天使の血
第三章 罠
ニ
それにしても、去勢者とはどこがどのようになっているのだろう。
あれから、ハンスと一緒に大酒を飲み明け方近くにやっと店を出たレギオンは、ふらふらになって街を出、何とか朝のうちにヴィラに辿りついた。よくも途中で落馬しなかったものだと、我ながら感心する。
(いっそローマの中心街に部屋を借りようかな。その方が、夜遊びをするのに何かと便利だし、ミハイの元に通いつめるのにも都合がいい)
そのためには少しまとまった金もいる。ヴェネツィアの両親に頼んで、軍資金を調達しようか。
そんなことを考えつつ己の部屋に戻ったレギオンは、そのまま寝台に倒れこもうとしたが、その時、枕もとの小卓に置かれた封筒に気がついた。
怪訝に思って封を切ってみると、それは明日オルシーニ枢機卿の邸宅で催される音楽会への招待状だった。
「一体、誰がこんなものを…」
一瞬身の回りの世話をする小姓を呼びつけて尋ねようと思ったが、その時、レギオンの脳裏にサンティーノの顔がうかんだ。
「あいつかな…?」
レギオンはふと顔をしかめ、招待状を小卓の上に投げ、寝台の上にごろりと横になった。
招待状は確かにありがたい。オルシーニ邸を訪ねれば、ミハイに会うこともできる。だが、これをレギオンに渡そうとするサンティーノの態度が何となく腹立たしかった。
(そりゃ、ただの友達としてならば、あいつの親切に素直に感謝もするが…私のことが好きだというのに、どうしてこんな真似ができるんだ…? ミハイのところになど行くなと怒るのが普通じゃないのか…? そもそも、あいつが私をけしかけた理由もやはりよく分からない)
サンティーノの複雑な心のひだを理解することは、レギオンには難しかった。肌を重ね、血を吸っても、分かるのは漠然とした感情にすぎない。
レギオンは寝台からむくりと起き上がった。
(サンティーノに会いに行こうか)
レギオンは、突然彼の顔を見たくなった。
そう言えば、サンティーノとは4日前に一度抱き合って、それきりだった。しかも、最後に見たのが、あの泣き顔だ。あれからサンティーノはどうしているのだろうかと、いきなり気になりだした。
(サンティーノならば、ミハイの声の秘密を知って何と言うだろう。繊細で内省的な彼ならば、ミハイの気持ちも少しは理解できるだろうか)
新たに知ったミハイの過去をどう消化すればよいのか、これからどんなふうにミハイと接すればよいのか、まだ迷っているレギオンは、サンティーノの助言も欲しかった。
だが、男性でありながら男の欲望にさらされるというのはどんな気持ちかなどと、よりにもよってレギオンが尋ねるのは非常に無神経というか、サンティーノの細い神経を逆なでするだろうとは予想がついた。
それに、サンティーノがレギオンの恋の経緯を聞かされることを望んでいるとは思えない。この招待状にしたところで、以前ならば、自分でレギオンに手渡ししたはずだ。
(もしかして、あいつを抱いてしまったのは間違いだったかな。以前程には気安く何でも話せなくなったようで、ちょっとつまらない)
レギオンは考えるのが億劫になって、再び寝台の上にごろんと横になると目を瞑った。
(あいつには、ひどいことをしたとは思うよ。本当なら、後から、もっと色々と埋め合わせをして慰めてやるところなんだけれど、今はそんな余裕も時間もないし…)
レギオンにもサンティーノに対して少しはすまない気持ちはあったので、真剣に考え出すと罪悪感にかられた。
サンティーノは思いつめる性格の上、レギオンのように遊びと割り切って性愛を楽しむこともできない。だが、すんでしまったことは仕方がない。
(ああ、何と言うか…気に入った相手をものにする過程だとか駆け引きは好きなんだが…愛の恋だのになると、実に面倒くさい)
レギオンはちくちくと胸を刺してくる後ろめたさは追いやって、大きなあくびをすると、本格的に眠りだした。
オルシーニ枢機卿の豪壮な館は、ヴァチカンから程近いローマの中心にあった。
芸術を愛好する貴族出身のまだ若い枢機卿は、信心深く清廉な人柄として知られていたが、この世の楽しみを謳歌することを己や周囲に禁じてはいなかった。
館には多数の貴族や聖職者だけではなく、音楽家達も出入りを許されていた。特に目を掛けられた才能ある者達は、館に住まうことを許され、援助も惜しみなく与えられた。
時には自らヴィオラを取って演奏を楽しむこともある枢機卿の館では、音楽家達が大勢の客達の前で腕を披露する催しが頻繁に行われていた。今もっとも注目される作曲家の新作が演奏されることもあれば、枢機卿が後援する少年団が可愛らしい声で合唱することもあった。
秋の気配の漂うひんやりとしたその夜、レギオンが館を訪れた時には、広大な中庭に面するホールには300人近くの客達が集まって、丁度始まったばかりの楽団の演奏に聞き入っていた。
美々しく装ったレギオンが公子のような堂々とした足取りでホールに入っていくと、近くにいた者達が思わず彼を振り返り、はっと息を吸い込んだ。女達は頬を染め、男達は敵愾心を燃やしかけるもとても太刀打ちできないというように顔を背けた。
だが、レギオンは、そんなことは全く気にもかけていなかった。
(ミハイは、まだこのホールには出ていないようだな)
大勢の客達で込み合うホールをゆったりと歩きながら、レギオンは周りを見回した。
貴族や聖職者に混じって己を売り込むことに余念のない芸術家達もいるが、そもそも、あの無愛想なミハイが熱心に社交をするとも考えにくい。歌うためにホールに出てきて、終わったらさっさと引っ込むつもりだろう。
ふと、レギオンの目は、絢爛たる身なりの貴族達にかしづかれて熱心に演奏に耳を傾けているオルシーニ枢機卿の上に止まった。ミハイの後援者だという男だ。曲にうっとりと聞き惚れ、リズムを追うように微かに指先を躍らせている男の顔からは、子供のような純真さと情熱が感じられた。そう言えば、『闇の貴族』の音楽会でミハイの歌を聞いていた時も、彼は恍惚とした表情をしていた。音楽を偏愛する枢機卿らしいが、レギオンには、何となく気に食わなかった。彼が、ミハイを独占しているからかもしれなかった。
レギオンは、ミハイが出てくるまでここで待つつもりだったのだが、オルシーニの様子を見ていて気を変えた。
彼はホールからさりげなく出て行くと、ミハイの気配を追って、目にもとまらぬ速さで動く影となって館の中を探し始めた。
(ミハイ、ミハイ、どこにいる?)
これが情を交わした相手ならもっとたやすく居場所を突き止められるのだが、それでも二度の接触によってレギオンにとってミハイを探すのは前よりずっと楽になっていた。
血の匂いに引かれて。いや、むしろ、ミハイの体が発する生命の輝きのようなものに導かれて、レギオンは進んだ。ミハイが放つ輝きは、他の人間よりも強かった。
程なくして、レギオンはミハイが歌を披露する前に控えている2階の一室を探し当てた。
部屋の前には誰もいなかった。真面目なハンスも今は見当たらない。
レギオンはいきなり中に入ることはせず、礼儀正しく扉を叩いて、ミハイの応えを待った。
「いいよ、入っておいで」
ハンスとでも間違えたのだろう、気さくに呼びかけるミハイの声を聞いて、レギオンは扉を開いた。
小部屋の中には燭台が灯されており、その灯りの下で、ミハイが楽譜を手にとって熱心に目で追っていた。頭の中で曲を追いイメージを膨らませているのか、その目は夢見るように細められている。
レギオンは静かに扉を閉じると、ミハイの様子をしばらくじっと見守った。ミハイが、レギオンの存在に気がつくまで。
果たして、ミハイは耳に聞こえぬ悪魔の囁きを聞いたかのように身震いし、レギオンの立つ扉を見上げた。その双眸が大きく見開かれた。
「レギオン?」
守りの固いミハイが見せる無防備な表情は、レギオンを喜ばせた。しかし、そんなことはおくびにも出さず、レギオンは、丁寧で控えめな態度で軽く礼をした。
「音楽会の招待状をもらったんだ」
低い穏やかな声で語りかけた。
「君に会うために館に忍び込んだ訳じゃないよ」
最初の衝撃から立ち直ったミハイは、眉間に皺を寄せた。
「ここまで入ってきていいなんて、招待状には書かれていないはずだ」
レギオンは軽く肩をすくめた。
「全く、君には呆れるな。どうして、そんなに僕に付きまとうんだ?」
「君の賛美者だからさ」
ミハイは大きな溜め息をついて、楽譜を手に椅子から立ち上がった。
「くだらない話は聞きたくない。出て行けと言っても、君はなかなか聞きそうにないから、僕が出て…」
ミハイがみなまで言い終えるより先に、レギオンは彼のすぐ前に立ちはだかるようにして立っていた。
ミハイは虚を突かれたように、レギオンを見上げた。
「直截的な態度が好みなら、君の求愛者と言おうか」
ミハイの細い眉がきりきりとつりあがり、冷たい瞳が青く燃え上がるのに、レギオンは奇妙な興奮を覚えていた。
「戯言にはうんざりだ。そこをどけ」
「誰もふざけてなどいないさ。私は、本気で言っている」
ミハイの美貌に、毒のこもった冷笑が閃いた。
「だとすれば、語るに落ちたな、レギオン。僕の歌に感動したとかもっともらしい理由をつけてやってきて、本音はそれか。罪のない顔をして、結局君も汚らわしい目的で僕に近づく奴ら同じか」
ミハイから発せられる怒りの激しさに、レギオンは思わず息を吸い込んだ。
それにあおられて、レギオンは一瞬言い返そうとしたが、その時ハンスから聞いた話を思い出し、口をつぐんだ。
(ミハイは去勢者なんだ)
ミハイは、子供の頃トルコ軍にさらわれ、奴隷として異国の地で苦難の日々を過ごさなければならず、その間に己の性を失うほどの悲惨な目にあわされたという。
そんなミハイに興味を持って言いよってくる男達に、彼はよほど悔しい思いをしてきたのだろう。
あるいは、ミハイはこれまでの人生で性的な玩具として扱われた経験もあったのかもしれない。異教徒の手に落ち、奴隷として扱われ、その間彼のような美しい少年が無傷であったというのも考えにくい。もしかしたら、イタリアに渡ってからも同じような目にあっていたことも考えられる。今でこそ成功してオルシーニ枢機卿のような強力なパトロンの庇護下にあるミハイだが、ここまで登りつめるには相当な苦労があったはずだ。
そんな想像が頭の中に一気に押し寄せてき、いつもは多弁なレギオンも、この時ミハイにどう言い返したらいいのか分からず、不器用に黙り込むしかなかった。
ミハイは、怒りの色に染まった顔をレギオンにまっすぐに向けたまま、体の脇で固く拳を握り締めて立ち尽くしている。
レギオンは思わず目を逸らしたくなる衝動を堪えるのに、己をよほど叱咤しなければならなかった。
(くそ、どうして、こんなに後ろめたい気分がするんだ…!)
己の下心が、まさにミハイが厭うそういうことを含んでいるからだ。自らが誇り高いがゆえに、レギオンも他人の自尊心をあからさまに傷つける悪趣味は持たなかった。
血を奪って殺すことにはこれっぽっちもやましさを感じないレギオンだが、ミハイにこんな責められるような目で見られることには、何とも居心地が悪かった。
「ミハイ、私は…そんなつもりでは…」
では、どういうつもりなのかと自問して、レギオンは口ごもってしまった。
そんなレギオンをミハイは見下げ果てたというように見据え、ふいっと顔を背けると、その横を通り過ぎようとした。
「ミハイ!」
レギオンは思わず彼の手を捕まえていた。どうしようというつもりはなかった。だが、ミハイの冷たい怒りを帯びた顔が振り返るのを見た時、またしても、レギオンの天邪鬼の虫が動いた。
「そんなにお高くとまることはないだろう!」
レギオンは、頭にかっと血が上り、口が勝手に動いてしまうのを意識した。
「本当の意味では男性と言えないおまえが、男としての誇りを傷つけられたなんて生意気を言うな。大体おまえだって、その体を武器にして、時には男の汚らわしい欲望も利用して、ここまでのしあがってきたんじゃないのかい?」
ミハイの顔が瞬間紙のように白くなり、強張った。
レギオンは、熱くなった頭の片隅でしまったと思ったが、もう遅かった。
「それにしても、去勢されたというのは、どこがどんなふうになっているのかな。ミハイ、私にも一度見せてくれないか?」
ミハイは楽譜を挟んだ皮の表紙でレギオンの顔を思い切り叩いた。レギオンはよけようとはせず、それを甘んじて受けた。
ミハイは荒い息をついて、レギオンを睨みつけた。
「最低の男…!」
床に落ちた楽譜を拾い上げると、ミハイはそのまま足早に扉を開けて外に出て行った。
「ど、どうしたんだ、大声を出して…」
戻ってきたらしいハンスの当惑気味の声が、扉の外からした。
「まさか、またあいつが…?」
勢いよく扉が開き、ハンスの怒りをはらんだ顔が半分覗いたが、後ろからミハイに引っ張られたらしく、彼は背後を振り返った。
「放っておけ! 僕は、もうそいつに関わるのは我慢できない」
「ミハイ」
ハンスは、無言で立ち尽くすレギオンを一瞬睨みつけ、叩きつけるように扉を閉めると、ミハイを追いかけていった。
1人部屋に残されたレギオンは殴られた頬を手で触れた。ミハイが消えていった扉から目を逸らし、苦々しげに笑った。
「こんなはずじゃなかったのに…どうして…?」
いつも自信満々のレギオンらしくない、途方に暮れた呟きだった。
『相変わらず、素晴らしい歌声ですこと。まさにローマ一、いいえ、どの国の宮廷を探しても、これほどの歌い手はいませんわ』
『それにしても、今夜の彼の歌は、いつにも増して熱が入っていないかな。こう、ぐっと胸に迫ってくるような恐いくらいの迫力じゃないか』
今宵の音楽会で最大の演目であるミハイの歌が始まると、それまでホールの端やバルコニーに出て他愛のない社交に興じていた客達も、ホールの奥に作られた舞台の前に戻ってきた。
器楽の伴奏でソロを歌うミハイの声は、確かに、いつにも増して力のこもったものだった。突き上げてくる激しい感情が唇から迸るようで、ある種の緊張感さえ聴衆達に覚えさせていた。
レギオンは、そんなミハイの姿を人のいないホールの壁際、太い柱の陰に隠れるように佇んで神妙な面持ちで見ていた。
ミハイの声がレギオンの胸に迫ってくる。遠く離れているというのに、剥き出しの怒りが突き刺さる。レギオンは彼に殴られた頬にそっと触った。
(そんなに怒るなよと、気安くは言えないな。私は、まさにミハイが一番触れられたくない部分に無遠慮に手を突っ込んでかき回した訳だ)
レギオンは、あまり罪悪感に苦しめられることには慣れていない。すんなり忘れてしまうこともできず、だからと言ってどうすれば許してもらえるのかも分からず、彼らしくもない弱気な態度で、ミハイからは見えない場所からこうして彼の姿を追うことしかできないでいた。
そんなレギオンに、ホールの奥から1人の男が近づいてきた。
「失礼」
レギオンはあまり関心のない顔をそちらへと向けた。やや年配の位の高い召使いらしい。
「私に何か用か?」
「我が主人、オルシーニ枢機卿があなた様と話されたいと申されております。音楽会の終了後もしばしここにお留まりいただけますでしょうか?」
レギオンは、片眉を跳ね上げた。
「枢機卿がだと?」
思わず首をめぐらし、舞台の前の椅子に座っているはずの枢機卿の姿を探した。だが、今は他の客達の陰に隠れて、ここからでは、その緋の衣の切れ端すら垣間見ることはできない。
(オルシーニ枢機卿が、どういうつもりで私を? 私が『闇の貴族』だからか、それともミハイにちょっかいをかけたことが耳に入ったからか)
レギオンは一族の者といっても、まだ若くそれほど重要な地位は持たず、枢機卿のような高い身分の人物が興味を持つとは思えない。
(だとすればミハイがらみか。ふうん、オルシーニ枢機卿はミハイには並々ならぬ関心を持っているらしい。護衛までつけて変な虫がつかないよう守っているくらいだしな)
またしてもオルシーニ枢機卿に対する本能的な反発を覚えたが、やはり好奇心が勝って、レギオンは行儀よく彼の応えを持つ召し使いににっこりと愛想よく答えた。
「承知した。拝謁の機会を賜わり、まことに光栄だと君の主に伝えてくれ」
慇懃な召使いが去った後、レギオンは再びミハイに注意を戻した。彼に対するやまさしはまだ胸の奥でくすぶっているが、ひとまずそれは脇において、レギオンはオルシーニ枢機卿との会見について考えることにした。
「こちらの部屋でお待ち下さい」
音楽会が終わるや、すぐにあの召使いがレギオンのもとに戻ってきて、彼を館の奥に導いた。
絵画や彫像に飾られた長い廊下を歩き、両開きの扉を何枚も開いて、導かれた控えの小部屋で、レギオンはしばし待たされた。
あまり気は長くないレギオンがそわそわし、立ち上がって部屋の中をうろうろと歩いたり、あくびをして伸びをしたりしだした頃、ようやく召使いが現れて彼を奥の部屋に通した。
それは、非公式の謁見にでも用いられるような豪華だがやや小さめの広間だった。壁に飾られた天使に囲まれた聖母子の素晴らしい絵画が目に付く。
部屋の奥にある椅子には数人の側近を従えた枢機卿が腰を下ろして、レギオンを興味深げに待ち受けていた。
枢機卿が手招きするのに、レギオンは扉の前で優雅に一礼をした後、落ち着き払った態度で進み出た。
「私の音楽会を楽しんでもらえたかな?」
レギオンが儀礼どおり跪いて指輪に口付けをすると、微かに枢機卿の指が強張った。レギオンは面を伏せたまま、ふっと微笑んだ。
「はい、猊下。大変楽しい夜を過ごさせていただきました」
レギオンは顔を上げると、実に無邪気そうに答えた。
そんな彼に、枢機卿は眩しげに目を細めた。彼は実に数秒間答えることも忘れて、ぽかんとレギオンに見入った。
人間達の多くは、ヴァンパイアの美しさを地上に舞い降りた天使か神のそれのように受け止める。
だが、レギオンの本性を知っているらしい枢機卿は、己を束の間とらえた幻惑に身震いして我に返った。
「まこと、類にまれな美を誇る血統だな、おまえの一族は。さて、おまえの名は?」
「レギオン。ヴェネツィアから参りました」
輝くような笑みを顔に貼り付けたまま、レギオンは枢機卿がどう出る気か、興味津々待ち受けていた。
「おお、ヴェネツィアか。私もかつて訪れたことがあるよ。サン・マルコ寺院の黄金に輝くモザイク画の素晴らしさに感動したものだ」
レギオンはしばし枢機卿と当たり障りのない社交辞令的な会話をしながら、相手の真意をうかがった。枢機卿も、同じようにレギオンの本心を探っているのだろう。
「ミハイも、一時ヴェネツィアにいたことがあるのだよ」
どうやら、枢機卿はやっと核心に入ってきたようだ。
「それは存じませんでした」と、レギオン。
「彼とはまだ、それほど親しいわけではありませんので」
平然としたレギオンとやはり穏やかな枢機卿は同時に押し黙った。
「私がローマにミハイを連れてきてから、もうかれこれ4年になる。ミハイの前のパトロンはメディチ家に連なる貴族であり、彼を譲り受けるために私は大変な努力を払わねばならなかった。相応の出費もしたが、彼の声にはそれだけの価値があったと思っているよ。どう思ったね、ミハイの歌を聞いて?」
「我々は美しいものに弱いのです、猊下。真に感動する美に出会ったなら、例えそれがあなた方に属するものであっても、素直に頭を垂れて跪きます。そして、私はいまだかつてミハイの歌ほどに美しい音楽を聞いたことがありません」
レギオンは、嘘はついていない。サンティーノのリュートでさえも、あの鬼気迫る迫力にはまだ少し及ばない気がした。
「おお。おまえも、そう思うのだね」
枢機卿は嬉しそうに相好を崩した。気に入りの歌手が褒められて、彼の緊張も警戒心も少しほぐれたようだ。
「まさに天上から降ってくる音楽のようだろう。あのような声が地上に存在することは奇跡に等しい。私は、ミハイの歌を聞くたびにいつも彼の上に神の恩寵があることを感じるよ。ミハイは、あの声で霊の世界を体現しているのだ。我々は彼の歌を聞くことで、肉体を持ちながら神と精霊の世界を感ずることができる。天上を垣間見ることができるのだ」
身を乗り出すようにして訴える枢機卿の熱意に、レギオンは微かに目を見張った。
(私が覚えたのは、霊だの神だのよりも、もっと原始的で根源的な熱い感動でしたよ、猊下。肉体を震わせるような官能と、私なら素直に認めるでしょう)
だが、そんな内心はおくびにも出さず、レギオンは曖昧にうなずいた。それから、ふと思いつくままに、言った。
「神の恩寵と猊下は言われる。だが、あの声の秘密が、ミハイが受けた悲惨な傷にあるかと思うと、私にはそれが祝福であるのかどうか疑問が沸きます。果たして、その点について、猊下はどう思われるのでしょう?」
レギオンの大胆な切り返しに、影のように枢機卿に従う側近達が微かにざわめいた。だが、枢機卿自身はそよとも動じなかった。
「神は、ご自分の愛する者にしばしば苦難をお与えになるのだよ、レギオン」
信仰など薬にしたくとも見当たらないようなレギオンには、釈然としない答えだった。
「成る程、おまえはミハイの体のことも知っている訳だね。彼の過去についても、少しは聞き及んだのか」
「はい。ワラキアの生まれで、子供の頃戦いに巻き込まれコンスタンチノープルへ奴隷として売られたと聞きました」
「ミハイは、もとはワラキアの地方貴族の出身だ。トルコ軍と戦った勇猛な武人の一族だったそうだ。彼の祖父も父も兄弟も、皆、異教徒との戦いで命を落とした。ミハイ自身は剣を取るには幼なすぎたが、それでも同じ、強くて勇敢な血は彼のうちにも流れているよ。そうでなければ、彼が経てきたような苦難を乗り越えて、今、我々の前に立つことなど出来なかったろう」
レギオンは、初めて聞くこの話に思わず息を吸い込んだ。
ワラキアの武家の出か。成る程。どおりで、あれほど鼻柱が強いはずだ。
「ミハイはとても高潔な魂を持っている。だが、不幸なことに、普通とは異なる彼の声や体に厭うべき関心を覚えて、彼に近づこうとする者は後を断たない。このローマですら、そのような不心得者がミハイに害をなそうとしたことが何度かあった」
「だから、あのような護衛を彼につけたんですね」
枢機卿は、不本意そうに頷いた。
「ミハイは行動の自由を制限されるようで嫌がったのだが、仕方のない措置だった。ミハイにとっても、彼に惹きつけられた者達にとっても、不幸な事態を予防することが懸命なのだ」
「はあ」
レギオンは、いよいよ自分に矛先が回ってきたのを感じたが、枢機卿の回りくどさにいい加減うんざりしていたので、むしろ歓迎したいくらいだった。
「おまえは、既に二度に渡ってミハイのもとに忍び込んだそうだな。この報告に、私は非常な憂慮を覚えておる。これが取るに足りない馬鹿な貴族の若造であったなら、私がこのように直接話をしようとは思わなかったろう。だが、おまえは」
枢機卿は、言いにくそうに口ごもった。
「闇の貴族ですから」
レギオンはさらりと言って、純真な笑顔を見せた。
「おまえの一族とオルシーニ家とは長い付き合いになる。長年にわたって協定を結んできた親しい間柄だ。我が一族が政敵を破ってローマの権力者となることにおまえの一族が力を貸し、我が一族はおまえたちがここで普通の人間達と変わらぬ生活ができるよう取り計らってきた。その…おまえたちが、生きるため必要とする犠牲についても少なからず目をつぶってな」
「我々は人間と共生したいと思っています、猊下。人間に追われることも、人間と戦い無駄な血を流すことも望んではおりません。そのためには、貴方のような理解のある人間が必要です」
悪びれもせずに答えるレギオンを、枢機卿はつくづくと眺めた。
「そうであれば、私の宝物に手を出すのはやめてくれないか、レギオン」
枢機卿は苦笑した。
「ミハイは、猊下の所有物なのでしょうか」
レギオンは、つい反発心を抑えかねて、言い返した。
「私は、ミハイを守りたいと思っている。おまえが彼に近づく目的が何であれ、ミハイにとってよいものとは到底思えない」
「私は」
レギオンは唇を舐めた。舌先三寸で枢機卿の追及をかわすことは簡単だった。しかし、レギオンはそうしたくはなかった。
「確かにミハイに惹かれております、猊下」
そう告げた瞬間、オルシーニ枢機卿の知的な顔にうかんだ敵意を、レギオンは見逃さなかった。
「なぜならば、ミハイは私を感動させる素晴らしい声で歌い、姿も美しく、そして、一見冷たく頑なでありながら私が今まで見たこともないような激しい炎を内に秘めているからです。彼の歌を最初に聞いた瞬間、私は彼が欲しいと強く思いました」
レギオンにとってもあながち嘘とは言えない赤裸々な告白に、枢機卿の顔に朱の色がのぼった。その手は、怒りを抑えようとするかのごとく、椅子の肘掛の上で固く握られている。
「汚らわしい」
ほとんど呪詛のように響く低い呟きに、レギオンは猫のように緑の目を細めた。
「私は、おまえの一族との間に波風は立てたくない。だが、ミハイに危害を及ぼそうとするならば、私はおまえを全力で阻止する」
「さて、どのようにするおつもりなのでしょう、猊下。私には、人間に対するような脅しは効きません。この世のいかなるものも、私を傷つけることはできないのです」
「だが、おまえにも、それなりに失いたくないものはあるのだろう、レギオン。少なくとも、おまえの一族は、我がオルシーニ家との友好関係を損ないたくはないはずだ」
痛いところを突かれたように、レギオンは顔をしかめた。確かに、人間は怖くないが、人間に唆された一族は手ごわい敵になるかもしれない。
レギオンの沈黙は、枢機卿に余裕を取り戻させた。彼は微笑を浮かべ、鷹揚に頷きかけた。
「おまえも、どうか冷静になって考えてみておくれ、レギオン。たかが人間の歌手1人に、『闇の貴族の』のおまえがそれ程血道をあげることもあるまい」
レギオンは胸にためていた息をゆっくりと吐いた。込み上げてくる怒りのためか、火のように熱く感じられた。
「私は、ミハイは誰のものであってもならないと思っている。彼の歌声は神のもの、ひいては教会に属する人々のものだ」
枢機卿の言葉には何かしら偽善的なものが感じられた。
「今宵は、おまえと言葉を交わせてよかったと思っておるよ、レギオン」
やんわりと退出を促す枢機卿に、レギオンはうやうやしく一礼をし、くるりと踵を返して広間を後にした。
(人間風情が、よくもこの私に脅しなどかけたな!)
むしゃくしゃして仕方がなかったレギオンは、長い廊下を引き返す途中、目についたローマ時代のものと思しき女神の胸像を素手で叩き壊してやった。八つ当たりだったが、枢機卿のものかと思うと、それでちょっと気が晴れた。
(私がこのままおとなしく引き下がると思ったら、大間違いだぞ、オルシーニ)
ミハイに対する罪悪感からしばし彼への求愛に対して及び腰になっていたレギオンだが、思わぬ横槍が入ることで逆に気持ちを煽られたようだ。
(私を邪魔できるものなら、やってみるがいい)
何が何でも他人の思惑通りには動きたくない。それがレギオンだった。