天使の血

第三章 罠


 ヴァンパイアにとって、獲物と定めた人間を恋の罠にかけることは、狩りの定石だ。

 レギオンも今までそうして血の糧を得てきた。最初の獲物から奪ったのは、僅か11才の時。いくら早熟とはいっても、あまりに早い初体験に親が戸惑ったほどだ。血の飢えよりもむしろ好奇心からそうしたレギオンは、殺した人間に対する同情も罪悪感も覚えなかった。

 己の魅力が相手にいかに影響を及ぼすかどんな変化を生じさせるか、その過程はぞくぞくするようなスリルに満ちていた。落とした獲物を抱く時の肉体的な快感、そして何より最後に血を奪う時の恍惚は、レギオンにとってすぐに病み付きになった。

 確かに、レギオンは本気の恋をしたことがない。そもそも、下等な人間相手に恋情を覚えられるものか、それすらも疑わしい。心の弱いサンティーノならば、うっかり人間に対する同情を恋と勘違いすることもあるかもしれないが、レギオンは違う。

(その私に人間相手に恋をしてみろとは、見くびられたものだな)

 サンティーノの挑発に乗ってミハイ相手に恋の罠に仕掛けることにしたレギオンだが、それが真の恋情につながるとは、実際思っていなかった。

(どうやら、今回も本気の恋を体験することはできそうもないが、まあ、少なくともミハイが骨のある攻略しがたい相手ならば、何がしかの本気にはなれるだろうさ。私も、同性愛はまだ初心者だからな)

 レギオンの脳裏にふと、涙を浮かべたサンティーノの顔が思い出された。彼から同性愛の手ほどきを受けた、というよりもレギオンが無理やり彼を練習台にしたのは、ついおとついのことだ。

(うん、思ったよりも悪くなかったな。あれはあれで結構病み付きになるかもしれない。サンティーノは可愛かったし…あんまり可愛くてちょっと色々しすぎたかもしれないが、そもそも私を好きになったのはあいつの方なんだ)

 行為の最中に、高揚したレギオンはついサンティーノの首に噛み付いて少し血を吸ってしまった。こういうことは恋人と決めた同族にしかしてはいけないのだと後で散々泣かれたが、実際サンティーノの血は甘く、できればまた吸いたいとレギオンは性懲りもなく思っている。

(ヴァンパイアは己を愛する者からしか飲まない、か)

 ふっと笑って舌なめずりするレギオンの顔をサンティーノが見たら、よりにもよってこんな悪党に惹かれた己を呪ったことだろう。

 さて、天使の顔をした悪魔、レギオンは今教皇庁の礼拝堂の中にいる。

 全く信仰心は持たないくせに、何食わぬ顔をして日曜のミサに訪れた信者達に混じリ、会衆席の一番聖歌隊席に近い場所に陣取っている。見慣れぬ若い美貌の男に胡乱げな眼差しを向ける者達も周囲にいたが、レギオンは全く気にしていなかった。彼の頭を占めるのは、この新たなゲームをどのように進めていくかについての戦略だった。

 思い立つと行動に移すのも早いレギオンは、早速ミハイと接触しようとしていたのだ。彼が教皇庁の礼拝堂に属する歌手とは、聞いていた。

 やがて、聖歌隊が高い場所にある聖歌隊席に入ってきた。途端に、レギオンの目は期待に満ちて輝いた。

(ミハイ!)

 手すりの前に立ったほっそりとした青年を見つけた時、レギオンは早くも己が高揚し始めるのを感じた。

 程なくして礼拝堂に司祭が現れて会衆は立ち上がってそれを迎え、祭壇に上がった司祭が「父と子と精霊の御名によりアーメン」と唱えて十字を切る。司祭と会衆は自らの罪を悔い改めるための祈りを捧げる。

 しかし、他の人間達や周囲で起こる物事などレギオンにはどうでもよかった。彼はただミハイだけを見つめていた。

 聖歌隊が入祭唱を歌った。レギオンは息を詰めて、その中で一際美しい声を拾った。ミハイの声は、礼拝堂の荘厳な空気を震わせながら、高く舞い上がる。これこそ、まさに天使の歌声だ。

 教皇庁のミサ曲は伝統的に器楽伴奏を伴わないア・カペラで歌われるのだが、それゆえミハイの声の美しさと力強さが一層強調された。黴臭いグレゴリゴ聖歌が、何と感動的に聞こえることか。

 心なしか信心深げな顔を装った会衆も、司祭の祈りよりも聖歌の部分にこそうっとりと聞き入っているような気がする。

(ミハイ、ミハイ…こちらを見ろ)

 レギオンは妖しく目を細め、見えない触手を歌う青年に向かって伸ばすように、ヴァンパイアの内なる声で囁きかけた。

 ミハイは歌う最中にはそのことに気がつかなかった。レギオンの力も及ばぬほど歌に心を占められているようだ。レギオンは密かに舌打ちをしたが、聖歌を終えた途端ミハイが何かを感じ取ったように微かな動揺を示してレギオンを振り向くのに、しめたと思った。

 ミハイは数秒間、己の真下の会衆席に座っているレギオンをしげしげと眺めた。眉間に皺が寄った。だが、すぐに彼は関心をなくし、その青い瞳は礼拝堂の何もない天井の辺りをさ迷った。

(おい)

 レギオンはむかっ腹を立てた。もう少し反応らしい反応を示してくれることを期待していたのだ。だが、ミハイはそれきりレギオンを見ようとはしなかった。

 ミサが終わり、司祭も聖歌隊も礼拝堂の奥に消えた後、レギオンはしばし会衆席に留まり考えを巡らせた。

 せっかくここまで来たのに、こんな拍子抜けをするような呆気ない邂逅だけで引き返すわけにはいかない。

 レギオンは立ち上がり礼拝堂をぞろぞろと出て行く会衆からはさりげなく離れて壁際に移動した。そうして、誰も見ていない隙にすっと溶け込むようにして壁を通り抜け、立ち去ったミハイを追った。

 実体を持たぬ影と化して、レギオンはミハイの気配を探し、礼拝堂の奥へと分け入った。がやがやと騒がしい聖歌隊の控え室を通り過ぎ、司祭の部屋の天井から頭を突き出して従者と司祭が何かを話し合っている様子を覗き見し、やっと目当ての部屋を見つけた。

 ミハイには、専用の控え室が与えられているようだった。レギオンが天井から部屋の様子をうかがうと、ミハイは先程のミサで着用していた帯を締めた長衣ではなく濃紺の長めのチュニックに着替えていた。

(何だ、がっかりだな。もう少し早くにここを探しあてられたら、いずれ私がいただく体がどんなふうなのか下見ができたのに)

 レギオンは頑丈そうな樫の扉の前に音もなくすっと降り立つと、ミハイの背中を眺めつつ手の甲で軽く扉を叩いた。

 ミハイは、ぎょっとなって振り返った。

「やあ」

 ミハイの冷たい美貌に驚愕の色を認めて、レギオンは猫のように目を細めた。

「誰だ、君は? どうやってここに入ってこられた?」

 成る程もっともな疑問をぶつけてくるミハイをレギオンは軽く受け流した。

「別にどうということはないよ。ミサの後、君達聖歌隊員が消えていった所に見つけた扉を押したら難なく開いたから、そこから入ってきたのさ。別に誰にもとがめられなかったよ。それどころか、たまたま傍を通りかかった聖歌隊の誰かに君の居場所を聞いたら教えてくれた。ここの扉も開けっ放しだったしね」

 レギオンは無邪気そうな笑みをうかべた。いかにも何も知らずにここまで入ってきたというように。

「全く、部外者をここまで入れるなど…」

 ミハイは不機嫌そうに舌打ちをした。そんな彼に、レギオンは無防備に歩み寄った。

「私は、レギオン。おまえに会いにきた」

 ミハイは不審そうにレギオンの顔を見上げた。

「私を、覚えているだろう?」

 もしかして、少し鈍いのだろうか。ミハイはレギオンの顔を穴が開くほど睨みつけ、じっと考えをめぐらせている。

「3日前に音楽会が催された館にいた奴だな?」

 やっと思い出してくれたのかと、レギオンは胸を撫で下ろした。本当にきれいさっぱり忘れられていたら、自意識過剰のレギオンは結構傷ついただろう。

「ローマ郊外にあんな豪壮なヴィラがあったとは知らなかったが、そこにいる貴人達も何やら不思議な人達だった。ローマに古くから存在する高貴な一族だと聞いたが…君も、その一員なのか?」

「私も確かに一族の者だよ。だが、ローマにはつい半年ほど前に来たばかりだ。ヴェネツィアの貴族とでも言っておこう」

 オルシーニ枢機卿はミハイに『闇の貴族』の正体は明かしていないようだ。それならば、やりやすい。

「今日はまともに話してくれるんだね。嬉しいよ」

「そんなことはどうでもいい」

 ミハイはふっと笑った。青い瞳は、今は暗い湖のように用心深そうに陰っていた。

「なぜ君が、今、ここに?」

「忘れたとは言わさないよ。おまえは私を侮辱した」

 ミハイはじっと押し黙って、レギオンを探るように見つめている。まっすぐに向けられた瞳には弱気な所は少しもなく、かなり頑固そうだった。

「あの日、礼拝堂で歌っているおまえを私は偶然見てしまった。おまえにとって見られたことは不本意だったんだろな。だからと言って、素直に賛辞を述べる私を無視したばかりか、いきなりあんな暴力を振るうことはないだろう」

 ミハイが黙っているので、レギオンが話すしかなかった。

「あの時おまえは、自分が何者か知りたければ音楽会に来いと言い残した。だから、私はわざわざ音楽会に出かけていって、おまえの名と身分を知るに至った訳だ。ローマ一の歌手ミハイ。オルシーニ枢機卿のお気に入りで、教皇庁の礼拝堂で歌っている」

「確かに、そんなことを言い捨てた記憶はあるが、君がわざわざこんなところまで僕に会いに来た理由と目的が分からないな」

 ミハイは冷ややかな声で言った。

「あの時、僕が君を殴ったのは、それなりの理由があってのことだ。それを恨まれる筋合いはない。むしろ、そんなことを根に持って、ここまで僕に報復なり嫌がらせなりしに来たのなら、君のことを軽蔑するしかないな」

 綺麗な顔をして、かなりきつい。レギオンは一瞬かっとなりかけた。

「君の方が初めに僕を侮辱したんだ。自分が受けた痛みはよく覚えていても、そのことは忘れたか?」

 レギオンは怒鳴り返そうとしたのだが、己に向けられたミハイの顔にうっすらと怒りの色がのぼってくるのに気を引かれた。感情を昂ぶらせるミハイは美しい。取り澄ました仮面の奥に隠された激しい炎が一瞬垣間見えたような気がして、レギオンはぞくりとした。

「忘れた訳じゃないさ。だが、あれは悪気で言った訳ではなかった。おまえの素っ気無い態度が、私に言うつもりのないことまで言わせたんだぞ」

 ミハイは、レギオンの言い訳など取るに足りないというように皮肉に唇を歪めた。

「では、その軽い口を改めるんだな。生憎、僕には他人から不当に受けた侮辱をそのままにしておくことなどできないんだ」

 どこかで聞いたような台詞にレギオンは眉を跳ね上げ、新たな発見をしたように、つくづくミハイを眺めた。にやりと笑った。

「気があうな。私もだ」

 ミハイは虚を突かれたようにまばたきをした。

 レギオンとミハイは、しばし無言でにらみ合った。

 やがて、ミハイがふっと苦笑して、眼差しを逸らした。逃げたというよりも、この状況の馬鹿馬鹿しさに気づいたからのようだった。

「僕の報復に対し、君は腹を立てて仕返しをしたがる。それに対して、また僕がやり返すのか? 馬鹿げている」

 ミハイの方が、そう割り切って引くことができるだけ、レギオンよりも大人だった。

「何が望みだ?」

 直截的に尋ねるミハイに、レギオンはとっさに口ごもった。

「さあ」

 腕を組み挑みかけるような表情で答えを待っているミハイを眺めつつ、レギオンは唇を舐めた。おまえの心と血が欲しいのだとは、言えない。

「本当は侮辱を受けたというのは、ただの口実なのかもしれない」

 レギオンは知られてはまずい自分の下心は隠したが、これはこれで真実だった。

「おまえの歌声を初めて聞いた時、私はその美しさに心を打たれた。それから、こんな素晴らしい歌を歌えるおまえを賛美したい気持ちに駆られた。その後してしまった粗相は、私の本意ではないよ。ここまでわざわざおまえに会いに来たのは…やはりおまえ自身に興味があったからなのだろうな。ミハイ、私はおまえの声に惹かれてやってきたんだ」

 レギオンの言葉に、ミハイは固い無表情のまま耳を傾けている。

「ずっと疑問だった。どうしてあんな声で歌えるんだ?」 

 邪気のない調子で素直に尋ねるレギオンから、ミハイは顔を背けた。

「それは秘密なのかい?」

 ミハイは答えない。レギオンは、幾分大げさに溜め息をついた。

「なら、別のことを聞くよ。それさえ聞けたら、私はもうあの日どっちがどっちを侮辱したなんて話は蒸し返さないし、今日のところはおとなしく帰ってやるから」

 ミハイはレギオンに顔を向けた。

「ミハイ、おまえはイタリアの生まれではないな。顔立ちも言葉の響きもどこか違う。出身はどこなんだ?」

 どうしてそんなことを聞くのかというように、ミハイは怪訝そうに眉を寄せた。だが、顔に期待に満ちた微笑を貼り付けたまま辛抱強く待っているレギオンについに根負けしたのか、素っ気無く告げた。

「ワラキア(現在のルーマニア)…」

「ワラキア?」

 東欧世界についてレギオンはあまり詳しくはないが、確か今はオスマン・トルコの属領になっているはずだ。ワラキア人のミハイがどういう経緯でローマにやってきたのか、歌手として成功するまでにどんなふうに生きてきたのか、好奇心がわいた。

「一体、どうしておまえは…?」

 ついまた口を開きそうになるレギオンを、ミハイは手を上げて制止した。

「僕は君の質問にちゃんと答えた。これ以上余計な詮索をされるのはごめんだ。約束どおり帰ってくれ。さもないと護衛を呼んで君をここからつまみ出すよ」

 レギオンは不満そうに口を歪めた。

「ミハイ、おまえは感動的なまでに素晴らしい歌を歌うし、姿も美しいが…それ以外は石みたいに頑固で味気もそっけもないつまらない奴だな。別に優しくしろとまでは言わないが、おまえの賛美者に対しもう少し態度をやわらげることはできないのか」

 ミハイの顔が一層冷ややかに取り付くしまもないほど頑ななものになった。アテナ(ギリシャ神話の戦いと知恵の女神)の石像のようだなとレギオンが思ったくらいだ。

「レギオンと言ったな。僕に近づこうとする男や女は君だけではない。僕の歌に幻惑され、僕自身に対する勝手な想像を膨らせてやってくる、自称賛美者達にいちいち優しくしたり期待を持たせる素振りを見せたりすることがどんなに愚かで危険なことか、君には想像もつかないだろうね」

 吐き捨てるように言うミハイの激しさに、レギオンは少し戸惑った。

「君にしたところで、そうだ。…別に蒸し返すつもりではないが、あの時、僕の歌を聞いた君が言った言葉…あれと似たようなことはよく言われる。僕の声の響きは官能を刺激すると。そうして、ただ歌だけでなく、別の関心を持って僕に近づく…女だけでなく男からもそんな目で見られることがどんな気分か、君のような恵まれた外見の男には全く想像もつかないんだろうな」

 これでもかなり感情を抑えているのだというように、ミハイの手は固く握りしめられている。

 確かに、大柄で逞しいレギオンには、ミハイの立場に立たされることなど想像もできなかった。男性でありながらあまりに魅惑的な声と少女めいた華奢な姿を持つことが、ミハイにこれまで色々と不利益をもたらしてきたのだろうか。

「私には、その気持ちは分からないよ、確かに。でも…私がうかつに口にしたことが、おまえを傷つけたのならば素直に謝る。本当に、すまなかった」

 今度ばかりは芯から反省し、レギオンはミハイに向かって神妙な面持ちで頷いた。

 ミハイは何か言いかけたようだが途中で口を閉ざし、代わりに、レギオンの姿を、今初めてそれと意識したようにつくづくと眺めた。

 ミハイよりも頭半分は背が高く、肩幅も広く、しなやかで強靭そうな体。豊かな金髪に飾られた美貌はただ甘いだけでなく、精悍さもちゃんと備えている。男性としての美の理想形があるとすればそれはこんな姿だろうと思わせるような、確かに神々しいほどの容姿に恵まれたレギオンである。

 ミハイのアーモンド型の双眸が僅かに見開かれた。

 己に注がれる眼差しに、それまでの無関心とは違う熱心さを感じ、レギオンはつい嬉しくなって笑いかけた。しかし、それがいけなかったのか、ミハイは我に返ったようにまばたきをすると、先程よりも一層不機嫌になって、レギオンから目をもぎ離した。

「帰ってくれ」

 苦々しげに告げるミハイに、レギオンはまだ少し名残惜しさを覚えていたが、その時、扉が叩かれ、1人の男が部屋に顔を覗かせた。

「ハンス」

 レギオンにとってはとんだ闖入者だが、ミハイにとっては救いの神であったらしい。心底ほっとした表情をする彼を見て、レギオンはがっかりしたような溜め息をついた。

「出口で待っていたんだが、いつまで経っても出てこないから、どうしたのかと思って…」

 この男もイタリア人ではない。大柄で北方系の顔立ちをしており、これはレギオンにも分かった、ドイツ語訛りの言葉を話す。教皇庁のスイス人傭兵というところか。先程ミハイが護衛がどうのと言っていたが、それが彼のことなのだろう。

「誰だ、おまえは?!」

 レギオンの姿を認めるなり険しい顔になる男に、レギオンは肩をすくめた。

「本当に護衛つきとはね。まるで深窓の姫君みたいだな」

 ミハイは眉を吊り上げ、すっとレギオンから離れた。部屋に入ってきたハンスという男はそんなミハイを後ろにかばい、レギオンを威嚇するように睨み付けている。

「そんな恐い顔をしないてくれ。私は何もミハイに危害を加えるつもりなどないんだよ。ただ、3日前の音楽会で彼の歌を聞いて心打たれたものだから、その礼を言いにここまで来たんだ」

 レギオンは、にっこりと、いかにも人畜無害な良家のお坊ちゃんという風情で笑った。

 それでは納得せずに問いただそうとするハンスの腕をミハイが押さえた。

「ハンス、もう構うな」

「しかし…あなたの身を守るのは俺の役目です。少し目を離した隙にこんな怪しい奴と2人きりにしてしまったなどとオルシーニ枢機卿に知られたら、どんなお叱りを受けるか」

「黙っていればすむことだ。何も問題は起きていないのだし、僕が賛美者と2、3言葉を交わしたくらいで、そんな大騒ぎをすることはない。時間の無駄だよ。そろそろ枢機卿に会わねばならない時間だろう。こんな奴は捨てておけ」

 朴訥そうな青年を有無を言わさぬ口調で黙らせると、ミハイは最後にレギオンをちらりと冷たい目で見やり、部屋を出て行った。

 ハンスは、ミハイの背中を見送りながら逡巡したようだが、どうやらレギオンを追及することはあきらめたようだ。よく見るとレギオンがまだ少年といっていいほど若いことに気づいたせいかもしれない。

「いいか。今度だけは見逃してやるが、二度とミハイに近づくんじゃないぞ、坊や」

 人間に坊や呼ばわりされたことは不本意だが、これから先の計画を考えて、レギオンはおとなしく聞き流すことにした。

(ふうん)

 ミハイは随分と厳重に守られているようだ。オルシーニ枢機卿は、よほど心配性らしい。一番のお気に入りとはいえ、ローマ一と謳われる名歌手に賛美者が近づくことも許さないとは。それとも、そうせざるをえないような問題が過去に生じたことがあったのだろうか。

(あの歌声に幻惑され引き寄せられる人間達は、実際多いのだろうな)

 レギオンは、どこか突き放すように妖しく笑い、そして、ふわりと床から浮かび上がると再び霧か霞と化して天井を突き抜け、礼拝堂の外へ向かった。

(何しろ、人間ばかりか、こうしてヴァンパイアさえも惹きつけるほどの魅力だ)

 ミハイの不幸と不運は、詰まるところあのような美しすぎる声を持つことだ。生きるための苦労だけではなく、あの声のゆえに、死神までも招きよせることになってしまったのだから。

(だからと言って、同情はしないしけれどね)

 血を吸う神の子であるレギオンは、狩りに関する限り、どこまでも酷薄だった。




 ミハイとの再会を果たした後、レギオンはすぐに次の手を打つことにした。

 思ったよりも訳ありらしいミハイのことをもっとよく知っておく必要を感じたレギオンは、ハンスという誠実そうな護衛に近づくことにした。

 ローマでしょっちゅう遊びまわっているレギオンは、人間の遊び仲間もいれば、そこいらの酒場などに知り合いも多い。

 彼らは、レギオンのことを、若くて無茶をしたがるちょっと不良の貴族のお坊ちゃんと思っている。レギオンも同族の友達は少なく、内省的なサンティーノでは羽目を外した遊びにつきあわせることもできなかったので、実際彼にとって人間の悪友達はなかなかありがたく一緒にいて楽しい存在だった。

 レギオンは、そうした地元に詳しい人間に頼んで、探ってもらったのだ。スイス人傭兵が溜まり場にしている酒場を片っ端からあたって、その中でオルシーニ枢機卿の歌手の護衛をしているハンスという男が愛顧にしている店を探した。

 ありふれた名前ではあったが、ハンスらしい男が出入りをしている酒場は割合すぐに見つかり、レギオンはミハイと会った翌日の夜、早速その店に出かけた。

 店の中は、ドイツ語とフランス語が飛び交い、大男達が麦酒を手に騒いでいた。何だか外国に来たようだと思いながら、レギオンは忙しそうにしている店の主人を捕まえた。

「ああ、あのハンスのことだな。以前は教皇庁の警備兵だったのだが、オルシーニ枢機卿に引き抜かれ、今は枢機卿お抱えの音楽家の護衛をしていると言っていた。確かにうちの常連だが、毎日来るわけじゃないからな。来るとしても、もっと遅い時間だよ」

 どうやら本当にハンスが常連となっていることは分かったが、捕まえるためには待たなければならないようだ。あまり気は長くないレギオンだが、目的のために払う努力は苦にならない彼は、辛抱強く酒場に粘り続けた。実際、退屈だったので、持ち前の人懐っこさと無邪気さで、その辺りで飲んでいるグループに混ぜてもらって、一緒に飲んだくれて騒いだ。獲物としては対象外の人間とこうして騒ぐのは、レギオンは嫌いではない。むしろ、誇りばかりが高い同族といるよりも、ずっと気楽だ。

 レギオンが男達とすっかり意気投合し、酒盛りが大いに盛り上がった頃、酒場の扉が開いて、1人の男が入ってきた。

「おい、坊や、レギオン。おまえが探している奴が来たぞ」

 テーブルの上で半分つぶれていたレギオンは、親切な飲み仲間に揺り起こされ、慌てて顔を上げた。

(あいつだ)

 間違いない、ミハイの護衛ハンスだった。彼は店の主人ににこやかに挨拶をすると注文を告げた。その時主人が何か言ったのだろう、ハンスは怪訝そうな顔になり、主人に示されるままレギオンのいるテーブルを振り返った。

 ハンスは一瞬ぽかんとなった。それへ、レギオンは酔っ払った上機嫌のまま手を振った。

「冗談だろう」

 レギオンの聴覚は、ハンスの低い呟きもしっかりと捕らえた。

「何で、あいつがここにいるんだ」

 レギオンはにやりと笑って席を立ち、陽気な飲み仲間に挨拶すると、ハンスが憮然とした面持ちで座っている奥のテーブルに向かった。

「こんばんは」

 レギオンは、薄暗い店内を明るく照らすような笑顔でハンスに呼びかけた。

「ここに座ってもいいかな」

 ハンスが答える前に、レギオンはちゃっかり彼の前の椅子に腰を下ろした。

「そんな恐い顔をするなよ。ここには、君が守らなければならないミハイもいないんだ。警戒する必要はないだろう?」

「俺を訪ねてきたそうだが…何のつもりだ?」

「だって、君はミハイについて詳しそうだから」

 何の衒いもなく、レギオンは答えた。

「私は、ミハイに興味がある。まあ、彼の歌声の崇拝者だと思ってくれ」

「歌だけが目当てなら、いいんだがな」

 むっつりと呟いて麦酒の杯をあおるハンスに、レギオンはあっさり前言を撤回した。

「実は、嘘だ」

 ハンスはとっさにむせて咳き込んだ。

「私は、歌だけでなく、どうやらミハイ自身にも惹かれているようなんだ。歌うミハイを一目見た時からどうしても彼のことが忘れられず、思い悩み、もしかしたら恋でもしたのではないかと考えた。それを確かめるために、昨日ミハイに会いにいったんだよ」

「そ、それで…どう…?」

 レギオンは、少しもやましいことはないというような純真そのものの顔で、うっすらと頬を赤らめた。 

「うん…どうやら…そうみたいなんだ」

 ハンスは、はあっと大きな溜め息をついた。

「同性愛はいかんぞ。地獄落ちだ」

 生憎、地獄へは行きたくとも行けない身でねと、レギオンは密かに舌を出した。

「その…別にみだりがわしいことをしようというつもりではないよ。昨日だって、私はミハイに何もしなかった。ただ彼と言葉を交わしただけだ。それは、ミハイに聞けば分かる」

「だが、ミハイに興味があるんだろう?」

 ハンスは、嘆かわしげに頭を振った。

「全くどうして、皆、ミハイのことをそっとしてやってくれないんだ。確かに歌は上手いし、姿もああだから、色々と邪な想像をかきたてられる奴もいるんだろうが、本人には全くそんな気持ちはないんだ。実際、ミハイはみかけほどなよなよしていない。それどころか、彼ほど男気のある一本筋の通った奴も少ないだろうに、彼の心などお構いなしの男どもは手前勝手な恋情だの欲望だのを押し付けるようとする。そもそも、ミハイの体がああなったのも本人のせいではないというのに、ひどい話だ」

「体がって?」

 レギオンはおっとりと何気なさそうに聞き返したが、実際頭をもたげてくる好奇心を抑えるのに必死だった。

 ハンスは、しまったというような顔をした。

「どういう意味なんだ? ミハイの体が、どう…?」

 もう一度、控えめにレギオンは聞き返した。本当は、ハンスの胸倉をつかんで揺さぶってやりたいほど興奮していたにもかかわらず。

「おまえさんには関係のないことだよ」

 ハンスはこの話を打ち切りたい様子だったが、レギオンは許さなかった。

「関係なくはないぞ。言っただろう、私はミハイに惹かれていると。彼のことならば、どんな真実であれ知りたいと思うのは当然だ」

 ついかっとなって拳を握り締め立ち上がるレギオンを、他の客達が不審そうに振り返る。ハンスは、慌ててレギオンをなだめた。

「そんな大きな声を出すな」

「私が真剣に尋ねているのに、はぐらかそうとするからだ」

 レギオンはハンスをまっすぐ睨みつけたまま、再び椅子に座った。

「弱ったな」

 ハンスは困ったように頭をかいた。

「それは…そんなに重大な秘密なのか…? そう言えば、昨日私はミハイに声のことを尋ねたのだが、彼はやはり答えてくれなかった。何だか、訳ありそうな奴だとは思ったんだ」

 ハンスは、勘の鋭い子供をあやすような優しい調子でレギオンに話しかけた。

「いいかい、人には、それぞれ誰にも触れて欲しくない心の傷がある。ミハイの体のことは別に秘密にされているというわけではないが、だからと言って大っぴらに話すのもはばかられるようなことなんだ。少なくとも、ミハイは聞きたくないと思うだろうし、俺も彼が嫌がる話を他人に吹聴したくない」

「黙っていればいい。私も、君から聞いたなどと言わないから」

 レギオンは悪戯っぽく目を輝かせた。ハンスは、一瞬怒鳴りつけるかどうか迷ったようだ。しかし、結局レギオンの熱心さに観念したらしい。

「分かった。おまえさんがミハイのことを真剣に調べてかぎまわろうとすれば、どうせ、この話も耳にするだろうからな。真実を歪めたろくでもない噂を鵜呑みにされるよりは、俺がちゃんと話した方がましだ」

 レギオンは深々と頷いた。もったいぶらずに早く話せと胸のうちで呟きながら。

「坊やは、ミハイの声を聞いて不思議に思っただろう。どうして、あんなに高く澄んだ声を出せるのか。どうして大人になっても、彼の声が男性らしくならなかったのか」

 レギオンは固唾を呑んで、ハンスの語ることに耳を傾けている。

「ミハイは、去勢者なんだ」

 思い切ったように直截的に告げるハンスの言葉を、しかし、レギオンは理解できなかった。

「えっ?」

 一瞬、芝居をすることも忘れて無防備な表情になるレギオンを、ハンスは怒ったように睨み付けた。

「ミハイは、男性としての機能を子供の頃に失った。それが原因で、彼の体は普通の男のようには成長しなかったんだ。声も、子供のままさ」

 レギオンは目を見開いた。本気で驚愕していた。

「そんなこと…ど、どうして…」

「あいつの故郷では昔トルコ軍との激しい戦いがあった。ミハイがほんの子供だった頃、彼もその戦いに巻き込まれたんだ。それで怪我をしたのか、その後、畜生のムーア人どもに拷問されたか弄ばれたせいであんな体になったのかは知らん。あいつは、自分の過去をほとんど語ろうとしないからな。コンスタンチノープルに奴隷として売られ、そこで数年を過ごした後、イタリアに渡った。あの声を武器にどうにか生き延び人々の注目を集めるようになった彼は、フィレンツェの大聖堂で歌っているところをオルシーニ枢機卿に見出され、ローマにやってきたんだ」

 ハンスは語るのも辛いというように、麦酒の杯をぐっと空けた。

「坊やの好奇心は、これで満たされたかい。ミハイの声と姿の謎を知ってなお、うわついた気持ちで彼に近づこうとするのなら、俺が許さんからな」

 レギオンはしばし何も答えられなかった。予想外の話を聞かされて、頭の中が真っ白になってしまったようだ。

「私は…」

 言いかけて、レギオンは我にもあらず口ごもった。動揺していた。

「ミハイには何か秘密があるようで、それが神秘的でそそられるなんて、浅はかにも思っていた…。けれど、まさか、こんなことだったなんて…夢にも思っていなかった」

 人間の運命に同情するほど、レギオンは甘くはないはずだった。もっと悲惨な境遇も死もいたるところにあるし、どのみち、いつかは死んでいく人間達のことだ。彼らの苦難にいちいち心を痛めていてはきりがない。

 ただ、レギオンには、どう受け止めていいか分からなかったのだ。ミハイを攻略するために、彼のことを調べ上げ理解したいと考えたが、これは、今までぬくぬくと何不自由なく生きてきたレギオンが簡単に扱えるような過去ではなかった。

 いや、ミハイにとっては過去ではなく、現在も引きずっている痛みなのだろう。 

 彼の声も体も、決して正常な男性のものにはならない。そのことを痛感しているミハイにとって、己の奇妙な声や美しさに欲望を刺激されて言い寄ってくる男達の存在は、たまらなく呪わしいものに違いない。自らの性を剥奪されたうえに同性からの欲望の対象になることは、男性にとっては屈辱以外の何ものでもないはずだ。

 ミハイの頑なさと内に秘めた怒りの激しさの理由が、レギオンは、この時初めて分かったような気がした。

 それまでよく話したレギオンが神妙な面持ちで黙り込んでいるのに、ハンスは、少し気を許したようだ。

「分かったら、もうミハイのことは放っておいてやってくれ。坊やの恋心なんて、彼にとってはうとましいだけのものなんだよ」

 レギオンは呆然とハンスを見上げた。その滑らかな頬が急に紅潮した。

「嫌だ!」

 ミハイの秘密がレギオンの予想を超えたものだからといって、それに圧倒されて、引き下がるような情けない真似はしたくなかった。彼は、ほとんどむきになっていた。

「聞き分けのないことを言わんでくれ。何もミハイでなくても、坊やには、もっとふさわしい相手がいるはずだ。悪いことは言わないから、素直にあきらめろ」

 ハンスにとって、レギオンは世間知らずの情熱的で初心ないい家の出の若様というとらえ方なのだろう。何となく憎めないと思っているのか、彼は親切に忠告までした。

「いいか、ミハイはああ見えて気性が荒いんだ。おまえさんが、うかつに恋の告白などしようものなら、きっと殴りとばされるぞ」

「それは、知っている」

 レギオンは、面白くもなさそうにぼそりと言った。

「いいか、こんな話がある。以前、俺が、まだ教皇庁所属の兵士だった時、ある新入りの傭兵がミハイにからんだことがあったんだ。彼は、ミハイに関するたちの悪い噂を聞いたんだな。それを持ち出して、ミハイをからかった。『玉なし野郎』とか『枢機卿の囲われもののくせにすましているんじゃない』とか言って、嘲笑った。それを聞いたミハイはすぐに近づいて来て、馬に乗っていた奴を引き摺り下ろすと散々殴って蹴り倒した。慌てて俺らが止めに入った時には、ぼこぼこにされた馬鹿な新入りは気を失っていてな。いくら油断していたとはいえ、か弱げな歌手に痛めつけられた奴は、怪我が治ると早々にここから立ち去った。ミハイはといえば、逆に、素手で傭兵を半殺しにした歌手と俺らには見直されることになった。その後俺にミハイの護衛につけとの話が来たんだが、俺はすぐに引き受けた。本当に噂どおり色仕掛けで枢機卿をたぶらかしたけしからん奴なら断ったんだが、そうじゃないことを確信していたからだ」

 レギオンは、その場面を想像して小さく噴き出した。ミハイならば、本当にやりかねない。

「何を笑う。おまえさんだって、下手をすれば、同じ目にあうと俺は忠告しているんだ」

「ああ、そうだろうね。だが、私にはミハイのやりそうなことは分かるし、それに、共感もできるんだ。私だって、そんな暴言を吐いた奴は半殺しの目にあわせるだろうさ。その点、私とミハイは気があうんだよ」

 レギオンは、昨日のミハイとのやり取りを思い出してクスクス笑い、そんな彼をハンスは気味悪そうに眺めていた。

「酒が空になっているね、ハンス。私におごらせてくれ。ミハイのことを色々教えてくれた、お礼だよ」

 陽気にそんなことを言って、テーブルの傍を通りかかった女に新しい麦酒とワインを頼むレギオンを、生真面目なハンスはとめようとした。

「いや、おまえさんにおごってもらおうとは思わない」

「別にいいじゃないか。ミハイには内緒にしておいてやるからさ」

「おい、まさか、まだミハイを追いかけまわそうという気か?」

「懲りない奴だと、よく言われるよ」

 あきれ果てるハンスに、レギオンは片目を瞑って見せた。

「それに少々のことではへこたれない」

 ミハイが抱える『訳』が複雑なものであればあるほど、彼の意思が強固で頑なであればあるほど、余計に燃えるのがレギオンだった。一瞬怯みはしたが、今は一層ミハイに対する執着が増した。

 やがて給仕女が運んできたワインのゴブレットを掲げると、レギオンは心の中で密かに誓った。

(私は、必ずミハイをものにしてやる)

 恋とは程遠かったが、ある意味、これもレギオンなりの本気には違いなかった。


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