天使の血
第四章 影に唄えば
ニ
レギオンが捕まえた召使いに尋ねてオルシーニ邸の広い庭園の一角に足を踏み入れると、そこでは激しく金属が打ち鳴らされる音が響いていた。
(おやおやおや)
レギオンは目を丸くして、一瞬足を止めた。
彼の視線の先には、二人の男達が剣術の練習の真っ最中だった。かなり体格差のある剣士の片方、大柄で逞しいのはハンス、そしてもう一人少年のようなほっそりとした剣士は、誰かと思えばミハイではないか。
(ローマ一の歌い手殿は騎士の真似事までするのかい)
一瞬声をかけようかと思ったが、熱のこもった二人の立ち合いを見て気を変え、レギオンはしばしそこに佇んだまま、彼らをじっと見守った。
傭兵であるハンスが剣を使い慣れているのは当然だが、ミハイもなかなかどうして立派なものだった。少なくともめくらめっぽう振り回す素人剣士ではない。結構修行を積んだ剣裁きだ。体格に違いのあるハンスを相手にしながら、しなやかな身のこなしと敏捷さを武器に、相手の力を軽く流すように退いたかと思うとくるり体を反転させて飛び込んでいく。
(なかなかやるじゃないか、あいつ)
初めに見た瞬間はハンスの圧倒的な勝利に賭けたレギオンだが、ミハイの奮闘ぶりに思わず唸って、目を輝かせながら物珍しそうに近づいていった。
もともと筋がいいのか、それとも剣術をどこかで習ったことがあるのか。そう言えばミハイはワラキアの武家の出だったのだと、今更ながらレギオンは思い出した。
剣を取るミハイはいつもとは違う表情をうかべていた。
感情を隠した石のような無表情とも、性別不明のどことなく気だるげな優美さとも、歌の高揚感の中で一瞬花開く官能とも違う。
それは若く猛々しい獣めいた激しさ。身のうちで荒れ狂う熱い血に突き動かされるような獰猛さ。凛と張り詰めた気迫は、彼の繊細な顔立ちを男らしくさえ見せていた。
レギオンは、新しい発見をしたような喜びと興奮を覚えていた。
ミハイは深く知るにつれ次々と別の顔を現してくれる。一体どの顔が彼の本性なのか。どれも彼という複雑な人間が持つ別な側面なのか。
レギオンが剣を振るうミハイの姿にすっかり魅せられて無防備にごく近くまで来た時だ。ミハイは鋭い声と共にハンスに向かって剣を突き入れた。しかし、際どいところでかわしたハンスが、ミハイの剣をなぎ払った。
ミハイの手から弾かれた剣は、回転しながらレギオンに向かって飛んでくる。
レギオンは瞬きした。ほとんど何も考えずに動いて手を突き出すと、かなりの勢いがついた剣の柄をしっかり握りしめた。
ヴァンパイアの視力と反射神経は、人間の常識を超えている。こんな芸当もレギオンには朝飯前だ。
「レ、レギオン…?!」
驚愕の叫びをあげたのはミハイだ。失った剣を追って振り返ったところにレギオンを見つけて、一瞬彼は色を失った。
「大丈夫か?」
顔を強張らせて駆け寄ってくるミハイにレギオンはにこりとして、受け止めた剣を目の前でぶらぶらさせた。
「歌だけでなく剣もうまいとは驚きだな、ミハイ。つい見惚れてしまったよ」
それには答えず、ミハイはレギオンから剣を取り上げると、彼の手を捕まえてどこにも傷を負っていないか確認した。
「おい、本当に怪我はしてないのか?」
ミハイの後ろからハンスもやってきた。こちらは少し怒っている。
「レギオン、剣の稽古をしている人間にここまで近づくなんて不注意だぞ。下手をすれば大怪我だ…それにしても本当に運がよかったな…」
何も知らない人間達の心配をくすぐったく思いながら、レギオンはハンスに頷きかけ、それから、ようやく最初の衝撃を脱してほっと安堵の表情をうかべるミハイに向き直った。
「ミハイ、君は本当に素晴らしい」
いきなりこんなことを言われて、ミハイは虚を突かれたように目をしばたたいた。
「傭兵あがりのハンス相手でも全く引けを取らなかったじゃないか。歌い手としてのミハイしか知らない連中は、まさか君がこんなに見事に剣を使えるとは想像もしないだろうね」
レギオンの手放しの賛辞にミハイは苦笑した。
「お世辞はいいよ。自分の腕の程度はよく知っているつもりだ。今だってハンスに負けた訳だし…やはり体格の不利と力のなさはどうしようもない」
「でも君は別に兵士でも騎士でもないんだから、そこまでできたら男のたしなみとしては充分だよ。たぶん、その辺りの貴族の若者よりは君の方がずっと強いだろう」
「たしなみね」
ミハイは次第に頭が冷めてきたようで、見慣れた冷たい眼差しをレギオンに投げかけると、己の剣を鞘に戻した。ミハイの操る剣は通常のものより細く軽く作られているようだった。ハンスが使うような大振りの剣は、彼にはたぶん振り回せないのだろう。その優美な長い腕には、男のような筋肉はついていない。
ミハイが剣にいそしむのは一体どういう理由からだろうと、レギオンはふと思った。
「けれど…君のパトロンがこんな危ないことをよく許したな。剣の稽古だなんて、それこそ間違って君が怪我でもしようものなら、オルシーニは血相を変えて騒ぎ立てるだろう」
「僕は枢機卿の望むままに歌っている。それ以外のことについてまで口は挟ませない」
ミハイは不機嫌そうに言い捨てると、レギオンに背を向け、大理石の像が据えられた台の所に置いたタオルを取りにいった。
問い詰めようとするレギオンの肩をハンスが軽く叩いた。
「ミハイに護衛をつけるという話が出た時に、彼は承諾する代わりに交換条件を出したんだ。剣を教えるというのなら、俺を護衛として傍に置いてもいいとな」
「でも、君がいるならミハイは自分の身を自分で守る必要もない。ましてや彼はただの歌手だ。そこまでして自ら剣を習おうとする理由は何だ?」
レギオンの率直な質問に、ハンスは迷うように一瞬口をつぐんだ。
「俺も同じようなことをミハイに聞いたことがある。彼は言ったよ」
ミハイの方をちらりと見、ごく低い声で囁いた。
「自分が何ものであるかを忘れないためにこうするんだ、と」
レギオンはミハイにあてたままの目を僅かに見開いた。
「自分が何ものであるか…」
レギオンはハンスの言葉を反芻し、その意味するところを考えた。
「実際、ミハイは筋がよかったよ。たぶん、基礎的なことは昔習ったことがあったんだろうな。初めは全く信じてなどいなかったんだが。ワラキアの貴族の出なんて…」
ハンスの言葉をぼんやりと聞きながら、レギオンは、汗を拭きしばらく大理石の天使の像を何気に見上げていたミハイがふいに何かの気配を感じたように振り返る、その一挙一動をじっと見つめていた。
何の話をしているのかというように腕を組んでレギオンを睨みつけてくる顔はいかにも頑固で手強そうで、女々しさなどは微塵もない。ミハイが経てきた艱難辛苦は彼の肉体は傷つけることはできても、その根本まで変えてしまうことは結局できなかったのだ。
「レギオン!」
ふいに、レギオンに向けられたミハイの顔に不適な表情がうかんだ。
「他人が剣を振るうのをただ眺め面白がっているだけでなく、どうせなら君も僕らと手合わせしてみないか? その腰のものはただの飾りだという訳ではないのだろう?」
レギオンは目をぱちぱちさせた。思いも寄らないミハイからの誘い―それとも挑発だろうか―に少し戸惑った。
真剣に剣をやっているミハイには悪いが、レギオンにとっては実際のところ剣など飾りのようなものだ。人間の剣さばきなどすぐに見切ってしまう、容易にかわしてしまうだけでなく、素手で相手を八つ裂きにできるレギオンにとって、武器としての剣はあまり意味がない。
「それは嬉しい申し出だけれどね」
レギオンは陽光を受けてまばゆく輝く髪をかきあげながら、迷うように呟いた。その様子を、傍らのハンスはにやにや笑って見守っている。
怯んでいると思われたのだろうか。冗談ではない。
「分かった。ハンス、まず君に手合わせをお願いするよ」
レギオンはハンスに向き直ると挑みかけるように言った。するとハンスはほうというような顔をした。ミハイよりも腕のたつ自分をわざわざ選んだことが意外だったのだろう。
「手加減はしてやれよ、ハンス」
ミハイも、レギオンがハンスと試合をすると聞いて、興味津々近づいてきた。
「手加減などいるものか」
レギオンはハンスを睨みつけまま獰猛に笑った。
「承知した」とハンス。レギオンの前に回りこむようにして向き合うと、鞘から長剣を抜いた。
「では、剣を抜いて、まず構えろ」
レギオンはほとんど抜いたこともない剣を鞘から抜くと、相手に敬意を示すように軽く礼をし、それから構えた。
ミハイは、レギオンの剣を持つ姿に小さな溜め息を漏らし軽く肩をすくめると、2人の邪魔にならないよう離れた。
何だか馬鹿にされたようで、レギオンは気になった。
「やっぱりあまり剣の稽古などしてないんだろう、レギオン。基本も何もできてない、全くの隙だらけだぞ」
呆れたようにハンスが言うが、レギオンは胸のうちで今に見ていろと思っていた。確かに剣などまともに習ったことはない。ミハイやハンスに一目で素人だと見抜かれてしまうくらい、下手そうなのも仕方がない。
しかし、ヴァンパイアの能力をなめてもらっては困る。
「始め」
ミハイが叫ぶのを合図にレギオンとハンスは動いた。ほとんど同じ動きで前に飛び出し、相手の剣を剣で受け止め、反動でまた離れる。
ハンスがまた剣を構え直して襲い掛かってくるのを、レギオンはひらりと飛ぶようにしてかわした。次の攻撃も同じように上手くかわし、そうしながらハンスが剣を扱う動きを瞬きもせず目で追った。
「レギオン、逃げてばかりでは試合にならないぞ」
ミハイの揶揄するような声が、後ろからかけられる。
「そうだな」
レギオンは唇を舌で舐め、目を細めるようにしてハンスを見据え、剣を構え直した。
ハンスはおやという顔をした。つい先程とは違って、レギオンの構えは簡単には切りかかっていけないほど隙のないものになっていた。
「うおっ?!」
いきなり懐深く飛び込んでくるレギオンの剣をハンスは何とか剣で払いのけ、後方に飛んだ。
打ち込んでくる剣さばきも突然威力を増している。ハンスは、今度は本気でレギオンに対さなければならなくなった。
「レギオン、おまえ…さっきまでのは芝居だったのか?」
剣をあわせてレギオンとぐっと押しあいながら、ハンスは信じられないように問いかけた。
「いや。君がいい教え手だからだよ」
冗談めかして囁いて、レギオンはさっと身を翻した。
ちらりと横目で見ると、ミハイが呆気に取られた様子で二人の立会いに見入っている。
ハンスの圧倒的な勝利を確信していたのだろうが、お生憎さまだ。確かに剣を交えた最初、レギオンは素人だった。だが、達人のハンスの動きを見、吸収し、それを自分のものとして実行したのだ。
2人は切り結び、離れることを繰り返したが、なかなか勝負はつかなかった。実際2人の剣の腕は全くの互角のように見えた。そうすると後はより逞しくて体力のあるハンスの方に分がありそうだが、人間達の予想に反して、レギオンは疲れを見せず、息を乱すどころか、その足運びも全く衰えない。
「やっ!」
掛け声と共にハンスはレギオンに向かって飛び込んできたが、レギオンは蝶のように軽々とかわした。必殺の突きを避けられて、とっさにハンスの脚がふらつく。
レギオンはその隙を見逃さなかった。
「ああっ!」
叫び声をあげたのは、2人の立会いを固唾を呑んで見守っていたミハイだ。
ハンスの手から弾き飛ばされた剣は、音をたてて二人から少し離れた地面に落ちた。
「そ…そこまで!」
喘ぐように息をして、ミハイが叫んだ。
「ああ、楽しかった。剣って案外面白いものなんだな。知らなかったよ」
美しい薔薇色に染まった頬をして無邪気に笑いながらそんなことを言うレギオンを、息を切らせながら呆然と立ち尽くすハンスは、信じられないものを見るかのごとく振り返った。
「信じられない…ハンスが負けるなんて」
ミハイは当惑したように低く呟いて、試合の興奮の冷めやらない様子で豪奢な金の髪を振り立てるレギオンを凝視した。ふいに、ミハイの白い頬に血の色が上った。
「レギオン」
鋭く名を呼ばれてレギオンがそちらに顔を向けると、ミハイが剣の柄に手をかけて、つかつかと歩み寄ってきた。
「今度は僕が相手だ」
戦闘的に猛り立つ青い瞳の激しさに、レギオンは一瞬呑まれて、何を言われたか分からなかった。
「ミハイ、やめるんだ」
剣を拾い上げたハンスが、なだめるように言う。
「こいつが君に勝てたのはほんのまぐれだ、ハンス。そのことを僕が証明してやる」
「まぐれなんかじゃないってことは、あなたも分かっているはずだ。俺も驚いたが…何だか自分と戦っているような気がして…いや、ともかくこいつの腕は確かだよ」
ミハイは唇を固く引き結んだ。
「ならば余計に確かめたい」
厳しい顔つきで前に立ちはだかるミハイを、レギオンは戸惑いつつ眺めた。
「剣を構えろ、レギオン」
「本気でやるのかい?」
レギオンは何となく気が進まなかった。ミハイがあまり真剣そのものだからかもしれないが、気持ちが退いてしまった。
「ハンスとは戦えても僕では相手にならないとでも言う気か?」
レギオンは慌てて首を横に振った。
「違う、違う。ただ…君の綺麗な顔や体にうっかり傷でもつけてしまうのは嫌だなぁと…」
レギオンの言い訳は外したようで、ミハイは眉を吊り上げると素早く剣を構えた。
「問答無用」
「うわ」
細く長い剣で突いてくるミハイにレギオンは幾分慌てた。とっさに構えなおした剣で切っ先を払いのける。
「真剣にやらないと、レギオン。それこそ、君の自慢の顔に傷がつくかもしれないよ?」
言うが早いが、ミハイは続けさまにレギオンに対し切りかかった。基礎がしっかりとできている足運びは、素早いが安定感がある。レギオンはミハイの猛攻に守勢に立たされて、一気に後ろに下がった。
「本当に手加減なしなんだな、ミハイ」
やっと本調子を取り戻して、ミハイと剣を打ち合わせながら、レギオンは言った。
「僕はいつでも何に対しても真剣だ。いつも遊び半分の浮ついた君などと、一緒にしてもらいたくない」
「固いね」
レギオンがふっと鼻で笑うと、ミハイは歯を剥いて唸り、一層激しく切り込んでくる。
「からかった訳ではないよ」
レギオンは、軽やかに剣を操ってミハイの攻撃を受け止め受け流しながら、言った。
「ただ、いつもそう肩肘を張っていては疲れないのだろうかと心配しただけだ」
「そんなことは大きなお世話だ。生きることはもともと楽じゃない。苦労知らずの君には分からないだろうさ」
ぴしゃりとはねつけるミハイに、レギオンも少しかっとなった。
「君は、いつもそれだな! 誰にも自分の気持ちなど分からないと心を閉ざして、自分から分かってもらおうという努力を放棄しているんだ。いや、むしろ君は恐いんだ。自分の本当の姿を他人に見せる勇気がないんだ」
「レギオン…言わせておけば…!」
レギオンが言ったことは案外的をついていたのかもしれない。ミハイは激昂した。
「ああ、やはり冷たく取り澄ました顔よりも今の君の方が百倍も魅力的だよ、ミハイ」
「うるさい…真剣勝負によくも…そんなふざけたことを…だから、僕は君には我慢ならないんだ! この…道化め…!」
ミハイは次第に息を切らしだし、レギオンに向かってかける言葉も切れ切れのものになってきた。しかし、その青い瞳だけは少しも衰えない闘志に激しく燃え上がっている。
その瞳を正面から受け止めながら、レギオンは真剣な顔つきをして訴えかけた。
「私も君に対してはいつでも本気だよ。君が、分かろうとしないだけさ」
一瞬ミハイの顔に心許なげな表情が過ぎった。不安に駆られた子供のように瞳を揺らして、レギオンを見つめる。彼を取り巻く闘志も覇気もふっとかき消えた。
思わぬミハイの反応に、レギオンはとっさに胸を突かれた。
「ミハイ?」
何かしら激しくうろたえながら、レギオンは剣を操る手も止めて、ミハイに問い返した。
しかし、次の瞬間、ミハイは我に返ったように瞬きすると、迷いに捕らわれた自らを恥じるように唇を噛み締めた。
「レギオン!」
ミハイは残った力の全てを振り絞るようにレギオンに突進し、レギオンが持つ剣を大きくなぎ払った。
鋭い金属音が響いた。レギオンの手から剣は弾き飛ばされていた。
「あ…」
レギオンは半ば呆然として、地面に転がった己の剣を見やった。その喉元に、ミハイの剣の切っ先が突きつけられる。
「勝負あり、だな」
苦しげに胸を押さえながも、ミハイはまっすぐに立ち、レギオンを鋭く見据えたまま言った。
「今は認めるけれど、君の方が本当は僕より腕は勝っていた。勝負に集中しないで遊ぶからいけないんだ。ましてや戦いの最中に隙を見せるなんて、命取りだよ」
半ば自分に対する戒めのようにミハイは言って、レギオンから顔を背け、剣を下ろした。
じんじん痺れている手を軽く振って、レギオンは肩をすくめた。
「君の言うとおりだな」
レギオンは、ミハイの顔にうかんだあの見知らぬ表情につい気を取られてしまったのだ。いつもは強気なミハイの、まるで道に迷ったおさな子のように無防備で不安そうな、あの顔に。
「2人ともよくやったぞ。見ている方が手に汗を握るくらい、白熱した勝負だった」
ハンスが幾分ほっとした顔で近づいてきた。
「どちらも怪我はないな? うん、それだけでもよかった。ミハイがあんなに本気になるのは珍しいから、これはどちらかが傷を負うとはらはらしていたんだ」
ハンスに拾ってもらった剣を受け取りながら、レギオンは大げさに首を縮めて笑った。
「本当にすごい剣幕だったよ、ミハイは。一瞬、殺されるかと思ったくらい」
「ああ。全く、おまえさんは運がよかった」
ハンスはかかと笑って、レギオンの肩を叩いた。
レギオンがちらりとミハイの方を見やると、彼は皮の水筒から水をごくごく飲んでいる。
レギオンは、神妙な面持ちでミハイに近づいていった。
「ミハイ」
レギオンが呼びかけると、ミハイは水筒を下ろし手の甲で口をぬぐいながらつくづくと彼を見つめ、笑った。
「君も喉が渇いたろう」
無造作に水筒をレギオンの目の前に突きだす。
「あ、ありがとう」
レギオンは素直に礼を言って水筒を受け取り、少しドキドキしながら口をつけた。ミハイはレギオンの気持ちなど全く分かってない様子で、ほてった頬をなぶる風の気持ちよさに目を細めている。
「今日は…帰れとは言わないんだな?」
ミハイは夢から覚めたように瞬きをし、レギオンを振り返った。
「ああ、そうだったな、君は僕にとって招かれざる客だった」
首を傾げて考え込んだ。
「そう言えば、何だか今日はそんなことを考えつかなかったな…いつも君は歌の席で僕の前に現れて僕の声や歌い方がどうのと僕をいらだたせることを言ったりしたりするから…けれど、今日は直接剣を交えることで気持ちがすっきりしてしまったのかな…?」
確かに、今のミハイは気持ちが鎮まっているようだ。立ちあいをした時にレギオンが言ったことも、それについて己が一瞬心を揺らしたことも忘れ去ったのか。束の間激しく荒れ狂った彼の中の海は、今は静かに凪いでいる。
「ミハイ…」
「うん?」
別に何のわだかまりも残していない様子で自然に返すミハイに、レギオンは心底嬉しくなった。
「その…ありがとう、これ…」
ミハイから手渡された皮の水筒を返し、レギオンは彼らしくもないはにかんだ表情をした。
「何だか…嬉しいな。君と争い罵りあうんじゃなくて、こんなふうに落ち着いて話せるなんて…もしかしたら初めてじゃないだろうか」
薄っすらと顔を赤らめてそんなことを言うレギオンは、年端のいかない少年のようだ。
ミハイは幾分戸惑ったように、そんなレギオンを凝然と眺めた。苦笑しつつ、頭を振った。
「レギオン…馬鹿げている」
あくまで落ち着き払った声音で、ミハイは言い聞かせるように言った。
「馬鹿げているよ」
そのまま、ミハイはレギオンから視線を逸らしてしまった。その頬が微かな赤味を帯びているのは先程の立会いのせいか、それとも別の昂ぶりのせいか。
「ミハイ…」
一瞬確かめたい気持ちに駆られたレギオンだが、追及しかけたのを途中でやめた。ミハイの嫌がることをしてここでまた反発を買い、彼との間に流れるせっかくのいい雰囲気を壊したくはなかったのだ。
(まあ、別にいいか…性急に出るばかりが効を奏するとは限らない。今日はミハイの別の面を色々発見できたし、覚えたての剣を通じて少しは彼と接近できたと思うし、もう充分だ。いつも喧嘩ばかりしているのだから、たまには幸せな気分のまま帰りたい)
そう己に言い聞かせた時、レギオンはふいに探るような冷徹な視線を遠くに感じた。ハンスでも、もちろんミハイでもない。露骨に振り返って確かめることはしなかったが、どうやら建物の方から何者かがレギオンたちをうかがっているようだ。慎重に視線を動かすと視界の端で怪しげな男の影が動き、奥に引っ込んでいくのが確認できた。
(まるで私やミハイのことを監視していたみたいだな。さてはオルシーニの差し金だろうか…?)
ミハイに執着するあまりレギオンを脅迫したオルシーニ。レギオンがミハイに対する恋情をぶちまけた時の怒りに震える彼の顔が思い出された。
(私がミハイに近づくことをやめないと知って、奴はどう出るかな?)
しかし、オルシーニがどんな手を使おうと、レギオンは恐れはしない。ようやく気持ちが通い始めたような気さえするミハイとの逢瀬を、ここでやめてなるものか。
「レギオン」
ミハイと話し込んでいたハンスにふいに呼びかけられて、レギオンは我に返った。
「陽が陰って風も少し冷たくなってきた。そろそろ中に入ろうと思うが、おまえもよかったら一緒に来い。動き回って小腹が空いたろう。軽く食うものとワインくらい出してやるぞ」
そんなことを申し出るハンスの後ろに少し照れくさそうにしているミハイを見つけて、レギオンは迷わず頷いた。
「ああ、ああ。ありがたくお言葉に甘えるよ!」
屈託のない笑顔でレギオンが近づいてくると、ミハイは慌ててそっぽを向いてしまった。狷介孤高かと思ったら意外と可愛い所もあるのだなと、レギオンはまた少し嬉しくなった。
「そうだ、危うく忘れそうになったが、ミハイ、君に報告することがあったんだ。実は市街に部屋を借りた。だから、これからは君と会うのも容易くなる」
ぎょっとして、ミハイはレギオンを振り返った。
「まさか僕につきまとうためにそうしたなんて言わないでくれよ」
「そのまさかさ!」
どうだとばかりに胸を張って宣言するレギオンに、ミハイは軽い眩暈を覚えたかのように額をそっと押さえた。ハンスも呆れかえった顔をしている。
「信じられない…」
ぼそりと囁き交わす2人に、レギオンは肩から流れ落ちる金髪を揺らして豪快に笑った。
そんな3人の佇む庭をひんやりとした気持ちのいい風が吹き抜けていき、そろそろ色づいてきた樹の葉をざわめかせた。
ローマの秋も深まった、ある昼下がりの出来事だった。