天使の血

第六章 謝肉祭


 新しい年を迎えてしばらく経ったヴァンパイア宮廷。

 レギオンが久しく足を向けていない、不死者達の住まう小さな楽園でも、この所ちょっとした騒動が起こっていた。

 気位が高く協調性のもともとないヴァンパイアが集まる所、不和や対立は絶えない。しかし、今回は騒ぎを起こした張本人が平和主義なおとなしいサンティーノだということでいつもと違って皆の注目を集めていた。

(それで、実際どちらが初めに仕掛けたんだ?)

(それは、やはりラウーランの方だろう。あの自信家が嫌がるサンティーノを無理矢理自分ものにしようとして逆にやり返されたんだ)

(ラウーランは密かにあの憂い顔のオルフェウスを狙っていたという話だからな。サンティーノの恋人らしい、あの生意気な金髪の小僧がいない好機にと迫ったものの、彼が全くなびかないのに業を煮やしたということか。だが、それで返り討ちにあってあの様とは、とんだ醜態だな)

 宮廷の不死の貴人達がどこか突き放して評するように、それは宮廷一のリュートの名手であるサンティーノと一族の同じ若手に属するラウーランが引き起こした痴話喧嘩とも言えるようなしようもない事件だった。

 だが、当事者達―いまだに床に伏せっているラウーランにとっても、この場合加害者であるサンティーノにとっても、それはまったく笑い事ではなかった。

(ああ、ラウーランはまだ意識を取り戻さないのか。確かについ手加減を忘れたけれど、まさかあいつがここまでの痛手を受けるとは思わなかったな。強靭そうに見えて、案外心は弱かったのか)

 同族と争って相手に大変な『傷』を負わせたかどで謹慎処分を受けたサンティーノは、久しぶりによく晴れて温かくなったこの冬の午後、1人、リュートを片手にいつもの東屋に人目を避けるように引きこもっていた。

(同情はしないぞ。そもそもあいつが悪いんだ。僕にしつこく言い寄ってきたことじゃない、あいつが…レギオンに手出しをするから…)

 きっかけは、クリスマスの頃だった。ある宴席に顔を出した折、サンティーノはラウーランが仲間達に自慢げに話すのを偶然立ち聞きしてしまったのだ。

(あの生意気な小僧を痛めつけてやったぞ。ある人間の依頼でな、奴に対する刺客として送られたのだ。奴の高慢さは常々腹に据えかねていたからな、長老の命令などなくてもいつかはと思っていたのだが、全く絶好の機会だったさ。貴殿らにも見せたかった。レギオンめ、私が胸を刺し貫いてやったら、まるで子供のように泣きべそをかいていたぞ。ああ、実に胸のすく眺めだったな)

 聞いた瞬間、サンティーノの胸にはラウーランに対する殺意に近い憤りが生まれた。

 レギオンを傷つけた。それだけで、サンティーノにとってラウーランは万死に値する憎い敵となった。

 その後のサンティーノの行動は少し悪辣であったかもしれない。何しろレギオンが絡むとサンティーノは自制心を忘れがちになったし、それにレギオンと苦い別れをして以来ずっと鬱憤がたまっていた。溜まりに溜まった狂おしい感情が、レギオンの代わりに気の毒なラウーランに向けて一気に噴出したようだった。

 ラウーランは以前からサンティーノに想いを寄せていた。実際、レギオンが市街に移ってから何度かサンティーノは彼に迫られたことがあった。丁重に、しかしきっぱりとサンティーノは断ったが、そのことで彼はレギオンに逆恨みをしていたのかもしれない。

 そんなことを思い出しながら、サンティーノはラウーランを誘惑したのだ。

 ラウーランも初めは少し警戒したようだが、ヴァンパイアの弱みである自惚れをサンティーノの優しい囁きに刺激され、甘い蜜を湛えた紅い唇が誘うのについ目が眩んでのこのこと彼の部屋までついていった。しかし、そこで一転本性をむき出しにしたサンティーノに襲い掛かられて、ほとんど何の抵抗もできずに打ち負かされてしまった。サンティーノが持つ、相手の心に直接働きかけられる力は一族の中でも特殊なものであり、防ぐ手立てはほとんどなかったのだ。

 そして、そろそろ半月以上にもなるのに未だにラウーランの意識は回復していない。

 不死身のヴァンパイアのことであり、大抵は数日か長くても数週間で正気に戻るのだが、サンティーノもここまで本気で力を振るったことは初めてだったので、ラウーランがこの先どうなるかはよく分からなかった。長老達の話では最近の若いヴァンパイアは精神がもろくなっているというから、ひょっとしたら数ヶ月かそれ以上彼は現世に戻ってこないかもしれない。

(ラウーランは時々人間の暗殺団に混じって人を殺すことを楽しんでいると聞いた…そんな悪党のくせに案外見掛け倒しの根性なしなら、あいつは1年でも眠り続けるだろうさ。けれど、それこそ僕の知ったことじゃない)

 かなり薄情にサンティーノは考える。この頃は心がささくれ立っているせいで、他人に対する気遣いも忘れたのだろうか。だが、ラウーランのことはサンティーノはもともとあまり好きではなかった。いかにもヴァンパイアの悪い面を集めた典型のような高慢さも身勝手も、人の都合もお構いなしに強引に言い寄ってくるあつかましさも、サンティーノには許せないものだ。

 だが、高慢さと身勝手ではレギオンも負けていないのではないか。ふとそんな考えが頭を過ぎったが、サンティーノはむきになって否定した。

(違う、レギオンは全く違う…確かに自惚れ屋だし我がままだけれど、何となく憎めないというか…少なくてもラウーランや他の同族の男達によくある狡さは彼にはないし…結局何をやっても愛嬌があって可愛いというか…だから、どんなにレギオンが僕を怒らせてもついつい許してしまうんだけれど…)

 そこまで考えて、サンティーノは我に返った。今度は、いきなり落ち込んだ。

(レギオンは今頃どうしているのだろう。今度はもっと頻繁にここに戻ってくるようなことを言っていたのに、やっぱり一度も帰ってこなかった。いや、レギオンは僕とは縁を切ったつもりでいるのだから、彼がこれ以上僕を気にかけるはずもないんだ。それなのに少しは期待していたんだろうか、馬鹿だな)

 サンティーノは溜め息をついて、愛用のリュートを構えると、手慰みにぽろんぽろんと弾き始めた。

(レギオン、君は今頃ミハイと一緒にいるのだろうか。ミハイとの恋に夢中になって、彼が人間であるということも忘れ果てているのではないだろうか。ああ、僕は恐い…人間との恋の末路がどんなものであるかを知っているから…それなのに君を引き止めなかった自分がいっそ憎いくらいだよ。けれど、今となっては、僕には君を引き戻す手立てなどない)

 ミハイに対する嫉妬とレギオンへの憎しみに我を忘れて、レギオンに警告を与える最後の機会もサンティーノは失ってしまった。今更、レギオンを訪ねていって彼を説得するだけの勇気も、説き伏せられるだけの自信もない。

(僕は本当にどうしようもない…臆病な卑怯者、生きていても仕方のない役立たずなんだ…もう、いっそ死んでしまいたい…そうすれば、レギオンの恋の行く末など見なくてすむ。ああ、僕が人間のように死ねる身ならよかったのに…)

 ヴィラの一番高い窓から飛び降りようか冷たい湖に身を投げようかと、死にたくても死ねない不死の身としては苦笑するしかない夢想にサンティーノはしばし浸っていた。

 しかし、突然、サンティーノは夢から目覚めた。 

 視界の端に白いものが揺れたような気がして、サンティーノは慌てて振り返った。息を吸い込んだ。

「ブ、ブリジット様」

 一体いつからそこにいたのだろう。毛皮の縁取りのある白いマントを肩にかけ、東屋の前に泰然と佇んでサンティーノを見つめているのは、一族の女神、最長老のブリジットだった。

 真昼の月。しかし、彼女の輝きは陽の下にあっても失せることはない。

「驚かせてしまって、ごめんなさい。サンティーノ、そこに行ってもいいかしら?」

 ブリジットが柔らかな口調でそう尋ねるのに、サンティーノは慌てて椅子から飛び起きた。

「は、はい、ブリジット様。あ…お1人ですか? あなたのような方が供もお連れにならず、こんな寂しい庭園の片隅にやってくるなんて」

「その寂しい庭園の隅っこであなたこそ一体1人で何をしているのかしらね、サンティーノ?」

 ブリジットは滑るような身のこなしで東屋に入ってくると、サンティーノに勧められるがまま大理石の椅子に腰を下ろした。

「それに私が1人でここを訪れたことがそれほど不思議なのかしら。私はいつだって、そうしたいと思えば、好きな時に好きな場所に行けるのよ。そうではなくて?」

 勝気な少女のような悪戯っぽい口調で言うブリジットをサンティーノは戸惑いながら見つめた。

「あなたの姿が見えなくて、あなたの美しいリュートの音が聞こえなくて、ここしばらく私も寂しい思いをしていたのよ」

「申し訳ありません、ブリジット様。けれど僕は仲間に対して罪を犯し謹慎中の身ですから、あなたのお傍に侍ることも控えなければならないかと思ったんです」

 ブリジットは問いかけるかのように首をかしげた。

 己の引き起こした馬鹿げた騒動のことなど恥ずかしくてブリジットにはとても聞かせられないと、サンティーノは黙っているつもりだった。しかし、正直な話、様々な煩悶を己の胸に溜め込んでおくのも辛く、全てを受け入れてくれそうなブリジットの優しい姿を見ていると、サンティーノはとっさに何もかもを打ち明けたい衝動に駆られた。

「その…ブリジット様のお耳にも入っているかと存じます。下らない痴話喧嘩だときっと呆れられたことでしょう…けれど、お話するのも恥ずかしいのですが、真実はあの噂よりももっとどうしようもないことで…実際宮廷で今囁かれているのはラウーランが意識不明なのをいいことに僕がでっちあげた作り話なんです」

 サンティーノは頬を赤らめ、うつむいた。

「冷静に考えればひどいことをしたと思うんですが…ラウーランは長老達からの命令を受けて、レギオンを懲らしめるために彼を襲撃したんです。その話を聞いた僕はつい逆上して、彼を騙しうちにしてしまったんです。あそこまですることはなかったのかもしれないけれど、僕にはどうしても彼を許せなかった…レギオンが味わった痛み以上の苦しみ味わわせてやるのだと…あんなひどい噂を流したことについては、高慢ちきなラウーランに赤っ恥をかかせてやろうと思ったんですね。僕に無理矢理迫った挙句返り討ちにあった痴れ者と、正気に戻った後も周囲から白い目で見られるなんて彼にはたまらないでしょうから」

 実際口にしてみて、今更ながら己のしでかしたことのあくどさにサンティーノは唖然となった。

 自分はこんなに性格が悪かっただろうか。

「まあ…」

 ブリジットは、サンティーノのとんでもない打ち明け話に別にあきれ返るわけでも美しい眉をひそめるわけでもなく、凪いだ湖面のような静けさと穏やかさで、サンティーノを見守り続けた。

「僕は…駄目なんです、レギオンが絡んでくるとつい感情的になってしまって…自分が何かされたのならたぶん我慢できるのでしょうが、レギオンが傷つけられることは許せない。おかしな話ですよね、僕はレギオンの保護者でも恋人でもない…友人ですら、もうないのに…」

 サンティーノは微かに声を震わせ、哀しげに目を伏せた。

「何もおかしくはないわ。サンティーノ、あなたはレギオンを愛しているのだから」

 サンティーノはとっさに顔を上げてブリジットを見た。慈母のような理解に満ちた温かな笑顔を見、サンティーノは慌ててまたうつむいた。

「レギオンのような人を愛するのは、あなたにとってはなかなか辛いことなのでしょうね、サンティーノ。こんなに面やつれするまで思いつめて。けれど、それなのにどうしてあなたはレギオンを追っていこうとしないのかしら。レギオンは宮廷にはめったに戻ってこない様子なのに、あなたはここで一体何をしているの、彼を待っているの? レギオンを捕まえたいのなら、黙っていては駄目。今すぐにでも、彼のもとにお行きなさい」

 ブリジットの率直な意見に、サンティーノは苦しげに息をついた。

「そんなこと…僕にはできません…僕は意気地なしなんです。自分に自信が持てない…レギオンを振り向かせ繋ぎ止めるほどの魅力なんて僕にはそもそもないんです。それに、ブリジット様は知らないでしょうが、レギオンはすごく浮気性で、友人なら仕方がないかと許せることでも恋人になってしまったら我慢できなくなる…僕はきっと悋気のあまり気が狂うでしょう。それに、よく言うじゃないですか、ヴァンパイア同士のカップルは意外と長続きしないって…所詮束の間の恋人同士になるよりかは、ただの友人でもレギオンの傍にずっといられるのならその方がいいなんて…つい気弱に思ってしまうんです」

 サンティーノは悔しげに唇を噛み締めた。本当に、こんな自分が心底憎らしい。

「そ、それに…いずれにせよ、今のレギオンは僕のことなど顧みてはくれないでしょう。彼は今…恋に夢中になっているのですから…人間相手の…それはもともとは僕が彼に勧めたゲームでした。けれど、いつの間にかレギオンは本気になって…ああ、今更遅いけれど僕は後悔しています。ミハイが、レギオンの心を掴むほど魅力的でなければよかったのに…ただの遊びで終わってくれればどんなにか安堵できるのに…けれど、レギオンは一族を敵に回すことも厭わないほどあの人間に溺れています。レギオンはミハイが人間であることをほとんど忘れているような気さえするんです。でも、どんなに深く愛し合おうと人間の恋人は…最後には僕達ヴァンパイアに殺されることになるんです」

 サンティーノは語りながら次第に取り乱していった。レギオンとミハイの恋の行く末を思う時、罪悪感だけではなく、サンティーノ自身の苦い過去の経験がまざまざと甦ってき、彼は激しく慄くのだった。

 そして、この時は相手が心を許せるブリジットだったからだろうか、サンティーノは不安に駆られるがまま、こんな打ち明け話を始めた。

「…僕の母は自分の子供を愛することができずに人間の女に世話を押し付けました。僕はだから生きていくのに必要な血は母よりはよほど関心を持ってくれた父や他の親族から恵んでもらいながら、その人間の娘を母親代わりに育った訳で…僕がヴァンパイアのくせに人間につい感情移入してしまうはそのためかもしれません。いえ、とにかくそんなふうに育った僕ですが、自分で獲物を襲えるようになって最初に奪った人間は…まだ若かった、僕の母親代わりの侍女でした。僕は彼女のことを深く愛していたけれど、その愛情が血の欲望にすりかわった瞬間、僕はどうしても自分を抑えられなくなったんです…殺したくなどなかったのに、どうしようもなかった―」

 サンティーノは思わず身震いし、我が身をかき抱いた。あの時と同じ辛く絶望的な気持ちに襲われ、同じ想いをレギオンもきっと味わうのだという確信に心が凍った。 

(愛した人間を殺すなんて、レギオンにそんな辛いことはさせたくない)

 サンティーノは瞬間どうしようもなく追い詰められて、傍らで静かに彼の語ることに耳を傾けながら考え込んでいるブリジットにすがるような目を向けた。

 その時、サンティーノの頭の中にある考えが閃いた。

 ブリジットならばレギオンの心をミハイから引き戻すことができるかもしれない。レギオンが憧れ一度は熱心に求愛した女神ならば彼を振り向かせることも、彼を導き、あらゆる敵から守り続けることもできるだろう。

「そうだ、ブリジット様、お願いがあります。どうかレギオンをあなたのお傍に…彼をあなたのこ…恋人にしてもらえませんか」

 ブリジットは目を瞬いた。真剣そのもののサンティーノの様子に、さすがの彼女も一瞬どう応えたらいいか迷ったようだ。

「まあ…」

 ブリジットは困ったように微笑んだ。

「サンティーノ、あなたって普段はとてもおとなしくて控えめなのに、時々驚くくらい突飛なことを考え付くのね」

 しかし、興奮状態のサンティーノはすぐには引き下がらなかった。

「すみません、こんな突拍子もない頼みごとをして…でも、たぶんあなたならレギオンを本心に立ち返らせることができる…初めにレギオンが求愛したのは何と言ってもあなたなんですから…釣り合いが取れないから今は引き下がるけれど決してあなたを諦めた訳じゃないと、そういえば彼も言っていました。それに、誰かに師事することを強情に拒んでいるレギオンもあなたの教えなら素直に聞くことでしょうし、あなたのものとなれば、宮廷の誰もレギオンに手出ししなくなるはずです」 

 万事うまく解決できる、これは素晴らしい思い付きだとサンティーノは嬉しくなったが、それも束の間のことだった。

「サンティーノ、サンティーノ、落ち着いてちょうだい。あなたって、本当にレギオンのことになると人が変わってしまうのね」

 ブリジットは苦笑していた。

「たぶん、あなたの言いたいのは要するに私にレギオンの師になって欲しいということだと思うのだけれど、それはあなたではなくレギオンの問題なのだと思うわ。もしも彼が弟子にしてくれと私に頼みに来たら…そうね、私はあのやんちゃさんのことはどちらかと言えば好いているようだし、彼の頼みならばむげにはしないでしょう。けれど実際、レギオンは私の窓の下で歌った夜以来、私に一度も顔を見せていないのよ。それに、恋人になれるかどうかは、それこそレギオンと私、2人の心の問題ね」

 サンティーノはさっと赤面し、居たたまれなくなってブリジットから顔を背けた。

 だが、別にブリジットが気分を害した様子はなかった。彼女はしょげ返るサンティーノに向かって、辛抱強く穏やかな調子で語りかけた。

「サンティーノ、ねえ、聞いてちょうだい。レギオンの傍にいたい、レギオンを守りたい、彼を愛し、また愛されたい。それは結局あなた自身の望みではないのかしら。私にならレギオンを任せられるとか、そんなふうに思うべきではないわ。なぜなら、私はあなたではないからよ。もしも私がレギオンの恋人になったとしても、私はあなたを投影する鏡にはなれない。きっとあなたは余計に辛くなるだけでしょう」

 サンティーノははらはらと涙をこぼし始めた。

「可哀想な子」

 声もなく泣き続けるサンティーノをブリジットは温かな胸に引き寄せて抱きしめた。そうして、低い柔らかな声音で幼子をあやすよう、囁いた。

「あなたの涙は美しいけれど、私も悲しませるわ、サンティーノ。あなたのために私はどうしてあげられるのかしらね。あなたが求めるものが私の愛情ならば、どんなにかあなたを愛し慰め幸せにしてあげるでしょうにね。でも、私はあなたが焦がれる太陽ではない」

 サンティーノの艶やかな葡萄の房を思わせる巻き毛を指先で撫でながら、まるで子守唄を唄いかけるようにブリジットは語りかけてくる。

 その声を聞いているうちに、サンティーノは不思議と傷ついた心が少しずつ癒されていくのを覚えた。

 ブリジットが言った愛情は男女のものではないということは分かっていた。母親が我が子に向ける無償の愛だ。けれど、それこそサンティーノが今彼女に求めているものだった。

 幼い頃こんなふうに実の母親から抱きしめられた覚えなどサンティーノにはなかった。母にさえ愛されなかった自分が他の誰かから愛される自信など、どうして持てるだろう。

 ブリジットが演じてくれているのは、サンティーノを傷つけた、あの冷たい女性が本来するべき役割だった。

 そう簡単に心の深い部分に受けた傷が癒えるわけでも、遠い日の記憶の中にぽっかりとあいた空虚が埋められる訳でもなかった。しかし、ブリジットは何だかサンティーノをもう一度育てなおそうとしてくれているかのようで、束の間子供のように無防備に彼女に抱きしめられながら、サンティーノはその心地よさにうっとりと浸っていた。

(ブリジット様、あなたが僕を生んでくれた人ならよかったのに…もしそうなら僕は何事に対してももっと自信を持てただろう。こんなふうに逃げてばかり、恐がってばかりでなく。レギオンのことも、ここまで追い込まれる前に自分から何とかしていた。いや、それはうじうじ考えても仕方ないことだ。僕は別の誰かに生まれ変わることも、他の人に僕の代わりを頼むこともできないんだ)

 女神の子守唄はまだ聞こえている。サンティーノは目を閉じ、じっと耳を傾けていた。いつの間にか涙はとまっていた。

(レギオンに会いに行こう。さすがにレギオンに恋人にしてくれと迫る勇気はないけれど、彼がどうしているのか様子だけでも確かめたい。それから、絶交宣言だけは取り下げてもらう。だって、僕はとにかくレギオンをずっと見続けたいんだから)

 サンティーノは相変わらず自分に自信の持てない弱虫の意気地なしだったが、それでもやっと、前を向いてほんの少しでも歩き出してみよう、欲しいものに自分から手を伸ばしてみようという心持ちになっていた。



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