天使の血

第三章 罠


 朝早く、何かの気配を感じて、サンティーノは浅い夢の中からゆっくりと目を覚ました。

(もう朝か…)

 気だるげな吐息をついて、サンティーノは、上げた手で窓から差し込む淡い光を遮ろうとした。その時―。

「サンティーノ!」

 頭の上からいきなり声が浴びせかけられるのに、サンティーノはひいっと叫んで寝台から飛び起きた。

「レ、レギオン…?!」

 見ると、やはり寝台の傍にレギオンが佇んでいた。

「き、君は、一体ここで何をしているんだ! 人がぐっすり眠っている時に…い、いや、それよりも勝手に寝室にもぐりこむなんて…さては壁抜けをしたな! 礼儀知らずにも程があるぞ!」

 朝っぱらから真っ赤な顔で怒鳴り散らしながら、サンティーノは寝乱れた髪や夜着をとっさに手で直した。

「すまない。でも、これでも君の迷惑にならないように気を使って、夜が明けるまで辛抱して待ったんだよ」

 レギオンは、何やら切羽詰った面持ちをしていた。それが、サンティーノの怒りをそいだ。

「サンティーノ、助けてくれ」

 サンティーノは相当面食らって、目をぱちぱちさせた。レギオンが助けてくれとは、驚天動地の出来事に思われた。

「あ…」

 サンティーノは殊勝げな顔つきで答えを待っているレギオンを見上げたまま、肩で息をついた。急に意識したように、ちらりと寝台の上に目を落とした。頬が熱くなった。

 ここで数日前にあったことが鮮やかに脳裏に甦って、一瞬サンティーノを居たたまれない心地にしたが、レギオンはそれを思い出すこともできないほど他の悩みで頭が一杯のようだ。かえって、これは今のサンティーノにはありがたかった。

「レギオン…君の、そんな困り果てた顔を見るのは初めてだよ。一体、何があったんだい…?」

 なるべく平静さを装って、サンティーノは問いかけた。レギオンとあんなことになって以来、彼と直接会うことを避けていたサンティーノだが、あんまり意表をつかれた再会の仕方だったせいか、恐れていたほどの気まずさは感じなかった。

「その…ミハイのことなんだが…彼に近づくことはできたんだ。でも、思ってもみなかったことが色々出てきて、ちょっと困っている。いや、お手上げなんだ」

「あんなに自信満々だったくせに、早くも音をあげたのかい、レギオン。意外に、根性がなかったな」

 少し意地悪な気持ちで言うサンティーノを、レギオンは情けなそうに見つめた。

「ともかく、何があったのか話してくれ」

 サンティーノは本格的に起き出すと寝台の端にちゃんと座りなおして、レギオンに隣に座るよう促した。

 そうして、レギオンはハンスから、そしてオルシーニから聞いた、ミハイの過去と声の秘密を打ち明けた。

 これはサンティーノにとっても驚きに値する話だった。

「そうか、ミハイの声にそんな種明かしがあったとはね。去勢歌手なんてものが本当に存在したとは、それだけでも驚きなのに、それが実際あんな声を出す素晴らしい人間楽器だったとは…」

 それから、古い記憶を手繰り寄せながら、考え深げに呟いた。

「そう言えば、昔東方世界を旅した同族から聞いたことがあるよ。まだトルコ軍によって陥落する前のコンスタンチノープルを訪れた折に、そこの教会で去勢歌手の歌を聞いたというんだ。大人の男が子供の声で歌うのが物珍しく、あれこれ尋ねてみたところ、かの地ではそれ程珍しくはないという。子供の頃に病気や怪我で男性としての機能を失った者達に誇りを持って働ける場を教会がこんな形で提供したのだと、表向きはそうなっていたが、実際はもっと意図的なものがあったらしい。声を保つための施術を密かに請け負う医者までいたそうだよ」

「ミハイをあんな体にしたのは、野蛮なムーア人だ」

 レギオンにはサンティーノの知る雑学などどうでもよいらしい。

「それは確かに過酷な運命だと同情するよ。よくも生き延びて…いや、無事にヨーロッパに脱出して、歌手としてあれほどの成功をおさめるまでのし上がったものだと感心もする。ミハイには逆境を乗り越えるだけの意志の力があったんだろうね」

 レギオンの『恋』の対象であるミハイにサンティーノが抱く感情は複雑だ。その境遇に思いをはせれば胸が痛まないでもないが、素直に同情をするほどお人よしでもない。

「それで、ミハイの秘密を知った今、君が困り果てている問題とは何なんだ、レギオン?」

 レギオンは、彼らしくもなく躊躇った。

「その…ミハイの体のことを知って、私はついうっかり、とんでもない暴言を彼に向かって吐いてしまったんだ。それで、彼が激怒して…」

「暴言?」

「うん…本当の男ではないくせにお高くとまるな。去勢したところがどんなふうになっているのか見せてみろ、と」

 サンティーノは目をむいた。

「この馬鹿っ!!」

 サンティーノは思わずレギオンの頭を固めた拳で殴りつけた。レギオンは小さな悲鳴をあげて、両手で頭を覆った。

「き、君は…君という男は、無神経にも程がある! そんな侮辱をミハイのような境遇にある人間にするなんて…愚劣極まる行為だ。君のような悪趣味な男が同族だなんて、考えるだけで僕は恥ずかしくて情けなくて涙が出そうだよ!」

 ミハイには同情しないと思っていたサンティーノだが、今は違った。

「私だって、最低なまねをしたと思って後悔しているさ! でも、今更言ってしまったことは取り消せない! だから困っているんだ」

 サンティーノはまだ腹を立てていたが、レギオンの弱り果てた様子に少し気持ちを和らげた。

「一体どうして、そんなひどいことを言ってしまったんだい?」

「分からない」

 レギオンは、途方に暮れたようにぽつりと言った。

「ただ、ミハイの秘密を知ってしまった私は、彼をどんなふうに扱えばいいのか分からなかったんだと思う。ちょっと珍しい身の上と割り切ったつもりだったが、実際戸惑っていたんだ。だから、ミハイと顔をつき合せて話した時、私はつい動転してしまった。あんなことを本当は言うつもりではなかったのに、彼の冷たい顔や、押し殺した激しい怒りに接していると、訳の分らない強い感情が込み上げてきて…あんな偽悪的な振る舞いをしてしまった」

「レギオン…」

 サンティーノは何かしらはっとして、眩しく輝く金髪の頭をうなだれているレギオンを凝視した。こんなふうに戸惑い不安に駆られたレギオンを見るのは、初めてだった。

「確かに、言ってしまったことは今更どうしようもないね」

 サンティーノは内心の動揺を押し隠しながら、つとめて冷静に答えた。

「それで、君自身はどうしたいと思っているんだい、レギオン? ミハイの君に対する感情は最悪のものになってしまっただろう。いっそ、潔くあきらめて、別の獲物を探すというのも1つの手だよ」

 そう言いながら、レギオンがミハイを諦めて欲しいと願っている自分に、サンティーノは気づいた。

 またしても嫉妬か。でも仕方がない。

 胸の奥に永遠に封じ込んでしまうつもりだった火を、あんな形で無理やりかきたてられてしまっては、もう消し去ることはできそうにない。

「いや、このまま引き下がることなんて、私にはできない」

 きっぱりと答えるレギオンに、サンティーノは嘆息した。

「では、どうにか許してもらうしかないね」

「ああ、そう思うんだが、一体どんなふうにすればミハイの心を和らげられるのか、私には分からないんだ。ミハイはとても誇り高くて…己が受けた侮辱をそう簡単に忘れられるような容易い奴じゃないんだ」

 サンティーノはつくづくとレギオンを見つめた後、暗い目をして顔を背けた。

「下手な小細工などしない方がいい。見栄も誇りもこの際忘れて、素直に謝るしかないよ」

「でも、何て言えば分かってもらえるのか…」

「だから、今、僕に向かって言ったようなことを素直に伝えればいいのさ」

 レギオンの視線が突き刺さるのを感じたが、サンティーノは頑なに顔を上げなかった。

「そうか…やっぱりそれしかないか…」

 しばし考え込んだ後、レギオンは低い声で呟いた。

「分かった。君の言うように率直に謝ってみるよ。とにかく許してもらえるまで諦めないで、ミハイのところに通い詰めてやる」

 吹っ切ったように言うと、レギオンはサンティーノの肩を軽く叩いた。思い出したように、付け加えた。

「ああ、それから、実はもう1つ問題があったよ。いや、こっちの方は、私にとってそれほど大事ではないんだが。ミハイのパトロンのオルシーニ枢機卿に脅された。私がミハイに近づこうとするのを、どんな手を使ってでも止めるそうだ」

「えっ?」

 サンティーノはぎょっとして、レギオンを振り返った。

「結構、本気だったよ。場合によっては、一族の方に手を回しかねない。ミハイに対する彼の執着は、並々ならぬもののようだ」

「レギオン…ミハイの怒りなどよりも、そちらの方が大問題なんじゃないのかい?」

 サンティーノは本気で心配になってきた。

「いや、冗談でなく、ミハイからは手を引いた方がいいかもしれないよ。僕も、うっかりミハイに恋を仕掛けろなどと言わなければよかった。まさか、オルシーニ枢機卿が、たかが歌手1人のことでそこまで本気になるとは…」 

「それこそ冗談じゃないよ、サンティーノ!」

 レギオンは憤然として叫んだ。

「私は嫌だからな。人間の脅しに屈して、狙った獲物をあっさり諦めるなんて」

「でも…」

 重ねて説得しようとしたサンティーノだが、レギオンが真剣な面持ちで己をじっと見つめるのに口をつぐんだ。

 レギオンは親愛の情のこもった眼差しをサンティーノに注ぎながら、ゆっくりと言った。 

「サンティーノ、君にはすまないことをしたね」

 いきなりこんなふうに切り出されて、サンティーノはとっさに何と言えばいいのか分からなかった。

「君のことは、ずっと気になっていたんだよ。君の顔が頭の中にちらつく度に、胸がちくちく痛んだ。今度会った時に、君に余所余所しくされたり、前のように打ち解けて話せなくなっていたりしたら、どうしようとずっと不安だった。今回も、君にとってはあまり面白くない相談ごとだったろうに…我慢して聞いてくれて、それにちゃんと答えてくれて…私は君にどんなに感謝してもしきれない。いつも君を傷つけてばかりで、すまない。あんまり君が優しいから、私は、ついその心地よさに甘えてしまうんだ」

 レギオンは、サンティーノが今まで聞いたこともないような優しい声で囁きながら、彼の肩をそっと撫でていた。

「君は私にとって大切な存在だよ。絶対に失いたくない。愛人の代わりならいくらでも見つかるが、君の代わりは誰にもできないからね」

「レギオン」 

 サンティーノは大きく息を吸い込んで、口を開きかけた。不覚にも、唇が震えた。怒鳴ればいいのか、泣けばいいのか、自分でも訳が分からなくなって、両手で顔を覆った。

「君は、いつもいつも、そうやって僕を混乱させる…僕がどんなに取り繕っても、そうやって隙を突いて心の中に入り込んできて、僕を振り回す…いっそ君を嫌いになれれば、どんなにか楽になれるだろうに」

「サ、サンティーノ、泣くな…!」

 サンティーノは伸ばされたレギオンの手を払いのけ、頭を振った。

「仕方がないよ。君を好きになったのは、僕だからね」

 サンティーノは天井を睨みつけるようにして仰ぐと、肩で大きく息をした。

「僕は君を嫌いになれそうにないし、君から離れられない。これで、安心したかい?」

 サンティーノがにっこりと振り切るように笑うと、レギオンは瞳を揺らした。

「ごめん…」

 レギオンは堪りかねたようにサンティーノを引き寄せ、抱きしめた。肩に顔を埋める彼の頭に、サンティーノはそっと手を置いた。

「うん、うん…もう、いいんだよ」

 レギオンの傍にいたい。ずっと彼を見ていたい。この想いの前には、誇りや意地など吹き飛んでしまう。レギオンが例えこの先どんなに多くの恋を重ねても、人間相手ならば、負けない。レギオンの時間に最後までついていけるのは、サンティーノなのだ。

「でも、レギオン、くれぐれも無茶なことだけはしないでくれ。何と言っても、オルシーニ枢機卿はローマ有数の権力者だ。僕も、一族の中で君に対する陰謀など企てる動きが出てこないか、それとなく見張っておくけれど…」

 場合によっては、ハイペリオンかブリジットに頼み込んで圧力をかけてもらおう。サンティーノにも責任のあることだ。つい嫉妬に目が眩んで、レギオンをミハイに対してけしかけてしまった。あの時は可愛さあまって憎さ百倍の気分だったが、やはりレギオンとこうしていると可愛さが勝る。

「心配するなよ。私は、うまくやる」

 サンティーノの黒い巻き毛を指先に絡めながら、レギオンはあまやかに囁きかけた。

「そうであればいいんだけれど」 

 サンティーノはレギオンの抱擁から離れると、彼の顔を両手で包み込むようにして、じっと見つめた。おさな子のように、レギオンは信頼に満ちた眼差しを向けてくる。

「さあ、もう行ってくれ。君がいつまでもぐずぐずしていると、じきに僕を起こしにやってくる小姓がびっくりして、後で色々言い訳をしなくてはならなくなる」

 本当は、レギオンを抱きしめて引き止めたい。その唇に、唇を重ねたい。それから。

「それから…今度ここに来る時は、壁抜けなんて行儀の悪い真似はしないで、ちゃんと正面から訪問してくれよ」

 サンティーノは年上じみた落ち着いた微笑をうかべた。

「うん」

 レギオンは照れたように笑った。

「それじゃ、また」

 レギオンは立ち上がり、名残惜しげにつかんでいたサンティーノの手を離した。

「ありがとう、サンティーノ」

 現れた時と同じようにするりと壁を抜けて消えていくレギオンを、サンティーノは穏やかな笑みを顔に貼り付けたまま見送った。しかし、完全に彼の姿がなくなると、力が抜けたように寝台の上に倒れこんだ。

「レギオン」

 恋しくてたまらずについ呼びかけた後、サンティーノは居たたまれなくなって柔らかな寝台の上に顔を伏せた。


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