天使の血

第三章 罠


 ミサが終わり信者らも皆帰った後の教皇庁礼拝堂は荘厳たる静寂に満たされている。

 レギオンは、1人、会衆席に座って、熱心に祈る風情で頭を垂れて待ち続けていた。

 ミサが始まる前に礼拝堂の傍で捕まえたハンスにミハイへの手紙を無理やり押し付けたのだが、生真面目なハンスとはいえ、よりにもよってレギオンの手紙をちゃんとミハイに渡してくれたかは分からない。だから、彼の誠意をそれ程レギオンはあてにはしていない。

 しかし、以前と同じように聖歌隊の一番前で歌うミハイは、己の真下から熱い眼差しを送ってくるレギオンの存在には気がついていた。彼の感情をあの仮面のような冷たい顔から読み取ることは難しいが、それでもミハイが自分を無視しないことにレギオンは賭けていた。

 自惚れではなく、ミハイならたぶん、ここで待つレギオンを自ら探しに来るだろうと、レギオンは踏んだのだ。

 どれほどの時間が経ったのか。ふいに礼拝堂の扉が静かに開かれた。

 レギオンは目を開けた。疲れたような吐息をついて頭を上げると、椅子の背に体をもたせかけるようにして高い天井に目を向け、それから側壁に描かれたボッティチェリらフィレンツェ人画家によるまだ新しい美しい壁画をちらり見やった。

視界の端に、後ろの方からレギオンに近づいて来る者の姿を捕らえたが、レギオンは彼が立ち止まるまでそのまま待った。

「レギオン」

 凛と涼やかに響く声が彼を呼んだ。

「何を祈っていたんだい?」

 レギオンはすぐには振り向かず、その声の響きを楽しむよう、微笑んだ。

「会う度にいつもいつも私につかみかかってくる暴力的で手強い天使に、それでも構わないから会わせてくれと祈願していたのさ」

「懲りない男だね」

 呆れたように溜め息をついて、ミハイはレギオンの横に立った。

「それに大胆不敵だ。枢機卿は君が僕に近づくことを警戒している。それなのにわざわざ教皇庁のただ中にまで堂々と僕に会いに来るなんて、どうぞ目をつけてくださいと自分から言っているようなものだ。君の一族がどれほどのものかは知らないけれど、あまり挑発的な態度は取るものではないよ」

 レギオンはミハイを見上げた。友好的とまでは言えないが、別に、レギオンに対していまだに腹を立てていたり嫌悪を覚えたりしている様子はない。深い湖の色をした瞳は、恐れ気もなくまっすぐにレギオンの目を見つめている。

「オルシーニ枢機卿か」

 レギオンは唇を皮肉に歪めて嘲笑うように言った。

「君のパトロンなど、私は恐くないぞ」

「勇敢さと無謀な蛮勇は違うよ、レギオン」

 ミハイはたしなめるような顔をした。その瞳が気遣わしげに翳ったかと思うと、彼はレギオンの隣に腰を下ろした。

「君と同じようなことを言って…その…僕に言い寄ってきた男は以前にもいたんだ…大抵は僕に興味を抱いても軽い遊びの気持ちや好奇心程度で、僕が付け入る隙を見せなければじきにあきらめてくれる。けれど、その男は本気だった。芸術肌の夢想家で、僕にか僕の歌にか知らないが、ともかく恋をしてしまった…実際純粋すぎるだけで悪い人間ではなかったんだ…僕は正直心配になって警告したのだけれど分かってくれなかった。結局、彼は夜道で強盗にあって大怪我をし、その後も色々あってローマを出て行かなければならなくなった。彼は不幸な『事故』にあったのだと聞かされたけれど、僕はもしかしたら枢機卿が裏で手を回したのではないかと疑っている。レギオン、そんな話を聞いて、僕が平気でいられると思うのかい? 実際とても気の重いことなんだよ。そんなふうに君が無邪気に僕に言い寄ってくるのも見ていると、あの不幸な男のことを思い出して、冷や冷やするよ。せめてもう少し…慎重になれないのかい?」

「そんなことを言い聞かせるために、わざわざ私に会いに来てくれたのかい? 随分と親切なんだな、ミハイ」

「君は枢機卿を甘く見すぎている」

 ミハイは人に聞かれることを恐れるかのように声を低めて、ささやいた。

「彼は僕の歌を神に捧げられるべきものだと思っているんだ。だから、それを汚すような罪深い行為を許さない」

「それは建前で、枢機卿は君自身に執着しているのではないかな」

 レギオンは不快そうに鼻を鳴らした。

「君が自分を口説こうとする男に警告したくなる気持ちは分かるさ。私も枢機卿に直接呼び出されて、たっぷりと説教だか脅迫だかは聞かされたからな。私が君に対する恋情を遠慮なくぶちまけてやったら、あの偽善者は真っ赤な顔をして怒っていたさ。あれは、間違いなく君に気があるんだ。賭けてもいいね」

 ミハイは、軽い眩暈を覚えたかのように額を押さえた。

「レギオン…そこまで分かっていながら、あえて枢機卿に逆らう君の気が知れない。君はもしかしたら本当に馬鹿なんじゃないだろうかと僕は疑うよ」

「おい、失礼なことを言うなよ」

 レギオンはむっとした。

「何故枢機卿に逆らうか、その理由が分からないのか。全く、君の鈍さの方が、私には信じられないな」

 ミハイは不思議そうにレギオンを振り返った。

「私は君に惚れている。そして他人の横槍に恐れをなして手を引くような半端な恋はしない主義だ」

 にやりと笑って片目を瞑ってみせるレギオンに、ミハイは白々と冷たい顔をした。

「迷惑だ」

 真剣に聞いて損をしたというようにレギオンから視線を逸らすと、ミハイはしごく淡々とした口調で言った。

「レギオン、君はオルシーニ枢機卿を偽善者と呼んだが、彼のために僕は1つだけ弁護をしておく。僕は、以前はフィレンツェにいたのだが、その時のパトロンは男色趣味で、僕はお抱えの歌手ではあったけれど度々その相手もしなければならなかった。そんな状況から僕を救い出してくれたのが、枢機卿だ。僕の過去も、体のことも、これまで犯してきた罪も皆知った上で僕を受け入れてくれた。確かに僕の声に対する彼の執着は少し常軌を逸しているかもしれない。しかし、誓って、枢機卿はこれまで僕に指一本触れようとしたことはない。それだけでも、僕は随分救われているんだよ。そうして、ここでの暮らしの中にやっと心の平安を見いだせたと僕は満足している。レギオン、君の行為は僕の平和をかき乱すことだ。君は自分の気持ちや都合を押し付けるばかりで、僕のことなど少しも気遣ってはいない。それが君の言う恋なのだとしたら、随分と幼稚な感情だね」

「それは…」

 レギオンは思わず赤面し、口ごもった。

「指摘されて初めて気がついたかい。全く、君の無邪気さときたら、ほとんど罪悪ものだね」 

 まさしくミハイの言うとおりだったので、さすがにレギオンも反論できなかったのだが、一方で、違う、そうではないのだという気持ちが胸の中で騒いでいた。

「僕はオルシーニ枢機卿に感謝している。そして、君が何と言おうが、彼の僕に対する好意は清廉潔白なものだよ」

 辛抱強く言い聞かせるミハイを、レギオンはきっとなって睨みつけた。

「それが君の本音だなんて、信じられない!」

 叩きつけるように、レギオンは叫んだ。

「あんな奴から与えられる庇護に君が心底満足しているなんて、私には信じられない。狭い鳥篭の中であいつの望むようにただ歌っているだけで構わないなんていうような、器の小さい人間じゃないだろう、君は! 他の人間と自由に接することも許さない狭量な男の手の内に捕らえられて、いつも誰かに監視されて、そんな暮らしが君の望んだ安寧なのか? かつてどんな苦境にいたかは知らないが、逃げたつもりが、実際君は別の檻の中に押し込められたに過ぎないんだ」

 ミハイの体が雷に撃たれたかのように震えた。弾かれたようになってレギオンを振り返った、ミハイの顔は怒りに燃え上がっていた。

 それを見たレギオンは、大きく息を吸い込んだ。ぞくりと背筋に心地よい緊張感が走る。

 だが、ミハイは込み上げてくる激情を今度は噴出させなかった。レギオンにつかみかからんばかりに伸ばした手を引き戻すと、荒々しく椅子から立ち上がり、背中を向けた。

「君に、何が分かるというんだい?」

 おさまり切らない怒りに震える声で、ミハイは呟いた。

「僕は、自分の意志でここにいる。君にとやかく言われる筋合いはない」

 レギオンは口惜しげに唇を噛み締めた。あと少しでミハイの本音を暴き出せた。あの激情を再び垣間見られただろうに。

 ミハイは己を制御することに成功すると、礼拝堂の天井を仰ぎ見るようにして肩で大きく息をついた。

「レギオン、一体、どうすれば君を追い返すことができるのかな」

 レギオンは唇を舐めながら、手を伸ばせば届くところにあるミハイの背を食い入るように見つめた。

「では、歌ってくれ」

 ミハイは肩越しにレギオンを振り返った。

「私のために歌ってくれ、ミハイ。そうすれば、少なくとも今日のところはおとなしく引き下がってやるよ」

「今日のところは、か」

 ミハイは苦笑いをした。

「つくづく、あつかましい奴」

 だが、否とは言わなかった。

 ミハイはレギオンのいる会衆席から離れると、その前に回りこんだ。レギオンの正面に立ち、挑みかけるような目で束の間彼を見据えた。

 レギオンもミハイから目を離せなくなった。

 歌のため、昂然と胸をそらして立つミハイは、清冽な大天使もかくやというような近づきがたい威厳をまとっていた。レギオンが瞬きすることも忘れたまま彼の眼差しをむさぼっているうち、何の前触れもなく、ミハイは歌い始めた。

 どこまでも澄み渡った透明な声が、ミハイの体から迸る力と共に響き渡る。

 純銀の矢で胸を貫かれたような不思議に甘美でもある痛みを覚えつつ、レギオンはミハイの歌に瞬く間に飲み込まれた。

 ミハイの美しい青い瞳は、レギオンと対決するかのようにじっと彼を見据えている。次第に歌が熱を帯びていくにつれ、その瞳はますます強く輝き、火となって燃え上がった。

(そうだ、この声が聞きたかった。ミハイのこの顔を見たかったのだ)

 レギオンは己の胸にも熱い炎が灯るのを感じながら、感極まったように低く呻いた。

(歌え、ミハイ。高みに駆け上がり、のぼりつめろ…初めて会ったあの時のように、おまえの素顔を見せてみろ…!)

 レギオンは己の顔に獰猛な笑みがうかんでくるのを感じた。伸びてきた牙がちくちくと唇の内側を刺してくる。

 爛々と瞳を輝かせるレギオンの興奮に煽られたように、ミハイは頬を紅潮させ、ますます声を張り上げた。まるで彼自身にもとめられないかのように。そして―。

(ミハイ!)

 抑制が解かれる。固く閉ざされた石の仮面に亀裂が入る。

 突然、今まで聞いたこともないような純粋な声がミハイの唇から流れ出した。まさに魂の叫びだった。

 ミハイの顔に一瞬呆然とした表情がうかぶのをレギオンは認めた。だが、それさえも歌と共に奔流のように溢れ出す悦びの前に霧散した。

 固い蕾がほころんで、巨大な花がゆっくりと花弁をほどいていくように、ミハイの官能が花開く。

 ミハイは、今や我を忘れて歌にのめり込み、ただこの瞬間にのみ生きているかのように全身を震わせ歌っていた。

 青く燃えたつ目でレギオンを見据えたまま、身の内から突き上げてくる高揚感に戦慄き、溺れ、恍惚として。

 ミハイの官能はレギオンにも伝わり、彼の体を隅々まで満たした。突き上げてくる飢渇に、眩暈がしそうだった。

(おまえが欲しい、ミハイ。その心、血、体、おまえのすべてを奪い、飲み干し、私の中に取り込んでやりたい)

 これ以上大きくなれぬほど広がった後、ミハイの歌はやがてゆっくりと、あまやかに小さくなっていった。深い悲しみを漂わせながら消えていく歌の名残りを味わいながら、レギオンはミハイをどうしても手に入れずにはおかないと改めて誓った。

(おまえは私のものだ)

 その時、出し抜けにレギオンは悟った。我にもあらず愕然となった。

 ミハイを罠にかけて捕らえるつもりでいたレギオンだったが、いつの間にか、彼の方がこんなにも強くミハイという存在に絡め取られていたのだ。


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