天使の血
第五章 熱情
二
馬車の窓から覗く風景は既に冬の気配だ。死んだ魚の腹を思わす鉛色をした空には白い疵めいた雲が走っている。
ローマの市街を離れて郊外へと続く道を走る馬車に護衛のハンスと共に乗り込んでいるミハイは、先程からその冷たい空をぼんやりと眺める素振りをしながら、胸のうちで高まってくる感情を抑えるのに必死だった。
(レギオン…)
レギオンに導かれて夜の街に逃亡し束の間の自由を味わった代償として、しばらく館に閉じ込められていたミハイだったが、この日、やっと謹慎が解かれた。
レギオンの一族の居城でとりおこなわれる夜会で歌うようミハイに命じたオルシーニは、しかし、実に苦々しげだった。
(本当はおまえをあそこにやりたくなどないのだが、おまえの歌声はかの一族の貴人達にも深く愛されている。今回は特に最長老のハイペリオン殿が是非にと望まれるので、私としても断りきれなくなった。おまえも久々に人前で歌えるとあって解放感を覚えるやも知れぬが、くれぐれも勝手な行動はとらぬように)
だが、そんな戒めの言葉も今のミハイの心には届いていなかった。
(あのヴィラに行けば、ひょっとしてレギオンに会えるだろうか。ローマの街中に家を借りたと言っていたけれど、運よく彼が戻っていれば、捕まえることができるかもしれない)
今夜の宴の話を聞いてからずっと、ミハイはレギオンとの再会のことばかり考えている。
(あいつめ、僕が会いたくない時にはどんなに迷惑がられようがお構いなしに強引に押しかけてきたくせに、僕が会って話をしたい時にはぱったりと顔を見せないんだから、全く腹が立つことこの上ない。この10日間、僕がどんなに苛立たしくもどかしい思いをしたことか)
レギオンの明るく屈託のない顔を思い出し、ミハイは唇を噛み締めた。あの男の気まぐれには今更ながら煮えくり返るような思いがする。だが、それでもミハイはレギオンに会いたくて堪らなくなっていた。久しぶりに歌える喜びよりも、レギオンに向かっていく気持ちの方が大きかった。もっとも、それは決して楽しいものではなかったのだが。
(本当に、一体どうして僕がこんな下らないことにここまで気持ちをかき乱されるのか分からないけれど、とにかく気になるものは仕方がない)
ミハイは、悔しいような腹立たしいような複雑な気分で、深い溜め息をついた。
すべてはオルシーニがミハイに投げつけたあの一言から始まったのだ。レギオンは街のあちこちで浮名を流している。彼が甘い優しい言葉で言い寄るのは、何もミハイ1人ではない。
(いかにもありそうなことだ。レギオンは移り気で多情そうで、僕にちょっかいをかけながらも、別に恋人の1人や2人はいるだろうと初めから思っていた。それなのに、枢機卿から実際レギオンに特定の相手がいると聞かされた時、僕はすごく嫌な気分がした。ああ、やっぱりそういうことかとあっさりと受け流そうとしたけれどできなくて…ずっと気になって…いっそハンスに頼んで枢機卿の言ったことが本当なのか調べてもらおうかなどと考えたけれど、何だか彼にそんな馬鹿げた頼みごとするのも気が進まず…やはりどうしてもレギオンに直接会って問いただし彼の本音を聞かなくては、心が休まらなくなってしまった…)
ミハイはふいに激しい不安を覚えて、己の胸をそっと押さえた。
(僕は一体どうしてしまったんだろう。どうして、レギオンのことがこんなに気になるんだ…?)
今までレギオンのことは、人の迷惑も顧みずに身勝手な想いを押し付けてつきまとう鬱陶しい奴くらいにしか捕らえていなかった。レギオンがどこで誰を相手に何をしようが、ミハイには全く関係のない話のはずだ。
(そうだ、レギオンが急に顔を見せなくなったからと言って、どうして僕がこんなにやきもきすることがあるのだろう。むしろ清々すると思って当然なのに)
何よりも己の感情の動きがミハイには理解できず、落ち着かない気分になっていた。
(たぶん、この10日間の謹慎処分が僕には思ったよりも精神的にこたえたのだろう。鬱屈として、普段ならば気にかけもしないくだらないことにこだわってしまっているだけなんだ。結局、白か黒か分からず、自分では確かめる術も断たれたすっきりしないこの状態が僕には一番我慢できない。真実を確かめてしまえば、枢機卿の言ったことが正しかろうが全くのでたらめであろうが、それなりに納得できるはずなんだ)
ヴィラに近づくにつれ、次第につのってくる不安感に押しつぶされそうな胸に向かって、ミハイはそう言い聞かせる。
(レギオン…君はやはり悪魔なのかもしれないな…こんなふうに僕を惑わせるなんて―)
レギオンのおかげで手に入れた、あの一夜の幸福な夢はミハイの胸に鮮やかに刻まれている。
いつも用心深く心をよろっているミハイだが、束の間、己を解放して伸び伸びと自由を謳歌することができた。自分の心に正直に振舞うというのは、あれほど気分のいいものなのだと知った。その点について、ミハイはレギオンには深く感謝しているし、実際彼をかなり見直していた。
そればかりか、ミハイはレギオンのことをほとんど好ましいとさえ感じた。
経てきた境遇の過酷さからか、他人に対しては警戒心が先立つあまり打ち解けにくいミハイだ。家族はとっくに失い、崇拝者はいても友と呼べる相手もおらず、人と心を通いあわせることなど久しくなかった。それだけに、レギオンと2人きりでいた、あの暗い路地での一時、彼との間に流れた親密さは、ミハイにとっても思いがけない経験だった。
レギオンに向かって、ほとんど他人に語ったことのない己の過去、心の痛みや葛藤をあんなふうに素直に打ち明けてしまった自分にも驚いた。軽率すぎたかもしれない。だが、実際、そうすることで心が軽くなったのだ。
ミハイだけでなくレギオンもまたいつもとはどこか違っていた。ミハイが反感を覚える悪ふざけも軽薄さもなく、押し付けがましい態度も見せずに、ミハイをただ抱きしめてくれた。そうして、なぜ突然ああなったのか分からないほど急に何もかもに迷いを覚えたミハイが一番必要とする言葉を、彼はくれたのだ。
(君は、間違ってなどいない。大丈夫だよ、ミハイ。君は、そのままの君でいればいいんだ)
優しく確信に満ちた囁きに、あの一瞬、ミハイがどれほど救われたか。
(あれがレギオンの素顔ならば、嘘偽りのない彼の本心ならば、僕だってきっと彼のことが好きになれるだろうに…)
ミハイはふいに顔を赤らめ、当惑するよう、熱くなった己の頬に触れた。
(いや、もちろんおかしな意味ではないが―)
レギオンの優しい言葉と共にその抱擁の感触まで思い出してしまい、いきなり早くなる心臓の鼓動にミハイは焦った。
「ミハイ、どうした?」
ミハイが苦しげに息をついて服の襟をくつろげるのに、向かいの席に座っている寡黙なハンスがいぶかしげに問いかけた。
「いや、何でもない…」
ミハイはハンスの気遣わしげな顔をちらっと見やって微笑むと、すぐに目を逸らした。
「何でもないよ、ハンス」
ハンスの何か言いたげな視線を感じたが追及されることが恐くて、ミハイは再び外の景色を眺める素振りで窓の方に顔を向けた。
そのまま、しばらく心をかき乱す記憶を頭から締め出そうとしたのだが、一端堰を切って溢れ出した感情はミハイにももう押しとどめられなかった。
(レギオン)
いきなり熱いものが喉の奥からこみあげてきた。白熱する火のような狂おしく凶暴な感情が噴き上がり、ミハイは衝動的に泣き出しそうになった。
不安げに震える拳で戦慄く唇を押さえ込んだ。
(レギオン、君のせいで、僕の心はこんなにも混乱してしまった。時間が経てば落ち着くどころか、ますます訳の分からない爆発しそうな気持ちがつのっていく…どうしよう…こんな気分になったのは初めてだ)
こんな制御不能の感情には、ミハイは全く慣れておらず、どうすればよいのか分からなかった。
(このままでは、本当に僕はおかしくなってしまいそうだ。ああ、レギオン…君に会いたい)
ミハイの胸に燃える火はどんなに抑えようとしても一向におさまる気配はなく、次第に激しさを増すばかりのようだった。
レギオンが昨日からヴィラに戻っていると聞いた途端、サンティーノの胸は我ながら滑稽なほど熱くなった。
レギオンが市街に借りた家に移ってしまって以来、ひと月以上、サンティーノは彼の顔を見ていない。
その間、サンティーノはずっと気が塞いで、何を見ても聞いても楽しいとは全く思えなくなっていた。このままではいけないと苦手な宴にも出席して仲間達との交遊に励んでなるべく他に気持ちを向けようとしたのだが、少しも気は晴れない。一度は、己に気持ちを寄せてくれた同族の女性と付き合ってみさえしたが、極めて美しく魅力的だったその相手さえ、レギオンの放つ強烈な光に比べれば捕らえどころのない影のようで、サンティーノはすぐに耐えられなくなって別れを告げた。
サンティーノの唯一の慰めはリュートだったが、以前よりも一層深い哀しみを湛えた、その美しい音色に夢中になった宮廷の女達に追い掛け回されては、どこにいても落ち着くことはできなかった。
見るからに打ちしおれ、幾分やつれた憂い顔に思いつめた瞳をした美しいサンティーノは、女性だけでなく男性からもよくもてた。レギオンがいないこの好機にと思ったのかどうか、顔見知りの男達から言い寄られたのは一度や二度ではない。だが、そういった状況は本人にとってはそれこそ勘弁してくれというようなもので、サンティーノをますます落ち込ませるばかりだった。
だからこそ余計に、レギオンが帰ってきたという知らせはサンティーノを高揚させた。
(レギオン、レギオン、ああ、やっと君の顔が見られる!)
本当はずっと会いに行きたかったのを、意地を張りとおして我慢していたのだ。
その話を聞いてすぐ、サンティーノはレギオンの部屋へ飛んでいった。
(ひと月もの間、顔を見せないばかりか手紙もよこさないなんて、薄情者め。ミハイとのことはどうなったのだろう。オルシーニ枢機卿に睨まれていると言っていたけれど、大丈夫なのだろうか。レギオン、君が傍にいたらいたではらはらするけれど、いないと余計に心配で仕方がなくなるよ)
しかし、サンティーノがレギオンを訪問した時、生憎と彼は部屋を留守にしていた。
レギオンの小姓にそう告げられた時、サンティーノはよほど落胆した顔になったのだろう。
「レギオン様は、どこに行くとも告げずにふらりと出て行かれましたが、もしかしたら、あなた様をお訪ねになるつもりだったのかもしれません。おそらく入れ違いになられたのでしょう。よろしければレギオン様が戻られるまでお待ちになりませんか?」
人間の少年にまで心配された己に苦笑しながら申し出を断り、一旦は部屋に戻るかレギオンを探しに行くかしようと考えたサンティーノだが、不意に衝動的な思いに駆られた。
(レギオン)
サンティーノは引き返しかけた廊下を途中で立ち止まり、レギオンの部屋の扉を振り返った。深く息を吸った。
次の瞬間、サンティーノは我が身を霧と化し、レギオンの部屋の壁を通り抜け、控えの間で雑用をこなしている小姓の脇を掠めて、彼の私室に忍び込んだ。控えめなサンティーノにしては、全く驚くほどの大胆さだった。
レギオンの部屋の真ん中に立った途端、我に返ったサンティーノは慄いたように周囲を見渡した。
(全く、僕は何をやっているんだ。友人とはいえ他人の部屋にこっそり忍び込むなんて、非常識な)
一瞬、サンティーノは己の行動に唖然となった。
(だって、ここに少し前までレギオンがいたかと思うと何だかたまらなくなって…彼の気配の片鱗でも残っていないかと、つい…)
そこまで考えて、サンティーノは赤くなってうつむいた。
(我ながら、どうかしているとは思うよ)
サンティーノは溜め息をついて、再び顔を上げると、遠慮がちな眼差しを改めて周囲に注いだ。
戻ったのは昨夜遅くだと聞いたけれど、本当に慌しい帰還のようだ。
壁際の肘掛椅子の上には脱ぎ捨てられたままの外套が無造作に残されており、黒いどっしりとしたチェストは半分開いてかき回された服の端がはみ出ている。そして、書きもの机の上には、封筒や読みかけの手紙の山。
(もしかして、長老からの急な呼び出しでもくらったのだろうか。修行中の身のくせに、レギオンはいつまで経っても師にもつかずにふらふらと勝手な行動ばかりしているし…それとも、まさかミハイのことで枢機卿が一族の方に手を回した訳ではないだろうか)
それはサンティーノが最も危惧する事態であったので、思い至った途端に、レギオンに会える喜びよりもそちらの方が気になってきた。
(それにしても、レギオンは、ミハイとは一体どうなっているのだろう。しばらく戻ってこなかったということは、ずっと苦戦していたのだろうか。たぶん、ミハイを落とすことに夢中になって、宮廷のことも、ここでこうして彼のことを案じている僕のこともきれいに忘れ果てていたんだろう)
ふいにレギオンに対する恨めしさが甦ってきて、サンティーノの胸を微かに焦がした。
(ミハイと言えば…ああ、彼が来て歌うことになっていると誰かが言っていた、あの音楽会は今夜だっだろうか。もしかしたら、レギオンはミハイを追いかけて、たまたまここに戻ってきただけなのかもしれない)
サンティーノは悔しげに赤い唇を噛み締めた。何だか、それこそ最もありえそうな気がする。
(レギオンと会ってみても、僕はまたもどかしく苦しい思いをするだけなのかもしれない。大体、ミハイを必死に追いかけているレギオンなど、僕が見たいものか! レギオンは僕が唆したくせにと言うけれど、僕は本当は…)
レギオンに会いたさで矢も楯もたまらずここまで飛んできた自分が心底哀れになって、サンティーノは肩を落とした。
(もう帰ろう。レギオンに会ってみたところで、僕など彼の眼中に全く入っていないのだし、そのことを思い知らされて余計に惨めになるだけだ)
そう思ったものの、レギオンの名残りを確かめるよう、この部屋を最後に眺めることまではサンティーノはとめられなかった。
その時、サンティーノの目にとまったものがあった。それはレギオンの書きもの机の上に、他の封筒と一緒に、広げられたまま残されている一通の手紙だった。
誰からだろう。サンティーノは急は激しく気になりだした。
(もしかしたら、ミハイとかわした手紙だとか…)
サンティーノは頭の中がかあっとなるのを意識した。衝動的に机に駆け寄ると、手紙を取り上げて目の前で広げた。
だが、それは実際サンティーノが邪推したような類のものではなかった。
『レギオン、私達のよくできた綺麗で可愛い坊や。
この頃、ちっとも手紙もくれませんが、つつがなく過ごしていますか?
お父様も、お母様も、あなたのことを心配しています。
たまにはちゃんと近況を知らせなさい。
それから、とにかく早く伴侶を見つけて、ヴェネツィアに戻ってらっしゃい。
私達は首を長くしてあなたの帰りを待っています―』
サンティーノは手紙を睨みつけたまま、大きく息を吸い込んだ。ぱちぱちと瞬きをした。
(えっ…え…?)
綺麗で可愛い坊や? 誰のことだ?
(あいつか!)
恋文とは程遠い、それは大事な息子を案じる極めて甘い親がよこした手紙以外の何ものでもないのだと理解した瞬間、サンティーノを強烈な笑いの発作が見舞った。
ぶっと吹き出し、手紙を握りしめたまま、お腹を抱えてサンティーノが笑い転げていると、荒々しく部屋の扉を開く音がした。
「サ、サンティーノ?!」
笑いすぎたせいで涙目になりながらサンティーノが振り返ると、案の定、当のレギオンが呆然とした面持ちで扉の所に立ち尽くしている。
よくできた綺麗で可愛い坊や。
(き、綺麗はともかく、よくできているかどうかは全く疑わしいな)
訳が分からず当惑するレギオンの顔を見た途端、一瞬おさまりかけた発作がまたぶり返し、サンティーノは喉を仰け反らして大爆笑した。
「一体、ここで何をしているんだ、サンティーノ!」
我に返ったレギオンは、サンティーノがひいひい言いながら握り締めている手紙に気がつくと、慌てて駆け寄り、その手からひったくった。
「サンティーノ…他人の部屋に勝手に入り込んだだけでなく、手紙を盗み読みするなんて、悪趣味だぞ! よ、よくもこんな非常識なことをしてくれたな!」
レギオンでも常識などという言葉を使うのだ。言うことがいつもの自分達とは逆になっているなと思うと、ますますおかしくなって、サンティーノはレギオンに肩を揺すられながらも笑い続けた。
「サンティーノ、いい加減にしろ!」
そう怒鳴りつけるレギオンの声にはばつの悪さがにじみ出ていた。
サンティーノがうっすらと目を開けると、レギオンは恥ずかしさのあまり真っ赤になっていた。彼のこんな表情は初めて見る。サンティーノはついからかいたくなった。
「ああ、傑作だったよ、その手紙…君に対する溺愛ぶりがにじみ出ていて…君はどんなにか愛され可愛がられ甘やかされて育ったんだろうね、レギオン。うん、目にうかぶようだよ…ぷぷっ…ちやほやされすぎたせいで、そんなに自信過剰の我がまま男になったのかな…ふふ…」
レギオンがかっとなって殴りかかろうとするのをサンティーノは笑いながらかわし、するりと壁をぬけて廊下に逃げ出した。
「待て、サンティーノ!」
怒りのおさまりきらないレギオンがすぐに追いかけてくる。
サンティーノはくすくす笑いながらしばらく走り、ひっそりと静まり返った小さな庭に面する回廊まで出たが、そこで本気を出したらしいレギオンに追いつかれた。
「よくも私を馬鹿にしたな!」
レギオンはサンティーノの体を捕まえ振り回すと逃げないよう壁に押さえつけた。
「馬鹿になんか…してないよ…あははは…」
「サンティーノ、笑うな!」
レギオンが爆発寸前になっていることは分かったが、彼がむきになればなるほど、サンティーノはおかしくなる。笑いすぎて息切れしながら、サンティーノはやっとの思いで言い訳をした。
「ひい、苦しい…ごめん、笑うつもりじゃないんだけれど、とまらなくて…ひいひい…おかしい…」
「いい加減にやめないと、無理矢理黙らせるぞ!」
レギオンが睨みつける。サンティーノは震える口元を手で押さえこむ。
「くく…ど…どうやって…?」
レギオンは低く唸り、サンティーノの胸倉を掴んで、ぐいっと引き寄せた。
次の瞬間、サンティーノはレギオンの噛み付くような口付けで唇を塞がれていた。
サンティーノはレギオンの腕の中で硬直した。ひくっと喉が鳴り、出かかった吐息を飲みこんだ。
全く、これは笑い事ではない。
「う…レギオン、やめ…」
サンティーノは慌ててレギオンの胸を押し返すが、レギオンはサンティーノの頭の後ろに手を回し、彼の体を壁に押し付けるようにして更に深く唇を重ねてくる。
(違う、違う、僕はレギオンにこんなことをさせてはいけない。僕は別にこんなことを期待して、レギオンに会いに来た訳じゃない…後で激しく後悔するに決まっている…レギオンとはただの友人でいた方が、僕はずっと楽なんだから…)
束の間、サンティーノは柄にもなくレギオンをからかったことを激しく後悔した。早く彼の抱擁から逃げ出して非礼を謝り、許してもらおうと思った。それから、必死になって考えた何もかもが弾け跳ぶほどの、感情の高まりに襲われた。
(レギオン…)
これは、サンティーノが会えない時間もずっと面影を追い求めた相手だった。そう、焦がれ続けたレギオンが今ここにいるのだ。
(レギオン、君の匂い、君のぬくもり、僕を抱きしめる腕の感触、この熱い唇…夢じゃない、レギオンはここにいる)
レギオンの口付けを受けているうちに、封じ込んでいた狂おしい熱がサンティーノの肉体からあふれ出した。
サンティーノは思わず身震いした。頭の中が白く焼ける。体が火となり蕩かされていく―。
いつの間にか、サンティーノは夢中になってレギオンの口付けに応えていた。
サンティーノに起こった変化を敏感に感じ取りそれに煽られたように、レギオンの抱擁にも熱がこもった。
サンティーノは口を開いて差し込まれるレギオンの舌を受け入れ、それを吸った。熱い吐息と共にむさぼった。自然にサンティーノの手は上がり、レギオンを求めて宙を泳ぎ、その体にすがりつく。
(君の体、君の匂い、君の吐く息…すべてが―)
まるで恋人同士のようにしばらくの間激しく抱き合った後、2人はようやく唇を離した。
サンティーノは息を弾ませながら潤んだ瞳でレギオンをじっと見上げた。
レギオンはまだサンティーノを腕の中に捕らえこんだまま、食い入るように彼の顔を見つめ返している。突然己を襲った衝動に彼自身驚き戸惑っているようだ。
「レギオン」
掠れた声で、サンティーノは呼びかけた。彼の抑制はどこかではずれてしまったらしい。その声は、いかにも恋しい人を誘いかけるような艶かしさを帯びていた。
応えるかのごとく、レギオンの緑の瞳が熱を帯びてきらめいた。
レギオンはサンティーノの熱く火照った頬をそっと撫でると今度は優しく唇を寄せてきた。
サンティーノは嬉しさのあまり泣きそうになった。移り気で気まぐれなレギオンのすることではあったが、少なくともこの一瞬、彼は自分のことしか考えていないと確信できた。
(レギオン、僕はやっぱり君が欲しい。誰にも渡したくない)
ちくりと、唇にレギオンの伸びてきた鋭い牙があたった。欲情したサンティーノの牙も同じように鋭くなっている。
レギオンはサンティーノの血を求めて、濡れた唇を首の方にずらしていく。肌にかかる熱くせわしない吐息。もどかしげに服の襟を引っ張る指にサンティーノはぞくぞくした。
ヴァンパイアは己を愛する者からしか飲まない。
「レギオン、いいよ、飲んでも」
サンティーノはレギオンの頭を抱き寄せ、己の首筋に押し付けた。そうして、微かな慄きと期待感と共に、レギオンの熱く濡れた鋭い牙がもたらす衝撃をじっと待ち受けた。
その時、誰かが小さく息を飲む音を聞いて、サンティーノはうっすらと目を開けた。陶然となっていた、その顔が強張った。
(ミハイ?!)
一瞬己の中の不安ややましさが見せる幻かと思ったが、違う。レギオンの肩越しにサンティーノが見つけたのは、サンティーノとレギオンが抱き合っている場所から庭を挟んだ向こう側で凍りついたように立ち尽くしているミハイの姿だったのだ。
(どうして、こんな所に…ああ、彼は今夜の宴で歌うことになっていたんだ。けれど、ヴィラのこんな奥まで入り込んでくるなんて、もしかしたらレギオンを探してきたのだろうか…)
真っ白になった頭の片隅でサンティーノはそう考えた。瞬間、ミハイに対する理不尽なまでの怒りが沸き上がった。
とっさに、サンティーノはミハイに向かって嫣然と笑ってみせながら、レギオンの背中に回した腕に力を込めた。ミハイの頬が衝撃に震え、潔癖そうな青い瞳が憤怒に燃え上がるのを、サンティーノの視力はしっかりと捕らえていた。
「サンティーノ?」
レギオンも不穏な気配に気づいたらしい。いぶかしげに顔を上げ、サンティーノの敵意のこもった視線をたどって後ろを振り返った。
「ミ、ミハイ?!」
レギオンは愕然となって、叫んだ。
その声を聞いた瞬間、ミハイは打たれたように身を震わせた。そのまま踵を返して、建物の中へと引き返していく。
「ミハイ、待ってくれ!」
レギオンはサンティーノの体を引きはがし、去っていくミハイを追いかけようとした。
サンティーノは震える唇を噛み締め、己のことなど一瞬のうちに忘れ去ったようなレギオンの背中を凝然と眺めた。
だが、次の瞬間、レギオンはサンティーノを振り返った。狂おしげにサンティーノを見つめ、何か言いたげに唇を震わせるが、一方で足早に去っていくミハイのことも気になるのか、回廊の彼方をちらりと眺めやり、またサンティーノを見た。
途方に暮れたその顔を見ていると、サンティーノは何だが胸が痛んで、己の性懲りのなさを呪いながらも、こう言うしかなかった。
「レギオン、僕のことはいいから、早くミハイを追いかけるんだ」
年上らしく落ち着いて微笑むサンティーノに、レギオンは少しほっとしたようだ。素直に頷くと、即座にミハイを追いかけていった。
だが、理解のある大人ぶってみても、1人残されたサンティーノの心情は決して穏やかなものではなかった。
(レギオン、レギオン、ミハイを必死に追いかける君など、僕は、本当は見たくないんだ!)
抑えても抑えても吹き上がってくる火に焼き焦がされる胸を震える手で掴みしめながら、サンティーノはとっくに建物の中に消えていったミハイの面影を憎々しげに追いかけた。
「忌々しい人間め、おまえなど…早くレギオンに殺されてしまえばいい…!」
とても自分のものとは思えない暗く深い怨嗟のこもったその呟きに、サンティーノは次の瞬間呆然となった。
(嘘だ、こんなことを僕が考えるなんて…)
サンティーノはすぐに恥じ入って、絡み付いてくる嫌なものを振り払うかのごとく頭を振った。
(ああ、でもきっと僕の本音なのだろう。僕はミハイに嫉妬している。ミハイには何の罪もないけれど、レギオンがあんなに真剣に彼を追いかけるから…)
人間でありながら、あれ程美しく、同時に強靭な精神も備えているミハイ。類稀な歌声で、レギオンまでも魅了してしまった素晴らしい歌手。悔しいが、サンティーノの奏でるリュートには、結局のところレギオンはああまで反応しなかったのだ。
(レギオンが選んだのがミハイでなければ、僕はここまで悔しさや焦りを感じなかったのかもしれない。唯一の取り得の音楽でも、恋でも…人間ごときに敵わないとあれば…)
切なさに胸を締め付けられながら、レギオンのせいで乱れてしまった服を直し、サンティーノは哀しげにぽつりと呟いた。
「レギオン、君と出会うまでは全く気がつかなかったよ。僕は、こんなにも嫉妬深かったんだね」
一方その頃、レギオンは、怒ったように早足でヴィラの人気のない廊下を歩いていくミハイに追いつき、必死になって引きとめようとしていた。
「き、君とここで会えるなんて夢にも思ってなかったよ。夜会に呼ばれたのかい? 私は、一族からの呼び出しを受けて、たまたま戻ってきていたんだが、偶然だな…」
レギオンはなるべく自然を装って呼びかけるようとするが、その声は緊張のあまり掠れていた。実際、レギオンの心臓は胸の中で爆発しそうになっていた。よりにもよってあんな場面をミハイに見られてしまうなどと、間が悪いと言うにも最悪だ。なまじレギオン自身、あの一瞬サンティーノに対して本気になっていただけに、非常に後ろめたく、きまりが悪く、彼にしては珍しいほどの動揺を覚えていた。
「ミハイ、立ち止まってくれよ」
レギオンはミハイの後ろをついて歩きながら冷ややかなその背中にしきりに声をかけるが、ミハイは答えず、振り返りもしない。
レギオンは焦りに駆られて思わずミハイの怒らせた肩に手を伸ばすが、それでどんな激烈な反応が返ってくるかと思うと不安で、どうしても掴むことができなかった。
「わ、私に会いに来てくれたんだろう? 頼むから、そんなふうに無視しないで、せめて話だけでも聞いてくれ!」
レギオンの情けない懇願に、ミハイは唐突に足を止めた。
「君の話など聞いて、一体何になる?」
ミハイは低い声で吐き捨てると、肩越しにレギオンを睨みつけた。
やっとまともに口をきいてくれたと安心できるどころか、その深い憤りをはらんだ顔を見ると、レギオンはどうすればよいのかますます分からなくなった。いつかの夜にミハイとの間に感じられた親密さの欠片もそこにはない。
「ミハイ、君は誤解をしている」
「言い訳なんて、女々しいぞ。あんなふうに熱烈に抱き合える恋人がいるくせに、僕におかしな誘惑をかけてくるなんて、君は本当に芯から多情なんだ。もう、今度ばかりは腹に据えかねたよ。もしかしたら君は本当はいい奴なのかもしれないなんて、少しでも考えた僕が馬鹿だったんだ」
レギオンは目をぐるぐる回しながら、上擦った声で叫んだ。
「違う! サンティーノは恋人なんかじゃない、ただのと…友達だっ!」
瞬間、サンティーノの悲しそうな顔が脳裏にうかび、レギオンは言葉を詰まらせた。赤くなって、思わず目を伏せた。
「へえ。すると君はただの友達とああいう破廉恥な行為に及ぶのかい。そういう『友達』なら、君はあちこちにたくさん持っているんだろうね。それが君の流儀なら、別に構わないさ。勝手にすればいい。だが、君のその忌々しい交遊にこの僕まで巻き込むな!」
レギオンのサンティーノに対する躊躇いを鋭く感じ取ったのだろう、ミハイはついに切れた。おろおろと伸ばされたレギオンの手を振り払うと、ミハイは火を噴くような口調で彼を罵った。
「いい加減で軽薄な色事師のくせに、愛しているなどとふざけた言葉をよくも僕に吹き込んだな! その同じ口で、一体何人に同じことを囁いて、たらしこんだ? 君にとっては軽いお遊びの1つにすぎないのかもしれないが、そのおかげで僕がどんなに迷惑したか。おかしな噂をたてられ、今までうまくいっていた枢機卿との信頼関係ももうめちゃくちゃだ。君のおかげで猊下に誤解をされてその怒りをかい、館に閉じ込められた僕がどんなに不自由でやりきれない思いをしたことか。僕は…僕は、この10日間というもの、ずっと君のことを―」
ミハイは怒りのあまり震える唇を噛み締め、迸りそうになった激しい言葉を飲み込むと、頭を荒々しく振りたてた。ぎらりと殺気だった目をレギオンに向けた。
「愛だって? そんなもの、僕は知らない! 知りたいとも思わない。男であれ女であれ、誰彼構わず、節操なく生じる君の愛など、僕は全く欲しくなどない!」
ミハイは拳を握り締め、今にも殴りかからんばかり勢いでレギオンに迫った。その迫力に思わずたじたじとなってレギオンは後じさりする。
「君の言うことなど、僕はもう信じない。君など、さかりのついた犬同然だ。いや、犬の方が君よりまだましだとも!」
レギオンはごくりと喉を鳴らした。
「そ、そこまで言う…」
いつもの毒気もすっかり抜かれ、レギオンはミハイを哀しそうに見つめることしかできなかった。
これほど激昂したミハイを見るのは初めてだ。目はつりあがって爛々と燃え上がり、怒りのあまり歯は剥き出され、獲物に襲いかかるヴァンパイアでさえ、ここまで狂暴にはならないだろう。はっきり言って、恐い。
ミハイは荒れ狂う激情にすっかり消耗したかのように大きく肩で息をついた。そうして、これ以上レギオンの相手をすることには我慢ならないとばかり、いきなり背中を向けるとそのまま何も言わずに歩き去ろうとした。
レギオンはうろたえた。彼の意地や誇りなどというものは、この瞬間、どこかに吹き飛んでしまった。
「ミ、ミハイ、行かないでくれ! 君の言うとおりだ、私が悪かった。何でもするから、許してくれ!」
己のみっともなさにくらくらしながら、レギオンはとっさにミハイの服の袖を掴んで、引きとめようとした。
「何でもする、と?」
ミハイは冷たくレギオンを見据えた。
「あ、ああ…」
「なら、もう僕に付きまとわないでくれ!」
最後通牒を叩きつけると、ミハイは荒々しくレギオンの手を振り払い、呆気に取られて立ち尽くす彼をそこに残したまま、嵐のように憤然と立ち去っていった。
レギオンはもう何もできず、両手を体の脇にだらりと垂らしたまま、建物の奥に消えていくミハイの姿を見送った。
そうして、しばらくの間魂を飛ばして力なく佇んだ後、レギオンはいきなり激しく足を踏み鳴らし、金色の頭をいらいらと両手でかきむしった。心底嫌気が差したというように吐き捨てた。
「あああっ…全く、一体何をやっているんだ、私は!」
その夜の宴でミハイは唄うことになっていたのだが、レギオンとの言い争いの後、彼は『体調を崩した』との理由で急遽オルシーニ邸に引き返してしまった。
レギオンの予想したとおりだった。
ミハイの潔癖な性格を考えるまでもなかった。レギオンは、せっかく自分に対する淡い信頼の芽を育んでくれていたミハイを手ひどく裏切ってしまった。
そして、今ではレギオンも理解できるようになっていた、ミハイは裏切りを決して許さない武人の魂を持つ男なのだ。