミハイをまっすぐに見つめるオルシーニは、昔の彼にほとんど戻ったかのようで、彼に虐げられているミハイですら淡い期待を一瞬抱きそうになった。
だが、その時、新入りの音楽家が漏らした一言が和みかけた空気を凍りつかせた。
「もしかして、ミハイ殿は恋をされているのではありませんか。あのような深い情感のこもった恋歌を歌えるとは、よほど激しい想いを抱く相手がおられるのでしょう」
ミハイは息を飲み、こんなとんでもない発言をした男を思わず睨みつけた。
「…ああ、そのようだな」
オルシーニの苦い呟きがミハイの胸を締め付けた。
「ミハイは恋をしているのだ」
まるで恋を失い傷ついた男のように、枢機卿は言った。
ミハイは頬を赤らめうつむいてしまった。オルシーニの顔など、とても見られなくなった。
その後しばらくして音楽会は終わった。
音楽家達はそれぞれ枢機卿に暇を告げて去っていったが、ミハイだけは最後まで部屋に残された。
枢機卿と2人きりになったミハイは、緊張して彼の前に佇んでいた。
すると、オルシーニはおもむろに椅子から立ち上がった。
「ミハイ」
枢機卿の緋の衣に銀の十字架を身につけた威厳のある姿、いかめしい顔つきに苦悩の宿る目をしたオルシーニを前に、ミハイの中に封じ込まれた恐慌は今にも爆発しそうになっていた。
だが、逃げ出すわけにはいかなかった。
「先程のおまえの歌は本当に素晴らしかった。私は改めて、おまえの歌に対する愛を実感させられた…おまえは、私の中にいわく言いがたい情熱をかき立てる…ミハイよ、私にもどうすればよいのか分からないのだ」
威風辺りを払う権力者が、途方に暮れた子供のようにミハイに向かって手を差し伸べた。
ミハイに対する渇望に、オルシーニは死ぬほど苦しんでいた。
「ミハイよ、私は…おまえには年を取りすぎているだろうか…?」
何という惨めさだろう。ミハイは耐えられなくなって目を閉じた。
「ミハイ、お前は天使の顔をした悪魔だ。おまえを知る前は、私はこのような苦しみとは無縁であったものを」
ミハイは込み上げてくるものを堪えるように、歯を食いしばった。
「僕は貴方を苦しめたい訳ではありません、猊下…貴方の望みが僕に叶えられるものであればよかったのに…でも、僕の心は―」
いきなりオルシーニに引き寄せられて、ミハイは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「げ、猊下…?」
オルシーニに抱きすくめられて、ミハイは激しく狼狽した。
「ミハイ、どうか私を救ってくれ…」
ミハイはオルシーニの声が苦悶の中にも乱れ、その心臓の鼓動が早く不規則になっていることを呆然と意識した。驚きのあまり、しばし逃げることも考え付かなかった。
しかし、微かに震える枢機卿の骨ばった手が頬に触れた瞬間、ミハイは怖気を奮って、彼の腕から我が身をもぎ離した。
「お願いです、猊下、どうか僕を下がらせてください」
頭を垂れて懇願するミハイを、オルシーニはしばし無言で眺めた。
「そうだな…ミハイ、おまえはもう下がるべきだ…」
オルシーニの声に滲む悲しみと苦渋に、ミハイは罪の意識にさいなまれたが、かろうじて枢機卿から後じさりすると、彼の顔を見ずそのまま部屋を出て行った。
(オルシーニ様、どうかお許し下さい。あなたの心の平安を僕はかき乱した…)
ほとんど逃げるようにオルシーニの私室から足早に遠ざかる、ミハイの目には微かな涙がうかんでいた。
ミハイが愛しているのはレギオンだけだ。それはどうしようもないし、別にやましさも覚えることでもない。だが、ミハイにはオルシーニにすまなさを感じずにはいられないことが1つあった。
(おまえを知る前は、私はこのような苦しみとは無縁であったものを)
オルシーニはミハイと出会う前は純真だった。だが、今は嫉妬に狂うただの男に成り下がってしまった。
(僕は、そんなつもりであなたの前で歌った訳ではなかったのです)
そう、ミハイは、神に仕える男をその歌ではからずも堕落させてしまったのだ。
オルシーニとの間に起こったその気まずい一件の後、ミハイはますます落ち込んでしまった。
ハンスなどは心配して、謝肉祭の見世物を一緒に見に行かないかと誘ってくれたが、それもどうせ鬱陶しい監視がつくかと思うと気が乗らず、祭りの喧騒とは遠い館の奥に引きこもっていた。
(レギオンに会いたい)
こうなるとミハイのレギオンへの想いはつのるばかりだったが、密かに進行しているだろう計画のことを考えると、無謀なことはできないと自分を戒めていた。
(僕は余計なことを考えすぎるのだとレギオンは言ったけれど、その通りなのかもしれないな。何だか、もうあれやこれやと考えることに疲れてきたよ…賢く立ち回ろうなんて考えず、うんと馬鹿になって、後先ことも考えずに館を飛び出していって、会いたい人のもとに押しかけていけたら、いっそ気分がいいだろうに)
そうして、いつも驚かされてばかりのレギオンを今度はミハイが驚かせてやれば、きっと楽しいだろう。そんな想像に心が和んだが、その時またオルシーニの苦しげな顔が思い出され、ミハイを後ろめたくさせた。
(僕には猊下のためにできることは何もない…やはり僕は早くここを離れるべきだ。猊下を裏切ることになってしまうけれど、ここにいてもお互い苦しいだけだし、それに…あの夜、僕を抱きすくめた猊下は…何だか恐ろしかった…一時の衝動に駆られただけだろうけれど、あんな猊下は初めて見た…あのような状況には僕達は二度と陥ってはいけない)
オルシーニに抱きしめられた感触を思い出すと、ミハイはつい身震いをしてしまった。今まで意識したこともなかった、彼の男としての欲望を感じ、ぞっとした。
(レギオン、君に抱きしめられた時も僕はつい拒んでしまったけれど、それは君に触れられることに怖気を振るったからじゃない。むしろ、どうしようもなく君に惹き付けられる自分に恐くなったからだ。でも、他の男にあんなふうに抱きしめられるのは、やはり我慢ならない)
元来潔癖なミハイである。オルシーニの思わぬ行動には、ずっと気持ちをかき乱されていた。
そうするうちにも時間は流れ、謝肉祭もいよいよ最後の盛り上がりの時期を迎える。
それは、『肉の木曜日』のことであった。
祭りの喧騒が一層高まり、町中が道化や仮装した者達で溢れかえるこの日、ミハイは仮装行列の見物に出かけるオルシーニ枢機卿の供をして、ナヴォーナ広場に面した貴族の邸宅を訪れていた。
広場を見下ろせるバルコニーには見物のための席が設けられており、そこにはオルシーニと同じように招かれたボルジア枢機卿の姿もあった。
「おお、今日はローマ一の歌い手も一緒かね」
陽気に声をかけるボルジア枢機卿に、ミハイは複雑な気持ちを抱きながらも礼儀正しく挨拶をした。
この男、ミハイがオルシーニを裏切ってローマを脱出する計画に一役買っているというのに、そんな気振りも出さない。さすがの陰謀家と言おうか。しかし、ミハイには彼のことが何となく信用できなかった。
下の広場にはそろそろ仮装の行列が到着し始めていた。
この日は2月だというのに暖かく天気もよく、広場や大通りは行列を一目見ようという大勢の群集で溢れかえっていた。
先触れの楽隊がにぎやかに通り過ぎた後は、肩車を使っての2人一組の巨人の行進が続いた。長い黒服の上に乗せた張子の頭には大きな一つ目が描かれ、子供たちを恐がらせている。その後には、愛くるしいキューピットの一団や若々しい体に薄物をまとった踊るニンフ達が現れ、更にはイタリア各地の旗を掲げた若者達が歩いていく。
「謝肉祭は、もともとはどのようにして始まったのでしょうな」
人々の歓声に包まれた華やかな行列を感慨深げに見下ろしながら呟いたのは、オルシーニだ。
「さて、起源については諸説あるようだよ。だが、結局の所、辛い冬の時期を乗り切るための馬鹿騒ぎだったのではないかね。人間には苦しみを忘れる一時が必要なのだ」
ボルジア枢機卿が肌も露なニンフ達に目を細めながら、応えた。
「では、仮面や仮装にはどのような意味が?」
「祭りにおいて仮面が多く用いられるようになったのは、ローマ時代の頃からです」と、博学で知られるボルジア枢機卿の秘書官が控えめに口を開いた。
「謝肉祭の期間、奴隷と主人の位置は逆になり、主人達が奴隷の世話をしたそうです。生の享受には万人が平等。常の身分を隠すため、仮面が使われ始めたのです」
ミハイはオルシーニの傍らにおとなしく座って、大通りの彼方から広場の方に近づいてくる、色とりどりの飾り付けのなされた無蓋の馬車を、目を細めるようにして眺めた。様々な異国風の仮装を着けた人々がそこに乗り込んで、花や砂糖を塗ったアーモンド菓子を周囲に群がる群衆に向けて撒き散らしている。
「人間誰しも、自分以外の誰かになってみたいという欲望を隠し持っているものさ。仮面をつけることで、その望みがいとも簡単に叶ってしまうという訳だ。舞台で演じる役者のように、仮面をつけ、仮装をして、平素はなれない別の自分に変身するのさ」
ボルジア枢機卿の言葉に、ミハイはふと心を惹かれた。
「別の自分に…」
何かしら胸が騒いだ。
ミハイは眼下で繰り広げられている祭りの喧騒を見つめながら、思いもよらず気分が高揚してくるのを覚えた。仮面をつけるのもようは恥を忘れて乱痴気騒ぎができるからではないかと冷めたことも考えたが、それとは裏腹にミハイの心は騒いでいる。
(下に集まっている人達の熱狂ぶりのせいかな…僕までもが、何だかいつもとは違う、落ち着かない気持ちになってくる)
古代の王や女王の扮装をした男女を乗せた馬車がバルコニーの下を行きすぎるのを見届けた後、ミハイは顔を上げた。
今度は、オリンポスの十二神の登場だ。一台に1人ずつ、神々に扮装したローマの庶民や貴族が乗っている。
泡から生まれたヴィーナスを演じるのは、誰かと思えばボルジア枢機卿の愛人ではないか。豊満な体中に花飾りを巻きつけ、巨大な貝殻の中に座って、バルコニーの上のボルジア枢機卿に艶かしく手を振る女に、彼の鼻の下は伸びきっている。
その様子に一瞬頭が痛くなったミハイが、気を取り直して仮装行列の方に視線を戻した、その時だ。近づいてくる山車の上に金色にきらめくものが見えたのは。
(あ…?)
ミハイはまばたきをした。
その馬車は、どうやら太陽神アポロンのもののようだ。
花で飾られた椅子の上に半ば寝そべるように座って、黄金のキタラを奏でるふりをしたかと思えば、群がる人々に向けて手を振る、陽気で愛想のいいアポロンが誰なのか、初めのうちミハイには分からなかった。
(ま、まさか…)
古代ギリシャ風の衣装に金のサンダル、月桂樹の冠、彼が体を揺するたびにきらめき燃える黄金の髪。まさに神話の中からぬけ出した神そのもののような、この男を見間違えようがなかった。
「レギオン…」
呆然とその名を呼ぶミハイの声を聞いたかのように、その時丁度バルコニーの下にまで来ていた馬車の中から、彼は顔を上げた。鮮やかな緑の瞳は、すぐにミハイを捉えた。瞬間、ミハイは胸を鋭い矢で貫かれたような気がした。
レギオンはミハイに向けて微笑みながら頷きかけた。
(大丈夫だ。私は必ず君を迎えに行く)
声は聞こえずとも、レギオンの伝えようとしていることはミハイにははっきりと分かった。
まるでミハイを苛んでいた苦しみや迷いに気づいていたかのように突然現れた。レギオンを前に、ミハイは己の奥深くから制御できない熱い感情が迸るのを覚えた。思わず、彼は椅子から立ち上がった。
「ほうほう、これはまた豪勢なアポロンだな」
ボルジア枢機卿が悪戯っぽく呟いたが、ミハイは聞いていなかった。
彼の目は、ただ1人、バルコニーの下を通り過ぎていくレギオンを狂おしげに追っていた。
(ああ、そうだ、僕は…本当は、スペインに行くなんて現実的なことは別にどうでもよかったんだ。僕の望みはもっと単純で刹那的で…ただ、あの光を掴みたい…レギオンを愛しているという、この情熱の赴くままに一度でいいから生きてみたい…行き着くところがどこであれ後悔しないから…僕にとって命をかけられるほどに大切な何かのために、燃え尽きるように生きたい…そういうことだったんだ…)
目の前がふいに開けたような気がした。
ミハイはバルコニーのすぐ前に立ち、次第に遠ざかっていくレギオンの馬車を見送りながら、迷いのない澄んだ気持ちになっていた。
ミハイは、レギオンに向けて胸のうちで語りかけた。
(レギオン、僕を迎えに来る必要などないよ。その前に、僕の方から、君のもとに行くから)
そんなミハイの背中をオルシーニは暗い炎を孕んだ目でじっと見ていた。
「なあ、ルカよ…」
緊張したものになった空気を和ませようとしてか、ボルジア枢機卿はオルシーニに話しかけようとした。しかし、思いのほか険しい彼の横顔を見、つい黙り込んだ。
ボルジアは、深い瞋恚を秘めたオルシーニの目とそれが向けられているミハイの背中を見比べ、深い溜め息をつくと、彼は彼で何事か考えを巡らせ始めた。
だが、彼らの思惑や感情など、ミハイにはもはや何の意味もなかった。
(僕はレギオンを愛している。もう誰にも、この迸る想いをとめることはできない…)
ローマは、浮かれ騒ぎ飲み喰らう謝肉祭の真っ盛り、誰も彼もが我を忘れて狂う一時―。
(僕も、そうだ、常の自分を捨てて狂ってみようか)
ミハイのきらめく青い瞳は、深く激しい熱狂を湛えて、人波の彼方に遠ざかっていったレギオンの馬車の方をいつまでも追い続けているのだった。