天使の血

第五章 熱情


(こんな感情を、僕は今まで知らなかった)

 オルシーニの館の奥深く、ミハイが幽閉されてもう半月近くになる。

 レギオンが刺客に襲われた夜、館に帰ったのはもう夜半であったが、ミハイはすぐにオルシーニに面会を求めた。

 しらをきるつもりだったのだろうが、ミハイが血まみれの姿で部屋に入ってくるのを見た途端オルシーニは動転してしまい、それがもとで口を滑らせたことから、結局己がレギオンを襲わせたと認めた。

 レギオンがミハイに再び接触しようとしていると知ったオルシーニは、ミハイが外出する度に密かに暗殺者達に尾行させていたのだ。

 分かっていたことだが、その事実を突きつけられるのはミハイには辛かった。オルシーニに対しては、ミハイも恩を感じていた。オルシーニはミハイをフィレンツェ時代の男色趣味のパトロンから救い出してくれた。ミハイがローマで成功できたのも彼のおかげだ。実際、レギオンが現れるまでは、ミハイとオルシーニはうまくいっていた。

 しかし、オルシーニはもはや、かつての鷹揚で理解のある庇護者ではなくなってしまった。

 レギオンとの関係を疑い、まるで嫉妬に狂ったただの男のようにミハイさえも憎らしげ見るようになった。芸術を愛し、子供のようにミハイの歌に素直に聞き惚れていた、あの愛すべき教会の息子はどこに行ってしまったのだろう。彼の変わりように、ミハイは哀しくなったくらいだ。

(どうか、レギオンに刺客を差し向けるなどとあなたらしくないことはもうおやめになってください)

 ミハイが必死になって懇願すればするほど、オルシーニは心を硬化させた。

(すべてはおまえを守るためにしたことだ。それを、私を恨み、非難するとはな。おまえは、そこまであの男に堕落させられてしまったのか)

(それは違います、猊下。僕はただ理不尽なことには我慢ならないのです。レギオンは僕に対して何の罪も犯していないのに、その彼の命を奪わせることなど僕には許せないのです)

(あの色事師がおまえに指一本触れていないなどと、どうして信じられる。例え肉体的には罪は犯していなくとも、心の中ですれば同じことだ。レギオンはおまえを欲しておる。それだけで私はあやつを許せない。だが、ミハイ、おまえはどうなのだ? おまえもまた、心で罪を犯したのではないか?)

 この追求に、ミハイは怒りと屈辱で頭がくらくらする思いだった。オルシーニが言ったようなことが罪だとすれば、この世に罪なき者など1人もいなくなってしまう。

 ミハイは枢機卿をまっすぐ見据えて、こう応えた。

(あなたはそれが罪だと言われるが、僕にはレギオンが僕に教えてくれたような感情が罪であるとは思えません、猊下)

 瞬間、オルシーニの顔が赤く染まった。

(僕はレギオンに感謝しています。どのような方法であれ、彼は長い間凍り付いていた僕の心を溶かしてくれたのですから。僕は今初めて自分が生きていると実感しています。当たり前の人のように、僕にも歌以外のところでちゃんと喜びを感じられるのだと分かったんです)

 言った途端、ミハイは不思議な幸福感に胸が温かくなるのを覚えた。躊躇いもなくこんなことを言った自分にも驚いた。かつてないほどに、今のミハイは素直な気持ちになっていた。

 だが、ミハイの率直な態度は、オルシーニには受け入れられなかった。

(ミハイ、それこそ、おまえが誘惑に屈した証ではないか…歌以外の喜びなどかつてのおまえは求めなかったものを…許さぬぞ、ミハイ。おまえは…おまえの歌は神のもの、レギオンになど渡せぬ…!)

 怒り心頭に発したオルシーニはそのままミハイを幽閉した。

 外部の者とは一切接触を許されず、ハンスとも引き離されて、ミハイは1人きり、広々として豪華ではあるが自由のない部屋に閉じ込められてしまった。

 まさに篭の中の鳥。

(ああ、これもレギオンが以前言ったとおりだな。自由を求めて逃げてきた筈なのに、僕は結局別の檻の中に自ら飛び込んでしまったのか)

 オルシーニをここまで追い詰めたのは自分なのだという自覚はあるが、ミハイにはこれ以上、彼の手の内に留まることはできなかった。一端堰を切って溢れ出した感情はミハイにも抑えられない。

(僕にもちゃんと人並みの喜びや感動を感じる心が残っていた…そんなものは死に絶えたかと思っていたけれど、僕の中に長い間眠っていただけなんだ。おかしいな、今頃になって急に色んなことを思い出してきているみたいだ。どんどん自分の心がほどかれていくような…解放されていくような…歌の中にだけ束の間感じられた歓喜が僕の人生に戻ってきたような気がする)

 己の置かれた状況を思えばもっと取り乱してもおかしくないはずだったが、不思議とミハイの心は落ち着き、今までにないほどに澄み渡っていた。

(レギオンのおかげなのかな、これも。初めの頃は僕を怒らせ不愉快な気持ちにばかりさせる嫌な奴だと考えていたけれど、彼と接して感情を爆発させているうちに、僕の凍り付いた心は自然と燃え溶かされていったのだろうか。ううん、それだけじゃなくて、たぶん―) 

 幽閉されて1人になると、それだけ色々と考える時間ができた。その中で、ミハイはレギオンのことをずっと思っていた。

 実際会えば美点よりも欠点が目に付いて腹の立つことの多いレギオンではあるが、こうしてミハイの胸の中に描かれる彼の姿はただひたすら完璧で、輝くように美しい。

 何ものもレギオンを傷つけてはいけない。己の全てを賭しても守りたいと、ミハイは強烈に感じた。

(こんな気持ちを他人に対して覚えたのは初めてだよ、レギオン)

 自分を守るためにこそ必死に戦ってきたミハイにとって、それはとても新鮮で、痺れるような、あまやかで不思議な幸福感だった。

 ミハイは、時々レギオンの夢を見た。真夜中、ふと気がつくと、レギオンがミハイを頭上から覗き込んでいる。光背を帯びた天使のように淡い光に包まれてうかびながら、ミハイと目があうと優しく微笑み、安心させるように彼は頷く。奇妙な光景だがなぜかミハイは不思議だと思わずに、レギオンがいてくれるという安堵の中再び眠りにつく。そんな夢を幾度か見た。

(レギオンは、きっと無事でいるのだろう。確かめた訳じゃないけれど、僕には分かる。あの夢のせいかな…? 夢に違いないのだけれど、すごく実在感もあった…)

 ミハイが平静を保てたのも、レギオンの身の安全を奇妙な形ではあるが確信できたことが大きかっただろう。

(レギオン、君に会えなくてもいい、君が生きて無事でいてくれるなら…その代わりに僕は、君を想って歌を歌おう。僕の歌を好きだと君はいつも言ってくれたんだ)

 そう、レギオンとの再会はおろか、ハンスを含めた館の人間と話を交わすこともできない、それにオルシーニは一体自分をどうする気なのか、先の少しも見えない不安で単調な日々、ミハイはそれが唯一の慰めのように歌を歌った。

 誰から頼まれた訳でもなく、自分のために、心の赴くがままミハイは歌った。

 レギオンに導かれて訪れたあの酒場での一夜を、黄金色に輝く秋の陽射しの下での剣の試合を、それから死んだと思ったレギオンが生きていたと悟った時の魂が打ち震えるような安堵と喜びを―。

 逃げ出すことのできない高い窓の前に立ち、灰色の雲の間から差す白金色の陽射しを見つめ、夜には黒いビロードの空に浮かぶ冴えかえった月を眺めながら歌う時、ミハイは己の歌がいつしか変化していることに気がついた。

(ああ、何だか歌うことがとても楽になったような気がする。僕にとって、歌は苦しみの中から生まれてきたものだった。歌によって狂わされた僕の人生、なくしてしまった幸せ、そんなものへのこだわりをずっと抱いていた。だのに、今はとても素直に歌を歌える。まるで子供の頃に還ったようだ…歌が好きで好きで夢中でさえずっていた小鳥が僕の中に戻ってきたようだ)

 ミハイの胸の奥から生まれた歌は、喜びの羽根をまとって彼の喉から飛び立ち、世界を自由に飛翔する。

(僕の声だ、これが僕の歌…長い間忘れていた僕の…本当の魂の声なんだ)

 ミハイの歌声は館の窓から漏れ出し、人々はそれに密かに耳を傾け、溜め息をつきいて聞き惚れていた。オルシーニがどれほど禁じようが、彼の目を盗んで、歌うミハイの部屋の近くまで忍び込んで素晴らしい声を盗み聞こうとする者達は実際後を絶たなかった。

 ミハイは全く気がついていなかったけれど、彼の歌声は暗闇の中で輝く灯りのように人を引き付け、その心を捕らえこんでいたのだ。

 やがて、オルシーニがミハイを幽閉しているという噂も当然のようにローマの人々の口に上っていった―。





 愛人を伴ったロドリーゴ・ボルジア枢機卿が、自宅で催された饗宴を抜け出してほろ酔い気分で寝室に足を踏み入れた時、部屋の暗がりに彼の知らぬ美しい青年が佇んでいた。枢機卿は一瞬鋭く目を光らせ、扉の前で足を止めた。

「ボルジア枢機卿様、どうぞ非礼をお許し下さい」

 燭台の揺らめく灯りの前に進み出、ボルジア枢機卿に己の姿をはっきりと示したレギオンは、友好的で人懐っこい笑みで相手を魅了しようとした。そう、この男の警戒心を解いて、まずは話を聞いてもらわなければならないのだ。

「はて、そなたは何者かな、美しい若者よ」

 だが、ボルジア枢機卿は別にレギオンを見てもさほど動じた様子はなく、ゆったりと構えたまま、傍らで怯えたように立ち尽くしている若い女の肩をそっと撫でながら言った。

 ロドリーゴ・ボルジア。スペイン出身の枢機卿は聖職者でありながら愛人との間に子供まで儲けるなど色を好むことで知られているが、同時に老獪な策謀家でもあった。

「私はレギオン。あなた方が闇の貴族と呼ぶ一族の者です」

「ほう」

 ボルジアは興味深そうにレギオンをつくづくと眺めた。

「ヴァンパイアか」

 彼は隠語を用いず、ずけずけと言った。

「見たところ、普通の人間と変わらぬな。美しすぎるという点を除けば。そうだ、そなたが人ではないというならば、その証を見せてもらえぬか」

 レギオンはちょっと考え込んだ後、床からふわりと浮き上がってみせた。

「おお、これはすごい!」

 枢機卿は子供のようにはしゃいだ声をあげた。愛人の女が恐ろしいものを見るかのごとく引きつった顔でレギオンを眺めているのとは対照的だ。

「もっと何かして見せてくれ。部屋の天井をぐるりと飛んで回ってみろ」

 レギオンは言われたように高い天井近くまで浮かび上がると、翼を持たない鳥のように枢機卿の頭上でぐるりと円を描いてみせた。

「ははははっ。素晴らしい、こんな愉快な見世物は初めて見るぞ」

 手を叩いて喜ぶ枢機卿にレギオンは何だか恥ずかしくなって、床に再び降り立った。

「闇の貴族とは、私は今までそれ程懇意ではなかったが、いつかは親しくなりたいものだと常々思っておった。わが盟友オルシーニのようにな。さて、レギオンといったな、そなたが私の前に現れたのはどのような用向きがあってのことなのかな?」

 ボルジアは、レギオンの不審な登場の仕方にも、目の前で演じて見せたヴァンパイアの能力にも全く動揺していないようだ。今にも気を失いそうな女を部屋の片隅の椅子に追いやると、小卓の上に用意されていたワインを手ずからゴブレットに注いで、レギオンに勧めた。

「猊下、実はローマで権勢を誇るボルジア家の力をお借りしたいことがございます」

「あまり買いかぶってもらっては困るがな。私は所詮よそ者のスペイン人だ。だが、困っている者に助けの手を差し伸べることにはやぶさかではないよ。私も神に仕える身だからな」

 にやにやと笑うボルジアの顔を探るように見据え、レギオンは思い切ってこう言った。

「ミハイの保護を」

 ボルジアは意味がよく分からないというようなあいまいな表情をうかべて、微笑んだ。

「教皇庁の礼拝堂付きでもある歌手ミハイをオルシーニ枢機卿が不当に幽閉しているという噂は猊下のお耳にも入っていることと存じます」

「ああ、ミハイ、あの歌い手のことだな。まさに天上の声を持つ歌手だ。無論、あの噂については私も聞き及んでおるよ。そして、大変憂慮しておる。全く、ルカの馬鹿め、たかが歌手1人のためにこれまで築いてきた評判を地に落とすような愚行に走るとはな」

「オルシーニ枢機卿とは親しい間柄なのですね」

「ああ、彼は私の友人だ。実際、政治的な立場を別にしても私達は気があった。ルカは芸術を、私は恋や快楽を、聖職にはあるがこの世の喜びの大切さもわきまえ、何事においても中庸を美徳と考えておるという点でな。だが、この頃のルカは己を見失っているように見受けられる」

「オルシーニ枢機卿はミハイに執着なさっています。度を越していると言ってもいいでしょう」

「ああ、あれは恋の病に取り付かれておるようだな。そっちの方では私と違って禁欲的な男だったが、それゆえ一度本気になると自制ができなくなったか。全く、困ったものだ」

「どのようにすればよいと、猊下はお考えで?」

「ミハイの歌声は素晴らしいものではあるが、神に仕える者の心をそこまで惑わすならば、あの声もむしろ悪魔の賜物と言わざるを得ないかもしれぬな。真に悪魔の使いならば火にくべて燃やしてしまえばよいが、それも色々面倒そうだ。だが、何らかの形であの者はルカの傍から取り除くのがよかろう」

 ボルジアの言いようにレギオンはふと胸の中に不安がさすのを覚えたが、ミハイを救い出すため、この一癖も二癖もある男を味方につけようと決めたからにはここで引き下がるつもりはなかった。

「私が求めているのは、ミハイをオルシーニの監視下より引き離し、別の国へ逃がすことです。スペインの外交官、トーレス伯はご存知でしょう。彼を通じて、ミハイをスペイン宮廷へ迎えたいという申し出が以前より何度かあったそうです。猊下には、その橋渡しをお願いしたいのです」

 ボルジアはレギオンの真剣そのものの顔を不思議そうに眺めた。

「ヴァンパイアのくせに、人間のようなことを言いおる。鼻白むな」

「この世界はあなた方のものですから、ヴァンパイアの私であっても、ここはやはりあなた方の流儀に従うべきかと。少なくともミハイのためには、それがよいと思うのです」

 そう、すべてはミハイのためにだ。レギオンが人間との交渉など日頃は軽蔑している人間じみた手段を講じるのも、オルシーニによって幽閉されているミハイを自由にしてやるために他ならない。

「では、そなたなのかな。ルカめが嫉妬し、同じヴァンパイアの刺客を差し向けまでした男というのは」

「そのようなことまで、猊下のお耳に入っているのですか」

 ボルジアの情報収集力にレギオンは少し驚いた。

「その通りです、猊下。ですが、不死の身である私を滅ばすことは何者にもできません。その点、オルシーニ枢機卿が私になさったことには全く意味などないのです」

 つい腹立たしさを抑えかねてレギオンが辛らつに応えるのに、ボルジアはふと意地の悪い顔をした。

「ああ、確かにそなたの言うとおりなのだろうな。だが、ルカ・オルシーニも嫉妬に我を忘れているとはいえ、そこまで浅はかではないと思うよ。あれは、結局、そなたよりもミハイに向けた警告ではなかったのかね。そなたは己が不死身であるあまり、死すべき人間がどのように感じ行動するかを理解することはできぬのかもしれんな。そなたを目の前で襲われて、ミハイはさぞかし恐怖したことであろう。どうせ、そなたは己の真の姿を彼には明かしておらぬのだろうしな」

 ボルジアの指摘に、レギオンはぐっと詰まった。

 それから、その点について考えをめぐらせてみた後、レギオンは今更ながら少し呆然となった。確かに、レギオンを人間と信じているミハイにとって、あの事件はレギオンが感じた以上に衝撃だったろう。だからこそ、あんなにも真剣にレギオンにもう己には近づくなと諭したのだ。あんなにも切迫した顔で、レギオンを傷つけたくないと告げたのだ。

(ミハイがどんな気持ちだったのか、私は結局よく分かっていなかったのかもしれない。私はオルシーニの攻撃にただ腹を立て、こんな脅しが不死者の私に通用するはずがないのに馬鹿な男だと奴を嘲笑っていたが、人間であるミハイが私と同じように感じられるはずはなかったんだ。無鉄砲に自分の意地を通してばかりの私の身を、彼は人間らしい心で素直に気遣い案じてくれた…実際には死ぬことも傷つくこともない私を…そう、ミハイが人間であるからこそ―)

 ともすれば忘れそうになるが、ミハイは人間だったのだ。どんなに心が通い合うかに思われたところで、ヴァンパイアと人間では真に理解しあうことは不可能なのかもしれない。何しろ、レギオンには己の正体をミハイに告げることもできないのだ。

 急にレギオンは胸の奥に焦燥感にも似た苦しさを覚え、込み上げてくる嫌な考えを無理矢理振り払った。

「そなたの頼みごとの内容はよく分かったよ、レギオン」

 ボルジアの呼びかけに、束の間己の中に沈みこんでいたレギオンは現実に引き戻された。

「だが、私がミハイのために動いたとして、その見返りに私は何を期待できるのであろうか? 何しろ、これは私にとって友人ルカを裏切る行為だからな」

 レギオンはいよいよ腹をくくって、ボルジアの目を見据えた。

「では、私の忠誠を」

 人間相手に己を売るなどレギオンにとってこれほど厭わしいこともないが、レギオンには他にボルジアの協力を得られるだけの取引材料はなかった。あっさりと割り切ることができるあたり、レギオンは、プライドは高いが現実的でもあった。

「あなたにとって邪魔な人間を葬る手助けを致しましょう。私は、どのように腕の立つ暗殺者よりも素早く、そうしてどんな毒よりも確実に何の証拠も残さず、あなたの敵を抹殺できます」

 ボルジアの目が抜け目なく光り、猫のように細くなった。彼は大きな肘掛け椅子に体を沈み込ませるようにゆったりと座りながら、顎の辺りを指先でそっと撫でた。暖炉の中で燃える火を受けて、彼の指にはめられた重たげな金の指輪が暗い輝きを放った。

「なかなか魅力的な申し出だな。しかし、まあ、それを受けるか否かはおいおい考えることにしよう」

「猊下…」

「いや、そなたの願いを退ける訳ではないよ。私も己の論理でミハイにはローマから消えてもらった方がよいと考えておる。ミハイの歌は人心を掴みすぎるのだ…オルシーニを虜にしたことも含めてな…。美しい青年と恋仲になったお抱えの歌手に枢機卿ともあろうものが横恋慕して、歌手を幽閉するなどという醜聞が広まるのは避けたい…これが私の政敵ならば逆にここぞとばかりに悪評を煽ってやるところだが、私の味方であれば放っておくことはできぬ。そなたの望みどおり、何とかミハイの助けになってやろう。あからさまにオルシーニの手からミハイを奪い取ろうとすることはできぬが、秘密裏にスペインとの交渉の場を作ってやったり、橋渡しをしてやったりすることならば構わぬよ」

 にこやかに微笑みながら両手を広げてみせるボルジアは善意に満ちた慈父にも見え、用心深く構えていたレギオンでさえ一瞬彼の好意を信じそうになったくらいだ。

「感謝いたします、猊下。このご恩は決して忘れません」

 ひとまず交渉が成立したことにほっとしながら、レギオンが優雅に一礼をすると、ボルジアはふいに悪戯を思いついた子供のような顔をした。

「おお、そうだ、頼みごとを聞いてやった代わりと言ってはなんだが、もう1つ、おまえの特技を私に見せてもらえんかな」

 レギオンが問いかけるようにまばたきをすると、ボルジアは頭を巡らせ、もうすっかり忘れ去られていた、暗がりにある寝椅子の上で息を殺している愛人の方に顎をしゃくった。

「ヴァンパイアはどのようにして獲物を殺すのか、一度見てみたいと思っていた。レギオンよ、私の前で、その女から血を奪ってみせてくれぬか?」

 レギオンは硬直した。そうして、ボルジアの楽しげな笑みをうかべた顔を信じられないものを見るかのごとく、まじまじと見返した。背筋にぞっと冷たいものが走った

 この男は、怪物か?

「冗談だよ」

 レギオンの顔にうかんだ衝撃に、ボルジア枢機卿はぷっと吹き出すと、甲高い破裂音にも似た笑いを仰け反った喉から迸らせた。

「ああ、ああ、そのような真剣な顔をして、嘘に決まっておるだろう。そんなことよりも、ほれ、ヴァンパイアといえば壁を抜けることもできるそうな。私にその芸を見せてくれんか、レギオン?」

 ロドリーゴ・ボルジア(後のローマ教皇アレクサンデル6世)の毒気にすっかり当てられたレギオンは、一刻も早くこの場から逃げ出したいほど心底疲れを感じていたが、結局嫌々ながらも彼の望みをかなえてやった。





 クリスマスが近づいてくる。




 幽閉生活の続くミハイは、この頃では次第に時間の観念を忘れ、夢うつつの忘我状態に陥っていた。

 規則的に部屋に運ばれる食事はきちんと取るが、それ以外は昼となく夜となく気が向けば歌い、疲労を覚えれば眠る。ミハイが、枢機卿に許しを乞うことも、館からの脱出をはかることもなかった。

 別にミハイは絶望していた訳ではない。生きることを諦めた訳でもない。

 ミハイは何かを待っていた。

 長い年月、己を取り囲んでいた深く暗い夜がようやっと明けようとしている、そんな予感がミハイにはあった。

(変だな、僕はどうしてこんなに落ち着いているんだろう。以前の僕なら、もっと抗ったり、現状を打破しようとあれこれ考えを巡らせたりしているだろうに…確かに、こんな状況に置かれては僕1人の力で何ができる訳でもないけれど、不思議と何も恐くない。むしろ、好きな歌を好きな時に歌えることに安らぎと喜びを感じている。自然のものではない、作られたこの声を僕は憎んだことすらあったけれど、今は素直に愛することも受け入れることもできる。ありのままの自分をやっと認めることができる…レギオンが以前言ってくれたように…そう、僕はこのままの僕でいてもいいんだ)

 白昼夢のような現実の中、ミハイはしばしばレギオンの面影を見ていた。鏡に映る自らの影に対するようにレギオンに向かって語りかけていた。

(僕の人生は苦闘ばかりで、楽しいこと、嬉しいことなど1つもない…人間らしい幸せには僕は縁が薄いのだと思い込んでいたけれど、悪いことばかりでもなかったのかもしれない。どんなに傷ついても、全てをなくしたといっても、歌う喜びだけは僕はいつも持っていられた。大勢の人達が僕の歌を愛してくれた…歌を通じて広い世界を見ることが出来、たくさんの人と知り合うこともできた。ハンスだってそうだし、レギオン、君ともここに来なければ僕は出会うことすらもなかった。もしかしたら、僕がもう少し早くに己の傍にある大切なものたちに気づいていたら…自分に自信が持てないあまりに心を閉ざしてしまうのではなく、もっと早くに運命を受け入れて自分を解放することができていたら、僕がここまでたどってきた道のりも随分と違ったものになっていたかもしれないね)

 世界から隔絶された鳥篭の中に閉じ込められながら、翼を取り戻したミハイの心はかつてないほど自由に飛び回っている

 そうして、ミハイは待ち続けた。こんな状態はきっと長くは続かない。

 夜の闇は明ける直前が一番暗いもの。たぶん、今がその時なのだ。やがて、太陽の訪れをほのめかす最初の光が遠くの空に見出せるだろう。

 そして、気がつけばもうクリスマス直前というその日、ミハイは暗闇に差す最初の光を掴んだ。

 それは規則正しく部屋に運ばれてくる食事の盆に隠されていた。

 その出来事と共に、ミハイは夢から目覚めた。

 ミハイを揺すり起こしたもの、それは、以前から何度も契約の申し出を受けていたスペイン公使がミハイの救出と保護を申し出る密書だったのだ。





「ミハイ、枢機卿がお呼びだ」

 ずっとミハイを退けていたオルシーニからの急な呼び出しを受けた時、ミハイはそれまでとは違ったはっきりとした顔をして、ここに至ってようやく動き出した状況を冷静に見つめていた。

「おまえには、明日教皇庁の大聖堂でとりおこなわれるミサに参加してもらう」

 執務室において側近に取り囲まれながら久しぶりにミハイと対面したオルシーニは、あまり顔色は優れず、不機嫌そうだった。

「教皇猊下主催のクリスマス・イブの特別ミサだ。歌えるな、ミハイ」

 ミハイはオルシーニの鬱屈とした眼差しを正面から受け止め、微笑んだ。

「はい、猊下。歌ならば、僕はいつ如何なる場所でも人々に聞かせられる準備ができています」

 オルシーニは一瞬口を開きかけるが、迷うように閉ざし、己の前に超然として立つミハイを探るように凝視した。彼にも、ミハイの内に起こった変化を感じ取ることはできたようだ。

 ミハイの美しい顔からは何者も寄せ付けない冷たい石の仮面は取り去られていた。幽閉生活の間にどんな奇跡がミハイに生じたのか、内に閉じこもっていた神秘的な部分が突然に花開き、彼はそれまでとは全く変わっていた。今の彼は、夜明けの光の中へゆっくりと進み出た人のような晴れやかささえまとっている。

 オルシーニはしばし躊躇った後、側近達を別室に下がらせて、ミハイと2人だけになった。

「おまえは…よく歌っていたそうだな」

 オルシーニはミハイから視線を逸らして、呟くように言った。

「私に退けられて、おまえはどうするかと思っていたが、一度も私を呼んで許しを乞うことも、食事を断つなどして反抗の意志を示すこともなく…ただ歌だけは、おまえの存在を示すように一日たりともやむことはなかった。聞いた者が言うには、おまえの声は以前よりも一層深みを増し、言い知れぬ感動を引き起こすようになったらしいな。おまえの心情の変化が歌に影響したということか、ミハイ」

 まるで自らがミハイの歌を漏れ聞いたことがあるかのようなオルシーニの口ぶりだった。

「僕の歌を聞く人がそれをどう思うかまでは僕には分かりません、猊下。でも、僕自身は、以前よりも素直に歌えるようになった気がしています。僕は歌を愛しているという、当たり前のことをここにいたってやっと思い出した。そして、所詮去勢者なのだという劣等感に萎縮していた僕でさえも、その気になれば、何らかの喜びを人生に見つけ出すことができるのだと今になって気がついたんです」

 オルシーニはミハイから顔を背けたまま、口元を神経質に震わせた。

「私にとっておまえの存在はずっと喜びだった、ミハイ。だが、今は…おまえは私を苦しめている」

 ミハイは瞳を揺らした。

「猊下、僕は、あなたには言葉で言い尽くせないほど感謝しています。歌によってならば、僕はいつまでも喜んであなたにお仕えすることもできましょう。だからといって、心までも縛られるわけにはいかないのです。僕は今、やっと長い眠りから目覚めて、見失った自分を取り戻したんです。この心の自由を手放すことは僕にはできない。僕は、これからは心のままに歌い、誰かを愛し、また大切なものを守るために戦うでしょう。それをやめよと命じられるのは、僕にとっては死ねと言われるのと同じことなのです」 

「そこまで言うのか、ミハイ…おまえのためによかれと思ってすべてをやってきた、おまえを保護し、おまえの才能にふさわしい地位を与えた私を、今あるおまえを作り上げた私のやり方を否定するのか」

 ミハイは哀しげに頭を振った。

「猊下、僕は…あなたの所有物ではないのです」

「ああ、そうだな、おまえはいつだって私の思い通りになったことなど…なかった…」

 重苦しい沈黙が2人の間に流れた。

「これ以上の話し合いは、私達には無意味だ。ミハイ、いずれにせよ、明日のミサではおまえは完璧な歌を披露するよう心がけよ。おまえの歌を待ち望んでいる者達が大勢いる。教皇猊下でさえも私におまえの安否を尋ねられたほどにな。おまえはいつの間にか、私でさえ及びもつかない高みに到達していたようだ」

 ミハイは驚きに目を見張ったが、オルシーニが打ちひしがれた様子で退出を促すのに、それ以上問い返すことはできなかった。

(枢機卿の怒りをかって幽閉の憂き目を見た歌手になど、皆それほど同情も関心も抱かないだろうと思っていたけれど…中には心配してくれていた人達もいたのだろうか。僕がイブのミサで歌うことを待ち望んでくれる人達がいたんだろうか)

 オルシーニの口ぶりではそんな印象だった。外界から隔離されていたミハイには想像できないことだが、己の歌をそこまで愛してくれる支持者の存在はやはり嬉しい。

(ああ、明日のミサでは、僕は感謝の気持ちを込めて精一杯歌おう。人前で歌うのも久しぶりだし、考えるとやっぱり心が浮き立つ。それに、僕が歌手としての活動を開始して外に出るようになれば、これまで会えなかったハンスだってきっと戻ってくるだろうし、それに、もしかしたらレギオンの姿をどこかで見ることもできるかもしれない)

 高揚する気分のままそんなことを考えて、ミハイははっと我に返った。

(駄目だ、レギオンと会うことなど僕はもうできない。レギオンの身の安全を願うならば、僕は彼と会って言葉をかわしてはならない。分かっているのに、いざ外に出られるとなったら、彼の姿を垣間見られることを期待してしまう)

 ミハイはレギオンのことを思い出した途端熱く燃え立つ自分を戒めるよう、頭を振った。

(それに、僕ははしゃいでばかりもいられない。昨日受け取った密書の返事も考えなくてはならない…やはり、僕はあの申し出を受け入れてスペインに行くべきなのだろう。残念だけれど、こうなってはこれ以上枢機卿に仕えることはできそうにない。何より、レギオンが―)

 ミハイは、考えるのが苦痛であるかのように眉根を寄せた。

(僕は、ローマから立ち去るべきだ。僕がここにいれば、レギオンはきっと枢機卿の脅しにもへこたれずに僕に会おうとするだろう。僕がいる限り、レギオンの身が危険にさらされる。ならば、僕が彼の目の前から姿を消せばいいんだ)

 あくまで人間らしい、それはミハイのレギオンに対する気遣いと愛情であった。

(けれど、ああ、僕は迷っている。せめて一目、レギオンの姿を見たい。彼が無事でいることをちゃんとこの目で確認して…スペインに返事をするのはその後にしたいなどと考えている…)

 静止していた己の周囲が一転慌しくなり、状況が再び流れ出した途端、ミハイは急に焦り始めていた。

(レギオン、矛盾しているようだけれど、僕は、君にもう一度会いたいんだ)

 夢うつつの幽閉生活からやっと現世に戻ってきたミハイは、いきなり押し寄せてくる喧しい現実に目が眩むような思いだった。

 何しろ突然参加を命じられたミサはもう明日にまで迫っているのだ。幽閉の直前までミサ曲の練習はしていたし、教皇列席のもと披露される新しい曲でさえもミハイは覚えている。幽閉中、1人きりでも毎日歌い続けていたため喉の状態も完璧だ。しかし、やはりいきなり本番というのも不安があるとの聖歌隊長の判断で、その日のうちにミハイは教皇庁に出向いて慌しいリハーサルをこなさなければならなかった。

 礼拝堂では、ミハイの姿を見るや聖歌隊員達が駆け寄ってきた。口々にミハイの無事を喜び、慰めの言葉をかけてくれる仲間達に頷きながら、ミハイは胸が熱くなるのを覚えていた。

「よかった、ミハイ。皆、君のことを心配していたんだよ」

「戻ってきてくれて、本当によかった。君の素晴らしい歌声がなくては、やはり僕達の歌は引きしまらないからね」

 これまでミハイは彼らにあまり心を開いてこなかった。むしろ自分は孤立しているとばかり思っていた。だが、今、己の帰還を祝福してくれる彼らの温かさに初めて気がついた。

(僕は今まで一体何を見てきたのだろう。一体、何を恐がって…僕は本当に馬鹿げた思い込みで時間を無駄にしてきたんだな)

 礼拝堂の入り口に立ってミハイを静かに見守ってくれているハンスには、ミハイはそれ以上の感謝を覚えていた。

(氷のように取り付くしまのない僕をいつも気遣って、時には理不尽な怒りを爆発させたこともあったのに、文句も言わずにずっと守り続けてくれて、ありがとう、ハンス)

 新たな心で周囲の人々を見渡すミハイの胸には、懐かしさや慕わしさ、驚きなど様々な感情が去来していた。

 一方で、ミハイはこれから先の自らの去就についても考えなければならなかった。ミハイがスペインに行くと言い出しても、オルシーニはそう簡単には許さないだろう。

 だが、全てを超えて、ミハイの心を最も捕らえているのはやはりレギオンであり、オルシーニの館から教皇庁に向かう馬車の窓から外の街路を探し、礼拝堂に立ってみれば、太い柱の陰の暗がりに彼の金色の髪が翻りはしないかと目を凝らしてしまうことをやめられなかった。

(僕は自分で思っていた程理性的でも現実的でもなかったのかな、レギオン。思い切らなければと分かっているのに君のことが忘れられず、幽閉中は君の鮮やかな夢まで見て、それに慰めを覚えていた)

 大胆なレギオンがミハイの幽閉中に何も行動を起こさなかった―もしかしたら起こしたのかも知れないが、自分の前にまだ一度も姿を見せず手紙もよこしていないということに、期待などしていないつもりでも、ミハイは心の奥底では少し落胆していたのかもしれない。

 ミハイが受け取ったスペイン公使からの密書。その陰で、レギオンがボルジア枢機卿相手にどのような取り引きをしたかまでは、ミハイにも思い当たることはできなかった。

 そして、一夜が明ければ、もうクリスマス・イブ―。

 教皇が執り行う恒例のイブのミサは真夜中に始まる。

 この日ばかりは、日がとっぷりと暮れた後も街中が活気付いており、この聖なる特別な日を迎える祝福と歓喜の空気に包まれていた。至るところにキリストの降誕人形や聖母マリア、飼葉おけの中の幼子イエスの飾り付けが見られる。

 サン・ピエトロ大聖堂―この頃では老朽化が目立ってきたがそれでもヨーロッパで最も壮麗なバシリカ様式の教会堂は、今宵は信じられないほどの人々で混みあっていた。

 ふんだんに灯された蝋燭や灯火で建物の中は明るく照らし出され、ひしめき合う人々の熱気のせいで冬の真夜中だというのに寒さは感じられなかった。

 空気は微かに淀んで、甘ったるい香や燭台から立ち上る煤の臭いが混じっている。

(おかしいな、歌う時に緊張を覚えたことなどなかったのに…それにイブのミサなら僕はこれまで何度も歌ってきた) 

 早くから大聖堂に入って時間が来るのを待ち受けていたミハイは、ミサを前に奇妙に落ち着かない気分になっている己に少し戸惑っていた。

 控え室で一緒に出番を待っている仲間達を見渡し、不安に駆られ怯えた顔を眺めながら、彼らの気持ちを自分も今は共有しているのだと考えた。

「大丈夫だよ、あがるのは歌い始める前までのことで、最初の声さえ出せば後は勝手に歌が口から流れ出してくるから」

 イブのミサで歌うのは初めてという新米の聖歌隊員の少年にそう囁いて慰めると、ミハイは控え室の片隅に移動して瞑想するように目を閉じ、後は時間が過ぎるのを静かに待っていた。

(何故だろう、また少し胸の鼓動が早くなっている。大勢の前で歌うことの緊張ばかりではないようだ。まるで何かを期待して待ち受けているような…ああ、でも、そんなこと―)

 ミハイは己の心が現実から流れ出し、またしても幽閉中にしばしば陥った夢想の中を漂うのを感じていた。

 まばゆく光り輝く太陽のような微笑みを思い出してミハイの胸は優しさと温かさに満たされたが、つい焦がれそうになる己を叱咤した。太陽が暖かいのはそういう性質だからで、その光はミハイ1人を照らし出すものではない。もしかしたら、太陽はとうにミハイを忘れているかもしれない。

(太陽を愛するとは結局そういうことなのだと、僕は覚悟しておかないと…僕がレギオンの前から立ち去ろうとするのはもちろん彼を守るためだけれど、僕自身のためにもその方がいいのかもしれない)

 少し気弱にミハイが思った、その時、控え室の扉が叩かれた。

 聖堂に出るよう促す声に、ミハイはすっと目を上げた。気持ちを引き締めた。

(大丈夫、不安など感じない。僕はいつもこうやって歌ってきた。それに僕は歌を愛している。いつ、どんな場所で、誰を相手に歌おうと、僕にとって歌は歌だ。だから、僕が今感じている動揺は、やはり歌とは別のことに対するものなんだ。ああ、僕は期待している。今夜僕がここで歌うことは街中に知れ渡っているのだから、きっと彼の耳にも届くはずだと―)

 ミハイは怖気づきそうになる自らを奮い立たせると、控え室を出ていく他の聖歌隊員達の後に続いて聖堂へ向かった。

 聖堂に出る扉をくぐってまばゆい光とむっとする人の熱気の中に入っていっても、ミハイはずっと己の足元を睨み続けなかなか顔を上げようとはしなかった。彼の心臓は今にも爆発しそうになっていた。

 高い所にある聖歌隊席へ壁沿いの階段を上っていき、仲間達をかき分けて前に出、己の定位置である手すりの前にミハイはたどり着いた。ミハイの姿を見つけたらしい、下の会衆席の方から微かなどよめきと彼の名を呼ぶ幾つかの声が聞こえた。

 瞬間、ミハイは大きく身を震わせた。

(ああ、神様)

 ミハイは意を決し顔を上げると、そこに見出すものを恐れるかのように眼下に目を向けた。途端に、ミハイは低いうめき声を漏らし、体から力が抜けてその場に崩れ落ちそうになった。とっさに手すりにつかまって体を支えたミハイに、後ろに立っていた仲間の1人が心配そうに手を差し伸べる。ミハイが突然眩暈でも襲われたと思ったのだろう。

 ミハイは手すりを頼りに体を支えながら、真下でうごめく群集のただ中に立っている、その人を見下ろした。暗い雲の間から突然覗いた太陽のように強烈な光がそこから差し、ミハイの目を射抜いたかのようだ。今のミハイには、もう彼の姿しか見えなかった。

(レギオン)

 金色の頭を昂然と反らして立つレギオンは、天使どころか神そのもののように見えた。ミハイの眼差しを捕まえて嬉しそうに笑いかける、その鮮やかな緑色の瞳。形のいい唇にうかぶ親しみのこもった表情。一瞬、ミハイは、このまま身を投げ出して彼の上に落ちていきたいような馬鹿げた衝動を覚えた。

(僕が愚かなのか、それとも、こんな時…そう、誰かに恋をすれば、人は誰しも思うものなのか)

 ミハイは自分が置かれた複雑な状況も、考えなければならない様々なことも、一瞬のうちに忘れ去った。

(レギオン、僕は君を失いたくない。君のいない世界で1人生きることなど、僕にはもうできない)

 やがて厳かな雰囲気に包まれて始まったミサの中でもミハイはしばしばレギオンを見つめ、同じようにレギオンもまたミハイを見つめていた。聖堂内で揺らめき瞬く千もの灯り、色とりどりのかぐわしい花々、神の代理者である教皇が唱える朗々たる祝福の言葉。その最中で時折、密やかに出会い、交わされる2人の視線は、互いを強く求めているのだという熱情を伝えあう。

 そして、聖歌隊は天上から降るような歌を響かせている。



 祝福されるべき男子よ、汝は生まれたまいぬ

 われらに求められ

 とび上がって喜べ



 ミハイもまた歌った。清明で、完璧に透き通った天使の声が、まるでこれこそ神からの祝福とばかりに人々の上に惜しげもなく降りかかる。生き生きとした喜びに満ちて、かくも人の心を掴んで深く揺さぶる力に満ちた、こんな声を聞いた者は誰もいなかったろう。

 ミハイは己の歌声を聞くレギオンの顔にかつてない驚きと感動が閃くのを見た。その時、ミハイは初めて己の声を誇らしく思った。

(レギオン、君にこそ僕の歌を聞いてほしかった。僕が取り戻した本当の僕の声を、誰より君に…。分かるかい、歌う喜びを取り戻すきっかけを僕に与えてくれたのは君なんだよ)

 歓喜に打ち震えながら、ミハイは歌う。

 これがたぶん、ミハイが長い間夢に見続けた、生きている間に何としても極めようとした歌手としての頂点なのだ。

 歌いおさめたミハイは、しばし呆然となってはるか天上を仰ぎ見ていた。高みから降り注ぐ光を遮るかのように、目の前に手をかざした。

(でも、もう、これ以上先には僕は行かない。僕は、ここまででいい)

 ミハイは頭を巡らせて、眼下で、奇跡を目の当たりにしたような面持ちで息を飲んで彼を眺めている群集を見下ろした。

 その中で輝く、彼の光、金色のレギオンを愛しげに眺めた。

(僕が掴んだ光は、あそこにある。他には、望むものは、もうない)

 ミハイは何かしら超越したような微笑を満ち足りた美しい顔に浮かべて、聖歌隊席の最前列に佇んでいた。

 聖歌隊席に近い所で燃えている灯火が、ミハイに光を投げかけ、その姿を鮮やかに照らし出していた。その時、突然、どこからか強い隙間風が吹き込んだのだろうか―。

 ミハイの姿に魅せられたかのようにじっと見守っていたレギオンは、不安そうなまばたきをした。

 ふいに、蝋燭の光が揺らめいたかと思うと一瞬のうちに全てかき消えて、安らかに微笑むミハイの上に黒々とした不吉な影を落としたのだ。



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