天使の血

第五章 熱情


 夜会の翌日。

 その不愉快な報告を受け取った時、オルシーニは自分でも戸惑うほどの怒りを覚え、しばし館の私設礼拝堂で祈ることで気持ちを静めねばならなかった。

 夕べ、ミハイが密かに夜の街に外出し、それを手引きしたのがあのレギオンであったという知らせは、オルシーニを悶々と悩ませた。

(ミハイは、いきなり歌を中止させた私の命令に腹を立てていたという。だが、その腹いせに館を抜け出すなどと、全くミハイらしくない行動だ。それこそ、あのレギオンが焚きつけたのだろう…だが、だとすればミハイはレギオンの誘いの言葉に耳を傾け素直に受け入れるほどいつの間にか奴に心を許していたのか…?)

 レギオンは、ミハイにとって危険な存在だ。あのように美しく魅力的な人間の姿をしているが、その正体は血を吸う怪物なのだ。

 ヴァンパイアの吸血の実体については、オルシーニはそれ程詳しいわけではない。

 ヴァンパイア達は用心深く犠牲者以外の者に血を吸う姿を見せようとはしない。実際、普通の人間のように振る舞い神の家の中にも平気で入ってくる彼らを、教会が言う悪魔ととらえることは難しい。

 それに、聖職者であると同時にローマの古い貴族であり政治家の一族でもあるオルシーニは、彼ら『闇の貴族』が必要とする少しばかりの人間の犠牲には、仕方のないことと目を瞑ってきた。別にヴァンパイアの手によらずとも、多様な人間が暮らすこの古い都の怪しい暗がりではいつも、そこかしこで人の血が流されている。

(だが、レギオンがミハイに近づくというのは、一体どういうつもりなのだろうか。まさか私の大切な宝を、教会の財産とも言える名歌手を、その辺りの哀れな取るに足りない人間のように獲物にしようというつもりか…? そんなことは私が許さない。レギオンも、一族と我々との間の協定を少しは意識しているのならば、ミハイに手出しはできないはずだ。あの一族は多情とも聞く…やはりミハイには、男が男に対して抱くべきではないような欲望を抱いて、あのようにしつこく言い寄るのだろう…いや、しかし―)

 そのような疑念と疑惑に煩悶したまま、オルシーニはその日の午後、執務の合間に私室へと戻り、そこにミハイを呼んだ。

 大勢の側近や客達が出入りする執務室では、人の目や耳が気になって落ち着いてミハイと言葉を交わすことができない。今度ばかりはミハイと2人きり腹蔵ない話をする必要があると考えてのことだ。

(もっと早くにこうしておればよかったのかもしれない。私が一方的にミハイを疑い、それにミハイが反発して、余計に事態を複雑にしてしまう前に)

 オルシーニが少し後悔しながら待っていると、程なくして従僕の案内によってミハイが部屋に入ってきた、

「お召しの命を受け参上いたしました、猊下」

 ミハイは優雅におじぎをすると、オルシーニをまっすぐに見つめた。

 滑らかな陶器のような肌。所々金の筋の入る琥珀色の髪。繊細な顔立ちにうかぶ物憂げな表情は、どこか禁欲的な香りもして、遠い異国の教会の壁画に描かれた古風な天使を思わせた。

 オルシーニは、見慣れた顔であるはずなのに、まるで初めてミハイを見るかのごとくまじまじと彼に見入った。

「おお、ミハイ…」

 それでも、ミハイの様子には一見普段と違った所はなかった。オルシーニの呼び出しの理由は思い当たっているのだろうが、全く怖気づいた所はない。

 そのことが、ふとオルシーニをいらだたせた。ミハイが気後れしたり後ろめたそうな素振りを見せたりすることを、少しは期待していたのだ。

「ミハイ、昨夜の音楽会については、おまえにはすまないことをしたと思っておるよ」

 辛抱強くオルシーニが呼びかけると、ミハイはけむる熾のような青い瞳を彼に向けた。オルシーニはなぜか怯んで、一瞬ミハイから目を逸らした。

「あまりにも突然に歌を取りやめろと言われて、おまえが戸惑い不愉快に思うのも仕方がなかったかもしれない。だが、あの時は、そうするより他なかったのだ」

 オルシーニが哀しげな笑みをうかべると、ミハイは眼差しを伏せ、小さな溜め息をついた。

「分かっております、猊下。もう、そのことについては何もおっしゃらないで下さい。ですが、もしもあのご命令が猊下の僕に対する疑いからなされたものならば、そのような心配はご無用とここで改めて言わせていただきます。周りがどう言い立てようが、僕には大恩ある猊下を裏切り他の国に行くつもりなどないのです。もし僕が気を変えることがあるとすれば、それは猊下自身が僕に対するお心を変えられた時のみ。どうか、そのことをお忘れになりませんよう」

 あくまで丁寧で穏やかに響くミハイの声に込められた気迫に、オルシーニは微かに圧倒された。

 ミハイはオルシーニ相手だろうが萎縮することなく、凛として振舞う。いつも己を売り込むことに必死であったり身分の高い者に媚びへつらうことに慣れていたりする、ここに出入りする他の芸術家達と、彼は態度からして違う。

 何に対しても屈することのない鉄の意思と揺ぎない誇りを感じさせるのは、やはりその出自のせいかと、オルシーニはしばしば彼の強さに感嘆した。だが今は、ミハイのそんな手強さがオルシーニには腹立たしかった。

「うむ…」

 冷静沈着なミハイと対峙しながら、オルシーニはつい気まずくなって黙り込んだ。

「お話はそれだけなのでしょうか、猊下。ならば、猊下の貴重なお時間を僕のためにこれ以上割いていただくには及びません。僕はもう下がらせていただいた方がよろしいかと存じますが」

 やはりミハイは昨夜の一件に腹立ちを覚えているらしい。枢機卿の身分にある者に対して無礼でさえある頑なで冷たいミハイの態度に、オルシーニは怒りを掻き立てられた。

「いや、ミハイ、私の話はまだ終わってはいない」

 オルシーニの声が僅かに高くなったのを敏感に感づいたのか、ミハイは用心深く目を細めた。

「実は気になる報告を受けたのだ。ミハイ、おまえは昨夜、館を抜け出して市街に出かけたそうだな」

「そのことでしたか」と、ミハイはまるで用意していたかのようにすらすらと答えた。

「猊下、僕は別にこの館に閉じ込められている訳ではありません。僕にしても、鬱憤も溜まれば時には気晴らしをしたくなることもあるのです。昨夜、僕はここで歌うことができず、そのことで確かに気が滅入っていました。あのまま部屋に戻っても悶々と眠れぬ夜を過ごすだけだろう、それならば普通の若者がするように街の盛り場を歩いて憂さを晴らしたいと、昨夜はついそんな気持ちに駆られたのです。もしも僕の身を案じておられるのならば、護衛であるハンスも供をしてくれましたし、猊下が心配なさるようなことは実際何もありませんでした」

「何もなかった、と?」

 豪華な椅子に腰かけたまま、オルシーニは膝の上に置かれた手を握りしめた。

「ミハイ、おまえは私に隠していることがあるだろう。私が何も知らないと思っているのかね。昨夜はハンスだけでなく、レギオンも同行したはずだ。いや、実際、レギオンがおまえを館から誘い出したのではないのかね?」

 ミハイははっと息を吸い込んだ。先程までの冷静さが嘘のように、その顔にはミハイらしくもない衝撃と動揺がありありとうかんでいた。

「猊下…」

 信じがたいものを見るかのようにオルシーニを見つめた後、ミハイはやっと己を取り戻した。しばし押し黙り、オルシーニの言葉の意味をゆっくりと考えている。

「はい。確かに僕は昨夜レギオンと一緒でした。ですが、なぜ猊下がそのことをご存知なのでしょう。よもや僕を監視させているなどというわけでは―」

 ミハイはあっさりと枢機卿の言葉を認めた。その白い頬が紅潮しているのは、恥ずかしさというより次第に上ってきた怒りのせいだろう。

「ミハイ、私が何も言わなくとも、親切ごかしてあれやこれやと私の耳に入れたがる者は大勢いる。聞きたくもない、嘘かまことか分からぬそんな怪しげな話に惑わされるくらいならば、いっそ私自身が信頼できる者をおまえの周囲にそれとなくもぐりこませた方がまだしもだと思ったのだ。知ればおまえが気分を害するのは分かっていた。私もできればこのような真似はしたくなかったのだが、おまえのこの頃の行動、それにまつわる噂は私の我慢を超えているのだよ」

 ミハイは、オルシーニの言葉など聞きたくないというかのごとく顔を背けた。

「特に、あの若者が現れて以来、おまえはおまえらしくない言動をしばしば見せるようになった。レギオンなど寄せ付けぬようなことを言いながら、おまえは彼の訪れを許してきた。何と申し開きをしようと、実際、おまえはレギオンに影響されている。昨夜のような、私に対するあてつけめいた馬鹿げた反抗もそうだ。以前は私とおまえの間にはもっと信頼関係があったはずだが、おまえはもはや私に心を明かさぬようになってしまった。今でも、昨夜レギオンといたことを隠そうとしたではないか」

 ミハイはきっとなった。心を隠す仮面を取り払い、感情が迸るがままに叫んだ。

「別に隠した訳ではありません…僕には、別にあなたが思うようなやましいことは何もない! 僕はただ、あなたからそのような追求を受けることがいとわしかった。僕は、確かにレギオンに対して出会った初めの頃より甘くなっているのかもしれない。けれど、それが一体何だというのです? 昨夜だって、ただ3人で盛り場を訪れたというだけで、何もみだりがわしいことなどなかった。それに、レギオンは…確かにうわついたいい加減なところもありますが、猊下が思うほどの悪人ではありません!」

 ミハイの激昂にオルシーニは唖然となった。以前のミハイならば、こんなふうにオルシーニの前で感情を爆発させることなどなかった。無論あからさまな反抗などしなかった。確かにミハイはどこか変わった。たがが外れたということなのかもしれなかった。

「ミハイ…おまえは―」

 オルシーニはしばし返す言葉もなかった。眉を吊り上げて己を見据えているミハイを、呆然と見守ることしかできなかった。

 もしかしたら信頼関係など初めからなかったのかもしれない。オルシーニは愕然とした。

 オルシーニはミハイには決して触れようとせず、優しく包み込むように彼を愛し、守ろうとしてきた。ミハイの内面にも深く踏み込んではならない。それが、ミハイがかつて強いられてきた屈辱的な境遇を慮れば、一番よい接し方なのだと疑わなかった。

 だが、ミハイが己の内に封じ込んでいた炎はこんなにも激しかったのだ。オルシーニの庇護はミハイには過剰な干渉に過ぎなかった。何も知らず、知ろうともせずに、ただ従順であれとオルシーニはミハイに求めてきた。その結果がこれだろうか。

 そして、歌以外では常に無感動を装い、冷たく凍りついていたかに思われたミハイの心を燃え上がらせたのは、やはり、あの男なのだ。

「レギオンに…たぶらかされたか…!」

 オルシーニは荒々しく衝動的な感情が奥底から込み上げてくるのを覚えた。こんな気持ちは神に仕える者としては全くふさわしくなかったが、この瞬間、抑えられなくなった。

「ミハイ、おまえは何も知らぬのだ! レギオンがどんなに危険か…あの若者の正体を知れば、おまえとてきっと考えを改めるに違いない。私がおまえを守ろうとする気持ちを、おまえに対する私の愛情の深さを理解するだろう…」

 ミハイは疑い深げな面持ちをして、抑えた声で問うた。

「どういう意味です? レギオンが危険というのは?」

 オルシーニはとっさに何もかもぶちまけそうになった。ミハイの信頼を取り戻すには、レギオンの正体を告げて、その危険性を説くのが一番ではないか。

 だが、すぐに別のためらいがオルシーニを押しとどめた。

(レギオンの正体を教えるということは『闇の貴族』の存在をミハイに知らせることになる…あの呪われた一族とオルシーニ家を初めとするローマの有力者が結びついているという秘密をミハイのような一介の歌手に打ち明けるなど、あまりに軽率な行動だ。ミハイならば、正義感に駆られて、そのような悪しき者達と関係を結ぶなど許せないと公に訴えかねない。いや、もしも彼がそのような素振りを見せれば、あの怪物どもがすぐにでも彼を亡き者にしてしまうだろう。駄目だ、ミハイに彼らの存在を明かすわけにはいかない。それに、私は恐い…私が、教会の息子でありながら、血を吸う悪魔との契約に縛られる身と知れば、ミハイは私をますます軽蔑するに違いない…そんなことは私には耐えられない)

 オルシーニは半ば椅子から身を起こした姿勢のままミハイをしばし苦しげに見つめたが、結局、舌先まで出かかった言葉を飲み込んだ。途方に暮れたように手を振り、再び深く椅子に座り込んだ。

「いや、やはりおまえには話せない…だが…」

 両手で顔を覆って葛藤するオルシーニの脳裏に、レギオンの輝くばかりの姿が思い出された。たぐい稀な美貌はオルシーニを嘲るような微笑を浮かべている。 

 オルシーニの胸に、名状しがたいどす黒い感情を湧き上がった。

「そうだ…この話ならば、おまえに聞かせても害はなかろう。ミハイよ、おまえはレギオンを信頼し始めているようだが、果たしてあやつはその信頼に値する人間だろうか」

 オルシーニが急に自信を取り戻したように顔を上げ、妙にねつい眼差しを向けてくるのに、ミハイは戸惑うようまばたきをした。

「レギオンはおまえに熱心に求愛していると聞くが、あやつの関心は何もおまえだけに向けられている訳ではないのだよ、ミハイ。私の聞くところでは、街のあちらこちらであやつは色事に励んでいる様子。最近は、遊郭の見目良いと評判の若い娼婦とねんごろになっているようだ。どのような甘い言葉でかき口説かれたか知らぬが、レギオンの言うことなどあまり信じぬことだ。奴は多情な色事師だ。おまえが真面目に考えてやる価値など奴にはない」

 ミハイは瞠目した。

「猊下、いい加減な噂を根拠に人を中傷なさるのは…あなたのような立場にある方にふさわしい振る舞いとは言えません…」

 ミハイは冷静を装おうと試みるが、うまくできないようだ。彼の激しい動揺ぶりがオルシーニを余計に駆り立てた。

「私は嘘など言っていないよ、ミハイ。信じられないのならば、おまえが自分で確かめればいいことだ」

 こんな悪意に滴るような言葉を吐いて、ミハイが傷つき追い詰められる様子を見て溜飲を下げている、今の自分の姿にオルシーニは唖然となっていた。

 オルシーニは慄きつつ胸を押さえた。決して燃え上がることはないが消えもしないでくすぶり続ける、熱く狂おしい熾火に焼かれているかのようだ。

 ついに耐えかねて、オルシーニは、凍りついたように立ち尽くしているミハイから顔を背けた。

「もう、よい…! 下がれ、ミハイ!」

 今まで声を荒げたことなどないオルシーニがそう叩きつけるのに、ミハイは打たれたように身を震わせた。

「おまえは頭を冷やして己のしたことについてよく考えるのだ。しばしの間は音楽会も中止だ。教皇庁のミサに参加してもならない。私が許すまで、この館で謹慎せよ」

 オルシーニの命令もミハイはろくに聞いていないようだ。人形めいたぎこちない動きで退出の礼を示すと、心ここにあらずの様子で彼は部屋を出て行った。

(ミハイ、私は…おまえの歌を愛している。おまえは神に祝福された、歌う天使だ。おまえが心置きなく歌えるよう、もう誰にもおまえを汚させぬよう、手元に置いて守りたいと思ってきた…それなのにおまえは私の気持ちを無視し、よりにもよってあの不道徳の権化のような男の誘惑に惹かれるのか)

 恨みのこもった暗い眼差しでミハイを見送った後、オルシーニはひどく虚脱した気分に襲われた。何もかもが空しく、祈りに救いを求める気持ちにさえなれず、そうして側近も小姓も寄せ付けないで1人、長い間胸の奥でくすぶり続ける火を持て余すのだった。

 この熱情がどこに向かうのか、オルシーニにも定かではなかったが、1つだけ、彼にもはっきりと自覚した感情があった。

(これは罪だ)

 これは、レギオンに対するすさまじい『嫉妬』という名の罪なのだ。





 娼家の部屋の中には、乾いた薔薇と麝香のほのかに甘く饐えた香りが満ちていた。

 レギオンは、いつかの夜に聞いたミハイの歌を口ずさみながら、寝台にかかるカーテンを引きあけ中から滑り出てきた。

 小卓上に残された燭台の消えつつある火が、レギオンの完璧な輪郭を描く象牙の裸身を暗く沈んだ部屋の中に淡く浮かび上がらせる。 

 レギオンは口元に残る温かく甘い雫を指先でそっとぬぐうと、寝台の上に残してきた者を肩越しに振り返った。

「ゆっくりお休み、可愛い君」

 この上もなく優しく響く、しかし同時にこの上もなく酷薄な声音でレギオンが囁いたのは、今、彼が血を奪ったばかりの女だ。

「永遠に」

 既に、女は死んでいた。白い首を噛み裂かれた無残な、しかし同時に、今しがたの情交の名残りも生々しいしどけない姿で。

 レギオンはさっさと服を身に着け乱れた髪を手で整えると、実体のない影と化して、ほとんど寝静まっているがまだ幾つかの部屋からは人のうごめく気配や喘ぎ声の聞こえる娼家の中を素早く通り抜けて、人気のない外の通りに金色の火花となって閃き出た。

 瞬間、彼の登場に肝を潰した野良犬が慌てて路地裏に逃げ込む。

 夜明け前のかわたれどき。

 レギオンは暗い紫色をした東の空を確認するように眺め、一つあくびをすると、ぶらぶらと歩き始めた。

 石造りの街は冷え込んでいたが、今飲んだばかりの血のおかげで体はぽかぽかと温まり力に満ちている。

(まあ、味の方は最高の美味とまでは言えないけれど、仕方ないさ。まだ若い甘酸っぱい林檎のようなものだな。半月やそこいらでものにしてしまったつまみ食いの相手なら、こんなものだろう。でも、おかげで、しばらくの間血を飲まずにいても大丈夫だ。ミハイを落とすまで、これで持ちこたえられるだろう)

 犠牲者に対する同情など微塵もなく、そんな悪辣なことを平気で考えたレギオンだが、ミハイのことを思い出すと不思議な胸苦しさを覚えた。

 彼の心は、すませたばかりの吸血行為からいきなりミハイに向かって流れ出した。 

(ミハイ、ミハイ、今、君はオルシーニの館の奥深くで深い眠りに沈んでいる頃か。あの夜以来、会っていない…昨日行ってみた教皇庁のミサにも出ていなかったが、まさかオルシーニの怒りをかって館に閉じ込められてでもいるのだろうか…?)

 そんなふうにミハイのことは気になっているのだが、何となくレギオンは会いに行くことを躊躇っていた。

(君の歌は、私の胸の中で今でも鳴り響いている…)

 あの夜のことを思い出すにつけ、レギオンは戸惑い、訳の分からない不安にさえ駆られた。

 何もかも自分らしくなかったし、どうしてあんなふうに感じ行動したのか、今でも分からない。

(まるで魔法にでもかけられたようだったな…とても不思議な、けれどとても印象的で幸せな夜で…ミハイをあんなに親密に感じられたのは初めてだった…今でもよく覚えている、私の腕の中にいたミハイの華奢な体、温かさ、私を無防備に見上げたあのけむるような青い瞳…)

 うっとりと思い出していたレギオンだが、知らず知らず頬が緩んでいたことに気づいて、とっさに顔をしかめて頭を振った。

 そうして、急に身の回りに立ち込める寒さを意識したかのようにマントの前を合わせると、市街の中心地に借りた家への帰路に着いた。

 遊郭のただ中とはいえ、この時間ではほとんど人通りはない。時折、足元のおぼつかない酔客と擦れ違ったり、路地裏から歩道の方を値踏みするように眺める物騒な視線を感じたりするくらいだ。

 ねじれた細い道を慣れた足取りで通り抜けやがて小さな鐘楼の建つ広場に出た所で、レギオンはふと足を止めた。うろんそうに後ろを振り返った。

 暗い街路でも難なく見通すことのできる目で、己が今通ってきた歩道の向こうを透かし眺める。すると、そこには幽霊じみた黒い不吉な影が幾つか、レギオンが足を止めるのに、同じように立ち止まった。道を通る酔客の懐を狙う夜盗の類という訳ではない。明らかにレギオンをそれと認識してつけてきたのだ。

 レギオンは、ふんと鼻先で笑った。

(こんな時間まで私の監視とはご苦労なことだな)

 ここしばらく、度々レギオンはこんなふうに後をつけられたり、家や馴染み酒場の周りで怪しげな人影にうろつかれたりしていた。おそらくオルシーニの手のものだろう。別にそれほど気にはしておらず、無視して放っておいたのだが、さすがに少しうっとうしくなってきた。

(少し脅かしてやるかな)

 悪戯気を覚えて、怪しげな男達にヴァンパイアの速度で飛び掛り肝を潰してやろうと向き直った時、レギオンは、人間ばかりと思っていた男達の中に別の気配が混じっていることに気がついた。

 とたんにレギオンの表情が厳しいものになった。

(ヴァンパイアか)

 レギオンは舌打ちをした。

 そうなる可能性を考えなかったわけではない。レギオンの存在を疎ましく思ったオルシーニは、一族に依頼してレギオンの動きを封じようとしているのだ。

(私に同族をけしかけるとはね。全く、忌々しい人間だな!)

 レギオンが広場の入り口に立ち尽くしたまま睨みつけているうちに、男達は互いに頷きあうとふいに踵を返して立ち去っていった。

 別に今レギオンをどうこうするつもりはなかったようだ。今回はただ警告を与えただけなのだろう。

(だが、これ以上オルシーニの警告を無視してミハイに近づこうとすると、私は一族の刺客も相手にしなければならなくなるということか。ふん、別に力で負けるとは思わないぞ。だが、狷介な長老達が後ろについているかと思うとちょっと面倒そうだな)

 レギオンは唇を舐めながら、しばし考えをめぐらせた。

 長老達まで敵に回すとなると、最悪の場合、一族からの放逐というところか。己の将来や故郷の親の嘆きを考えないでもない。ヴァンパイア世界は極めて狭いものだし、追放者となると、少なくともヨーロッパではどこの国に行っても生きづらくなるだろう。しかし―。

 激しく頭を振りたてると、レギオンは顔を上げ、傍にある鐘楼の天辺にかかる猫の目のような細い月を睨みつけた。

「全く、それが、一体何だというんだ」

 レギオンは不敵な笑みを浮かべ、獰猛に呟いた。

(私は欲しいものは必ず手に入れる。それが狩人であるヴァンパイアの真の流儀というものだ。一族の意向を慮り、長老達を恐れるあまりに狙った獲物を諦めるなど全く馬鹿げているぞ。一体いつから誇り高い我が一族は人間の機嫌を取り、人間の真似をしたつまらぬ駆け引きにうつつをぬかすようになったんだ)

 人間との共存に心を砕いている長老達にとっては身も蓋もない言いようであったかも知れないが、実際、若いだけに純粋で恐いものなしのレギオンには、一族の今のありようからして反発心を覚えさせられるのだ。

(私はミハイが欲しい。彼を手に入れるためなら、何も恐れはしないし、どんな犠牲も厭うものか)

 天上から降るような声で高らかに唄うミハイの姿が鮮やかに脳裏に甦る。レギオンの胸が焼け付く。

 しかし、たかが人間の歌手ごときに、ここまでするのか。気紛れで始めたゲームの代償としては高すぎないか。ミハイに、そうまでして手に入れる一体どんな価値があるというのか。

(私にも、もう分からない…もしかしたらサンティーノとの賭けなど、どうでもいいのかもしれない、ただ…私にも抑えられないからだ…)

 己を駆り立てる、この胸に燃え盛るこの火が何なのか未だ明らかにならないまま決意する、レギオンの心にミハイの歌声がまたしても迫ってきた。


 誰が知ろう

 愛が我等を導く先を―


 ミハイは確かそう唄っていたが、待て、愛だと? 愛?

 レギオンは冷たい水を頭から浴びたかのごとく身震いをした。

「いや、ただの気の迷いさ」

 レギオンは軽い調子で笑い飛ばしたが、その瞳は不安げに揺れていた。

「それとも狂気というやつかい?」

 小さく息を吸い込み、黙り込んだ。

 そうして、レギオンはもうこれ以上ここに立ち止まっていることに我慢できないとばかりに足早に歩き出した。

 レギオンには自覚はなかっただろうが、その姿は、まるで己を執拗に追いかけてくる何かから必死に逃げようとしている人のようだった。



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