天使の血
第四章 影に唄えば
三
スペイン宮廷がミハイの歌手としての評判を聞き、彼を欲しがっている。そんな噂がこの頃流れるようになっていた。
(宮廷礼拝堂の主席歌手として是非とも迎えたいと破格の条件が示されたらしいぞ)
(確かに、あの声ならば、どこの国の宮廷だろうと十分に通用するだろう)
(それは名誉なことですわね。けれど、ミハイは教皇庁の礼拝堂で歌うという最高の名誉を既に得ています。その職を捨てて他の国に行かれるというのも、あまり気分のいいものではありませんわ。あの声を聞けなくなるのは嫌ではありませんか? ここはミハイのパトロンのオルシーニ枢機卿に何としてもミハイを引き止めてもらわなければ)
(誰に頼まれずとも枢機卿はミハイを手放しはなさらないだろう。ミハイの歌声に一番惚れこんでいるのは、何と言ってもあの方だからな)
そんな囁きは、身分の高い者達の集まる夜会でも頻繁に交わされていた。
ミハイが歌を披露する予定になっている集まりにおいては、特に噂の真相を探り出そう、ミハイの様子から真実を読み取ろうとする好奇心や猜疑心に満ちた目や口がかしましいほどだ。
そして、この夜もまた―。
「今夜は歌わなくともいいとは、どういうことだ?」
オルシーニ家の夜会の恒例となっている演奏に今宵も参加するつもりでいたミハイだったが、己の出番を待って控えていた部屋に慌てた様子で入ってきた従僕の言葉に唖然となった。
「僕が歌うということは、招かれた客人たちにもふれこまれているのだろう? それなのに急に予定が変更になったなどと聞かされたら、せっかく楽しみにしてくれている人達を落胆させることになる。それに今夜は教皇猊下や各国の外交使節の方々も見えるから、心して歌うように申し付けられていたというのに…一体どうして、そんな―」
その気になって準備もしていたというのに何の説明もなく歌を取りやめろとはミハイには納得できず、物腰は丁寧だか本音の見えない枢機卿の従僕を鋭く追及した。
「僕の歌は枢機卿の外交にも役に立っていると自負している。それを一方的に取りやめろというからには、僕にも納得できる説明をしてもらわなければならないよ」
何となく裏があるような気がして、ミハイはうやむやにはしたくなかった。
「あなたは枢機卿お抱えの歌手でございます。猊下の判断に異論を唱える立場にはございません」
慇懃な口調で答える従僕に、ミハイは細い眉を跳ね上げた。
「成る程」
ミハイは椅子から立ち上がると、従僕の傍を無言で通り過ぎ扉へ向かった。従僕は少し慌てた。
「どこに行かれるつもりで?」
ミハイはためらいもせずに言った。
「君が答えないのならば僕が自分で確かめる。枢機卿は今ホールにいらっしゃるのだろう? 客人達と談笑中なのを邪魔するのは申し訳ないが、仕方がない」
「そ、それはなりません! ミハイ様、ホールになどお出にはならず、どうぞこのままお部屋にお帰り下さい」
冷静な従僕の動揺ぶりを、ミハイは聡明な目でじっと観察した。
「僕をホールには行かせたくないんだね? 僕が会ってはまずい人間がいるということなのかな? 歌うなというのも、つまりは…成る程、そういうことか」
思い至った考えに、ミハイの青い瞳が暗く翳り、唇には皮肉な笑みがうかんだ。
「スペイン絡みだろう? まさか枢機卿があんな噂を信じるとはね」
この男にそんな恨み言を言っても仕方がないとは分かっていたが、あんまりやりきれなくて、ミハイはついとめられなくなった。
きっかけは2ヶ月ほど前、教皇庁でスペインの外交官・トーレス伯にミハイが出会ったことだ。教皇主催の礼拝で歌うミハイの声に感動したと熱心に褒めた後、彼はミハイに尋ねた。ローマを離れる気はないか。スペイン宮廷では新たに楽団を編成するため才能ある音楽家を探し求めている。ミハイならば自信をもって推挙できる、と。
ローマを離れるつもりはないと明言するミハイに外交官はその場は引き下がったのだが、その後も別な宴席で何度か同じ申し出を受け、ミハイが断るということがあった。それが人の口に上り、いつの間にかミハイがスペイン宮廷に行くの行かないという噂になったのだ。
「ご明察…でございます。そこまでお分かりならば、いっそ話は早い。どうか猊下のお気持ちを察して、今夜の所は客達の誰にも会わずそっとお帰り下さい」
「猊下の気持ちだと?」
ミハイは情けない気持ちで胸が一杯になっていた。
「あの方は僕を信じては下さらないのだろうか。僕が恩のあるあの方を裏切って、他のパトロンを求めると本気で考えて―」
「猊下は決してミハイ様を疑っておられる訳ではありません。噂のことも、初めは取り合っておられませんでした。ですが、やはり周りがうるさく言い立てるのに迷いを抱かれたのでしょう。実は今夜トーレス伯がスペイン宮廷の楽師長をお連れになりまして…各国を回って優秀な音楽家を集めているという人物です。どうやら彼にあなたの歌を聞かせようという魂胆のようなのです。それで猊下は不愉快な気持ちになられたのです。スペインが思ったよりもあなたの獲得について本気であると不安に駆られたのでしょう」
ミハイはしばし扉の前に立ち尽くしたまま、じっと考えをめぐらせていた。哀しげに頭を振った。
「それでも僕は猊下には信じていただきたかった。こんな馬鹿げたことを人づてにただ命じるのではなく、直接猊下の口からどこにも行くな、ここで歌い続けて欲しいと乞われたのならば、僕は喜んで受け入れただろうに」
ミハイの葛藤に従僕は何も答えない。
「分かった。今夜は歌わないよ」
安堵する従僕を尻目に、ミハイは荒っぽく扉を開けて控え室から出て行った。
程近い所にあるホールからは人々の喝采とざわめきが聞こえてくる。器楽の演奏で盛り上がっているようだ。
「ミハイ、一体あの召使いは何を…?」
部屋の傍で控えていたハンスが、ただならぬ様子で飛び出してきたミハイに心配顔で近づいてくる。
「部屋に戻る。今夜の歌は中止だ」
「え? それは、一体、何でまた…?」
この場にこれ以上留まっているのが我慢できないというように、ミハイはホールから離れ歩き出した。その後を慌ててハンスが追ってくる。
「ミハイ、どうして―」
「枢機卿の命令さ。僕は彼のお抱え歌手だからね。彼の望むままに歌い、そして、歌わない」
皮肉たっぷりにそう言った瞬間、ミハイは以前レギオンから言われたことを思い出した。
(逃げたつもりが、実際君は別の檻の中に押し込められたに過ぎないんだ)
ミハイはふと足を止め、苦笑した。
「成る程、やはり篭の中の鳥、か」
苦く、吐き捨てるように呟いた瞬間、立ち尽くすミハイの背中によく知った声がかけられた。
「篭の中の鳥が何だって?」
はっと息を吸い込んで、ミハイは後ろを振り返った。
「レギオン…!」
一体いつの間に近づいてきたのだろう。まるで猫のように、何の気配も足音の1つさえもしなかった。
「こんばんは、ローマ一の歌い手君」
新調したのだろうか、上等そうな緑のマントにそれとおそろいの刺繍の美しい長靴を履いて、得意そうに立っている、輝くような若者をミハイは驚きをもって凝視した。
全く、そこにいるだけで暗い空気をはねのけてしまうような眩しさだ。その面差しは完全無欠であり、研ぎ澄まされた恐ろしい切れ味さえあった。
果たしてこれは魔か天使か。そんな思いがミハイの脳裏を過ぎった。
鮮やかな緑の瞳は、残酷なまでに無垢であり、それゆえいかなることもなしとげられるという確信に満ちていた。
「ホールの方を先に覗いたんだけれど、君の出番はまだのようだったから、控え室に遊びに行こうとしていたんだよ」
レギオンは親しみのこもった笑顔でミハイのすぐ前まで来て立ち止まると、無邪気に問うた。
「どこに行くつもりだったんだい? ホールとは逆の方向じゃないか?」
束の間レギオンの美しさに心奪われていたミハイは、はっと我に返ると、自戒するように唇をかんだ。
「ホールには出ないよ」
固い声で言うミハイに、レギオンは戸惑った顔をした。
「僕のパトロンが今夜は歌うなと僕に命じた。だから、歌はなしだ!」
感情を抑えていたつもりが、つい抑えかねて強い口調でミハイはそう吐き捨ててしまった。
レギオンははっと息を吸い込んだ。
「何故?」
理解しがたいというように、レギオンは首をひねった。
「スペインの使節が今夜の音楽会に訪れている。もしかしたら君もあのろくでもない噂は聞いたことがあるかもしれないけれど、枢機卿は、もしかしたら僕が口説き落とされてローマを離れスペインに行く気になってしまわないかと疑っているんだ。だから、彼らと接触させたくないのさ」
「君にはそのつもりは全くないというのに心外だということだね、ミハイ」
案外察しのいいレギオンは考え深げに頷き、端正な唇を皮肉に歪めた。
「愚かな男だ」
神のごとき顔に一瞬背筋を凍らせるような無慈悲な冷酷が過ぎって、消えた。
「君の言ったことは正しかったのかもしれないね、レギオン。少しくらい歌がうまくて皆にちやほやされているからといっても、僕は誰かに飼われている篭の鳥に過ぎない。自由に歌うこともままならないんだから」
自嘲的に言いながら、やはりそうだったのかとミハイは心の中で呟いていた。昔とは違う。今は自由の身であり、ここにいるのは己の意思だからだと自分に言い聞かせてきたけれど、本当はここでの暮らしも窮屈に感じていた。オルシーニが向けてくる愛情は束縛の裏返し。重くて、苦しくて、息がつまりそうになっていた。今更ながら、そのことを思い知らされた気がする。
「歌えよ」
唐突にレギオンが言った。
「えっ?」
ミハイはとっさに目をしばたたいて、レギオンに顔を向けた。
「別に枢機卿が主催する音楽会や礼拝堂だけが君の舞台じゃない。この世界にはいたるところに歌や音楽が満ちていて、それに耳を傾ける人々がいる。君の歌を聞きたがる人間はローマの街に大勢いるんだよ、ミハイ。今夜は枢機卿の愚かさでここに集まった客達は最高の歌を聞き損ねた。その代わりと言っては何だが、市街のローマっ子達に歌ってやれ」
悪戯っ子のようなレギオンはこともなげに言って、ミハイに向かって片目を瞑って見せた。
「夜は今始まったばかりだ。このまま帰って自分の部屋に引きこもり、歌えなかった欲求不満を抱えて一晩中悶々としているつもりかい? 馬鹿馬鹿しい! 枢機卿の命令に従ってホールでの歌はやめたが、その後君がどうするかまでは彼には関係ない話だ。さあ、一緒に夜の街に繰り出そうじゃないか」
ミハイは何かしら呆然となって、まるで光背でも帯びているかのようなレギオンの輝くばかり姿を、祭りの前の高揚にも似た楽しげな笑みに溢れた美しい顔を、その手が誘うように自分に向かって差し出されるのをじっと眺めていた。
果たしてこれは天使か魔か。
「ちょ、ちょっと待て!」
束の間呆気に取られてミハイとレギオンのやり取りを見守っていたハンスが、ただならぬ方向に流れていこうとしている状況に気づいて、慌てて話に割って入った。
「ミハイを夜遊びなどに誘わないでくれ、レギオン! 夜の市街は物騒なんだ。万が一にでも間違いが起こったら、それこそ枢機卿に申し訳が立たない」
「そのために護衛である君がいるんだろう、ハンス?」
ハンスの真面目さをからかうよう、レギオンは言い返した。
「君を置いていくなんて水臭いことは言わないから安心しろよ。それに、私は君の行きつけのあの酒場なんか、雰囲気がよくて、ミハイを連れて行くにはいいかなと思っているんだ」
「あんな下町にミハイを連れて行くのか。それこそ掃き溜めに鶴だぞ」
「ミハイには息抜きが必要なんだよ、ハンス。枢機卿は彼を縛りすぎる」
「う…む…」
レギオンの意見には共感する部分があったのか、ハンスは黙り込んだ。
「ミハイ」
いきなり振り返るレギオンに、ミハイは彼らしくもなく少し怯んだ。
「君自身の口からどうしたいのか言ってくれ。ハンスも、君が頼めば今夜のちょっとした気晴らしに付き合ってくれるよ。後は君の望みのままに、さ」
「僕の…望み…」
枢機卿の目を盗んで夜の街に脱走するなど、それこそ今夜歌えなかったことに対する腹いせのようではないかと、普段のミハイならばこんな子供じみた計画に乗らなかっただろう。
だが、どうしてか今夜は胸の奥底から競りあがってくる熱い衝動を抑えきれない。
目の前でにこやかに笑ってミハイの応えをじっと待っているレギオンが発する、言い知れぬ魅力のせいかもしれない。現れたタイミングといい、その挑発的で誘惑的な言葉や態度といい、レギオンはまさにミハイの反抗心に火をつけたのだ。
自由気ままなレギオン。何も恐れず、何からも縛られず、己の心のおもむくままに生きているかのような姿にミハイは反発を覚えたが、同時に羨んでもいた。
ミハイは慄いたように目を閉じた。
「僕は…」
オルシーニの咎めるような顔が瞼の裏に一瞬うかんで、消えた。ミハイは目を開けた。
「君と一緒に行くよ、レギオン」
そう言った途端、胸につかえていたものがすとんと下りたような気持ちがした。
「やっぱり、このままおとなしく帰ることなど僕にはできそうにない。できれば、どこかで歌いたいし、せめて今夜の埋め合わせになるような他の気晴らしを見つけたい」
レギオンの顔を睨みつけるようにしながら、ミハイはきっぱりと言った。
「ミハイ…」
ハンスが心配そうに呼びかけるのを、ミハイはすまなそうに振り返った。
「という訳だ、ハンス。これは僕の我がままだから、無理強いして君をつき合わせようとは思わないよ。後で枢機卿にお叱りを受けることになるかもしれないし、それを考えると、君はここに残って何も知らなかったことにした方が―」
「そんなこと、できる訳がないだろう!」
ハンスはミハイの言葉を遮って、叫んだ。
「あなたが外出するというのなら、もちろん俺も供をする。あなたのように目立つ人を物騒な夜の街に送り出すことなどできないし、レギオンと2人きりにするのも心配だ。断られても、ついていくとも」
気遣わしげに互いに見詰め合う2人の傍で、レギオンが満足そうに両手を打ち鳴らした。
「さあ、話はついたなら、早く出かけよう。時間が惜しいよ。いつだって楽しい一時というのはあっという間に過ぎてしまうんだから」
ミハイはためらいがちにレギオンを見、ちょっと顔を赤らめて、うつむいた。
「何だか、君にうまく乗せられた気もするな」
「いや、君が望んだんだよ、ミハイ。私はただきっかけを与えたに過ぎない」
夜の街は冷えこむからとハンスが持ってきたフードつきの黒いマントを深く暗い藍色の長衣の上に羽織って、ミハイは館の裏にある通用門からそっと外に出た。
レギオンを先頭にして、3人はしばし無言で歩いた。
灯りの煌々と燃えるオルシーニ邸を後にし、幾つかの広場を通り抜け、迷路のような通りへと彼らは分け入っていく。ところどころしか砂利のしいていない一番広い通りは、ランプや隣り合った家の窓から時折もれてくる光にそこかしこを照らし出されていた。
ほとんど店の閉まった商店街を通り抜けると、暗くなってからいよいよ賑わいをます居酒屋や娼家のひしめく下町にたどり着いた。
ローマに暮らすようになってもう4年になるミハイだが、こんな猥雑な場所に来たのは初めてだった。
客を誘うように開いた酒場の口からはもうもうとけむった灯りがひらめきで、黄土色の雫が歪んだ格子窓や鎧戸からにじみ出ている。
食いもの屋のかまどで焼かれるパンや肉の臭いが、通りを行きかういかがわしい人々の体臭に混じる。
熱いランタンの光の下、死にかけた薔薇のような暗い赤色の娼家の壁、そこかしこに立つ黒い人影。
ふいに、きつく締め上げた胴着から白い乳房を咲かせた女に微笑みかけられて、ミハイは慌てて視線を逸らした。
「ミハイ、随分と緊張しているようだね?」
顔を上げると、レギオンのからかうような顔があった。ミハイはきっとなった。
「大食と肉欲の罪にあふれた場所だと思って、驚き呆れているんだよ。果たしてキリスト教世界の中心であるローマは悪徳の都でもあったのか、とね」
「ああ、ああ、やめておけよ、君の枢機卿あたりが言いそうな、そんな下らない世迷いごとは。せっかくの気晴らしが、白けるよ」
ミハイはぐっと言葉に詰まった。確かに、ここに来たいと言ったのは彼自身だった。
「ここだ」
うっそりとハンスが言って、一軒の居酒屋の木の扉を押し開いた。途端に、店内に立ち込める酒や食べ物のにおい、そこに集いひしめく男達の騒ぎ立てる陽気な声がどっと押し寄せてくる。ミハイは一瞬気後れしたように入り口で立ち止まった。
「来いよ」
そんなミハイの手をレギオンが取って引っ張る。ミハイは僅かに瞳を揺らして、彼を見た。
「大丈夫だからさ」
優しくなだめるように言うレギオンには、ミハイの不安が分かっているのだろうか。
「レギオン…僕はもしかしたら間違っていたのかもしれない」
ミハイはレギオンの後ろにちらっと目を向けた。酒を飲んで仲間たちと口角泡を飛ばして熱心に話し合っている中年男達、さいころ遊びに夢中な若者達、テーブルの傍を通りかかった若い給仕女の尻を触って笑い声をあげている痴れ者。こんな男臭い熱気の立ち込める場所にミハイが入っていってもういてしまうだけだ。
「僕はあまりにも彼らとは違う。とても受け入れてなどもらえないだろう。変な目で見られるか、胡散臭く思われて無視されるか、いずれにしろ僕なんか場違いなんだ」
レギオンは眉を跳ね上げた。その顔が急に真剣なものになった。
「ここまで来て怖気づくのか? 試しもしないうちから、どうせ駄目だと諦めるのか?」
「レギオン…!」
「自分だけが人間社会の中のただ一人の異端だと思う被害者妄想はよせ」
「君には分からないことだよ、レギオン」
「いや、分かるさ。私だって、素顔をさらしては生きていられない身だからね、君らの世界の中では」
レギオンの輝くような顔に一瞬うかんだ見知らぬ表情、ひどく非人間的なぞっとするものにミハイに微かに身を震わせた。だが、それはすぐに消えた。おそらく、この場所に蠢く怪しい暗がりと揺らめく灯りが作り出した錯覚だったのだ。
「また少し意味は違うが、少数派というのなら、この店にいる男達の大半はそうだよ。ハンスと同じスイス人傭兵や外国から流れてきてローマに住み着いた連中だ。この異郷の町で自分の居場所を作るのに、それなりに苦労してきたのさ、皆」
ミハイはもう一度店内に視線を向けた。温かそうな灯り、笑い声に、サイコロを振る音。そう、別に鬼の巣窟という訳ではない。
大きく息を吸い込むと、ミハイは意を決して、店の中に入っていった。
心配そうに待っていたハンスに頷きかけると、彼は奥のテーブルにミハイを導いていく。
「よお、ハンス。今夜はその金髪の坊やも一緒か」
「久しぶりだな、レギオン。後でこっちのテーブルにも来いよ」
途中でハンスの顔見知りが親しげに声をかけてくる。ミハイはまた少し緊張を覚え、マントのフードの下に顔を深く隠したまま無言でテーブルにたどり着くと、なるべく他の客達には見えない壁際の席に腰を下ろした。
「こんばんは、ハンス」
店の主人がやってきてハンスの肩を叩き、レギオンに向けて笑いかけた。
「相変わらず輝くような男前だな、レギオン。それから、ええと、こっちのお友達は初めて見る人だね…?」
ミハイは一瞬躊躇った後、フードを下ろして、幾分ぎこちなく主人に微笑みかけた。主人が一瞬戸惑ったように瞬きをしたのでミハイは顔を赤らめたが、すぐさまレギオンが助け舟を出した。
「彼は歌手なんだよ」
「へえ、歌手かい…おや、すると、まさか…?」
主人は問いかけるような顔をハンスに向けた。すると、彼は重々しく頷き返す。主人は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに楽しげな笑顔になって、ミハイに向かって陽気に言った。
「うちの店にあんたみたいな人が来てくれるとは嬉しいね、歌い手さん。気が向いたら、後で何か歌ってくれよ。店が落ち着いた時は俺もリュートを弾いてお客さんに聞かせることもあるんだが、今夜はとてもそんな余裕はない。おまえさんが歌ってくれたら、皆、喜ぶだろうと思うよ」
ミハイがあいまいに頷き返すと、主人はにこやかに注文を取って店の奥に引っ込んだ。
ミハイはほうっと息をついた。
「君がそんなに人見知りをするとは知らなかったな、ミハイ。いつもの強気な君はどこに行ったんだい?」
ミハイは束の間レギオンを鋭く見据えた後、溜め息混じり頭を振った。
「仕方がないよ。君の言ったように、確かに僕は怖気づいている。でも、どうしようもない。克服しようとどんなに努力しても、この劣等感は僕にずっとついてまわるんだ」
思わず口にした後、ミハイは当惑した。男でも女でもないあいまいな性にあるという引け目について、こんなにもあっさりと他人に話してしまうなどと、自分らしくないと思った。
「君はそのままでも充分素晴らしいと言っているのに。君の歌を聞けば、皆、そう思う」
率直に言うレギオンから、ミハイはそっと視線を逸らした。
そうするうちに、ワインと肉の焼いたものやパン、乾果が運ばれてきた。
「ミハイの素晴らしい声に」
レギオンが最初にワインの杯を掲げた。
「そして、忌々しいオルシーニのおかげで持てた、思いがけないこの一夜に」
ハンスも苦笑しつつ杯を掲げる。ミハイは黙って、ワインに口を付けた。
向こうのテーブルの知り合いに呼びかけられて、レギオンが椅子の背もたれに腕をかけるようにして後ろを向きしばし他愛のない言葉をかわすのを、ミハイはぼんやりと聞いていた。
(レギオンはこんな所にも友達がいるんだ。物怖じしない、人懐っこい彼のことだから、いつでもどこでも誰とでもすぐに親しくなってしまうのだろうな)
ようやく気持ちが落ち着いてきて、ミハイはぐるりと店の中を見渡し、確かに北方系の顔立ちが多い客達や忙しく動き回る給仕女達の様子を物珍しげに眺めた。こんなふうに下町の酒場で男達に混じって酒を飲む自分など想像したこともなかった。興味がなかったわけではない。もしミハイがこんな体でなく普通の青年であったなら、夜遊びや少しくらい羽目を外した馬鹿騒ぎもやっていただろう。
(うらやましいな、レギオンが…)
ミハイが少し感傷的な気持ちになった時、知り合いとの会話を終えたレギオンが振り返った。
「さてと、ミハイ」
「何だい?」
眩しいものを見るような切ない気分で、ミハイは首をかしげた。
「その…スペインの申し出のことなんだが、本当に真剣に考えてみるつもりはないのかい?」
「その話か…」
「いや、私が差し出口を言うのもなんだが、本当によい条件の話なら、別に枢機卿への義理立てにこだわらずに考慮してもいいんじゃないのか? それとも、せっかく住み慣れた土地を離れてまた違う国に行くことや言葉などの生活上の不便を考えて気が進まないとか?」
ミハイが答えることを躊躇っていると、それまで黙って麦酒を飲んでいたハンスが代わりに口を開いた。
「ミハイはスペイン語を含む数ヶ国語を話せる。貴族や王族の相手ができるくらいの教養も持っている。彼ほどたくさんの本を読んで勉強している貴族の子弟はいないだろうし、美しいラテン語の文章を書ける者は教皇庁にだって少ないと枢機卿も言われたくらいだ」
「へえ」と、レギオン。
「僕にも歌で身を立てようという気持ちはずっとあったからね。実際これしか僕がひとかどの者になる術はなかったんだが…どうせならば片田舎の教会で歌う無名の歌手ではなく、この声で到達できる一番の高みまで登りつめたかった。そのためには歌の技術だけでなく、どこの国の人間であれパトロンになってくれそうな高い身分の相手に自分を売り込む方法や馬鹿にされないくらいの知識も必要だと思ったんだ」
「大したものだよ、君のその生きることへのひたむきさは…私も少しは見習わなければならないかな」
レギオンが心底感心したように言うのに、ミハイは照れくさくなって話を元に戻した。
「スペイン行きのことなんだが、枢機卿に対する僕のこだわりの他にも、僕には躊躇う理由が実はある。なかなか難しいんだ…僕のような声、僕の歌は、とても特殊なものでもあるから…フィレンツェやローマ、これまでのところ僕は成功してきたけれど、別の国に行って、そこでも同じように受け入れてもらえるかは分からない。去勢歌手という事実はまず伏せなければならないだろう」
「だが、君の声を聞いて感動しない人間などいないはずだよ、ミハイ」
「レギオン、実を言うとね、このローマでさえ、僕の歌に対する異論がないわけじゃないんだよ。教皇庁の一部では、僕の声はあまりにも官能的であり、僕の歌い方は異教的でさえあるという意見があるんだ。グレゴリゴ聖歌は定められたやり方で歌わなくてはならない、余計な装飾はつけてはならないし、歌によって会衆が過剰な感情をかきたてられるようなことは教会にはふさわしくないとね。確かに僕の声は異質だし、歌い方が異教的と言われても仕方がないかもしれない。僕に初めに歌を教えたのは母だったが、ちゃんとした声楽の訓練を受けたのはコンスタンチノープルの異教徒どもの宮殿だからね」
この話を聞くと、レギオンは不愉快そうに顔をしかめた。
「これだから、朴念仁の坊さんは嫌いなんだ。何かと理由をつけて、あらゆる快楽を禁じようとする」
「そんな反対論は今の所一部だけれどね。ローマの人たちはどちらかというともともと享楽的なのだろう。だが、国が変われば人の気質も変わる。だから今の地位を投げ打ってまでスペインや他の国に行くのは僕にとっても冒険なんだ。でも、状況が変われば話は別だよ。ここで歌うことが難しくなれば、僕は他の国に移るだろう。様々な条件を考慮して交渉を重ねて、自分にとって一番いい選択をするつもりだよ」
「成る程、説得力のある話だよ。何と言うか君はとても現実的なんだね、ミハイ。枢機卿のことも、自分を犠牲にしてまで忠義を尽くそうなんて馬鹿げた考えに捕らわれている訳ではないと知って、私はほっとしたよ。今夜、あいつが君にした仕打ちを考えるにつけ、そんな畜生に君が飼われているなんて、憤懣やるかたない気分だったのだが…いっそこのまま件のスペイン公使殿のもとに君を引っ張っていって、宮廷付き歌手の申し出を受け入れさせてやろうかなんて思わないでもなかったんだが…」
「レギオン、レギオン…」
「先走らないでよかったよ。君は自分の道は自分で切り開ける意志と聡明さを持っている。だが、もしも…君1人ではどうすることもできないような事態に陥って、誰かの力が欲しい時は、迷わず私を呼べ。必ず、すぐに駆けつけて、君を助けるから」
真顔になってじっとミハイの目を覗き込むレギオンは、ほとんど信じそうになるくらい誠実で真実そうに見えた。用心深いミハイだが、ふと心がぐらつくのを覚えた。
「危なくなったら駆けつけるなんて、いい加減な約束をするもんじゃないぞ、レギオン。大体、おまえさんのような世間知らずの坊やに一体何ができるというんだい?」
ハンスに突っ込まれると、レギオンは悪びれもせず歯の根のうきそうなことを言ってのけた。
「何だってできるさ。愛のためなら」
やはりまともに聞いたのが間違いだった。背中の辺りがむずむずするのを感じながら、ミハイはワインの杯をあおった。
どこかでリュートの音が聞こえた。
顔を上げると、客にせがまれたのか、先程の店の主人がリュートで短い曲を弾いてみせている。だが、やはり忙しいのかリュートを客達の手に渡して、自分は再び奥に引っ込んでいった。若い客達は玩具のようにリュートをちょっと爪弾いては別の友人に手渡している。
「ああ、リュートか…」
レギオンがふと遠い目をして呟いた。
「まだほんの3、4ヶ月くらい前のことなのに、すごく昔のことのようにも思えるな。私はとても一生懸命にリュートを覚えようとしたことがあったんだよ。リュートのうまい友人に教えてもらってね。意中の女性に聞かせようと思ったんだが、期待ほど上達はしなかったので、代わりに歌を歌ったんだ。無理やりサンティーノをつき合わせてリュートを弾かせて、ブリジットの窓の下で歌った…あれは本当にあったことなんだろうか。今思うと、何だか夢のようだ…」
そんな気障なことまでしていたのかと、ミハイは呆れた。レギオンならやりかねないが、待て、3、4ヶ月前というと、ミハイと出合ったあたりのことではないか。
「君にそんな…意中の女性がいたとは知らなかったよ、レギオン。で、その人とはどうなったんだい?」
何となく面白くなくて、ミハイは冷たい声で言った。
「ああ、それが振られたんだ。振られたとすら言えないのかも知れない。彼女は私に優しく接してくれたが、それはまるで母親が子供に対するようなもので、私はまともに相手もしてもらえなかった。でも、仕方がないと思ったよ。私はまだ全く彼女にはふさわしくなかったし、だから、すっきりと諦めたんだ」
「そのしばらく後に僕を見つけてさっさと鞍替えすることにしたのかい? 気持ちの切り替えが早いんだね」
「別に二股をかけたわけじゃないから、構わないじゃないか。今は、君一筋だよ」
にやにや笑いながら軽い調子で言い返すレギオンに、ミハイはテーブルの下でぐっと拳を握り締めた。この軽薄男の腐った性根を叩きなおすには、とことん体で覚えさせるしかないのか。だが、こんな所で暴力沙汰を起こすほど、ミハイは子供ではなかった。
「レギオン、さっき、その女性に歌って聞かせたと言ったけれど…君は歌えるのかい。それなら、是非、一度聞かせて欲しいな」
意地悪な気持ちでミハイが言うと、レギオンは神妙な面持ちで考え込んだ。
「…君の前では歌いたくない」
ミハイは笑った。
「では、リュートを弾けよ。君の軽いおしゃべりを聞くよりは、きっと楽しめるだろう」
ミハイの毒舌にレギオンはちょっと唇をすぼめたが、肩をすくめて椅子から立ち上がり、そろそろリュートで遊ぶのにも飽きてきた若者達のテーブルに向かった。
「ふうん、レギオンにリュートが弾けるとはね」
ハンスが興味深げにレギオンの姿を目で追った。
「女の気を引くために付け焼刃で覚えたリュートだ。どうせ大した腕じゃないよ」
ミハイの声にこもった険に、ハンスはびっくりしたように瞬きをした。
そうこうするうちに、若者達からリュートを譲ってもらったレギオンが戻ってきた。彼は自分の椅子をミハイの傍まで持ってくると、そこに座って、リュートを抱えた。ミハイに向かって、にやりと笑って片目をつむった。
「大した腕じゃないかどうかは、聞いてから判断してくれよ」
店内のこのざわめきの中で、あの悪口が聞こえたのか。ミハイはひやりとした。
レギオンが最初の和音をかき鳴らすと、店内の喧騒が少し静まり、別のテーブルから幾つかの顔がこちらを向いた。
明るく軽快な旋律が流れ始めると、更に多くの顔が、花が太陽の方を向くようにこちらを振り返り、遠くのテーブルでは何人かが立ち上がった
初めはあまり意味のない美しい和弦を手慣らしのようにかき鳴らしていたレギオンは、ふいに1つのメロディーをつむぎだした。多くの人々に広く親しまれている俗謡だ。一瞬店に下りた静けさは、すぐに喝采と一緒に歌を口ずさむ声に代わられた。
レギオンのしなやかな指は弦の上をためらいのない正確さで動いた。その指先が作り出す音色は美しく、巧みで、こんな下町ではめったに聞かれない全く見事なものだった。
レギオンはリュートを弾きながら、体で楽しげにリズムを取り、今や自分を取り囲むようにしている客たちに向かってにこやかに笑いかけ、愛敬を振りまいている。リュートだけでなく、レギオンの演奏する様子を見ていると、祭りのただ中にいるかのように一層人々はわくわくするのだった。
ミハイは半ば呆気に取られて、レギオンの実際見事と言うしかない演奏を聞いていた。
「へえ、レギオンはなかなか大した演奏家じゃないか。剣の腕前についてもそうだったが、全く、いつも驚かせてくれる」
ハンスまでもが感心したようにしきりに頷いている。
ミハイは、何だか騙されたような気分だったが、それでもとにかくレギオンはリュートもうまいということは認めざるをえなかった。
レギオンがひとまず曲を終えると客達はしきりに手を打ち叩いて、次の曲を求める。それへ愛想よく軽く頷きかけると、レギオンはミハイを振り返った。
「ミハイ」
レギオンは、ミハイに向かって誘いかけるような手振りをしてみせた。
「今度は君の番だよ。その素晴らしい声で皆を喜ばせてやれ」
「えっ?」
ミハイの答えも聞かずにレギオンは椅子から立ち上がって、大いに盛り上がってレギオンの次の演奏を待ち受けている客達に向かって優雅にお辞儀をしてみせた。
「さて、皆、そろそろ曲だけでなく歌が聞きたくなってきたのじゃないかな? 実は、今夜はここに素晴らしい歌い手が来ている。全く、君達は幸運だよ。何しろローマ一の声が聞けるのだからね。いやいや、もちろん御代はいらないよ。ただ、彼の歌を聞いてそれにふさわしいと思うだけの拍手喝采を送ってくれ。君らの喜びが大きいほど、彼の歌にも熱が入るだろう。しかるべき舞台では自由に歌うことを許されず、しょげかえっている小鳥を皆で励ましてやってくれ」
客達にはもちろん何のことだか分からなかったろうが、レギオンがにこやかに拍手を求めて手を叩くのにならって、手を打ち鳴らし、口々に叫んだ。
「そうだ、歌を!」
「歌ってくれよ、綺麗な歌い手さん」
ミハイは戸惑いながら、いまや自分に向かって歌をせがんでいる男達を見渡した。それから、美しい顔に楽しくて仕方がないというような笑みを湛えて、誘うような眼差しを送ってくるレギオンを見た。
「さあ、始めるよ」
レギオンはいきなりそう言うと、リュートをかき鳴らし始めた。街中ではやっている他愛のない恋歌だ。わっと客達が歓声をあげる。
「さあ、ミハイ、歌えよ」
レギオンは微笑みながら、戸惑うミハイに向かって頷きかけた。
「君はいつも強引だな!」
ミハイは腹をくくった。椅子から立ち上がって客達の方を向くと、大きく息を吸い込み、レギオンの伴奏に合わせて歌いだした。
時の移ろわぬうちに僕と踊っておくれ、恋人よ
僕らの思うよりはるかに早く時計は進む
その身を惜しむのは馬鹿げたこと
時が進めば僕らの恋も色あせ、君の胸に咲く薔薇もしおれるゆえ
今この時にこそ、踊っておくれ
今まで聞いたこともないような信じがたい声に、客達は一瞬ぽかんとなった。それから感嘆の溜め息を漏らしたり、興奮して手を打ち鳴らしたりして、ミハイの歌を熱心に聞き始めた。
給仕女達までもが手を止めてミハイの歌に陶然となり、店の奥からは先程の主人が何事かと顔を覗かせる。
本格的な訓練を受けた歌い手の歌を聞いたこともほとんどないのだろう、ミハイの名人技に下町の男達は喉が渇いていた所に冷たい水を与えられた人のように夢中になり、目を輝かせて聞き入っている。
ミハイが一曲歌い終えると興奮した男達は皆立ち上がって手を叩き、口々にミハイを褒めちぎった。
「すごい声じゃないか。全く信じられないよ!」
「全く、いいものを聞かせてもらったぜ。命の洗濯さ」
いつもは上品で洗練された聴衆相手に歌うばかりのミハイには、彼らの示すような率直で直截的な反応は新鮮でそれゆえ胸に響いた。
「…ありがとう」
ミハイは頬を紅潮させて、はにかんだように微笑んだ。
「さて、次は何を歌う?」
傍らのレギオンが楽しげにミハイに尋ねる。ミハイは、まるでレギオンや他の客達の高揚した気分が伝わってきたかのように、己の胸に熱い火が灯るのを感じた。
「そうだな…では、いつも僕によくしてくれるハンスのために一曲歌おう」
いきなり名前を言われてびっくりしているハンスの方を見やると、ミハイはレギオンに素早く曲名を伝え、そうして再び歌い始めた。
ハンスの出身地の歌をドイツ語で。すると彼と同じ地方の出と思しき男達がどよめき顔を輝かせた。
故郷に残してきた恋人を想う、懐かしく優しい、物悲しくもあるが、それでいて明るいミハイの歌に、屈強な男達はそれぞれの追憶に捕らわれながら耳を傾けている。
ハンスもやはり残してきた家族か恋人を思い出しているのか、顔をうつむけ、静かに目を閉じている。
ミハイは己の胸にわきあがった小さな熱が次第に燃えさかる炎となり、体の隅々まで巡りだすのを感じた。傍らをちらりと見下ろすと、レギオンがリュートを奏でながらミハイに向かって目で微笑んだ。
(レギオン…)
なぜか胸の鼓動が急に早くなったが、その感情の昂ぶりもミハイはまた歌に変えた。ミハイの歌が高まるのにあわせて、レギオンのリュートも更に美しく、熱がこもって鳴り響いた。レギオンは、複雑で早い和弦を奏でミハイの声に絡みつきながら、見事な旋律を紡ぎ続ける。
(僕は歌っている。僕が何ものであるかなど知らない人々の前で、ただ心の赴くがままに好きな歌を自由に…)
次第にミハイの声は深く大きくなり、辺りに響き渡らんばかりに高まっていった。彼のほっそりとした体から溢れ出す豊かな歌声は、店の中一杯に広がり、外にまで流れていく。いつの間にか、店の戸口が開いて、そこから大勢の人々が店の中を覗き込み、窓の向こうにも同じような人々が立って、ミハイの歌に聞き惚れている。無骨な顔に似合わないうっとりとした表情をうかべた髭面の男、そっと目元を手で押さえる艶かしい娼婦、きらきらと目を輝かせている客引きの少年。
いつの間にかミハイの歌が終わっても、人々はしばし身動き1つしなかった。やがて、誰かが手を叩くのに、はっと我に返ると、人々は割れんばかりの拍手をミハイに送り、喜びの声をあげた。
「ミハイ」
レギオンが立ち上がってミハイの肩を抱き寄せ、囁いた。
「見ろよ、君の声に対する掛け値のない人々の感激を。私の言ったとおりだろう。君の歌を聞いて夢中ならない人間はいない。君が何ものであったとしても、この感動の前には意味がない。君の声にはそれだけの価値があるんだ」
ミハイは呆然となってしばし熱狂する人々を眺め、それから人々が寄せてくる感動を受け止めきれないかのようにぶるっと身を震わせた。
「長い間忘れていたような気がする…歌うことの、こんな楽しさを…」
ミハイの顔に自然と笑みが咲き零れた。その様子をレギオンが何かしらはっとした顔で見守っている。
「もっと歌いたい」
ミハイは無邪気な子供のように言った。レギオンの腕に手をかけ、僅かに見開かれた彼の緑の瞳を覗き込みながら微笑んだ。
「もう少し僕に付き合ってくれるかな、レギオン?」
その後も、ミハイは何曲も歌った。巷ではやりのマドレガーレを選んだり、客からの要望を聞いたりしながら、彼自身も歌うことを実に楽しんだ。いつもは純粋に喜びばかりではない複雑な想いを込めて歌うミハイが、肩の力が抜けて実に伸び伸びとしている。
この店に入った時の緊張は、今はミハイから綺麗に拭い去られていた。
(不思議だな。こんなに歌うことが気持ちがいいなんて…楽しくて仕方がないなんて…ああ、たぶんずっと昔、子供の頃はこんなふうに何も考えずにただ好きだからというだけで、自分の思うままに歌っていたんだ。いつの間にか、歌は僕にとってあまりにも大きなものになりすぎた…歌のために人生が狂い、だが歌がなくては生きられず、ただ純粋な楽しみだけではなく身を立てる道具にもなった…でも本当は、僕は歌をただ愛している、それだけなんだ)
今更のように、そんな当たり前のことをミハイは思い出した。
今のミハイは誰かに飼われる篭の中の鳥ではなかった。自由に心の赴くままに歌い続ける、解き放たれた魂だった。
ミハイはもはや誰にも押しとどめることはできないというように、目を閉ざし、全身を震わせるようにして歌っていた。自らの声に心をゆだね、己を縛り付けるくびきから解放されて大空へと飛翔した。自由な一羽の鳥となった。
(僕は歌っている。歌を愛している。このためだけに僕は今生きている)
いつの間にか、ミハイの固く閉ざされた目にはうっすらと涙がにじんでいた。
(そう、僕は生きている…)
レギオンが居酒屋の主人に挨拶をして店の扉をくぐると、先に外に出ていたミハイが、店の壁に身をもたせかけるようにしてぼんやりと口ずさんでいた。
誰が知ろう、愛が我等を導く先を
愛は薔薇の色
愛は鳴り止まぬ鐘
愛は我等を甘い滅びへと
苦い別れへと連れ行くか
「ミハイ」
レギオンが呼びかけるとミハイは歌をやめ、夢から覚めたように瞬きをし、ゆっくりと振り返った。
「ああ、レギオン」
少し酒を飲みすぎたのだろう、ミハイの滑らかな頬は薄っすらと染まり、青い瞳は潤んだ光を湛え、形のよい赤い唇は艶めいて、レギオンの胸をざわめかせた。
「おかしいだろう」
ミハイがふっと笑ってそんなことを言うのに、レギオンは問いかけるかのごとく首をかしげた。
「誰のことも愛したことのない僕が、愛の歌を歌い、人から喝采を受けるなんて、おかしな話だよ」
レギオンが以前言ったことをミハイは結構気にしていたのだろうか。
ちょっとすまない気分になってレギオンはミハイに歩み寄ると、その顔を覗き込み慰めるように言った。
「どれが真の恋でどれがそうでないかなんて、結局、過ぎ去って随分たつまで分からないんじゃないかな。たぶん私も、何も分からぬままに、愛の真似事の場数だけを踏んでいるような気がするよ。無駄な経験はたくさん重ねながら、実際何も知らないような気がするよ」
そんなことをかき口説きながら、レギオンはもしかして己も多少はこだわっていたのだろうかと考えた。
(本当の恋も知らないくせに…か…)
そんなサンティーノの挑発に乗って、レギオンはミハイを相手に恋のゲームを始めたのだった。もしかしたら、これが本気の恋の熱情を知る機会になるかもしれない。そんなものには興味がないと笑い飛ばしながら、レギオンにしても実はほのかな憧れがあったのか。
(何が真の恋かなど私にも見当がつかない。ミハイ相手に私がしていることは…では、何なのだろう…? いつもと同じように狙った獲物を落とす過程を楽しんでいるだけか…こいつは私を怒らせ落ち込ませ散々恥をかかせてくれる、可愛いより憎いと思うことの方が多い…だのに諦められないのは、手強い相手だから私もついむきになっているのか、そうなのか…? それとも私もミハイの歌声に魅了され、いつの間にか骨抜きにされてしまったのだろうか…? ああ、彼のさっきの歌声…子供のように無邪気に興奮した顔…あんな無防備な表情をすることもあるんだ、ミハイは…変だな、私はさっきから妙にうろたえているようだ。あんなふうに突然ミハイの内面を覗き込んでしまったからだろうか…?)
レギオンがもの思わしげな眼差しを向けていることにも気づかず、ミハイは酔ったような気だるげな吐息をつき、再びぼんやりと歌を歌った。
誰が知ろう、愛が我等に与える試練を
愛は苦き蘆會
痛みを伴う刃
口ずさむのをやめると、ミハイはしばし何もない虚空に視線をさ迷わせながら、深い物思いに捕らわれていた。
「レギオン」
ミハイはふいに呟いた。
「僕の声を、君は好きかい?」
レギオンは不思議そうに瞬きをした。
「ああ」
ミハイがやりきりないような溜め息をつく訳が分からず、レギオンが戸惑っていると、ミハイはレギオンに物悲しげな横顔を見せたまま口を開いた。
「僕が、この声を永遠に保つために何を犠牲にしたかは分かるよね。僕は、君達が当然持つような男性らしさを切り取られてしまった」
ミハイがあまり昂ぶりを示さずぽつりぽつりと語ることに、レギオンは何かしらはっととした。
「戦いに巻き込まれて怪我をしたのだとか、異教徒どもの暴力のせいだとか、君は想像しているかもしれないけれど、本当はね、この声のせいなんだよ。コンスタンチノープルでの僕の主は、スルタンの宮殿で高い地位にある貴族で、僕は初めはただの奴隷の1人だった。見目が多少よかったために、兵士ではなく性奴とされた。だが、そのうち主は僕がうまく歌えることに気がついて、歌の訓練をさせたんだ。僕はもともと歌うことが好きだったし、かの地では他に慰めとなるものもなかったので、歌に熱中して瞬く間に上達した。主の館や時には宮殿でも歌うようになったよ。でも僕はそうやって僕の歌を彼らに聞かせることが僕に何をもたらすかまで想像しなかった。こんなことになると分かっていたら、絶対歌わなかっただろう。僕の声を愛し、やがて僕が大人になればこの声が失われることを惜しむようになった僕の主は、この声をずっと保たせようとして…そのために僕を去勢させたんだ」
レギオンは息を呑んだ。
「そんな…」
壁に背中をもたせかけたまま苦い追憶に浸っているミハイを、レギオンは動揺のあまり揺れる瞳で見守ることしかできなかった。
何か言葉をかけてやりたいとは思うのだが、何をどう言えばいいのか分からずに不器用に黙り込んでいると、ミハイは相変わらずレギオンから顔を背けたまま、半ば夢見るように続けた。
「もしも歌など歌えなかったら、僕は今頃どうしていたのだろうかと思うことがある。僕は普通の男として成長していただろうか。でも、たぶん、今のように1人ヨーロッパに逃げ出してここまで成功することはなかっただろう。もしかしたら、今でもトルコ人の奴隷でありつづけ、兵士としてかつての同胞達と戦わされていたかもしれない。とうに僕は死んでいたかもしれない。実際、何がよかったのか、悪かったのか、言い切ることは難しい。ただ1つ言えることは、僕は今生きている。失ったものに対する痛みや苦しみはあるけれど、ここでこうして生きて、歌っていられるということは、僕は…運命に打ち勝てたんだろうか…?」
レギオンは息を吸い込んだ。
「そうだ…その通りだよ、ミハイ。君は運命に打ち勝ったんだ。失ったものは確かに大きかったけれど…君は自分に残された唯一のものを武器にして戦って、道を切り開いた。今ここに君がいることこそ君の勝利の証だよ」
ミハイはレギオンを振り返った。その顔にうかんだほろ苦い微笑を目の当たりにした時、レギオンは激しく胸をつかれて、黙り込んだ。
「僕は歌が好きだよ」
だしぬけにミハイは言った。子供のような無邪気さに、はかなげな白い顔がほのかに輝いた。
「今夜は、そのことをつくづく実感した。例え、この声のおかげでまともな人生は送れなくなったのだとしてもね。それに、今の僕にとっては、歌だけが生きる理由なんだ。歌があるから、生きていける。でもね、決して、初めからこんな生き方を僕が望んでいたわけではないんだ…」
「ミハイ」
ミハイの青い瞳に狂おしい、ほとんど苦痛にも似た激しい光が宿った。
「僕は武人の家に生まれた。生まれ育った土地を国を剣によって守ることが一族の誇りと幼い僕も教えられた。その時から歌は僕の喜びだったけれど、父達と同じようにいつか剣を取って戦うことは、僕にとっては日常の延長にあるごく自然な生き方だった。何の疑いもなくそんな日が来ることを信じていたよ。それが今はこのざまだ。剣を取って異教徒どもを倒すどころか彼らの手に落ちて堕落させられ、男とも女ともつかぬ身で歌うことで日々の糧を得ている。亡き父が見たら、どんなにか嘆き、怒り狂うだろうさ。一族の恥さらし、よくもそんな惨めな姿で生きていられるな…」
「ミハイ、やめてくれ!」
たまりかねて、レギオンはミハイの言葉を遮った。
「自分で自分をおとしめるな。君は歌を愛していると言った。その歌で身を立てることの何が悪い! それに、君がどんなに口惜しく思っても…過去は変えられないし、君が失ったものはどうしたって戻ってはこないんだ…!」
レギオンの切迫した顔をミハイは束の間苦しげに食い入るように見つめ、それからまた遠い目になった。
「分かっているよ、レギオン。でも、時々たまらなくなる。歌によって生かされているとは思いながら、もしかしたら、別の生き方ができた筈なんだとどうしても考えてしまう。…僕の父や兄達のように、何か大切なもののために戦って死ねたらと、今でも時折叶わぬ夢を見て、胸が焼け付く…どうして僕だけ彼らのように死ねなかったのだろう」
ミハイの葛藤を、歌う喜びのために生きる自分と奪われたまた別の夢を追いたがる自分との間で大きく揺れ動く心を見、レギオンは思わずかっとなって、叫んだ。
「ミハイ、君は死にたいのか? 生き残ったことで運命に打ち勝てたはずの君が何故、今更死にたがる? 馬鹿なことを言うんじゃない!」
レギオンはミハイの肩を引っつかんで激しく揺さぶった。すると、ミハイはレギオンの手にそっと手を重ねて彼を押しとどめると、意外にしっかりとした声で応えた。
「違うよ、レギオン、僕は別に死にたがっているわけじゃない。生きることは素晴らしい。生きているから、僕は歌う喜びも知ることができる。ただ…同時に僕の半分は憧れるんだ…もしも歌以上に大切なもの、そのために戦い、命を投げ出せるほどに価値ある何かを僕も見つけられたらと…」
半ば諦念のような吐息をもらし、ミハイは目を閉じた。
様々な感情が去来しているのだとしても、一見静けさを取り戻したように見える端整な顔からは、レギオンにはミハイの想いの全てを読み取ることはできなかった。
ふいに、ミハイは目を見開いた。レギオンの腕を強くつかむと、ひどく差し迫った面持ちで、何かに駆り立てられるかのようにこんなことを問うた。
「レギオン、僕は間違っていないか…? ここでこうして歌っている、この僕でいていいのか…? 負け犬なんかじゃない、僕は…僕は本当に勝てたんだろうか?」
まるで、そうして誰かに己の存在を肯定してもらわなければ、これ以上立ち続けることはできないというかのごとく、ミハイらしくない迷いに捕らわれ追い詰められた目をして。
「ミハイ…」
まといついてくる不安と慄きを必死で払いのけようとしているのだろう。ミハイのすがるような瞳、強張った顔にうかぶむきだしの心に、レギオンは深く胸を揺さぶられた。ふいに自分でも驚くほどの愛しさが急に湧き上がってきて、ミハイの顔を両手でそっと挟み込むと、レギオンはまるで道に迷って途方に暮れている幼子に向かって話しかけるように、優しく確信に満ちて囁きかけた、
「君は、間違ってなどいない」
ミハイはレギオンの顔をひたと見据えたまま、喘ぐように息をした。
そんなミハイの頭を軽く抱き寄せいたわるように撫でてやりながら、レギオンはそっと言い聞かせた。
「大丈夫だよ、ミハイ。君は、そのままの君でいればいいんだ」
レギオンの優しさに、普段は頑なで打ち解けないミハイも今はおとなしく彼の腕に抱かれ、力を抜いている。
いつもと違って、レギオンがミハイの意思に反して強引に迫ってきた訳ではないからだろう。レギオンも今はミハイの対する下心や計算というものはどこかに置き忘れてきたように、気遣いと慈しみに溢れて、ミハイをただ抱きしめている。
そうして、2人はしばし言葉もなくただ寄り添いあっていた。
ミハイの華奢な肩。腕の中に従順におさまっている体から布越しに伝わってくる温もり。その胸で震える心臓の鼓動さえ、レギオンには感じ取れる。
物悲しげなリュートの音がどこからか微かに流れてくる。密やかな小波のような遠くの話し声。人通りの少なくなった路地の片隅はロマンチックな影に満ちていて―。
「変だな、こんな…私らしくない…」
ミハイの美しい金茶の髪を指先ですきながら、レギオンは半ば驚き、半ば陶然となってつぶやいた。
「え?」
ミハイが身じろぎし、問いかけるかのごとく顔を上げた。
「さっき聞いた君の歌のせいかな…こんなおかしな気持ちになるのは。君の歌声には本当に魔力があるのだろうか、ミハイ。私は、今夜はずっと戸惑いっぱなしだよ。君の歌を聞き、君のむきだしの感情に胸をつかれ、君の無防備な表情につい見惚れ…そして、いつもは強くて冷たくて私よりもずっと大人の君がこんなもろさ抱えていた…そんな君がかわいくて放っておけなくて…柄にもなくこんな優しい気持ちになっている…私はもっと獰猛で身勝手な男のはずなのに、変だな、これではまるで―」
「まるで…」
いつもは凛とした少年のアルトで話すミハイが、あどけない少女のような澄んだ声で柔らかに囁いた。
「何?」
レギオンは口ごもった。
とくん、とレギオンの胸の奥で、彼の心臓が今まで知らなかったような甘美な鼓動を刻んだ。とくん。あまやかな痺れが胸いっぱいに広がり、レギオンを苦しくさせた。
誰が知ろう
愛が我等にもたらすものを
愛は矢のごとく突然に胸を貫き
痛みを知らぬ者にその苦しみを教える
「ミハイ、私は―」
ミハイの青い瞳は今、闇色の深い湖と化してレギオンにひたと向けられている。きらきらと輝く、その湖面にはレギオンの慄いたような顔が映っている。
その時、寄り添いあう彼らのすぐ傍にある居酒屋の扉が開いた。
「ミハイ、レギオン、長いこと待たせてすまなかったな。ちょっと悪友達に捕まって、ミハイのこととか根掘り葉掘り聞かれてな―おや…?」
店から飛び出してきたハンスの何の気ない呼びかけに、ミハイは弾かれたようにレギオンの腕の中から抜け出し、背中を向けた。
「あ…ハ、ハンス…」
レギオンまでも妙に気恥ずかしくなって、ぎこちない笑顔を扉の前で固まっているハンスに向けた。
「ミハイ、大丈夫か、少し飲みすぎたんじゃないか?」
2人の間に流れるただならぬ気配を感じ取ってはいるのだろうが、ハンスは気づかないふりをして、じっと身を固くして顔を俯けているミハイに近づいた。
「うん…そうかもしれないね…気分がよくて、飲みなれない酒をつい過ごしたのかもしれない…」
口の中で小さく呟くミハイの肩を軽く叩きながら、ハンスは笑った。
「まあ、あなたが楽しく過ごせたのなら、それでよしとしよう。確かに、ミハイには息抜きが必要だった。なあ、レギオン?」
突然振られて、レギオンは反射的に答えていた。
「あ、ああ…」
そうしながらレギオンの目は、ハンスの体の陰に半ば隠れているミハイの顔を、伏せられたその目を必死になって追っていた。
「さあ、随分と夜も更けたし、いくらなんでもそろそろ帰らないとやばそうだ。俺はこのままミハイを連れて帰るが、レギオン、おまえも途中まで一緒に歩くか?」
ミハイの琥珀色の頭がぴくんと動いたが、レギオンの方には向けられなかった。
「いや、私は…ここからなら反対方向に歩いた方が早く家に戻れそうだ」
「では、ここで別れよう。今夜はおまえさんにはとても世話になったよ、レギオン。あんなに伸び伸びと楽しんでいるミハイを見たのは、俺も初めてだった。そうだろう、ミハイ?」
ハンスに呼びかけられて、ミハイはようよう顔を上げて、レギオンを見た。
「うん。レギオン、その…今夜は、ありがとう…」
平静を保とうとしているがうまくいかないようだ。ミハイは自然な笑顔を作ろうとしたが、レギオンと目があった途端、慄いたように瞠目し、しかし、どうしても目が逸らせないというように黙りこんだままレギオンを見つめ続けた。
またしても、レギオンの心臓が不思議なリズムを刻んだ。とくん、とくん…。
馴染みのない胸苦しさに、レギオンは小さく喘いだ。
ハンスがこほんと咳をした。
「さ、帰ろう、ミハイ」
ハンスが促すのにミハイも我に返ったようにまばたきをし、何か言いたげな眼差しをレギオンに投げかけ、そして、顔を背けた。
「おやすみ、レギオン」
「ああ…ミハイ…気をつけて…」
レギオンは半ば魂を飛ばしてしまったようにその場に立ち尽くしたまま、去っていく2人を見送った。
ふいに突き上げてくる衝動を堪えかねたかのように、ミハイのほっそりとした後ろ姿に向かってレギオンは手を伸ばしかけた。びっくりしたように、その手を見下ろし、レギオンは己の胸を不安そうに掴みしめた。
「まさか」
苦笑し、頭を振った。
「ありえない」
レギオンは緑のマントをふわりと翻して、ミハイ達とは反対の方角に、暗く沈んだ小道を歩き出した。
誰が知ろう、愛が我等を導く先を
ふいに胸のうちがざわめくのを覚え、レギオンは足を止め、後ろを振り返った。
瞬間、しなやかな紐で全身を縛られたかのように、レギオンは身動きができなくなった。
路地の彼方、遠く小さくなったミハイがレギオンと同じように足を止め、振り向いていた。
ミハイがはっと息を呑む。青い目が見開かれる。レギオンには手に取るように感じられた。
「ミハイ…」
呻くようにレギオンは呼びかけ、己を引き寄せようとする訳の分からない力に身を任せて、ミハイのもとに駆け戻りそうになった。ヴァンパイアの速度でミハイが瞬きひとつする間に駆け寄り、その体を抱き寄せ、夜の闇に紛れてどこかに浚ってしまいたかった。
だが、レギオンが躊躇った瞬間、ミハイは再び背中を向けて歩き出した。
レギオンは肩で大きく息をつくと、後ろ髪を引かれるような気分を振り切って、その場を立ち去った。
レギオンも少し飲みすぎたのだろうか。やけに火照った頬に吹く風が気持ちいい。
まだ少し、ミハイの歌声の余韻がレギオンの耳の奥で鳴り響いていた。
愛は胸に咲く棘ある薔薇
誰が知ろう、この影の世界に咲いた花の行く末を
ああ、誰が知ろう、誰が知ろう
今夜の歌はしばらく忘れられそうにないとレギオンは思った。