天使の血

第二章 いまだ恋を知らず


 音楽会があった翌日の午後、サンティーノは1人、小さな中庭を巡る回廊をぼんやりと歩いていた。暑い日ではあったが、実をつけたレモンの樹に囲まれた泉とそこに流れ込む水の音は涼しげに思われ、サンティーノはふと足を止めた。 

(それでも、いつの間にかそろそろ夏も終わりか…)

 気のせいか、今年はいつになく時間が経つのが早いように思える。ローマに生活の基盤を持ち人間と同じような身分と役職を持つ血族と違って、食客のような立場で宮廷に閉じこもっていると、基本的に毎日が同じような単調な生活になり、社交嫌いのサンティーノなどにとっては、はっきり言って退屈で時間をもてあますことが多いものだ。人間との短いに『恋』についても同じだ。だが、この所、不思議と無聊を感じることがない。

 サンティーノは、手入れの行き届いたスペイン風の中庭に出て行くと、泉の傍に経った。覗き込むと小波のたつ水面に映る己の顔が見返してくる。暗くぼやけているせいか、物悲しく思いつめた表情をうかべている気がした。

(どうせなら、もっと楽しく心浮き立つことで頭を一杯にできればいいのだけれど)

 サンティーノは切なげに、胸にためていた息を吐いた。

 己の憂鬱の根源は何であるかは分かっている。レギオンだ。

 彼と出会ってから、サンティーノの心の平安はすっかりかき乱されてしまった。

(レギオンといると、すごく楽しく心が弾むのは確かだけれど…それ以上に、腹が立ったりいらいらしたりすることが多い。何だか、すっかり振り回されてしまって…やっぱり、あいつと僕は相性があわないんだ。これ以上付き合うのはやめようとも何度も思う…けれども、レギオンがしばらく姿を見せないと、今あいつは何をしているんだろう、またどこかで騒ぎを起こしているんじゃないだろうかと気になって…)

 サンティーノの脳裏に、夕べ、しばらくぶりにレギオンと出会った時のことが思い出された。意識して近づかないようにしていたのはサンティーノの方だったはずだ。しかし、あの悪戯っ子のような顔を見、少しも改まる様子のない驕慢な言い草を聞き、いつもの強引な気安さで突付きまわされながら、おかしなことにサンティーノはときめいていた。

(全く、どうしてしまったんだろう、僕は…これでは、まるで―)

 サンティーノはふと何かを思い出したように己の唇を指先で触れ、顔を赤らめた。思い直したように頭を振った。

(馬鹿げている。こんなことでくよくよするのは、もうやめようと思ったはずなのに…レギオンはけろりと忘れ去って涼しい顔をしていた…僕も忘れてしまおう…)

 サンティーノは、ふいに突き上げてきたもどかしさに、紅い唇を噛み締めた。こんなにサンティーノが思い悩んでいるというのに、あの馬鹿ときたら、人の気も知らないで、綺麗な人間の歌手にうつつをぬかしていた。宣言どおりブリジットを素直に諦めたのはいいが、若く情熱的なレギオンがいつまでもおとなしくしているはずがなかったのだ。

(違う!)

 胸の中のもやもやとした感情を、サンティーノは再び押し殺した。

(レギオンが、あの人間に興味を持ったからといって、それが何だというんだ。彼が、ミハイに侮辱を受けた仕返しをしようが、あの素晴らしい歌声に惹かれ惚れこもうが、僕には関係ない)

 己に言い聞かせながらも、夕べのレギオンの態度を思い出すとどうにも気持ちが静まらず、サンティーノは腹立ち紛れに手近にあったレモンの実をもぎ取り、泉に投げ込んだ。

 結構な音と共に水飛沫が散った。サンティーノはそれを睨みつけながら、肩で息をついた。 

「サンティーノ」

 威厳のある声に名を呼ばれ、サンティーノははっと姿勢を正した。

 水飛沫が上がった泉の向こう側、回廊に佇む長身の美丈夫の姿に、サンティーノは瞠目した。

「ハ、ハイペリオン様」

 後ろからまばゆい光が差すかのような王者然とした風格の最長老は、この思いがけない出会いに呆然と立ち尽くすサンティーノを眺め、ゆったりと頷いた。ブリジットと並ぶ高位にあるハイペリオンが供も連れずに1人でいることも意外だが、サンティーノにとっては、彼に話しかけられたことの方が一大事だった。

 慌てて頭を下げ敬意を示すサンティーノに鷹揚に笑いかけながら、ハイペリオンは回廊から庭に出、彼に向かって歩いてきた。

「ああ、そのようにかしこまる必要はないのだよ、サンティーノ。私もそなたと同じ、1人でのんびりと午後の散歩を楽しんでいるだけなのだからね」

 ハイペリオンの朗々と響く、よく通る低い張りのある声を聞きながら、サンティーノは戸惑うばかりだった。

(同じと言われても…)

 若輩者のサンティーノにとっては、ハイペリオンもブリジットと同じ神にも等しい存在だ。ブリジットにはサンティーノはそのリュートを愛され可愛がられているので、それなりに打ち解けて話せるようになっていた。しかし、ハイペリオンとこんなふうに個人的に言葉を交わしたことはほとんど皆無であったので、緊張するばかりで、どうすればよいか分からなかった。

 ハイペリオンは、5世紀末のイギリス、コーンウォールの生まれだという話だ。ブリジットやマハに比べると若いのだろうが、サンティーノにとっては大差なかった。ゆったりとした深い緑の衣装に金鎖の首飾り。豊かなアッシュ・ブロンドにはしばみ色の穏やかな瞳。一族の例に漏れず、一番美しい青年期のまま凍結された姿は、サンティーノとそれ程変わらない年齢に見えるが、実は千年も違うのだ。

「昨夜の音楽会での演奏は見事であったな、サンティーノ。ブリジットが愛するのも頷ける」

「い、いえ…僕の演奏など、まだまだ修行も足りず、お耳汚しではなかったのかと不安に思います」

「とんでもない、私は大いに楽しんだよ。まあ、千年も生きているとあれば、頭の中も石さながらに固くなって、芸術も解さぬだろうと思われても仕方がないのかもしれぬが」

 サンティーノは慌てて、頭を振った。

「そ、そのようなことでは―」

 サンティーノが本気で焦るのに、ハイペリオンは楽しげに目を細めた。

「年長者の悪い癖だな。生真面目で初心な若者を見ていると、ついからかいたくなるのは」

 ハイペリオンが闊達とした笑い声をたてるのに、サンティーノは恥ずかしくなって、泉に目を落とすふりをしてうつむいた。

 揺れる水面には、当惑の面持ちとサンティーノと共に堂々たるハイペリオンが映っている。

「レギオンとは仲がよいのかな、そなたは?」

 いきなりそんなことをハイペリオンに問われて、サンティーノの心臓は胸の中で縮み上がった。

「え?」

 顔を上げると、柔らかな笑みをうかべたハイペリオンのはしばみ色の不思議な瞳があった。

「夕べの音楽会に、あの悪戯小僧がもぐりこんでいただろう? そなたと一緒だった」

 サンティーノはどっと汗が吹き出すのを感じた。

「別にとがめようというつもりではないのだよ、レギオンもそなたも。ブリジットの寝所の傍まで忍び込んだ云々の件についても、私は、最近の若い者にしてはなかなか見所のある奴だとむしろ喝采したくらいだった。ほとんど名のみとは最高位についている私が言うのもなんだが、長老達というのはどうも頭が固くていけないな。やれ、決まりだの格式だのを振りかざして、若者達を押さえつけて。あんまりやりすぎると、宮廷生活自体が堅苦しく面白みのないものになってしまうと思わないかね?」

 ハイペリオンの意外に茶目っ気のある口ぶりに、サンティーノは目を丸くした。それから、ちょっと小首を傾げて考え込んだ。

「それでも、大勢が集まるところには、ある程度の約束ごとは必要でしょう…? 皆が皆好き勝手に行動していては、きっと争いばかりで一緒に生活などできません…レギオンが皆に睨まれるのは、彼があたかも自分中心に世界が回っているかのように振る舞い、周りに対する気遣いや配慮に欠けているからです。僕自身も彼の身勝手さや我がままには腹が立つことも多くて…あの調子でいけば、いつか仲間達と大きな衝突をして、ここにいられなくなるのではないかと心配になります。僕は成り行き上彼と一緒にいることが多いものですから、これまで何度も態度を改めるよう言い聞かせてきました…全く、どうしてこんな親みたいな小言を言わなければならないのかと情けなくなるくらい…だのに、レギオンは全く聞く耳を持たなくてやりたい放題で…僕ですら、何度見捨てよう縁を切ろうと思ったかしれません、けれど…」

「腹が立つ以上に、そなたを惹きつける魅力があるのだろう、レギオンには?」

 サンティーノははっと息を吸い込んだ。

「私などにとっては、レギオンの破天荒さはこの上もなく魅力的だよ。彼は、まだ本当に若いのだ。何も知らない子供だからこそ、あれほど恐いものなしで、大胆で、無邪気でいられるのだろう。まだ18才だったね…ヴァンパイアとしての力は一人前に備えてきたが、精神的には未熟で色々な冒険や失敗を繰り返す時期だ。レギオンは肉体的には早熟で能力的にも恵まれ、その上あの容姿だから、自惚れるのもある意味無理はないと思うよ。挫折を知らず、傷ついたこともなく、己の行く道について迷わない、レギオンを見ていると、私の少年期を少し思い出して、何やらくすぐったいような心地になる。そう言えば、私にもあれくらい血気盛んで無茶を繰り返した時代があった」

「ハイペリオン様がですか?」

「もちろん、私だって、初めから千才だった訳ではないからね。私が若かった頃、故郷のブリテン島は、ローマ人の支配から離れられたかと思えば、今度は侵略をはかるサクソン人の脅威にさらされていた。その時代では、血を吸う神々は人間の争いには関わらず中立を保って見守るのが掟だったが、残虐な侵略者に慣れ親しんだ土地が奪い去られ、隣人である人間達が虐殺されるのを見るのは、私にはどうにも我慢がならなかった。それで、人間のふりをして、自らも剣を取って彼らと共にサクソン人と戦ったのだ。ヴァンパイアの仲間達からは猛反対にあい、一時は追放同然の身となったが、私は別に構わなかった。理屈でない使命感に突き動かされ、それに共に戦ううちにヴァンパイアよりも人間達の方に愛着を覚えるに至った。吸血の欲求だけはどうしようもない不死者の私だが、できるかぎりのことを彼らにしてやろうと思ったよ。いつの間にか私は人間達に王とまで呼ばれるようになった…いつまでも彼らと共にいたかったが、それは結局叶わなかった。私を王として愛してくれた人間の友人達も、やがて私がいつまでたっても年を取らぬことに気づいてからは、私を恐れ憎むようになったからだ」

 サンティーノは、ハイペリオンの話す途方もない昔話に思わず聞き惚れた後、感じ入ったような溜め息をついた。

「その…僕には、何と言えばよいのか分かりませんが…それほどまでに愛した人間達から裏切られたのは、お辛かったでしょうね」

「ああ、辛かった。けれど、乗りこえられない痛みなど、結局ありはしないんだよ。私は束の間夢を見、挫折したが、それは若いヴァンパイアだった私が次の段階に進むために通過しなければならない何かだったのだろう。今でも、あの時代のことは時折夢に見るが…」

 ふと遠い目をするハイペリオンを、何かしら初めて見るような気持ちで見つめた後、サンティーノは胸の奥から突き上げてくる衝動のまま、問いかけた。

「ハイペリオン様、あの…一体、どのようなものなのですか、千年の時を生きるというのは…? 僕には想像もつきません…この僕自身が、いつかあなたが経てきたほどの歴史を積み重ねるなど…僕の肉体は、どうやら時をとめたようで、この先自分が成長することも老いることもないのだということは理屈では分かります。だからと言って、永遠に自分が変わらないということも想像ができなくて…人間達のように死の影に怯える必要がないのはありがたいことなのかもしれませんが、永生を重ねていくということも、同じくらい恐いような気がします。…こんなことを考えるのは、不死者としては間違っているしおかしいのかもしれませんが、でも、僕は…不安なんです…千年後の自分だなんて。例え姿かたちは同じでも、今の僕とは、ものの感じ方も心も別人のように変わっていることでしょう。取り巻く環境も想像もできないほど変わっているに違いない。そこにいるのは一体どんなサンティーノなのだろうかと考えると、何だかくらくらして…」

 正直に打ち明けるサンティーノに向けられた、ハイペリオンの穏やかな瞳がふっと陰り、あらゆる表情を消した虚無の深淵と化した。

 サンティーノは何かしら慄いて、ハイペリオンから目を逸らした。千年の時を重ねた神か怪物の素顔を垣間見た気がして。

「そなたの惑いは分かるつもりだよ、サンティーノ。だが、それについて私が答えることは難しい。我々は不老不死ではあるが、それでも時が止まったわけではない。我等の上にも時間は流れ、それに伴って我等は変わる。目には見えない変化ではあってもね。私自身、今、千年前の自分自身を思い起こせば、あれは果たして何者だったのだろうか、本当にこの私と関わりのある者だったのだろうかと突き放したような気持ちになる。懐かしむ心は今の私にもあるが、それは、あの頃には二度と戻れないことを知るがゆえだ」

 厳かに響くハイペリオンの声には、しかし、彼自身の感情の揺らぎはこもっていなかった。あたかも、そんな未成熟で柔らかな心のありようなど既に超越してしまったかのように。

「さて、サンティーノ、そなたはいつか私のような存在になりたいと思うのだろうか?」

 ハイペリオンの問いかけに、サンティーノは思わず震え上がった。神にも等しいヴァンパイアが到達した場所など、若いサンティーノにはやはり分からなかった。ただ無性に恐ろしく、訳もない抵抗を覚えた。

 そんなサンティーノに向けて、ハイペリオンは優しく言った。

「どうやら、私自身について無駄なおしゃべりをしすぎたようだな。そなたの友人のことを話そうと思っていたはずなのに」

 ハイペリオンが追求してこなかったことにほっとしながら、サンティーノは再び彼を見た。

「私自身はレギオンには好感を覚えている。だからと言って、このままいけば、彼は遠からず宮廷での生活に破綻し追放の憂き目にあうか自ら出て行かねばならなくなるだろう。我等が血族は誇り高く嫉妬深く、レギオンの振る舞いはことごとく皆の神経を逆なでしておるからな。私も、そしてブリジットもできる限りかばってやりたいとは思っておるよ。あの愉快な少年がいなくなれば、また宮廷生活が退屈で面白みのないものに戻ってしまうからね。だが、我々最長老があからさまにレギオンびいきをするのも、それこそ余計に他の者達の反感を招くだろう」

「そうですね…その通りだと思います。レギオンの何が一番顰蹙をかったかというと、やはり身の程知らずにもブリジット様に求愛しようとしたことですし…その上、最長老の方々がレギオンのことを気にかけているなどと知ったら、あなた方の取り巻きがどれほど怒り狂うか、容易に想像はつきます」

 ハイペリオンまでもが随分とレギオンに好意的であることに正直驚きながら、サンティーノは考え深げに続けた。

「レギオンは、以前のような無茶なやり方でブリジット様に近づくことはあきらめたようです。自分の未熟さを自覚したからだと言っていました。彼も決して身の程知らずの馬鹿ではないのだと思います。気がつけば、ちゃんと反省して行動を改めるだけの賢さと潔さは持っています。だからと言って、宮廷のやり方に自分をあわせる協調性はほとんど皆無と言ってよく…何と言うか、ブリジット様という気持ちを傾ける対象がなくなってしまったことで、レギオンが次に何をしでかすか、正直、僕は心配です。とにかく恐いもの知らずの情熱と行動力だけはありあまる程に持っているレギオンのことですから…」

 困りきったように溜め息をつくサンティーノを、ハイペリオンはじっと観察した。唇に面白そうな微笑がうかんだ。

「ひとつ、恋でも、させてみてはどうだね?」

 サンティーノは、最長老のハイペリオンが何を言い出したのかとっさに理解できず、目をぱちぱちさせた。

「は? こ、恋ですか?」

「うむ。レギオンは、結局、若い情熱を注ぐ対象を探しあぐねているのだと思うよ。私の若い頃のように戦争をと言っても、彼はそのような使命感にかられる性格ではない。ならば、恋が手っ取り早い。どうやら私が見るところ、あの坊やはまだ誰にも心を捕らわれたことはないようだ。獲物相手の見せかけの恋、他愛のない軽い火遊びなら結構楽しんできて、それなりに経験豊富なつもりなのだろうが、実のところ何も知らんのだ。レギオンにとって、恋など、手近な場所に並べてある甘いお菓子をつまんで食べるような、何でもない簡単な暇つぶしにすぎない。一度自らが捕らわれ苦しめられるような、のっぴきならない本気の恋でもしてみれば、あれも少しは落ち着いて今より大人になるのではないかな」

「恋…レギオンが…?」

 サンティーノは何故だか落ち着かない気分になった。

「ハイペリオン様の言われるとおりだとは僕も思います。レギオンの言動を見ていると根本的に子供なのだと感じることは何度もあって…自信や誇りが揺らぐほどの大きな事件は彼には今まで一度もなかったのでしょう。おそらく、本当に恋をしたこともない…」

 いつだったか、人間相手の狩りのことを話すレギオンの無邪気な残酷さを思い出して、サンティーノは一瞬言葉に詰まった。

「でも、レギオンに恋をさせろと言っても、それこそ、どうしたらいいのか…結局は本人の問題ですし、僕にはレギオンに相応しい相手といっても皆目見当がつかない」

「そなたでは、駄目なのか?」

 どことなくからかうような口ぶりで、ハイペリオンが言った。

「冗談じゃない!」

 思わず絶叫してしまった後、サンティーノはすぐに我に返った。

「も、申し訳ありません…ハイペリオン様にいきなりこんな大声をあげるなんて、とんだ不調法をいたしました…お許し下さい…」

「あ、いや。軽口が過ぎたようだ、すまぬ。」

 かわいそうなくらいおろおろするサンティーノをなだめるよう、ハイペリオンは手を上げた。

「だが、レギオンの傍にいて、彼のことをよく見守っているそなたには、本当にレギオンが関心を持ちそうな相手について、何の心当たりもないのだろうか?」

 その時、サンティーノの脳裏に、夕べの音楽会で歌っていた歌手を熱心に目で追っていたレギオンの姿が思い出された。

「別に、同族相手でなくともよいのではないか?」

 心を見透かすようなハイペリオンの意味ありげな囁きに、サンティーノは微かに身震いした。

「え…?」

「我等は人間を恋の罠に捕らえて狩る者だが、時には自らが捕らわれることもある。そこは、人間とヴァンパイアはやはり似た心を持つ生き物だからね」

 サンティーノはハイペリオンの真意を測りかねて、不安げに身じろぎをした。

「でも、それは…人間との恋だなんて、あまりに酷ではありませんか…知らずにすむものなら、どんなにか幸福かしれない…」

「そう言うそなたはもう知っているのだね、サンティーノ」

 サンティーノは暗い顔をしてうつむいた。

「そなただけではない。それは、全てのヴァンパイアが経験する痛みだよ。レギオンにしたところで、いつまでも恋を知らない子供ではいられない。同族と相思相愛の関係をいつまでも築ける僥倖に恵まれる者などほとんど皆無に等しい。実際、なぜかヴァンパイア同士の恋人達というのも、それ程長続きしないことが多い。どうしてか我々は人間に対し心惹かれるものなのだ」

 急に、サンティーノはハイペリオンに対して激しい反発を覚えた。

「僕は、そんな辛い恋をレギオンにさせたくありません」

 ハイペリオンは、軽く肩をすくめた。

「誰も強制はできぬよ。だが、放っておいても、いつかレギオンは誰かと、人間なり同族なりを相手に恋に落ちるだろう。情熱的でロマンチストな、いかにも恋愛をするために生まれてきたような彼のことだからね。さて、心配性のそなたにとっては、どうせレギオンが恋をするのなら、自分の目の届くところで事情の分かる相手としてくれた方がよいのではないかな? 痛みを伴う恋となるだろうと初めから知っておれば、そなたはいつでも必要な時にレギオンに助けなり慰めなりを与えられる。それは、そなたにとっては安心材料になるのではないか」

 サンティーノの頬がさっと紅潮した。怒りのためばかりではなかった。胸の奥底に隠した屈折した心情を見透かされたようで、恥ずかしかったのだ。

「僕は、これでもレギオンの友人です。僕を信頼してくれているレギオンを罠にかけるような、そんな卑怯なまねはしません」

 固い声で言うサンティーノを、ハイペリオンは相変わらず強固な岩さながらの平静さで見守った。彼は何も言わなかった。

「僕はこれで失礼させていただきます、ハイペリオン様」

 これ以上ハイペリオンと話していると自分の秘密をますます暴き立てられてしまいそうで、恐くなって、サンティーノは優雅に一礼をすると、その場を後にした。

(レギオンに恋をさせろだって…?)

 ハイペリオンの言葉は、サンティーノを思った以上に動揺させていた。

(あれは、もしかしたら遠まわしの命令だったのだろうか…レギオンをおとなしくさせるために…強制はできないとハイペリオン様は言われたけれど、でも…)

 つい感情的になってハイペリオンの提案をはねつけたサンティーノだが、彼の惑いがそれで終わったわけではなかった。

(レギオンに恋を…それは、僕も考えなかったわけではないけれど…あいつは、今まであまりにも心の痛みを知らなすぎたのだ。いずれ、僕が経験したような恋の痛みを知れば、もっと他人の心の機微が分かる大人になるだろう。でも…だからといって、僕がレギオンにそんな辛い思いをあえてさせたいかというと別の話で…レギオンが誰かと恋に落ちるよう仕向けるようなまねなどできないし、それに…) 

 ハイペリオンの揶揄を思い出して、サンティーノは一瞬胸がつまり、それから、深い嘆息をついた。

(僕自身にもできない…レギオンの恋の相手なんて…)

 ハイペリオンと別れた後、サンティーノは考えにふけりながら広いヴィラの中を当てもなくさ迷い歩いた。いや、そのつもりだったのだが、いつの間にかレギオンの姿を探し求めていた。

 はたと気がついて、サンティーノは少し呆然となった。しかし、ともかく今レギオンに会いたくて、彼の顔が見たくて仕方がなくなっていることは認めない訳にはいかなかった。

 たぶん、サンティーノは不安だったのだ。ハイペリオンのほのめかしによって、あの歌手に対してレギオンが抱く関心がただならぬものとなっているのではないかと急に気になりだした。会って言葉を交わすことで、その可能性を否定したかったのだ。

(本当は考えたくもないことだけれど、僕はレギオンに惹かれている。自分と違いすぎるから反発も覚えつつも、好きにならずにいられない。でも…)

 サンティーノの顔にひっそりと哀しげな笑みがうかんだ。

 ふとした折に胸に甦るのは、あの馬鹿げた冒険と、深夜の庭園で見た陽の名残り。金色に揺らめき踊るレギオンの面影。思い出す度、今でもサンティーノの胸は高揚し、熱くなる。

 あの光を追いたい、ずっと照らされていたい。

 心の赴くまま迸る熱情のまま行動できれば、どんなにかいいだろう。

 サンティーノを縛り付け身動きできなくさせているのは、己に対する自信のなさか、傷つくことを恐れる弱気か。

 はっきり言って、レギオンに心底のめりこむことは恐い。ただの友人の立場でさえ、レギオンと共にいれば、我が心の振幅の大きさに驚くばかりなのだ。恋だなどと、たぶん耐えられない。

(きっと僕には、分相応の穏やかで安らげる恋があっているんだ)

 サンティーノは己にそう言い聞かせ、あきらめる。しかし、 

(だって、太陽はまぶしすぎて…あまり長く見つめることはできないから…) 

 胸の奥で、消えない、揺らめき燃える陽の光…。


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