天使の血

第六章 謝肉祭


 この夜、ミハイは、悪名高いボルジア家の宴に招かれていた。

 相変わらずミハイを外にやることにいい顔をしないオルシーニだが、盟友であるボルジア枢機卿の頼みだけは断れないようだ。

(館にいても気が塞ぐだけではあるし、外に出て歌うことができるのはありがたいけれど、さすがにこの乱痴気騒ぎだけは遠慮したいな)

 ボルジア枢機卿は聖職者でありながら、酒池肉林の盛大な饗宴を開くことを好んでいた。

 噂では街の娼婦を大勢招いて乱交同然の不道徳な宴を開き、たまりかねた教皇から叱責を受けたことまであるという。

 さすがにそこまではいかないが、ボルジア家の豪壮な館に足を踏み入れる度、ミハイが眉をひそめたり、ぎょっとする場面を目撃したりすることはあった。

 この夜に開かれた古代ローマ風と銘打たれた宴も、享楽主義とは程遠い価値観を持つミハイにとっては頭痛を覚えるような代物であった。

 肌も露なトゥニカをまとった美女や花の盛りのような少年の給仕達、金銀の大器に盛られた山海の珍味―生の牡蠣、クミンをまぶしたザリガニの肉団子、イノシシの丸焼き、牛乳で煮た牝豚の乳房、孔雀の舌、浮き彫り付きの銀製のコップに惜しげもなく注がれる酒、妖艶なスペイン娘達による挑発的な踊り。ミハイはできればそれら全てを辞退し、余興の1つとして歌を披露した後は早々に逃げ出したいくらいだった。

 招かれている客達にはミハイの顔見知りの貴族もいるが、時々聖職者の館に出入りするとは思えないようないかがわしげな連中も混じっている。

(これが、教皇に最も近い高位にある枢機卿の催す宴なのだから、呆れ果てるな。むしろ暴君ネロやカリギュラの饗宴でもあるかのようだ)

 退廃的なひだの寄ったトゥニカをまとったヴィーナスのような愛人を傍らに侍らせながら飽食している枢機卿に、ミハイは心の中でかなり皮肉な評価を下した。

 ミハイ自身も実は今夜の趣向に合う仮装をして歌うよう頼まれたのだが、それだけは勘弁して欲しいと半ば切れそうになりながら頑強に拒んだのだ。

 楽しむどころか気疲れするばかりの馬鹿馬鹿しい饗宴に、それでも彼は半分ほどまで我慢して出席した。思わず目を剥きそうな変わった食べ物にも果敢に挑み、ただひたすら忍の字で刺激的な出し物を楽しむふりをした。そうしてボルジア枢機卿に対して失礼にならない程度まで宴に留まり続けた後ようやく暇を告げて席を立ったのだ。

(僕の忍耐力を今夜は試されたような気がするな。はぁ、それにしても…こんなことを言うのもなんだけれど、ボルジア枢機卿に比べれば、この頃は人が変わってしまったとはいえ、我が主は随分と立派で素晴らしい聖職者ではないだろうか。どこをどう間違ってもボルジア家のお抱えの歌手にだけは、僕は絶対なりたくないな)

 頭に花を飾った美少年の給仕に執拗に勧められて飲んだ松脂入りワインのせいで少し悪酔いしたのか、頭がふらふらする。ミハイはボルジアの館の廊下を歩いて、ハンスが待っている召使い用の食堂に向かっていた。

 途中、薄暗い廊下を通り抜ける時も、幾つかの部屋の中から艶めいた声が聞こえたり、擦れ違った女に誘いかけるような意味ありげな眼差しを送られたりとミハイはかなり辟易させられた。

(本当は、せっかく外出できたのだから、こんな下らないことに時間を費やしたくはないのだけれど。できれば早くにここを抜け出して…そう、レギオンの家に行って、少しでも彼と話ができたら―でも、おそらくオルシーニ猊下は僕に監視をつけているのだろう。以前のように、またレギオンに迷惑をかけることになるかもしれない。やはりこのままおとなしくまっすぐ館に戻るべきか)

 ミハイの心は半分レギオンのもとに飛んでいきそうになっていたが、やはり理性が彼を踏みとどまらせていた。レギオンが刺客に襲われた時の絶望と恐怖はミハイの胸にまだ生々しく残っている。

(クリスマス・イブのミサで見かけた時のレギオンは元気そうだった。言葉をかわすことはできず、触れることもできなかったけれど、彼の姿を見られただけで、あの一時僕はとても幸せだった)

 レギオンと秘密の眼差しを交し合いながら自分でも最高だと思える歌を歌った、イブの夜の幸福感を思い出し、ミハイの胸は温かくなった。

(レギオン、君は僕の中に張り詰めていた氷を溶かしてくれた太陽、僕の光、歌以外に何も持たなかった僕が初めて心惹かれ、欲しいと思った…)

 ミハイの心は現実から流れ出した。にぎやかな声の聞こえてくる宴会場もその辺りの扉の中で蠢く人の気配も、全くミハイは気にならなくなった。彼が前を通り過ぎた扉が音もなく開いたことにも気がつかなかった。

「うっ?!」

 ミハイはいきなり背後から何者かに羽交い絞めにされ口を塞がれた。抵抗するが相手には通じず、そのまま廊下に面した部屋の中に引きずり込まれてしまう。

「な、何者だ?!」

 相手が力を緩めた隙を突いていましめを振りほどくと、ミハイはきっとなって振り返り身構えた。瞬間、彼は瞠目した。

「しっ、大きな声を出さないでくれ」

 薄暗い部屋の中、ミハイに向かって明るく微笑みかける鮮やかな緑の瞳。

「レギオン」

 ミハイは呆然と彼の名を呼んだ。

「ど、どうして…君がここに…」

 ミハイは喘いだ。まばたきする事も惜しいとばかりに大きく見開いた目で、意味ありげに微笑んでいるレギオンの顔をひたと見つめながら。

「今夜君がボルジア家の宴に招かれていることは知っていた。この館の中まではオルシーニも力を及ぼすことはできない。私にとっては、君に会う絶好の機会というわけだ」

「僕を捕まえるために、ここに忍び込んだのかい?」

「人聞きの悪いことを言うなよ。ちゃんと館の主の許しは受けている」

 夢にまで見たレギオンに再会できた喜びと驚きからぼんやりしてしまったミハイだが、ようやく頭が回転し始めたらしく、疑い深げに眉根を寄せた。

「ボルジア枢機卿の? レギオン、君は何を言っているんだ」

 するとレギオンの顔にうかぶ笑みはますます深くなった。

「ミハイ、君とはあのイブのミサ以来だね」

 レギオンはミハイの問いにすぐには答えなかった。

「ずっと君に会ってこう言いたかったんだ。あの時の君の歌は本当に素晴らしかった。これまでも君の歌声はローマ一、ヨーロッパ一だと思ってきたけれど、あのミサで歌った君は、今まで越えられなかった何かをついに突き抜けたかのようで…あのような歌声が人間から聞けるとは夢にも思っていなかった。君は間違いなく世界で最高の歌い手だよ、ミハイ」

「レギオン」

 ミハイはさっと頬を紅潮させた。

「ありがとう、レギオン。その…あの歌は、君に捧げるつもりで歌ったものなんだ。だから、君が気に入ってくれたことが、何より嬉しいよ」

「私に…?」

 ミハイはこくんと頷いた。

「僕は、歌うことをやっと心から楽しめるようになったんだ。すごく楽にのびのびと歌えるようになった。この特殊な声ですら、肯定的に受け止められるようになった。その、君と出会ってから色々あって…僕も心情的に変化したんだろうね。それに…君が刺客に襲われた後、僕自身幽閉されてしまったんだけれど、その間、歌を歌いながら色々と考えたんだ。そうするうちにこれまで気づかなかったことが見えるようになっていった…心が解放されていくのを覚えた。今ようやく僕は自分をあるがまま受け入れることができる。そして、僕が変わるきっかけを与えてくれたのは、レギオン、君なんだよ」

 レギオンに会えたら言おうとずっと思っていたことを、ミハイはここぞとばかりに一気に、時々適切な言葉を探すように黙り込みながらもすべて語って聞かせた。

 熱心に訴えるミハイをレギオンは息を飲んで見守った。そうして、ミハイが話し終えてもしばしじっと考えをめぐらせていた。

 ミハイはレギオンが何と応えるのかじっと待ち受けた。

「初めてだな」

 ふいにレギオンは呟いた。

 ミハイはレギオンを見上げたまま、問いかけるよう、微かに首をかしげた。

「いや、君がそんなふうに熱っぽく私を見てくれるのは初めてだと思ったんだ」

 レギオンは照れくさそうに視線を逸らした。

「それに…私はいつも君の嫌がることをして君に罵倒されてばかりだったのに、それがいきなり私のおかげだなんて…照れくさくて何と言えばいいのか、分からないよ。いや、それはたぶん君自身の力なんだよ、ミハイ。私が演じた役割なんて、些細なものだった。君はもともと天才なんだ。あまりにも試練の多い半生のせいで少しばかり自分に対する自信を失っていたけれど、ようやく皆吹っ切れて、こだわりなく歌えるようになったということなんだろうね。イブのミサでの君の歌は、まるで天使の羽を帯びているかのように自由で、生きることの素直な喜びと祝福に満ちていた。けれど、翼なら君は初めから持っていたんだよ、気づかなかっただけで」

「レギオン…レギオン、でも君と出会わなければ、僕はきっと変わることはできなかった。いじけた去勢された心のまま、歌うためだけに存在する人間楽器として、喜びのない一生を送っていただろうと思うよ」

「そんなことはないさ、ミハイ、君は…」

 レギオンは改めてミハイをつくづくと眺めたかと思うと、何かしら驚いたかのように言葉を詰まらせた。

 ミハイが語った変化が歌だけではない、彼のすべてに及んでいるのだということにとっさに気づかされたかのように、レギオンは一瞬絶句した。 

 出会った初めの頃は石のように冷たく無表情な、歌以外には全く面白みのない、頑なに内に閉じこもっていたミハイだったが、今は全くの別人となっていた。まるで全身に光を浴びているかのようだ。その光輝に目が眩んだかのごとく、レギオンは瞼を半ば伏せ、吐息をついた。 

「ミハイ…」

 レギオンの頬に薄っすらと赤味が上った。 

「君は…私が今まで会った人間の中で最高の人だよ…ミハイ、君は美しい」

 突然花開いた貴重な花に思わず手を伸ばさずにはいられないかのように、レギオンはミハイの頬に指先で触れた。

 反射的にミハイは身をすくませた。

「あ…すまない…」   

 レギオンは火傷でもしたかのように手を引っ込めると、少しおろおろしながら、ミハイのうつむいた頭を見下ろした。

「謝ることなんかないよ、レギオン。ちょっとびっくりしただけだから」

「うん…」

 2人の間にぎこちない沈黙が流れた。

 こんなふうに不器用に黙り込むなどレギオンらしくないなと思いながら、己を襲った微かな戦きを振り払うと、ミハイは顔を上げレギオンに向かって清々しく笑いかけた。

「それにしても、君は相変わらず意表をついた現れ方をするんだね、レギオン。まさかボルジアの館で君と再会できるとは思わなかった。僕もどうにかして君の家に行きたかったんだけれど、それでまたあの時のように刺客を君のもとに導いてしまったらと思うと、やはり恐くて足を向けられなかったんだ。だから、ここで君と会えて本当に嬉しい。ただ…ああ、そうだ、君はまだ僕の質問に答えていなかったね。ボルジア枢機卿が協力してくれたとか君は言ったけれど、一体それはどういうことなんだい…?」

 ミハイがそれまでの甘い雰囲気とは一転いきなり現実的な話題を持ち出したことに、レギオンはむしろほっとしたようだ。

「ああ、それはだね…つまりボルジア枢機卿は君の味方についてくれたんだよ、ミハイ」

「僕の味方?」

「私が彼に頼み込んだんだ。君をオルシーニの手から救い出し、外国に逃がすために力を貸して欲しい、とね。ミハイ、君のもとにはスペイン公使からの密書が届いているはずだろう? あれが君の手に渡るよう計らってくれたのは、ボルジア枢機卿なんだ」

 ミハイは瞠目した。

「待ってくれ、レギオン、すると君は…僕をスペインに逃がすためにボルジア家に助力を乞うたのかい? 色々と悪い噂の絶えない、陰謀家の大ダヌキのボルジア枢機卿に?」

「そういうことだよ。このローマでオルシーニに対抗できる権力者となると限られるからね」

「だが、ボルジア枢機卿はオルシーニ様の友人だ。よくも君の申し出を引き受けたな…いや、それこそ彼が裏切りも謀略も厭わない世俗の欲にまみれた生臭坊主だと言われる所以なんだけれど」

「恩人に向かってひどい評価だなぁ」

 冗談めかして言うレギオンに、ミハイはたしなめるような顔をした。

「レギオン、ボルジア枢機卿と一体どんな取り引きをしたんだい? まさかあのロドリーゴ・ボルジアがただの親切心で動くとは思えない。君のような外国からきた貴族の若様に、ボルジア枢機卿を引きつけるだけの取引材料があるとは―ま、まさか…」

 ミハイの顔色がいきなり変わった。

「ボ、ボルジア枢機卿には美少年趣味もあると聞いたことがあるけれど、まさか…レギオン、君…頼みをきく代わりとか言われて彼に何か変なことをされた訳ではないよね…?」

 レギオンは目をぱちぱちさせた。

「ああ、うん…変なことならちょっと『させられた』かもしれないけれどね。何と言うか、旅芸人の道化のようなことをね。けれど、君が心配するようなことは全くなかったよ。ボルジア枢機卿には確かに美しいとは言われたけれど…たぶん私は彼の趣味に照らせばちょっと育ち過ぎだったんだろうさ」

 何を思い出したのか、レギオンは不機嫌そうなしかめ面をした。

「そんなことよりも、ミハイ、君はまだスペイン公使に何の返事もしていないだろう。どういうことだ? 向こうもそろそろ焦れているぞ。君をオルシーニ邸から逃がしてその後スペインに連れて行くにも色々準備し計画を立てなくてはならないし、彼らの好意をありがたく受けるつもりだという返事だけでも早くした方がいい」

 ミハイははっと息を飲んだ。

「僕がローマを離れて、スペインへ…」

 ミハイはぼんやりと呟いた。

 スペイン公使からの密書を読んでしばらくはミハイもその申し出に心を動かされていた。オルシーニとの確執に悩むミハイにとっては願ってもない話のはずだ。だが今は、まるで人事のように現実感を覚えない。

 そう、あのイブの夜のミサで、迷いのあまり2つに引き裂かれそうな心で聖歌隊席に立ち、下方にレギオンの輝く姿を見つけた瞬間、そしてレギオンを見つめながら生涯最高の歌を歌う間に、ミハイの中からそんな欲は消えてしまった。

「夢のような話だね」

 ミハイがあまり反応らしい反応を示さないのに、レギオンは焦れたように迫った。

「夢じゃない、現実だ。ミハイ、君は一体どうしたんだ? まさかこのままずっと篭の中の鳥としてオルシーニに飼われる方がいいなんて思っているわけじゃないだろうな。オルシーニの君に対する執着は普通じゃない。このままあの男の傍にいつづけるのは危険だ。この期に及んで、オルシーニへの義理にこだわるのか? そんなことは馬鹿げているぞ。君だって言ったじゃないか…ここで歌うことが難しくなれば、当然他の国に移ることも考えると。今がその時じゃないのか? ミハイ、まさか君ほどの男が、ここで得た全てを投げ打ってスペインに行くことが恐いなどというわけではないだろう」

 ミハイは、以前は見られなかったレギオンの真剣そのものの顔に、自分のために必死で訴えかける声の響きに、胸が熱くなるのを覚えた。

 変わったのはミハイだけではなかった。レギオンも明らかに以前とは違っていた。ミハイにとっては鼻について我慢ならなかった軽薄さも不実さも影を潜め、いかにも苦労知らずの甘やかされて育った我侭な貴族の若様然とした雰囲気は消えて、今のレギオンは落ち着いた大人の男へと脱しつつあるように見えた。

 愛しさが込み上げてくるのを隠し切れず、ミハイはレギオンに向けて微笑んだ。するとレギオンは怯んだように、言いかけた言葉を飲み込んだ。

「レギオン、違うよ。僕はスペインで一からやり直すことに怖気づいている訳ではない。それにね、オルシーニ猊下が今更僕にとって一体なんだというんだい。猊下と僕の関係はもはや修復不可能で、惜しんだ所でどうしようもない」

「そ、それなら、どうして…?」

「君だよ、レギオン」

 ミハイはレギオンの目を見据えたまま、率直に言った。

「僕はたぶん君を失いたくないんだ。君がいるこの場所を離れたくない。僕はスペインに行くべきなのだと、理性では考えたよ。僕自身のためにも、そして君の身をこれ以上危険にさらさないためにも、それが一番いい方法なのだと思った。けれどね、君に向かっていく僕の気持ちはずっと大きくて…抑えることができないんだ。愚かだと笑ってくれていい。でも君は、歌う喜びしか知らなかった僕が初めて惹かれた人なんだ。スペインに行き、歌手としてそこでもう一度成功を目指したところで、僕にとってそれはもう夢でもなんでもない。歌の頂点ならば、僕は自分の中ではもう極めてしまった。僕の最後の夢は、レギオン、君なんだ」

 レギオンはぽかんとなっていた。何を言われたかさえよく分かっていないようだ。

「え…」

 レギオンは初心な少年のように顔を赤らめた。動揺のあまり揺れ動く瞳でミハイを呆然と眺め、何か言おうとして、また言葉に詰まって黙り込んだ。

 色恋については経験豊富で小賢しいばかりのレギオンがこんなに無防備になるとは不思議なことだとミハイは思った。けれど、そんなレギオンが一層可愛くなった。

「僕は君が好きなんだよ、レギオン。だから、離れたくない」

「ミハイ」

 レギオンはミハイをつくづくと眺めた。その瞳が次第にはっきりとした強い輝きを帯びてくるのを、ミハイは祭りの灯りに向かう時にも似た不思議な高揚感を覚えながら見つめていた。

「それなら話は簡単だ。ミハイ、私も君と一緒にスペインへ行く」

 レギオンの美しい顔に楽しげな笑いが弾けた。その眩しさにミハイは思わず魅せられた。

「なんだ、そんなことで悩んでいたのか、ミハイ。私が君を1人でどこかにやったりなどするものか。私はずっとそのつもりだったんだよ。いや、例え君に嫌がられてもうるさがられても、追いかけていくつもりだった。実際、私は…君がまさか私をそこまで望んでくれるとは思わなかったから、何と言うか…驚いたよ」

 レギオンは本来の楽天的で明るい性格をすっかり取り戻し、喜色満面、両腕を広げてミハイに歩み寄ると、笑いながら彼を抱きしめた。

「そうだ、そうだとも、一緒にスペイン宮廷に乗り込んでやろう。君は宮廷付きの歌手として、私は…確か私の一族は帝都トレドにもいるはずだから紹介状でも書いてもらって潜り込むさ。そうして2人でまずはかの地を君の歌で征服することから始めるんだ。落ち着いたら、他の国に行ってもいい。心配することはないさ、君は必ず今以上に成功する。きっと幸せになれる」

 レギオンはミハイの軽い体を振り回すようにして、あまり広くない薄暗い部屋の中、鮮やかな独楽のようにくるくると回りながらダンスを踊った。

「レギオン、レギオン…」

 ミハイがか細い声で呼びかけるのにレギオンは慌てて足を止めた。自分が強引にダンスなどさせたものだから、ミハイが目を回したと思ったようだ。

「ごめんよ、ミハイ、嬉しくてつい…」

 ミハイは頭を振った。

「いや、違うんだ。参ったな、君という男は、物事を何でも簡単にしてしまうんだね」

「そうして君はこんな分かりやすいことでも複雑な問題にしてしまうんだ」

 レギオンがからかうのに、ミハイは苦笑した。

「でも、そう言ってもらえて僕はとても嬉しいよ、レギオン。そんなことは…何故かな、僕は確かに考えつかなかった。君と一緒にスペインへ行って一緒にずっと暮らすなんて…実現できたら、きっと素晴らしいだろうね。君と一緒にスペインの宮廷での新たな冒険を楽しんで、珍しいものを見、様々なことを学び、色んな人たちと知り合いになって…スペインだけじゃなく、他の国にも、そうだね、旅をするのもいいだろうね」

「わくわくするだろう?」

「ああ、本当だ…何だか、あまりにも幸せで…夢のような話だね」

 レギオンの語る話はミハイを惹き付けたが、何故だか、これも自分のものとして考えられなかった。あまりにも幸福すぎて、手が届きそうにない、やはり夢物語だ。

 ミハイがぼんやりと応えるのに、レギオンは眉をひそめた。

「夢じゃない。ミハイ、現実なんだ」

 レギオンは焦れたようにミハイの肩を軽く揺さぶり、言い聞かせた。

「うん」

 ミハイは、レギオンの顔を不思議な澄み渡った瞳でじっと見つめ、微笑んだ。

 半ばこの世界から漂い出てしまった人のような、その微笑に不安をかきたてられたのか、レギオンは唇をかんだ。

「ミハイ」

 レギオンはいきなりミハイを抱きすくめた。

 ミハイは微かに身を強張らせたが、すぐに己の体がとろける蜂蜜と化すのを覚えた。レギオンの温かさが身を包む服を貫いて、ミハイの血の中にまで伝わってくる。

 これは確かに現実だ。定まらない未来のことは考えられなくとも、今、こうしてミハイを抱きしめているレギオンの存在の力強さはミハイにもはっきりと伝わった。いや、レギオンこそが今やミハイの現実、世界のすべてなのだった。

(他には、望むものは、もうない)

 自らの心の声を、ミハイは遠くから鳴り響く天啓のように聞いていた。

 そう、ミハイはずっと探していた。歌以上に大切なもの、そのために戦い命を投げ出せるほどに価値ある何かを―。 

 これが、そうなのか。レギオン。ミハイが憧れてやまない全てを備えた理想の男。彼との恋が、剥奪された己の性を取り返そうと足掻いていたミハイが最後にたどり付いたものなのだろうか。 

「どうしてだ、君は私を不安にさせる。君の方こそ、まるで夢のように、私が一瞬目を離した隙に消えてしまいそうで…離したくない、このまま浚ってしまいたい…」

 レギオンはミハイの頤に指をかけると、そっと顔を寄せてきた。鮮やかな緑の瞳にうかぶ切望。彼のかぐわしい吐息が頬にかかるのに、ミハイは目が眩み、息がつまった。

 空気を求めて喘ぐミハイの唇に、レギオンはそっと指を押し当てた。

「この唇を吸うよ…?」

 ごく低い声で、控えめに彼は囁く。

 瞬間、ミハイはまるで本能的に死を避けようとする人のように、レギオンの腕の中でもがいた。

「レギ…オン…」

 ミハイは急にレギオンの何もかもが恐くなった。レギオンを激しく求めている自分自身に怖気づいた。

 レギオンはミハイの最後の夢。生涯でたぶん唯一の恋。だが、それが永続するものであると考えるほど、ミハイは無邪気ではない。

 それに、今になっても、レギオンを愛していると認めても尚、ミハイの男としての誇りはこんなことを許していないのだ。

「駄目だ、やめてくれ」

 ミハイはありったけの自制心を振り絞るようにして、レギオンから顔を背けた。レギオンに対する渇望がミハイの全身をひしがせていた。

「どうして…?」

 レギオンの声にこもる驚きと落胆、戸惑いの響きに、ミハイは苦しげに目を伏せ、両手で顔を覆った。まるで途方に暮れた子供のようだった。

 レギオンはこれできっとミハイに失望しただろう。我ながら、一体何をしているのかとも思う。望めばレギオンを手に入れられるのに、ぎりぎりの所で怖気づいて拒んでしまうなどと。

 けれど、恐い。

 他のことならミハイはいくらでも勇敢になれた。剣を取って戦うことも、死ぬことも恐れはしない。なのに―。

「ミハイ、分かったよ。君が恐がっているのなら、無理強いはしないさ」

 レギオンの優しい声がミハイの耳をそっと撫でた。

「だが、君は私を欲しがっている。君もそのことを知っている。それは決して厭わしいことじゃないんだよ」

 レギオンはミハイの片方の手をそっとすくい上げると、その甲にごく軽く唇を押し当てた。

 ミハイはおずおずと顔を上げた。するとレギオンははにかんだように笑った。

「君の姿を一目でもいいから垣間見たくて、あの夜私はミサに行った。見ると、今度は君に会って、君と言葉を交わしたくなった。今夜やっとこうして君と会えたら…今度は君を抱きしめずにはいられなくなり、口付けが欲しくなった。自然なことじゃないか。私は君を愛している。そうして君のような人に心を奪われた自分を、むしろ誇りに思うよ」

 その瞬間、レギオンの顔に愕然とした表情がうかぶのをミハイは認めた。まるで自らの言葉に慄いたかのようだ。

「レギオン…?」

 ミハイが不思議に思って呼びかけると、レギオンは夢から覚めたようにまばたきをした。

「ああ」

 レギオンは今初めて見るかのごとくミハイをつくづくと眺めた。

「ああ、そうだ。君は私が初めて愛した…人間なんだ」

 今度はレギオンがいきなり怯んだかのように見えた。

 ミハイはとっさに手を伸ばして、レギオンの頬に触れた。すると己を覗き込もうとするミハイの視線を避けるように、レギオンは目を閉じた。その瞼は、一吹きの風でも揺れ動いてしまう2枚の紙のように震えている。 

 ミハイがレギオンを恐れるのは分かるが、どうしてレギオンがミハイに対して怯むことがあるのだろう。

 レギオンの性格はよく分かっているミハイだったが、決して彼が自分には明かさない秘密の部分があることにも薄々気づいていた。だがそれは、彼を愛するには必ずしも知る必要はなかったのだ。

「レギオン、そして君も、僕が初めて愛した人間だよ…?」

 ミハイはなだめるようにレギオンの頬にそっと手を滑らせながら、柔らかく囁いた。いつの間にかミハイの中にわだかまる不安はレギオンに対する気遣いに変わり、それが彼を落ち着かせていた。

「違う、私は…ミハイ、私は―」 

 レギオンが苦しげに呻いた。

 ミハイはレギオンの頬に手を当てたまま静かに身を寄せると、ほんの少し伸び上がるようにして何か言いたげに震えているレギオンの口に己の口を押し当てた。

 まるで自然に引き寄せられるように、恐れ気もなく、ミハイは今そうすることができた。

(君の姿を一目でも見ると、今度は触れたくなる。君がもっと欲しくなる)

 ミハイはレギオンの滑らかな下唇を唇で軽く挟んで吸った。 

「君が何者であろうと、僕は構わない」

 ミハイは呆然としているレギオンを覗き込んで、そう言った。

「君がそのままの君として、ずっと存在してくれるなら、それでいい」

 ミハイはレギオンから身を離すと、ほっと息をついた。

「レギオン、スペイン行きの件だけれど、僕は申し出を受け入れるつもりだと公使に伝えてくれるだろうか。オルシーニ猊下の監視下にある僕が自分から動くのは難しいから、どうしても具体的な計画は彼らに任すしかない。ここから僕を救い出してくれるなら、どんな条件を突きつけられても彼らに従うよ」

 現実的なはきはきとした調子で言うミハイに、レギオンははっと我に返った。

「わ、分かった。君の代わりに私が彼らと交渉し、君の脱出計画に協力しよう。よかったよ、ミハイ、君がその気になってくれて」

 たちまちレギオンは希望に胸を膨らませる少年のように頬を紅潮させた。

「そうだ…きっと何もかもうまくいく。オルシーニを出し抜いてローマを逃げ出し…遅くとも春先には、私達はスペインに落ち着いているさ」

 半ば自分に向かって言い聞かせるように、レギオンは言った。

「本当なら、このまま君をオルシーニのもとになど返さずひっさらいたい所だけれど、人間どもの面倒な手続きだとかがあるからな。いずれにせよ、もう少しの辛抱だよ、ミハイ」

 熱心に訴えるレギオンに、ミハイは口元をほころばせた。

 愛するレギオン。もう少し、君と2人、この幸せな夢を見続けてみようか。信じるふりだけでもすれば、もしかしたら、幸せな終わりを迎えられるかもしれない。

「君と一緒いると、僕でさえもつい欲張って余計な夢を見たくなるよ、レギオン」

 奇妙なほど落ち着き払って言うミハイに、レギオンは口をきつく引き結んだ。そして、いきなりミハイに歩み寄ると、その肩を掴んで引き寄せ、ミハイが驚くほどの強い調子で言い聞かせた。

「ただの夢じゃない、ミハイ。もちろん現実に叶う、これは希望なんだ」

 もしかしたら、レギオンも本当には信じているわけではなのかもしれない。そんな思いにふと駆られながらも、 レギオンの双眸の中に宿る切迫した光に、ミハイは黙って頷くのだった。



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