天使の血

第四章 影に唄えば


「サンティーノ」

 ヴァンパイア宮廷の夜会の席で、一人おずおずと誰かを探すようにホールに入ってくるサンティーノを見つけるや、レギオンは早速近づいていって声をかけた。

「ああ、レギオン」

 レギオンが親しげに笑いかけると、サンティーノはほっとした顔をして、嬉しそうに唇をほころばせた。

 もしかしてレギオンのことを探しに来たのだろうか。いつぞや早朝に彼の部屋まで押しかけて心配事や相談事を一方的にレギオンが打ち明けて以来、またしばらく会っていなかったら、どうなったのかと心配していたのかもしれない。

(宴席嫌いの引っ込み思案のくせに、私を捕まえるためにわざわざやってきたのだとしたら、何と言うか…やっぱり可愛いな、こいつ。あの棘だらけのミハイとは大した違いだ)

 ミハイに関わるようになって最近自信を喪失気味のレギオンは、サンティーノを見ているとつい気持ちが和んで、満足そうにふっと笑った。

 そんな彼にサンティーノは不思議そうに瞬きをする。

「いや、君に会えて嬉しいよ。丁度話をしたいと思っていたところなんだ」

 レギオンは近くにいた給仕からワインのゴブレットを受け取るとサンティーノを静かなバルコニーの方に誘った。

 途中、擦れ違った黒髪の美しい女がレギオンに向かって嫣然と微笑みかけていった。ミハイに振られた音楽会の夜、レギオンが腹立ち紛れに関係を持った女だ。

「誰だい?」

 レギオンがにっこりと笑って女に向かって手をひらひらさせるのに、サンティーノが不審そうに問うてくる。

「気になるのかい?」

 サンティーノはむっとしたように黙り込んだ。

「単なる…女友達だよ。恋人でも愛人でもないから、安心しろよ」

「君の不真面目な火遊びのことまで心配していたら、僕の神経がもたないよ」

 サンティーノは溜め息をついた。

「ただミハイのことはどうなったのかなと思っただけさ」

 バルコニーには他に誰もいない。レギオンと2人だけになると、サンティーノは俄然生き生きとしてしゃべりだした。

「この間聞いた話では、結構苦戦していたようなのに、浮気をする余裕があるとは大したものだよ」 

 眉を吊り上げ、レギオンの胸に指を突きつけながらたしなめるサンティーノに、レギオンはにやにや笑って答えた。

「だって…私だってたまには息抜きが欲しいんだ。あまり頭を悩ませずにすむ気楽な付き合い、快楽だけと割り切れる関係、その場限りの火遊び、そんなものの方が正直に言って楽しいことは楽しいんだから、仕方がないじゃないか」

 根が生真面目なサンティーノは賛同できないというようなしかめ面をした。

「ミハイとは長期戦になる覚悟でいるんだよ。手を抜くつもりじゃない、むしろその逆さ。じっくり時間をかけてつきあって、あいつの隙をうまく捕らえ、心に忍び込んでやろうと思っている。そう、必ずあいつを奪ってやる」

 一転真顔になって言うレギオンに、サンティーノは小さく息を吸い込んだ。

「君がそこまで人間に執着するとはね」

「もとはといえば君がけしかけたんじゃないか、サンティーノ。ああ、確かに君の見込みは正しかったよ。ミハイのような頑固者は見たことがない。普段は氷さながら冷たく取り澄ましているくせに、実際はすごく気性が激しくて、私は何度突っかかられたことか。腹が立つことも多いが、だから余計に本気になってくる。どうしてもあいつを屈服させずにはおくものか」

 自分で言っているうちについ気持ちが昂ぶって声が大きくなってしまい、レギオンは慌てて口をつぐむと、傍らのサンティーノをちらりと見やった。

 案の定、サンティーノは呆然としていた。レギオンは、いくら気安く接することができるサンティーノ相手でも、本音を暴露しすぎたことに少し恥ずかしくなった。

「あ…だから、まあ…そんな訳で、しばらくはミハイの血を飲むところまで漕ぎ着けそうにない。だが、そこまで私の飢えは待ってくれそうにないから、その間のつなぎに、人間の容易そうな女の子でもつまみ食いしようかと思うよ。このことまでは責めないでおくれよ。ヴァンパイアの性だからね」

 それから、思い出したようにサンティーノに顔を近づけ、悪戯っぽく付け加えた。

「君が飲ませてくれるというのなら、話は別だけれど」

「馬鹿」

 サンティーノは頬をうっすらと染めて、レギオンの頭を軽く小突いた。

 つき合いきれないというように頭を振って、レギオンから離れると、サンティーノはバルコニーの欄干に腕をかけるようにして庭園を眺めた。

「ローマ一の歌手ミハイか」

 サンティーノは低い声で呟いた。淡々とした口調を装っているが、努めて感情を抑えているようだった。

「そう言えば、こんな噂を聞いたよ。ミハイの歌声の素晴らしさは各国の宮廷にまで伝わっているらしい。実際、何度か外国からの誘いがミハイにはあったそうだ。今でも、特にスペインが彼の獲得に熱心で、そのために宮廷の楽師長がローマに遣わされているという」

 サンティーノは試すような口ぶりで言った。

「君がぐずぐずしているとミハイはスペインに行ってしまうかもしれないよ、レギオン」

「ふうん」

 レギオンは軽く肩をすくめた。

「それなら私も彼を追いかけていこうかな、スペインまで」

 サンティーノは何か言いたげに口を開きかけるが、結局何も言わなかった。

 レギオンは少しいらいらした。言いたいことがあるのなら最後まで言ってしまえ。ミハイなど追いかけるなとか、それなら自分もついていくとか。

 レギオンは欄干にもたれかかるようにして背中を向けているサンティーノに近づくと、そのすぐ後ろに密着するように立ち、欄干に手をつく形でサンティーノの体を腕の中に囲い込んだ。

「レギオン」

 サンティーノが身を固くするのが分かる。彼の緊張が戸惑いが、押し付けた体から伝わる。このまま抱きすくめてやろうかと、一瞬レギオンは凶暴に思った。

「…ローマの中心街に部屋を借りたんだ」

 レギオンは苦笑して身を離すとサンティーノの隣に並んで立ち、夜の闇に沈んだ庭園を見下ろした。

「ここから連日街まで通うのは少々面倒くさい。どうしても夜は遅くなるし、それなら市街に住んだ方が都合がいい。これで本格的にミハイのもとに通い詰めてやれるし」

「迷惑がられない程度にやるんだね」

 サンティーノはあくまで無関心そうに言った。

「そんな訳で、ここにはしばらく帰ってこないよ。君と会える機会が少なくなるのは寂しいけれどね。よかったら、遊びに来いよ。君もたまには夜遊びくらいして発散した方がいい。案内してやるからさ」

 じっと押し黙るサンティーノの頭にレギオンは手を伸ばし、艶々と美しい巻き毛を指に絡めてもてあそんだ。

「行かないよ」

 サンティーノはレギオンの手をそっと払いのけて、彼から少し身を引いた。

「ふうん」

 レギオンはちょっと冷たい目になって、むきになったように顔を背けているサンティーノを睨みつけた。

「別に無理にとは言わないけれどね。でも」

 サンティーノの肩に手を置くと、レギオンはその耳に唇を近づけ―サンティーノには彼の吐息を感じられただろう―揶揄するような口ぶりで低く囁いた。

「寂しくなって泣いても私は知らないぞ」 

 欄干に置かれたサンティーノのほっそりとした手が強張り、大理石に爪を立てようとするような形になった。その様子を目の端に眺め、レギオンはサンティーノの黒い髪に軽く唇を押し当てて、すっと離れた。

「それじゃ、また」

 レギオンは、サンティーノをバルコニーに残したまま、マントを鮮やかに翻して出て行った。

 サンティーノは最後まで何も言わなかった。

 別に何をどう言って欲しかったわけではないが、レギオンの胸の奥にはしこりが残った。

 サンティーノの態度だけでなく自分の言動についても、レギオンには不満がある。

 サンティーノはかけがえのない友人だから大事にしようと思っていたはずなのに、ついまた彼を惑わせることをしてしまった。まさか本当に寂しがって泣くとは思わないが、こんなすっきりしない別れ方をしては、サンティーノはしばらくの間悶々と思い悩むだろう。

 正直、レギオンは後ろ髪を引かれていたのだが、今更引き返すのも馬鹿馬鹿しく、バルコニーを出たところで一瞬足を止めたものの、軽く肩をすくめてそのまま立ち去った。 

 レギオンは溜め息をついた。

(私は、一体サンティーノをどうしたいのだろう…?)


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