天使の血

第五章 熱情


(僕が愚かだったんだ。あの一夜の体験があまりに楽しくて夢のようで、僕にあんな素晴らしい一時をもたらしてくれたレギオンのことまでもきっと理想化していたんだ。だからといって一瞬でもあいつのことをいい奴かもしれないなんて思った僕は、自分ではもっと世慣れていたつもりなのに、その実、なんて甘かったのだろう。もう二度とあんなふうに易々と他人に心を開くまい。優しく響く甘言になど耳を傾けまい。結局この世で信じられるものは自分自身だけなんだ)

 闇の貴族のヴィラから逃げるように帰って以来、ミハイは以前のように、いやそれ以上に歌に集中した日々を送っていた。

 しばらくおろそかにしていた歌のレッスンにも熱心に取り組み、謹慎処分も解けた今、教皇庁のミサや街のあちらこちらで催される集まりに参加して、しばらく聞かないうちに一層研ぎ澄まされたようだと評される迫力のある声を鳴り響かせていた。

(僕は歌うためにだけ存在する人間楽器だ。この体は歌を生み鳴り響かせるための器に過ぎない。歌の中で得られる悦びだけが僕の人生の全て。他には必要ない。そう、恋なんて、僕には―)

 何かにとりつかれたように歌うミハイの胸の奥底には、ふつふつと煮えたぎるものが潜んでいた。

(僕には、関係ないんだ)

 どんなに忘れようとしても、ふと気を緩めると再びあの場面がまざまざと甦ってくる。

 レギオンを探し求めて入り込んだ人気のない回廊で、そのレギオンが黒髪の青年と熱烈に抱きあい口付けを交し合う様を目撃した衝撃をミハイはまだ引きずっていた。我ながらどうかしていると思う。

 レギオンに恋人がいようが、ミハイが気にするいわれはないはずなのだ。しかし、実際にはミハイはひどく傷ついていた。

(あの黒髪の男には覚えがある。いつかの夜会の席で紹介されたリュートの名手だ。信じられないくらいに綺麗な男だなとちょっとびっくりしたけれど、別に共演の話も出なかったし、それきり忘れていた。まさかレギオンの恋人だったなんて…)

 サンティーノがレギオンの背中越しにミハイに向けてきた敵意のこもった眼差し、嫣然と笑う赤い唇を思い出して、ミハイの胸は焼けた。

(本当に、何故こんなに取り乱してしまうのか分からないけれど、でも…レギオンが恋人と抱き合っているのを見たあの瞬間、僕は頭の中がかっと熱くなって、無性にレギオンに腹が立って、もしも剣を持っていたら彼を刺し殺してやりたいとまで思った。憎らしくて、悔しくて、彼をこの手で引き裂いてやりたかった。あの後性懲りもなく追いかけてきたレギオンを僕は散々罵倒したけれど、あんなものでは僕の気持ちは少しも晴れなかった。とにかく一刻も早くレギオンから離れたい一心であのまま街へ引き返してしまったんだ)

 ミハイの心は火のよう燃え上がったかと思えば、急速に静まりしぼんでいく。

(僕の怒りはしばらく続いたけれど、気持ちがやっと落ち着いたら、今度は何もかもがすごく空しく、どうしようもなく哀しくなってきて…レギオンのためにどうしてこんなに情けない思いをしなければならないのかと呟きながら、館に戻って1人きりになった途端、僕は泣いてしまった。涙など、もうめったなことでは流さなくなっていたのに。本当になんてやりきれない気分だったのだろう…今でも、レギオンの顔を思い出すと、またあの時の女々しい気持ちが甦ってきてたまらなくなる。そう、こんなつまらないことでくよくよするなんて、全く僕らしくないんだ!)

 ミハイは、胸を刺す痛み、噴き出してくる激情、狂おしさの全てを歌に変えることでかろうじて平静さを保ち続けていた。この頃はクリスマスのミサ曲の練習にかかっていたのだが、鬼気迫る様子でソロを歌うミハイを、他の聖歌隊員達は何か恐ろしいものを見るかのごとき目で遠巻きに見守るのだった。

(何もかも忘れて歌にのめりこもう。歌は僕に翼をくれる。歌の中で僕の心は高みに駆け上がり解放される。そうすることで僕はこの世のどんな苦しさもいつも忘れてこられたんだ)

 だが、ミハイがレギオンの面影を完全に忘れさることはできなかった。歌に集中しているつもりが、ミハイの心の中にはいつもレギオンの緑の瞳が暁の星のように輝いており、優しい囁きが聞こえ、ミハイを包み込む腕の感触とそのぬくもりが感じられた。その記憶に伴う胸の痛みもミハイから去ることはなかった。

 ミハイは、歌の中でさえ自由に飛翔できなくなっていた。彼の翼は縛られてしまった。

(おのれ、レギオン、よくも僕にこんな思いをさせたな!)

 ミハイのいらだちは時に爆発した。ある夜会の席で、事情を知らないある青年貴族にレギオンとの仲を邪推するようなからかいの言葉をかけられて、激昂したミハイは危うくその男に決闘を申し込むところだった。ハンスが必死なってとめなければ、ミハイはレギオンの代わりにあの青年に怪我をさせていたかもしれない。

 だが、ミハイが一番取り乱したのは、ヴィラから飛んで帰って1週間もたたないうちに当のレギオンから手紙を受け取った時だった。

 封を切ることもなく、ミハイは即座に手紙を破り捨てた。

 気の毒なのはレギオンに無理矢理手紙を押し付けられたハンスで、憤激するミハイに、どうしてレギオンの手紙など持ってきたのか、もう二度と彼の名前を思いださせるなと激しく責められてしまった。この一件については、頭が冷えた後、ミハイは後悔してすぐにハンスに謝ったのだが、以来彼は一言もミハイの前でレギオンの話をしなくなった。

 そんなふうに荒れ狂った日々の果てだった。あの事件が起こったのは―。





「ハンス」

 それは、ミハイがオルシーニの命で彼の友人であるボルジア枢機卿の邸宅で催された宴で歌った夜、務めを果たした彼が帰路につこうとした時のことだ。

 精神的にまだ不安定な状態にあったミハイは、この時も少しばかり気鬱に取り付かれていて、気の進まない宴の後、馬車を呼んでこようとするハンスを衝動的に引き止め、こんな頼みごとしたのだ。

「夜風に少しあたりたいんだ。噂に違わぬボルジア家の饗宴の熱気にあてられたのかな。御者には先に帰ってもらって、僕は歩いて館まで帰ろうと思うよ」

 そうして、ミハイは、夜も更けた市街をハンスを従えてぼんやりと歩き出した。

 いつの間にかもう12月だ。毛皮の裏打ちのなされた分厚いマントに守られていても夜の冷気は身にしみこんでくる。

 だが、今のミハイは、身を切る寒さにさらされた方が暗く沈んだ心が少しは晴れて楽になれるような気がした。

 しばし無言で歩いた後、広場に出た所で足を止めたミハイは、正面に見える教会の鐘楼の上に広がる空を見上げた。冬の星々が無数に並べられた白金の小さな灯火のように遠くに瞬いている。

(ああ、今夜は月がないせいかな、星がよく見える。故郷を遠くに離れて色んな土地を移り住んできたけれど、夜空の星はどこでも同じに輝いて見えるんだな)

 ミハイはふいにひどい疲れに襲われた。己がどれほど遠くにまで来てしまったのか、経てきた年月の長さを急に意識した。

(あれから何年経ったのだろう。僕は何才になった…まだ20か21かその程度のはずだ。なのに、僕は自分がもうひどく年老いてしまったような気がしている)

 苦労の果てにたどり着いたこの街。ここで手にした歌手としての名声。子供時代に全てを失って故郷から引き離されたミハイは、今は多くを取り返している。望めばもう少し先にも行けそうだが、それはある程度想像できる成功であり、ミハイは既にかつて夢に描いたような高みにほとんど到達していると言えた。だが、それでミハイは満たされただろうか。

(何も)

 苦い思いと共に、ミハイは認めた。

(必死になって努力して、歌を歌い続けて、おかげで成功もしたけれど、僕は少しも幸せじゃない。ローマ一の歌手ミハイともてはやされて、僕の歌を聞きたいがために貴族も王族もこぞってやってくる。僕は僕に残された唯一の武器を使って、運命に打ち勝ったんだ。もっと誇らしい気分になったっていいのに、何だか少しも嬉しくない。ただ、こんな所にまでいつのまにか来てしまったという茫漠とした思いに圧倒されるだけ…ああ、今のような自分に僕はずっとなりたかったのだろうか? 血縁もなく、心を開ける友もない。僕ぐらいの年の青年なら誰かに対して抱くだろう、当たり前の恋の1つ、こんな体では望むことすらできずに…)

 急に何もかもが空しくなってきた。必死になって立ち向かえば道は必ず切り開けると信じてこれまで生きてきたけれど、その信念が今はぐらついている。苦労した末に掴んだ成功なのに、結局それは安らぎ1つミハイにもたらしてはくれなかったのだ。

(いつもそう肩肘を張っていては疲れないのだろうかと心配しただけだ)

 以前、剣を交えた時にレギオンがミハイに投げかけた言葉が思い出された。

(ああ、あいつの言ったように、僕は疲れてしまったのかもしれないな。少しでも手を抜いたら今いる場所から転げ落ちて、またあの悲惨な少年時代に逆戻りしてしまうような気がして、ずっと恐かったんだ。でも、別に不安がる必要はなかったのかもしれない。失った所で、どうせ僕の手にあるものになど大した価値はないのなら…)

 暗い夜空を見上げる、ミハイの口から白い吐息が漏れた。彼は孤独を噛み締めていた。

(僕は何のために生きているのだろう。何のために生まれてきた。人としての喜びも知らず…歌だけを道連れにこのまま老い果て、いずれはこの声すらも失って誰からも忘れられ、ひっそりと朽ちていくのか…)

 熱いものが目に込み上げてきて、ミハイは慌ててそれを指先で振り払った。

「ミハイ…」

 ミハイの背後で彼の様子をじっと見守っていたハンスが、たまりかねたように声をかけた。

「いや、ハンス、大丈夫だよ。今夜の僕はちょっと感傷的になっているようだ。ごめんよ、こんな寒い所でぼんやりと足を止めたりして。君まで凍えてしまう。さあ、早く館に帰ろう」

 ミハイが後ろを振り返って健気そうに微笑むのを見、ハンスは痛ましげに顔を歪めた。

 ミハイが気を取り直して再び歩き始めようとした、その時、何者かが教会の脇の暗い路地から現れた。

「誰だ?」

 ハンスが前に進み出、ミハイを後ろに庇うようにしてランタンを掲げ、用心深く呼ばわった。

 揺らめくランタンの灯りが、ハンスの呼びかけに立ち止まった者の姿を淡く浮かび上がらせる。

 陽の名残りめいた金色の髪が夜の闇の中にきらめき燃え上がった。

「レギオン」

 呻くように呟いたのは、ミハイだった。

「ずっと君に会う機会をうかがっていたんだ」

 レギオンは熱を帯びて輝く瞳をミハイにひたと当てたまま、まっすぐに近づいてきた。

「私の手紙を読んでくれたのかい、ミハイ?」

 しばし呆気に取られていたミハイは、レギオンの問いかけに唇を噛み締めた。

「そんなもの…僕がどうしていちいち目を通さなければならない? 読まずに破り捨てたさ!」

 ミハイの敵意のこもった言葉に、レギオンは彼に殴りかかられたかのように顔をしかめた。

「まだ私に腹を立てているのかい?」

「当たり前だ!」

 かっとなって思わず叫んだ後、ミハイは己を戒めるよう頭を振った。

「いや…むしろ、君にはとことん失望したよ、レギオン。僕は君の事を少しは見直しかけていたんだ。言うことは軽いけれど、もしかしたら君は本当は信頼できる誠実な男なんじゃないかと信じかけていた。それが実際は口先だけのとんだ色事師だった。そんな君に心を許しそうになった自分に僕は何より腹が立つよ、レギオン」

 ミハイの非難に、レギオンは激しく金色の頭を振った。

「違う! ミハイ、君は誤解をしている。サンティーノが私にとって大切な存在だということは否定しないよ。友人以上と言ってもいいだろうね。だからと言って、私には彼を恋人にするつもりはないんだ」

「君のそんないい加減で身勝手な態度に僕は我慢ならないんだ!」 

 ミハイは突き上げてくる激情のまま、レギオンに向かって吼えた。

「君は一体何なんだ? 僕だけだと言いながら、街のあちこちで浮名を流し、あまつさえ友人だか恋人だか知らないが、あんなふうに熱烈に抱き合える相手までいて…ああ、今思い出したけれど、君には僕に出会う直前まで熱心に求愛していた女性もいたんだね。はぁ…もう何が何だか訳が分からないよ。それが君にとっては当たり前のことなのかもしれないけれど、僕にはとてもじゃないがついていかれない。僕は所詮頭の固い田舎者なんだろうね。君の言うことなど、もう少しも信じられなくなってしまったよ」

「ミハイ、でも、私が今、心から求めているのは君だけなんだよ」

「まだ言うか! 今更そんな甘い言葉を吐いても白々しく聞こえるだけだぞ」

 ミハイは火を噴くような激しさでレギオンと対峙していた。直前まですっかり気落ちしていた彼だが、レギオンという感情に捌け口を見つけたことで、俄然生気を取り戻していた。

 不倶戴天の敵同士のように睨みあう2人―いや、一方的にミハイが睨みつけレギオンがそれを仕方なく受け止めているだけだったが―を、傍らで真面目なハンスがおろおろとして見比べている。

「どうすれば信じてもらえるんだい、ミハイ?」

 途方に暮れたように訴えるレギオンを、ミハイは憎しみのこもった目でねめつけた。

「では、死ね」

 レギオンはぐっと詰まった。

「僕のために死んでみせろ。そうすれば、君の誠意とやらを信じてやるさ」

 レギオンは呆然とした顔をミハイに向けて立ち尽くした。ミハイの胸は微かに痛んだが、込み上げてくる恨みが彼を情け容赦なくさせていた。

(ああ、僕は無茶苦茶を言っているな。でも、レギオンがこんな弱り果てた顔で言い訳するのを見ていると余計憎らしくなってきて、自分を抑えられない。それにしても、どうして僕はここまでレギオンに腹を立てているんだろう。レギオンがどこで何をしようがそれは彼の勝手なのに、何故こんなにも許せない気持ちに駆り立てられるんだ?)

 言葉もなく向き合う2人の間で時間はしばし凍りついたかに思われた。

 しかし、次の瞬間、建物の間に垂れ込める黒いビロードのような闇の彼方から近づいてくる、荒々しい人の足音に彼らははっと我に返った。

 ハンスが掲げる灯火に、闇から吐き出された黒づくめの男達の姿がぼんやりと照らし出された。全部で9人。顔にはそれぞれ白い皮の仮面をかぶっている。ランタンを持つハンスの手が緊張のあまり震え、仮面の上に不気味な笑いめいた陰影を作り出した。

「何者だ?!」

 レギオンの時とは違う厳しい調子で誰何して、ハンスは腰の長剣の柄に手をかけミハイの前に進み出る。

 謎の男達から発散される殺気に、ミハイもぐっと体の筋肉を緊張させて、用心深く目を細めた。

(何者だ? 身のこなしに無駄がないし、その辺りのごろつきの夜盗というわけではなさそうだ。誰かに雇われた暗殺を生業にする連中か…だが、僕のような政治には無関係の歌手にこんな奴らを差し向ける理由が分からない)

 不穏な事態にあっても肝の据わったミハイは、男達を素早く観察して誰の手のものかを探り出そうとしながら、そんなことを冷静に考えていた。

 ふいに、ミハイはハンスの背中から離れると、よく通る声で男達に呼びかけた。

「僕は、オルシーニ枢機卿のお抱えの歌手ミハイ。君達は僕が何者であるか知っているのか?」

 もしかしたら人違いかと思ったのだが、男達は動じない。ミハイは眉をひそめた。

 その時、リーダー格らしい背の高い男が一団の後ろから進み出た。嘲笑うような口を持った、見るからに恐ろしい悪魔の仮面で顔をすっぽりと覆っている。

 その男が、ミハイではなく、その傍らに立ち尽くしているレギオンを手で指し示して頷くのにミハイは瞠目した。

「レギオン!」

 ミハイは肩越しに振り返り、叫んだ。

「奴らは君を狙っている! 早く逃げろ!」

 レギオンは応えなかった。彼はミハイを振り返りもせずに、悪魔の仮面をつけた男を激しく睨みつけている。

「ミハイ、危険だから後ろに下がるんだ」

 ハンスの逞しい手がミハイの肩を引っつかみ強引に脇にのける。

 瞬間、黒づくめの男達は一斉に剣を抜いた。弱々しい星明りの下、濡れたような銀色の刃が不吉にきらめく。

 ハンスがランタンを地面に置き、無言で剣を鞘ばしらせ、ミハイを後ろに庇いつつ構えた。

「ハンス、僕はいいから、レギオンを守れ」

「しかし、ミハイ―」

 ハンスが躊躇したその時、ミハイの脇をレギオンが素早く駆け抜けていった。あまり実用向けとは言えない細工の美しい細身の剣を抜いて、悪魔の形相の仮面に切り込んでいく。

「レギオン!」

 瞬間、刺客達はミハイとハンスからさっと飛び離れ、レギオンを取り囲むような動きをした。

「ハンス、僕に剣を」

「馬鹿なことを言わんでくれ」

 ハンスはミハイを安全圏に押しやると、そこを動くなというような恐い顔をして、くるりと踵を返した。

 レギオンに加勢するため男達の中に切り込んでいくハンスをミハイは狂おしげに見送った。

(ああ、こんな時に僕は何もできずただ見ているだけか! こんなことならいつも剣を持ち歩いていればよかった!)

 ミハイの心臓は胸の中でかつてないほど戦慄き打ち震えていた。

 その目は大きく見開かれ、乱闘の中時折翻るレギオンの金色の髪を必死になって追っている。

(レギオンはああ見えて剣の腕は確かだし、ハンスもいてくれる。でも、あまりに多勢に無勢だ。それに、さっきからレギオンと戦っているリーダーらしい男、あれはかなりの凄腕に見える。信じられないようなすごく素早い動きをして…レギオンも負けていないけれど…何だか人間離れしているような…ああ、あいつがレギオンに襲い掛かるのを見ているととても嫌な気分がする…早くあの悪魔の仮面をレギオンから引き離してくれ…)

 ミハイの手は、彼の胸の前で指の関節が白くなるほどきつく組み合わされている。

(レギオン、レギオン、どうしよう…もしも君が傷つけられたら…ああ、もしも君が殺されでもしたら…!)

 急に抑えがたい凶暴な衝動がミハイの胸の奥底から湧き上がってきた。レギオンに向かって立て続けに剣を振り下ろす、仮面の男に対する怒りにミハイは打ち震えた。それは、ほとんど殺意に近かった。

(許さない、そんなことは許さないぞ! 何者であれ、レギオンに傷1つ付けてみろ、僕がこの手で八つ裂きにしてやる!)

 小刀1つ身に帯びていない自分が戦いに出て行っても足手まといになるだけだと、最初は冷静にそう考えていたミハイだったが、彼の中の理性はそれを上回る激情についに押し流された。

「レギオン…!」

 ほとんど何も考えずに、ミハイは戦いの場に駆け寄った。手傷を負ったのか斬りあいの円の一番外側にいた男に飛び掛って一撃で殴り倒すと、ミハイはそいつから剣を奪い取った。

 握りしめた剣のずっしりとした重みに、ミハイの中の血は熱くたぎった。ぶるりと大きく身を震わせると、ミハイは戸惑うように己を振り返る男達の白い月のような仮面を睨みつけた。

「殺されたくなければ、そこを退け!」

 言った瞬間には、ミハイはもう鋭い突きを敵の1人に向かって繰り出していた。ミハイに剣が使えるとは思っていなかったのか、刺客には隙があった。ミハイの剣がその心臓を正確に貫いた時に彼は己の過ちを悟ったろうが、もう遅かった。

 血しぶきをあげながら崩れ落ちる男の体から素早く剣を引き抜いて飛びのくと、ミハイはさっと割れた人垣の向こうにレギオンの姿を見つけた。

「レギオン!」

 ミハイの胸が熱く焼けた。火のように彼は叫んでいた。

 レギオンは戦いの最中にあったが、ミハイの声を聞いたらしい、顔を上げて彼を見た。返り血を浴び、刺客達と剣をかわしながら猛然と近づいてくるミハイに、レギオンは目を真ん丸く見開いて軽く口笛を吹いた。

「馬鹿! 戦いに集中しないで遊ぶとまた…」

 ミハイが舌打ちをした瞬間、別の男が背後からレギオンに襲いかかった。レギオンはマントを翻して上手くそれをかわしたが、その前に、悪魔の仮面が回りこんでいた。一体いつの間に動いたのか、ミハイには男の身のこなしを全く見切れなかった。

 男の手から、銀色の曲々しい蛇がレギオンの胸に向かってするりと伸びた。

「ああっ?!」

 ミハイは悲鳴をあげた。

 レギオンの胸を刺し通した男は、痙攣する彼の体をまるで抱擁でもするかのように抱き寄せた。男の肩越しに覗いたレギオンの顔が苦痛に歪む。

 男がさっと身を離すと、レギオンは胸を押さえたまま固い石畳の上に崩れ落ちていった。

「レギ…オン…」

 ミハイの頭の中は真っ白になった。周りで繰り広げられている戦いの音も一斉に遠のいた。

 ミハイが見ているのは地面に力なく倒れ伏しているレギオンの姿だけ、聞こえるのは彼の苦しげな喘ぎ、感じるのはその体から流れ出す血の熱さだけだった。

「ああああぁぁっ!」

 ミハイは絶叫した。胸の内で生まれた恐怖が巨大な翼を開いて喉へとせり上がってき、ついには大きく開いた口から奔流のように迸り出て、凍てついた世界を揺り動かした。

「レギオン、レギオン、嫌だ…あぁぁぁぁっ!」

 己のこんな声をミハイはいまだかつて聞いたことはなかった。世界の終わりを告げる千の鐘の音めいた絶望的な泣き声だった。





「あまりいい気になるなよ、小僧」

 激痛が胸を貫いた瞬間も、レギオンは眼前で憎らしげな笑みを浮かべている悪魔の仮面を睨みつけていた。金色に塗られた瞼の下には、冷たい不死者の瞳が瞬いている。

 レギオンを刺した、この同族の男の声には敵意と悪意がこもっていた。聞き覚えはあるような気もないような気もした。どちらにせよ、同じヴァンパイアの男達から恨みを買った覚えはレギオンには山ほどあったので、特定できなかったろう。

(痛…いぞ…この野郎…!)

 不滅の体をもつヴァンパイアを殺すことはできない。レギオンを剣で刺す行為もその点無意味なのだが、これもある種の警告か。一族の敵意を、レギオンもこれで少しは体に覚えこんだということか。

 不死身のヴァンパイアでも苦痛は感じる。実際、レギオンは痛みのあまり声も出せず、泣きそうになっていた。その引きつった顔を悪魔は嘲りながら覗き込み、彼を突き刺したままの剣の柄をぐっと回した。

「ああっ!」

 レギオンは堪えきれずに苦鳴をもらし、男が剣を抜いて離れた途端ずるずるとその場に崩れ落ちてしまった。

「これに懲りて、少しはおとなしくするんだな」

 レギオンは激痛のせいで朦朧と霞む目で呆然と男を見上げた。

「あ…?」

 男はレギオンをもう見てはおらず、戸惑うように後ろを振り返っていた。彼の視線をたどってみて、レギオンも微かに息をのんだ。

「ミハイ」

 ミハイが鬼の形相で剣を振り回しながらこちらに向かって突進していた。荒れ狂う獣さながら、なりふり構わずレギオンに近づこうとするミハイに、刺客達もすっかりたじろいでいる。

「もう、いい。引き上げるぞ!」

 悪魔の仮面をつけたヴァンパイアが手を上げてそう叫ぶと、他の刺客達は一斉にミハイから、そして戦いの中で2人を切り倒していたハンスから退いた。

「レギオン!」

 血に濡れた抜き身の剣を引っさげたまま駆け寄ってくるミハイに、レギオンはふっと微笑みかけて目を閉じた。

(勇猛果敢な血まみれの天使かい。ああ、やっぱり君はすごいよ、素敵だよ、ミハイ)

 レギオンは胸を手で押さえた。既に血は止まっている。痛みも消えた。すごい勢いで傷んだ組織が再生した後の少しむずがゆいような感触があるだけだ。それにひどく疲れて、眠い。

「レギオン、ああ、レギオン、しっかりしろ!」

 今度はミハイの声をずっと間近に感じた。心配そうに己の顔を覗き込む彼の気配に、レギオンはこんな時ではあったが少し嬉しくなった。

(ミハイが私を案じてこんな優しい声で呼びかけてくれるなら、怪我をしたことも損なばかりじゃないな、うん)

 調子に乗ったレギオンはどきどきしながら、しばらく死んだふりをしてみた。ミハイが心配してくれている。それだけで今のレギオンは幸せだった。

 だが、ミハイにとって、それは全く冗談ではなかった。

「レ、レギオン…しっかりして…嘘だろう、そんな…?」

 ミハイは息を飲んだ。ぐったりと動かないレギオンにパニックを起こしたミハイは、何を思ったかいきなりレギオンの胸倉をつかんで引きずり起こすと、彼の頬を右に左に何度も張り飛ばした。

「な、何をする!」

 これにはたまらず、レギオンはすぐに目を開けて、更に打ちかかろうとするミハイの手を捕まえた。

「レ、レギオン、気がついたのか…!」

「当たり前だ! あんなふうにビシビシやられたら、死人だって息を吹き返すとも!」

 真っ赤な顔をして怒鳴りつけるレギオンをミハイはしばし呆然と眺め、それから、ふいに顔を歪めた。今にも泣き出しそうなその顔に、レギオンは胸を突かれた。

「よかった、生きていた…」

 返り血を浴びた壮絶な姿の天使は今はとても頼りなげになって、レギオンの無事を確認するように、大きく見開いた、潤んだ目でひたと彼を見つめている。

「ミハイ…」

 レギオンはしばし瞬きすることも忘れて、ミハイの顔に見入っていた。レギオンが手を伸ばして頬に触れると、ミハイはひどく驚いたように身を震わせた。

「私は大丈夫だよ、ミハイ。心配させてすまない」

「あ…」

 ミハイは喘ぐように肩を大きく上下させた。

 レギオンは無性にミハイのことが可愛くなった。引き寄せて、抱きしめたい。思わず彼に手をのばしそうになったが、その時ハンスが駆け寄ってきたので、気を変えた。

「レギオン、すごい血だぞ。早く止血をした方がいい」

「そ、そうだ。レギオン、傷を見せろ」

 真剣な面持ちでレギオンの体を支えたり、血に濡れた着衣を剥ぎ取ろうとしたりする人間達にレギオンは慌てた。

「い、いや、本当に大丈夫なんだよ。傷といってもあいつの剣は掠っただけで、この血もほとんど返り血なんだ」

 嘘をついてごまかそうとしたが、ミハイは納得しなかった。

「僕は君が刺されるところを見たんだぞ。強がるのはよせ。今は気が昂ぶっているから痛みをあまり感じないだけなのかもしれない。せめて止血だけでもしないと、後で大変なことになる」

「君は見間違えたんだよ、ミハイ。この闇夜では仕方ないさ」

 レギオンがハンスの助けを断って自力で立ち上がるのを、ミハイは信じられないような顔で見ていた。

 あまり元気すぎるのも不自然かと思い直し、レギオンが顔をしかめて胸を押さえよろめいてみせると、ミハイが慌てて彼の体を支えた。

「レギオン、やっぱり無茶だよ、そんなふうに急に激しく動くなんて…」

「おまえの家まで送ろう、レギオン」

 動揺のあまり考えの回らないミハイの代わりに、ハンスが機転を利かせて言った。

「そこで傷の手当てをして、必要なら医者を呼べばいい。刺客に襲われたという報告は明日にして、死体もこのまま打ち捨てておこう。場合によっては、俺達が襲われたという話はあまり公にしない方がいいかもしれない」

 ミハイはハンスを振り返った。ハンスが意味ありげに頷きかける。

「ああ、そうだな」

 ハンスの言葉に、ミハイは低い声で呟くように応えた。戦いの熱気を帯びてきらめいていた瞳は、今は考え深げに翳っていた。

 そうして、レギオンはハンスの肩を借りる格好で、彼らを自分の家まで導いた。

 もともとは裕福な薬屋が愛人を住まわせるために建てた家だったらしい。女好みの瀟洒な窓を持つ家は、レギオンの1人住まいには充分広かった。

 ハンスが装飾的な建具をがんがん叩くと家の中からぱたぱたと誰かが走ってくる音が聞こえ、扉がぱっと開いて中の光が外に漏れた。

「まあ、ご主人様。今夜はもう戻られないかと思っていましたわ。もう少しで、私帰ってしまうところでした」

 中から姿を現したのはレギオンが家のことを任せている少女だったのだが、彼女を見た途端ミハイが不機嫌そうに眉をひそめるのにレギオンは少し焦った。

「この子は裏の宿屋の娘なんだ。時々家の掃除や身の回りの細々としたことを頼んでいるんだよ」

 ハンスは無言でレギオンを家の中に担ぎ込むと、彼らの血まみれの姿に気がついて緊張する娘にてきぱきと指示を与えた。

「取りあえず湯を沸かして運んできてくれないかな。レギオンの着替えと、傷に当てる清潔な布も頼む」

 娘が慌てて家の奥に引っ込むのを確認すると、レギオンは2階の寝室に彼らを案内した。

「そんなに大げさにしなくてもいいよ、ハンス」

「俺もそんな気はしてきたがな。しかし、掠り傷でもそこから悪い風が入れば熱を出して寝込む場合もある。俺は怪我人の手当てには慣れているから、まあ任せておけ」

 レギオンがハンスの後ろで黙り込んでいるミハイを見やると、物思いに捕らわれていたらしい彼は顔を上げて、レギオンに微苦笑めいた笑みを向けた。別にあの下働きの娘のことをかんぐっている訳ではなさそうだ。

 部屋の暖炉には既に娘が火を入れてくれていたようで室内は程よく暖まっていた。燭台に灯りをともし、娘が運んできた湯と布を脇において、レギオンが血に濡れた着衣を一枚ずつ脱いでいくのをミハイとハンスは慎重に眺めている。

 溜め息混じり、レギオンが乾きかけた血のりのべったりついたシャツを脱ぎ捨てるとミハイは困惑顔になった。

「だから言っただろう、何ともないって」

 レギオンが寝台の端に腰を下ろし、にやりと笑いながら湯でぬらした布で体を拭きだすと、ミハイは猫のようにすっと近づいてきた。

「見せてみろ」

 ミハイは邪魔だとばかりにレギオンの手を胸からどけると、確かめるように彼の体の上に屈みこんだ。

「おかしいな、そんなはずはないのに」

 レギオンから布をひったくって血の汚れをごしごし擦り落としながら、ミハイはほとんどむきになって傷跡を探すが、当然ながらレギオンの大理石のような肌には何も残っていなかった。

「ミハイ、くすぐったいよ」

 レギオンは小さな含み笑いをもらした。

「それに、君にそんなふうに触られているとちょっと変な気持ちになってくる…」

 ミハイは慌ててレギオンの胸の上に滑らせていた手を引っ込めると、寝台から立ち上がった。だが、依然として疑い深げな面持ちで、レギオンを食い入るように見下ろしている。

「一体、どうして…?」

 レギオンは肩をすくめ、冗談めかして言った。

「私には、愛の神のご加護があるのさ。不死身なんだよ」

 ミハイの顔がふと曇った。

「レギオン、冗談ごとではないんだよ」 

 ミハイはつくづくとレギオンの無事な姿を眺め、やっと自分を納得させたように頷くと、一転厳しい顔になった。

「奴らは君を狙ったんだ。レギオン、君に刺客を差し向けた者がいる」

「ああ、分かっているよ」

 レギオンはミハイの目を正面から受け止めて、微笑んだ。ミハイは小さく息を吸い込んだ。

 ミハイは気持ちを静めようとするかのごとく体の横でぐっと手を握り締めると、心配そうにじっと様子をうかがっているハンスを振り返った。

「ハンス、悪いけれど、ちょっと席を外してくれないかな。レギオンと2人だけで話したいことがあるんだ」

「いいのか、ミハイ。レギオンと2人だけなんて、あなたはまた気持ちをかき乱されることになるかもしれない」

「それも分かっている。でも、どうしても話しておかなくてはならないんだ」

 ハンスが扉の外に出て行くのを見送ると、ミハイは改めてレギオンに向き直った。

「ミハイ、君もなかなか凄まじい格好になっているよ。せめて顔についた血を落とせよ、気持ち悪いだろう」

「いや、このままでいい」

 深い瞋恚をはらんだ声でミハイは応えた。

「僕は今夜のうちに会って話をつけなければならない相手がいる。この血まみれの姿で帰って、自分がしたことの結果を彼に見せつけてやらなければならない」

 レギオンは片方の眉を跳ね上げた。

「彼?」

「分かっているくせに」とミハイは苦笑した。

「自分の守護者と戦うつもりかい?」

「必要ならば」

 暖炉の中で爆ぜた火がミハイの顔を照らし出し、青い瞳を熾のように暗く燃え上がらせた。

「私のためにそこまでするのかい?」

「これは僕の問題だ。気遣いは無用だよ、レギオン。ただ」

 決然として見えたミハイの態度がふいに心許なげなものになった。

「君にも、もう僕には関わってくれるなと心から頼むよ。さもないと、君は本当に命を落としてしまう。僕がどんなに守りたいと思っても、君が態度を変えないことには―」

「そのつもりは、ないね」

「レギオン、これはもう冗談ではすまないんだ。下らない意地を張っている場合でもない。僕なんかのために、そこまでする価値などー」

「それこそ、放っておいてくれ!」

 レギオンは急に激しいいらだちを覚えて、ミハイの言葉を遮った。

「それこそ、私の問題だ。私は自分の心の赴くままに行動している。君を欲しがるのも私の意志さ。その結果が今夜のあれなら、別に驚くまでもない、以前から予想していたことだからな。いずれにせよ、私自身が始末をつける。ミハイ、君こそ余計な首を突っ込むな。大体、君はもう私のことなど見限ったはずじゃなかったのかい? その私がどうなるかを、どうして君が案じる?」

「どうして、だと?」

 ミハイの声が低く険しくなった。込み上げてくる怒りのあまりに、それは微かに震えていた。 

 突然、ミハイはレギオンに飛び掛った。寝台にレギオンを荒々しく押し倒してその上に馬乗りになると、驚愕する彼の顔を真上から底光りのする瞳で覗き込んだ。

「レギオン、僕が…僕が君に惹かれないなどと本当に思うのか? 僕が望んでやまないものを全て備えている君、神が与えたもうた男としての完璧な美しさを持つ君を見て僕が欲しいと思わないと、本気で信じるのか? 僕はどうしても、君には傷1つつけたくない、君を死なせたくないんだ!」

 レギオンは驚きのあまりとっさに応えることができなかった。ミハイに組み敷かれた格好のまま、身動きすることもできずにただ呆然と彼を見返していた。そんなレギオンの様子にいらだったのか、ミハイはいきなりレギオンの上に覆いかぶさると、ぽかんと開かれた彼の口に噛み付くような激しい、一瞬かざされた炎のような口付けをして、すぐに身を引いた。

「あ……」

 寝台の上にぽつんと取り残されたレギオンは、おろおろしながら身を起こし、激しい鼓動が打っている裸の胸を押さえた。一方瞬く間に冷静さを取り戻したミハイは、寝台の傍に佇んで、真摯な眼差しをレギオンにひたとあてている。

「君の安全と幸福を僕は何より願っている。例えこの身が砕け散ってもね」

「ミハイ」

 レギオンは引き戻そうとするかのごとくミハイに向かって手を伸ばしたが、それを素早くかわして、ミハイは扉の方に下がった。

 ミハイは、ふいに思い出したように小さく笑った。

「ああ、あれは嫉妬だったんだな。どうしてすぐに気がつかなかったんだろう。僕はやっぱり頭が固いのかな。でも、君がどこの誰を愛そうが、君がちゃんと生きていてくれると感じられる幸せの前には、どうでもいいような小さな問題だったんだ」

 嘘偽りのないミハイの言葉はそれゆえ熱く、鋭いナイフのようにレギオンの心臓を深く刺し貫いた。

「ミハイ、私は―」

 同じほど心のこもった言葉を返したい。レギオンの胸の中にも激しい想いが渦巻いていたが、どうしても声にならない。流暢なはずのレギオンの舌は、今は全くの役立たずに成り下がって口の中に張り付いている。

 人間を惑わすまやかしの囁き、口先だけの誘惑をずっと得意としてきたレギオンなのに、肝心な時に不器用に黙り込んでしまうとは、どういうことだろう。

 意外と己の真情を伝えることは苦手だったのかもしれない。

「さよなら、レギオン」

 ミハイはレギオンに向けて優しく微笑みかけて、くるりと背中を向けた。

「ミハイ、私だって、君を―」

 レギオンは必死になって振り絞った言葉をミハイに背中に投げかけた。

「き、君のために命をかけられる。君のためなら、死んでも惜しくなどない!」

 ミハイは一瞬身を震わせたが、何も応えず、そのまま扉を開けて部屋の外に出て行った。

 それを狂おしく見送ったレギオンは、もどかしさに身悶えしながら頭を激しくかきむしった。

(一体、何を言っているんだ。私は死なない体なのに、まるで人間の言うようなことを…あんな陳腐な嘘まで言ってミハイの気を引きたかったのか…? いや、違う!)

 他に言いようが見つからなかったからだ。ミハイが打ち明けてくれた、あの気持ちに応えたいと思えば、どうしてもあんな言葉になってしまった。レギオンは実際には死ぬことなどできないが、もしもミハイと同じ人間であれば、きっと迷うことなくそう答えた。あれはあれで、レギオンにとって心のままの正直な言葉だったのだ。

「ミハイ、私は人間ではないが、それでも、人間のように感じ、誰かを想う心はあるんだ…!」

 レギオンはミハイが消えていった扉を切迫した顔で激しく睨みつけながら、苦しげにそう叫んだ。



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