天使の血
第二章 いまだ恋を知らず
三
レギオンは今日も礼拝堂の中にいた。
長椅子の上に少々窮屈そうに長身の体を横たえ、高い所にある天井をぼんやりと眺めていた。
窓から差し込む光が細い筋となってレギオンの上に注ぐ。ふと、その光の中に浮かび上がる人影を思い出し、レギオンは目を細めた。
(ミハイ…あいつの歌が耳について離れない…)
この礼拝堂で、そして昨夜の音楽会で聞いた世にも美しい不思議な声に、レギオンはすっかり魅了されたようだ。
それはいい。美しいものを素直に美しいと褒めることには、別に相手が人間だろうとレギオンは躊躇わない。
問題は、それ以外のことだった。人間相手に無様に動揺したところを見せ、挙句に隙をつかれて殴り倒されたことをレギオンは根に持っている。
負けっぱなしですませることなどできない、レギオンの誇りに関わる重大な問題だった。
だが、今更殴り返しにいくというのも馬鹿馬鹿しく、相手が人間であれば、肉体的な力はレギオンが勝っていることも分かりきっており、それを力で屈服させるのもあまりにも意味がないことに思われた。
(相手が同族であれば、少なくとも対等の喧嘩相手としてこちらも手加減する必要はないし楽なんだが、か弱い人間の歌手となると、どうしたものか…)
レギオンはミハイの顔を思い描いた。少女なのか少年なのかとっさに判断のつかない、あの中性的な美貌に騙されてしまったのだ。まさか、いきなりあんな強烈な挨拶を受けるとは思ってもみなかった。
(細い腕をして、結構効いたな、あの一発は。上手く急所を捕らえたというか、手加減もしなかったんだろう、危うく吐くところだったぞ)
レギオンは、ふんと笑った。腹は立っているが、こうしてミハイのことを考えていると案外おもしろいのだ。
奇跡のような声だけでなく、あの奇妙な美しさにもレギオンは心惹かれる。ローマに着たばかりの頃訪れたサンティ・アポストリ聖堂で見た、キリスト昇天の場面の聖画が思い出された。青い空を背景に楽器を奏でる天使の1人をレギオンは気に入ったのだが、性別を超越した美しさはミハイにどこか似ているような気がする。
(あいつは、一体、何者なのだろう。あの声には何か秘密があるような気がする…男なのに大人になっても変声しなかったというのは、そんな特別な体として彼が生まれついたからだろうか…?)
ミハイは歌う時とそれ以外ではまるで別人のように印象が変わった。そのことも、レギオンの興味をかきたてた。
(たぶん、初めに見たのがあの無表情な冷たい仮面みたいな顔だったら、あいつのことをそれ程美しいなどとは思わなかっただろうな。歌うあいつを見なかったら、石みたいにつまらない奴だと何の興味も覚えなかったに違いない)
それ程に、ミハイの歌う姿には一種鬼気迫るほどの迫力があった。あの美声を作り出す楽器にふさわしく、非の打ちどころがないほどに美しく、力に溢れ、光輝いていた。ただ不思議なのは、その姿からは、単純な歌う喜びよりも、むしろ苦痛や怒りにも似た激しく狂おしい凶暴さが感じられたことだ。だが、その凄まじさも、ただ澄みきっただけのおとなしい声より、レギオンにはよほど心に訴えかけてくる。
(あいつに仕返しはしてやりたいが、それはそれ。あいつがどんな人間なのか、何を考えて歌っているのか知りたい気がする。私は、ほとんどあいつとは言葉らしい言葉も交わさなかった…一度じっくりあいつの話を聞いたみたい。あいつが持つ秘密めいたものを暴き出してやりたい…)
レギオンの好奇心がむくむくと頭を持ち上げてくる。ブリジットをあきらめてこの方退屈でつまらない日々を送っていたレギオンだが、真新しい玩具を見つけた子供のように、久々心が躍った。
その時だ。礼拝堂の扉がそっと開いた。
レギオンははっとなって、身を起こした。昨日ここでミハイと出会ったことを思い出したのだ。だが、入ってきた者の姿を見、レギオンはがっかりしたような溜め息をついた。
(何だ、サンティーノか)
一瞬また長椅子の上に寝転ぼうかと思ったが、レギオンを見つけたサンティーノの美しい顔が安堵と喜びに輝くのを見て気を変えた。それに、レギオンも、夕べサンティーノを怒らせてしまったことは、少し気になっていたのだ。
レギオンがにっこり笑って手を振ると、サンティーノは白い頬を薄く赤らめ、まっすぐにレギオンのもとにやってきた。
「探したんだよ、レギオン。夕べ君の話を聞いていなかったら、まさか君が礼拝堂にいるなんて考えつかなかったろうね」
「どうして?静かで、人もあまりよりつかなくて、昼寝や考え事をするにはいい場所だよ」
「そういう行儀の悪い真似は、一族の私設礼拝堂でだけにしておくれよ。人間達にとっては、何と言っても神聖な神の家だからね」
レギオンは露骨にあくびをしてやった。
「つまらないお説教をするなら、寝るぞ、私は」
「レギオン…」
サンティーノが困った顔をするのに、レギオンはクスクス笑いながら、彼の体を捕まえて抱きしめた。
「ああ、やっぱり私は君が好きだよ、サンティーノ。私がこうして欲しいと思う、そのままの反応を返してくれるんだから!」
サンティーノは黙り込んでレギオンの腕の中で身を固くしていたが、レギオンは彼が少しつむじを曲げたくらいにしか思わなかった。
「それで、レギオン、君は…こんな所で1人、何を考え込んでいたんだい?」
さりげなく尋ねてくるサンティーノに、レギオンは実に率直に答えた。宮廷でただ1人の味方であるサンティーノには、レギオンも心を許していたのだ。
「ああ。昨日会った歌手、ミハイのことを考えていた」
「随分と…彼にこだわるんだね」
「彼は素晴らしい声をしていると、君だって認めたじゃないか」
「それは確かに言ったけれど…ただ、君がそれほどミハイに興味を覚えるのはなぜかなと、少し意外に思ったんだよ」
「なぜ?」
レギオンは首をかしげた。
「さあ、なぜと聞かれても、ただ何となく気になり心惹かれるとしか言いようがないな。私は、まだあいつのことはほとんど何も知らない訳だしね。でも、ミハイの歌を初めてここで聞いた時、私は君と一緒にブリジットのもとへ行った夜に聞いた彼女の歌を思い出していたよ」
「ブリジット様の歌は彼とは似ても似つかないと思うけれど…?」
疑い深げに問い返すサンティーノに、レギオンはむきになって力説した。
「声の質がどうのと言っているんじゃない。ミハイの声にも、ブリジットの歌を聞いた時に私が受けたのと同じほどの感動を呼び覚ます力があったということだ。彼の声は、ここに寝そべって半ば夢を見ていた私の胸にするりと忍び込んできて、心臓をつかみ込んで揺さぶった。そんな感じがしたんだよ」
レギオンの脳裏にまたミハイの歌声がうかびあがった。妖しい官能をかきたてられる蜜の声。束の間傍にいるサンティーノのことも忘れて黙り込み、うっとりとした顔で耳を澄ましているレギオンは、己に向けられたサンティーノの瞳が次第に暗い炎をはらんでくることに気がつかなかった。
「君はもっと人間のことを馬鹿にしているとばかり思っていたよ。よりにもよってブリジット様と比べるなんて…一度か二度声を聞いただけの歌手に、よくもそれほどいれこんだものだよ」
サンティーノの声にこもった険に、レギオンは不愉快さを覚えた。
「何だよ、ずいぶん突っかかるんだな、サンティーノ。何が、そんなに気に入らないんだ?」
「別に」と、サンティーノ。余所余所しく、固い声をして。
「ただ、少し呆れたんだよ。少し前まではブリジット様を必死になって求めていたのが、ころりと気を変えて、早くも今度は歌の上手い綺麗な人間に気があるような素振りの君に、果たして節操というものはあるのだろうかと、呆れ果てたんだよ」
「何だよ、それは!」
レギオンはつい大声を出していた。
「私があいつに気があるとかなんとか、さっきから君はおかしいぞ。まるでやきもち焼きの女みたいだな! 言っておくが、私にそっちの趣味はない」
「へえ…そうだったんだ、ふうん」
サンティーノの目の冷ややかさに、レギオンはなぜか落ち着かない気分になってきた。
「い、言いたいことがあるなら、はっきり言えよ、サンティーノ。何か意味ありげな皮肉や嫌味は、もう、うんざりだ」
黙りこんだまま顔を背けるサンティーノについ逆上したレギオンは、その腕をつかんで揺さぶり、激しく詰め寄った。
「いい加減にしろよ、サンティーノ! 一体君は、私に何をどうして欲しいんだ?」
「何もして欲しくない。君のような…何も知らない子供に、これ以上振り回されるなんて僕は耐えられない」
レギオンの手を、サンティーノは素っ気なく振り払った。そのつれない態度も、またレギオン怒らせた。
「今度は、いきなり私を子供扱いか。少しばかり年上だからって、それが何だと言うんだ。8才くらいの年の差なんか、100年も生きてみろ、ないも同然だぞ。気が弱いくせに、いきなり大人ぶって威張るな」
レギオンは単純に軽くあしらわれたことに腹を立てたが、サンティーノの怒りはもっと複雑だった。サンティーノは、おとなしい彼にしては珍しいくらいの激しさでレギオンを睨みつけた。
「そんなふうに、つまらないことですぐにむきになるところが子供だと言ったんだ。僕は何も嘘は言っていない。レギオン、まだ恋も知らない子供のくせに、君こそ偉ぶるんじゃないよ」
サンティーノの赤い唇に閃く毒を含んだ冷笑に、レギオンは一瞬絶句した。ほとんど敵意にも似た怒りをそこに見出して、さすがのレギオンも不安に駆られた。
サンティーノは怒っている。それも、これまでになく本気だ。
「私が恋もしたことがないと馬鹿にするのか…? そんなもの、私は何の不自由もなく、たくさん経験してきたさ。とんだ言いがかりだ」
サンティーノの挑発には頭にきていたが、正直言って、彼との友情を全く失ってしまうことは恐かったので、レギオンは幾分おとなしく言い返した。
「君が恋だと思い込んでいるものなど、他愛もないただの冗談さ。君が今までしてきたこと…可愛くてはすっぱな人間の女の子達をつまみ食いしたことや君の見掛けのよさに惹かれて近づいてきた遊び慣れた一族の女達との火遊びが、一体何ほどものだと言うんだい? 君は自慢げに話すけれどね。ちょっと優しく笑いかけたらすぐになびいてくるような容易い相手にしか今まで出会ったことがなかったから、君は一度も本気にはなれなかったんだ。でなければ、好きなのは自分だけで、他人を愛することなどそもそもできないのさ」
「何を…!」
サンティーノの言葉に、レギオンは激昂した。真っ赤な顔をして、サンティーノの胸倉をつかんで引き寄せ、殴りつけようとするかのごとく手を振り上げた。
しかし、淡い色の瞳を逸らしもせず軽蔑しきった顔で見返すサンティーノを睨みつけるうち、レギオンは次第に色を失った。図星をさされたということに、レギオン自身も気がついたのだ。
レギオンはサンティーノの体を椅子の上に投げ出すと、荒々しく立ち上がった。
「指摘されればちゃんと気がついて、それを認めるくらいの素直さはある訳だ」
レギオンに掴みかかられたせいで乱れた服を直しながら、サンティーノは皮肉に言った。
「どうして…いきなり、そんなひどいことを言うんだ…私は君を友達だと思っていたのに…」
心底情けなく哀しい気分になって、レギオンは呟いた。侮辱されたことなどより、ただサンティーノの冷たい態度に傷ついていた。
途方に暮れた顔でしょげかえるレギオンに、サンティーノは一瞬瞳を揺らしたが、その頑なさを和らげはしなかった。
「友達ね…そんなことを罪のない平気な顔で言える君だから、僕は…」
恨みのこもった口調で低く呟きかけた言葉を、サンティーノは途中で飲み込んだ。何かを振り払うかのごとく頭を振った。
「レギオン、僕に嘲笑われて腹が立つかい…? 君のことだから、言われたことは認めつつも、今に見ていろ、僕に見直させてやると思うんだろうね」
レギオンは言い返そうと口を開きかけたが、これもまたその通りであったので、反論できなかった。サンティーノはどうしてこれほど自分のことをよく分かるのだろうと、薄ら寒くなったくらいだ。
確かに、レギオンには、他人から受けた侮辱をそのままにしておくということはできなかった。根も葉もない言いがかりならばすぐに相手を攻撃し、自分にそう言われるだけの落ち度や欠点があると思えば改め、後はすっきりとわだかまりを残さない。
「ああ」
半ば悔しく思いながらも、レギオンは認めた。
「君が私を誰も愛したことがない子供だと軽くあしらうのなら、私にだってちゃんと君が言うような恋くらいできるということを証明してやるよ」
挑みかけるような調子で告げるレギオンに、サンティーノの頬がまた僅かに紅潮した。
「それは君らしくて結構なことだね、レギオン」
重たげな黒髪を苛立たしげにかき上げながら、サンティーノも挑戦的に言った。
「では、僕から1つ提案をしよう。君の恋の相手には、ミハイを選べばいい」
レギオンは一瞬耳を疑った。
「ミハイを…だって…サンティーノ、君は何を言い出すんだ?」
戸惑いながらも、ミハイの名を聞くとレギオンの胸は妙に騒いだ。
「だって、君はミハイを気にかけていたじゃないか。全くみだりがわしい気持ちのものではないと、君に言い切れるのかな?」
「それは…確かにあの声にはぐっときたし、人間にしては綺麗な奴だと思ったけれど…いや、待て、あいつはそもそも男なんだぞ」
「別に構わないじゃないか。簡単に手に入る女の子よりも、骨のある手ごわい男の方が、案外、君も本気になれるかも知れないよ。それに…」
サンティーノは呆然と己を見下ろすレギオンに向けて妖しく微笑んだ。残酷な捕食者の、ヴァンパイアの顔で。
「君にとっては、一石二鳥の話だろう。君はミハイから受けた侮辱に腹を立てて報復したいと思っていた。ならば、ヴァンパイアの流儀でやればいい。彼の心をまず奪い、そして、血を」
レギオンは大きく息を吸い込んだ。
「あいつの血を奪えと…?」
当惑して、レギオンは己の口元を押さえた。仕返しはするつもりだったが、ミハイの血を奪うという選択は、全く考えていなかった。
「別に問題はないはずだよ、レギオン。僕達、血を吸う神の子らが、獲物を殺して血を飲むのは当然。それを、相手が可哀想だなんて考えること自体が馬鹿げている。そうだろう?」
いつかレギオンが言ったそのままの台詞を返してくるサンティーノを、レギオンは何となくばつが悪い気持ちで見つめた。
「別に、それはまあ問題ではないのだけれど…私もそろそろ次の獲物を物色しなければならないと丁度思っていたし…だが、ミハイに対して食指が動くかというと…ううん…どうかな…」
ふいに、ミハイのあの歌声がレギオンの胸の中で鳴り響いた。官能の波がそこから広がり、レギオンをぞくぞくさせた。
(あいつの血はどんな味がするのだろうか…? あいつの命と一緒に流れ込む血の声に耳を傾ければ、それは私の体の中で彼の歌と同じくらい素晴らしく響き渡るだろうか…?)
ヴァンパイアが獲物の血を取り込んだ時に覚える快楽は、肉体の交わりを超える一体感と恍惚を伴う。それは獲物の個性が1人1人違うように異なる。獲物が抱く感情によって、血の味自体が変わるように、それは奪う者にとってはたまらない楽しみなのだ。
ミハイの声だけであれだけ感じたのなら、血を飲むという行為からはそれ以上の快感が得られそうだ。
想像するだけで喉が渇く。レギオンは俄然その気になり始めた。
「いや…もしかしたら、まんざらではないのかもしれない…同性愛か…それは未経験だが、食わず嫌いかもしれないな」
確かに、レギオンにはあまり節操はなかった。
サンティーノが深い溜め息をつくのに、レギオンは彼に注意を戻した。
「何だよ」
「いや、別に。どうやらその気になったようだね、レギオン」
レギオンは、にやりと笑った。
「ああ」
それから、ちょっと首を傾げた。
「だが、君が私を挑発して、そんなたちの悪いゲームのようなことを仕掛けてくる理由が分からない」
レギオンは単純だが、全くの盲目ではない。サンティーノが自分を誘導したことには気がついていた。
「訳などないよ。ただ」
サンティーノの言葉をレギオンは待ち受けたが、サンティーノは気を変えたらしく、首を振って、椅子から立ち上がった。
「まあ、せいぜい、うまくやるんだね」
後は勝手にすればいいというように立ち去ろうとするサンティーノをレギオンは一瞬見送りかけたが、胸の中にはまだすっきりしないものがわだかまっていた。
「待てよ、サンティーノ」
レギオンはサンティーノの手を捕まえた。その瞬間は何をどうしようという深い考えはなかったのだが、怪訝そうに振り返るサンティーノの顔を見た途端、レギオンの頭の中にふいに悪戯心が閃いた。それも、非常に悪質の。
「そんな不機嫌そうな顔をするなよ、サンティーノ。ミハイを恋の相手に選べと言ったのは君なんだぞ」
レギオンは、捕まえたサンティーノの手の上にそっと身をかがめるようにして、彼の瞳をじっと覗き込んだ。サンティーノ の眼差しを捕らえこんだまま、魅力的に微笑んだ。
「そこで、実は君に頼みがある」
レギオンの唇はサンティーノの肌の近くにあった。少なくともサンティーノが彼の吐息を感じられるほどには。
「私は女性の扱いはともかく、男性をどのように抱けばいいのかよく分からない。果たしてちゃんとできるのか、そのあたりを実践によって確かめておきたいんだ。私にうっかり同性愛の奨めなどした責任は取ってくれよ、サンティーノ」
片目を瞑ってみせるレギオンをサンティーノは信じられないものを見るかのように見つめ返した。それから一転逆上し、レギオンの手を振り払いざま顔を殴りつけようとした。
これは予想していたレギオンは、難なくかわした。
「ば、馬鹿も休み休み言え! どうして、この僕が君に…そんなことまで教授しなければならないんだ!」
レギオンはずるそうに赤い舌を出した。
「私をけしかけておいて、後は知らないふりだなんて許さないぞ、サンティーノ。どうせなら君もたっぷりつきあえよ、このゲームに」
サンティーノの頬は怒りのためか小刻みに震えた。そのままぷいっと顔を背けて礼拝堂の扉に向かおうとする。
レギオンは高々と跳んで、サンティーノの前に降り立ち、行く手を遮った。
「レギオン、いい加減に…!」
怒鳴りつけようとしたサンティーノはいきなり飛び込んできたレギオンに胸をつかれ、後ろによろめいた。そこをすかさずレギオンは脚払いをかける。
「このままでは帰さないよ、サンティーノ」
後ろざまに転倒したサンティーノに、レギオンは飛びかかった。
「な、何をする?!」
「だから、君を抱くんだよ」
サンティーノは一瞬、気を失いそうな顔をした。
サンティーノには悪いが、こんな可愛い顔をされると、レギオンはますます嗜虐心をかきたてられる。初めは悪ふざけ半分だったのが、実際、とまらなくなってきた。
「まさか男は知らないなんて言わないだろうな? 人を挑発しておいて?」
揶揄するように囁いて、レギオンはサンティーノの唇に噛み付くようなキスをした。
サンティーノの唇は、男性のものにしては柔らかく甘く感じられた。ふと離れ、レギオンは、今度は優しく、微かに震えるそれを唇ではさんで吸った。
(あれ…?)
レギオンは眉間にしわを寄せた。何だか、これをするのは初めてではないような気がする。
奇妙な既視感に戸惑いながら、身を僅かに起こして、サンティーノをしげしげと見下ろした。瞬間、レギオンは今の今まですっかり忘れていたことを思い出した。血の気が引いた。
(あの夜か…!)
ブリジットに求愛を目論んだ後、サンティーノの部屋で散々飲んで酔い、その挙句、嫌がるサンティーノにからんで、こんな悪ふざけをしてしまったのだ。サンティーノが怒って二度と口もききたくないと思うのも無理はない。少しくらいの粗相どころか、とんだ大迷惑だった訳だ。
サンティーノも、急に固まってしまったレギオンを見上げ、彼の表情のうちに何かを読み取ったらしい。目元を赤らめ、居たたまれなくなったかのように顔を背けた。
(う…気まずい…)
レギオンは焦っていた。謝ろうとも思ったのだが、サンティーノがあんまり情けなそうに目を逸らせたので、それすらもできなくなってしまった。
(う、奪ったのは本当に唇だけか…? まさか…もっと色々してしまったのだろうか…?)
その辺りの記憶は完全に抜け落ちているだけに、レギオンは余計に気まずかった。
レギオンはどうしていいか分からずにサンティーノを見つめ続け、その視線を浴びながらサンティーノは恥じ入ったように身を固くしていた。
「ええい、くそっ…!」
レギオンがいきなり意味不明の声を発したのに、サンティーノはびっくりして彼を見上げた。
「したのかしなかったのか、過ぎてしまったことはもうこの際どちらでもいい。どうせ、今からまたしてしまえば、同じだ!」
もしかしてこれで解放してもらえるかもと期待していたらしいサンティーノは、真っ赤な顔をして叫んだ。
「す、するって…待て、本気か?! 昼の日中のこんな場所で、そこの扉から誰かが入ってきたら、どうするんだ?」
「怒鳴りつけて追い出してやればいい」
レギオンのあまりな言い草に、サンティーノはまたふっと気が遠くなったようだ。
「君は、私を拒みはしない」
レギオンは獰猛に笑った。サンティーノははっと息を吸い込んだ。
「あの夜だって、君は結局私に逆らえなかった…違うか?」
レギオンはかまをかけてやったのだが、サンティーノが今にも消え入りそうな風情で目を伏せたので、自分の直感が当たったことを確信した。サンティーノの昨日からの不機嫌の理由も、今は何だか分かる気がする。レギオンがブリジットの後は早くも人間の歌手に関心を移したことに、嫉妬していたのだ。
「私のことが、好きなんだろう?」
自分の声に勝ち誇ったような響きがあることを、レギオンは否定しない。そう、サンティーノはレギオンに惚れている。
「私に、誰かと恋をしてみろだなんて、その口でよくも言えたな」
サンティーノの頭を抱くようにして、レギオンはその耳に低く甘い声で吹き込んだ。
「私は、別に君が相手でもよかったのに」
恋などというものは、結局目当ての相手の心を手に入れられるかどうかを楽しむゲームだ。サンティーノが自分のものだと思えば、当然嬉しいし愛しさも覚えるが、勝利し手に入れてしまった後の関係には、レギオンはそれ程ときめきを覚えない。だから。
「もう、遅いけれどね」
愛され慣れた者の高慢さで言うレギオンをサンティーノは睨みつけ、怒りに満ちて押しのけようとした。
「どけ! 僕は君など大嫌いだ!」
「なら、もう一度試してみよう」
レギオンは怒り狂うサンティーノを抱き寄せて強引に唇を重ねた。噛み付かれるかもしれなかったが恐れずに、怒りにわななく唇を吸い上げ、歯列を割って舌を差し入れ、滑らかな口内を味わった。最初は死に物狂いで抵抗するかに思われたサンティーノだったが、結局レギオンに屈服した。己を侵すレギオンの唇と舌の攻撃に、噛み付き返すことすらも彼はできなかった。
「う…う……」
長い抱擁と口付けの後ようやく解放してもらったサンティーノは涙ぐんでいた。ちょっと苛めすぎたかもしれないと思わないでもないが、完全に落とすまで、レギオンは容赦しない。
「脈が速いね」
レギオンは放心しているサンティーノの手首を取ったまま、満足そうに目を細めた。
「やっぱり君は私が好きなんだよ、サンティーノ。さあ、あきらめて降参しろ」
レギオンは力の抜けてしまったサンティーノの体をさっさとひっくり返し、喜々として服を剥ぎ取ろうとした。
たまらず、サンティーノは泣き喚いた。
「レ、レギオン、頼むからやめてくれ! いつ何時人が入ってくるかもしれない、こんな場所でなんて…い、いくらなんでもひどすぎる…こんな情緒もへったくれもない慌しい交わりなんて、僕は絶対嫌だぁっ!」
「ふうん」
レギオンは悪そうに笑って、しくしく泣いているサンティーノの頭を軽く撫でた。
「女の子みたいに、面倒くさいこと言う奴だな」
床に突っ伏したままのサンティーノを抱き起こし正面を向かせると、レギオンはその顔を覗き込んだ。
「それで?」
サンティーノはもはや虚勢を張ることもできず身も心もぼろぼろの態で、レギオンを恨めしそうに見つめたが、上気した顔と涙で潤んだ瞳は別の想いも語っていた。
レギオンは、促すように眉を軽く跳ね上げた。
「僕の…部屋に行こう…」
サンティーノは消え入りそうな声で囁いた。
「ああ」
レギオンはにっこり笑って、サンティーノの頬に優しく口付けをした。瞬間、慄いたように震えるサンティーノの耳へ唇をずらし、味見とばかりに舌で舐めてやった後、レギオンは笑いを含んだ声で言った。
「そうこなくちゃ」
その後レギオンは、放心状態のサンティーノを急かせるようにして、ちゃっかり彼の部屋に行った。そこで彼を抱いた。
サンティーノがそれまで同性との経験があったのかなかったのか、レギオンにはよく分からなかったし、別にどちらでもよかった。いつもと勝手の違う行為はレギオンをかなり昂ぶらせ、性急で残酷になった彼は、サンティーノに何度も悲鳴をあげさせ、また少し泣かせてしまった。同性愛の実践のためなどという口実は、本当はもうどうでもよかった。ただ、落とした獲物を、内気で優しいサンティーノをこうして自分のものにしておきたかったのだ。
(ひどい奴…!)
(そういう私を好きになったのは、君だろう?)
欲しいと思えば、強引に攻め抜いて、手に入れ、そして征服する。それのどこが悪い?
レギオンにとって、そもそも恋とは、そんなゲームだった。
遊びだの本気だの言われても、実はよく分からない。より攻略しがたい相手ならば、より燃えられていいだろう。その程度の認識に過ぎない。
それが、この頃のレギオンだった。
見目麗しく、明るく快活で魅力的、子供のように残酷で、そして、いまだ恋を知らず―。