天使の血

第二章 いまだ恋を知らず


(つまらない…来る日も来る日も、こんなふうにおとなしく過ごさなければならないなんて地獄だ)

 ヴィラの中にある、小さいが立派な礼拝堂の中、レギオンは1人会衆席の後ろ方にごろんと横になってふてくされていた。

 レギオンがブリジットの御座所に忍び込んだ一件は、長老達の激怒を招いた。彼女の取り成しによって、レギオンは追放処分にこそなることはなかったが、ひと月間の謹慎処分をくらってしまった。おかげで、宮廷での公式な行事に出席することは無論、大好きな舞踏会や夜会などに参加することもできずに、活動的な彼としては非常に欲求不満の日々を送っていたのだ。

 それでも、堪えきれずにローマの街中に頻繁に遊びに行ったりはレギオンはしていたので、とばっちりを受けて長老達からのお叱りを受ける羽目になったサンティーノが見たら、その不真面目さに激怒したかもしれない。

 だが、そのサンティーノもここしばらくレギオンに近づいてこようとはしない。気弱な彼のこと、長老達や他の同族にこれ以上睨まれるのが恐いのかもしれない。だが、それよりも、あの夜、サンティーノの自室に招かれたレギオンが、そこで色々と粗相をしたことに未だに腹を立てているのかもしれなかった。

(サンティーノはいい奴だが、気が弱くて神経質なところが玉に瑕だな。私が飲んだくれて少しくらい暴れたからといって、あんなに怒らなくてもいいのに…)

 自分が酒の勢いで何をしたかはあまり覚えていないレギオンは、翌朝からいきなり不機嫌で口もきいてくれなくなったサンティーノを逆に恨めしく思っていた。

 レギオンには他に友人はいない。ブリジットに求愛を目論んだという噂はあっという間に広まり、おかげでまた敵が増えた。以前はレギオンをちやほやした女達も、彼の不誠実さにはいい加減愛想が尽きたのか、この頃ではあまり言い寄ってこなくなった。

(退屈だ。今夜辺り、サンティーノの部屋に押しかけてやろうかな…あいつは怒るかもしれないが、構うものか。大体、一方的に腹を立てて、人を無視するなんて酷いじゃないか)

 サンティーノの困ったような顔を思い出して、レギオンは目を瞑ったまま、ふっと笑った。あんな顔をするから、余計に悪戯をして困らせたくなるのだ。

(待てよ、今夜は音楽会が催されるはずだったな。とすれば、サンティーノも出席するのだろうか。皆の前で、あの素晴らしいリュートを披露するのかな。ふん、私が社交もできずにくさっているというのに、1人だけ楽しむつもりだなんて、ずるいじゃないか。よし、やっぱり今夜はサンティーノをだしにして、暇をつぶしてやろう)

 そんなとんでもない計画を考えつつ、レギオンはうつらうつらし始めた。

 ブリジットに求愛するという高すぎる望みをひとまず保留にしてしまったことで、レギオンは目指すべき目標を失ってしまった。情熱を注ぐ他の対象が見つかれば、それに向かってひたむきに努力もするのだが、今は彼の興味や関心を引くだけのものが見つからず、宙ぶらりんの気持ちのままでいる。迸るような若さとそれに見合うだけの力はあるが、それを一体どこに向ければいいのか。もどかしさが、レギオンをいらだたせた。

 この礼拝堂を訪れる者はあまりいないが、それでも、ここに滞在する人間の客人達やヴァンパイアでありながら信仰を抱くようになった連中が祈りを捧げにやってくることもある。昼寝などしているところを、そういう連中に見つかったら顰蹙ものだが、見つかったら見つかったで構わない。いるかいないか分からない人間の神に祈るなんて馬鹿だとばかりに嘲笑ってやろうと、レギオンは考えていた。

 レギオンがそうして浅い夢の中を漂い始めた頃、誰かがこの礼拝堂の扉を開いて中に入っていた。レギオンは気づいていたのだが、声を掛けるのももう面倒だったので、そのまま昼寝を続けることにした。

 中に入って来た人物はビロード張りの長椅子に寝ているレギオンには気づかずに、会衆席の脇を歩いていく。時折、壁に描かれた聖人達の壁画を眺めるかのごとく立ち止まりながら。やがて、その人物は祭壇の前で足を止めた。

 レギオンは半覚醒の状態で、夢ともつかぬ夢を見ていた。

 ふいに、不思議な、澄んだ小鳥の声のようなものが聞こえた。小鳥は、眠りに沈もうとするレギオンの心を軽やかな羽ばたきでかすめ上昇した。レギオンの心もそれに持ち上げられるように高く舞い上がった。遥か天上に向かって昇っていく。誰も到達したことなどない高みへ。と、小鳥の声は弾け、黄金のきらめきを放ちながら四方に広がり散った。

 また新たな音が生まれた。水晶のベル。どこまでも澄み渡った音が、徐々に大きく広がっていく。小さな蕾が次第に膨らみ、透明な花弁をほころばせ、ついには巨大な花を開く。限界まで張り詰めた空気が震え、開ききった花は、唐突に散った。

 散りゆく花びらの中から、別の音が聞こえてきた。

 それは人の声の形を取って、レギオンにも聞き覚えのある歌を、ラテン語の聖歌をつむいだ。


 天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ。

 われら主をほめ、主を讃え、主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光の故に感謝し奉る。


(人の声…これが…?)

 レギオンの脳裏に、ふいに、あの夜聞いたブリジットの歌が思い出された。声そのものが似ている訳ではないのだが、この歌声も、レギオンの心の琴線に触れてくる抗いがたい力に溢れていた。歌はレギオンの胸の中で響き渡り、黄金に燃える薔薇を咲かせた。

 レギオンは、いつの間にか目を見開いていた。ゆっくりと身を起こして、祭壇の方に顔を向けた。

 窓から差す淡い光の中に、陽炎めいた人影が立っていた。


 世の罪を除き給う主よ、われらをあわれみ給え。

 世の罪を除き給う主よ、我等の願いを聞き入れ給え。


 この礼拝堂には他に誰もいないと信じきっているのだろう、会衆席の方に顔を向けて天上の音楽のような素晴らしい歌声を響かせている者が何者なのか、レギオンにはとっさに判断がつきかねた。

 ヴァンパイアではなく人間だ。非常に美しいということもすぐに見て取れた。緩やかなウエーブをおびて肩にかかる琥珀の髪。象牙色の肌。名工の手で丹念に刻まれたような繊細な顔立ちは少女かとも思えるが、凛とした少年の涼しさも漂わせている。

 背は高い方だが、その割に横幅が追いついていないアンバランスさを感じさせる。しかし、それもゆったりとした長衣の中に隠されているため定かではない。

 いや、やはり男性なのだろう。それも、もう少年とは言えない年だ。だが、そうであるなら尚更、この声は驚嘆すべきものだった。

 この歌手は、変声前の少年の声を奇跡のように保っているのだから。 

 歌手は、いつの間にか、お馴染みのミサ曲ではなく世俗の歌を歌っていた。彼にとっては、歌の種類は問題ではないのだろう。ただ興の乗るままに歌い、音程や速さを変え、高みに駆け上ったかと思えば舞い降りる、己の声の響きに酔いしれているようだった。

 レギオンも、思わずこの声に聞き惚れてしまっていた。少しくらい上手いからといって人間の歌に感心したことはこれまでなかったのだが、この声の精妙な響きは、ヴァンパイアである彼の耳にも快かった。いや、それ以上だった。

 ぞくりと、レギオンの背筋に戦慄にも似た快感が走る。

 女性の優美さとも少年の愛らしい無垢とも違う豊かなソプラノは、異様な艶かしさを帯びていた。性別不明の声は、官能の蜜を溢れさせながら、性の境界もこの世の常識も飛び越えて自在に疾走する。

 レギオンは椅子に深く座りなおして、謎めいた歌手の歌声に恍惚と耳を傾けていた。彼の体は今やその声を響かせる共鳴板と化していた。身の内につむぎだされる苦痛にも似た官能に呆然と浸っていた。

 ヴァンパイアは、とかく美しいものに弱い。心打たれるほどの美に出会ったなら、我を忘れるほどにのめりこむ。この時のレギオンがまさにそうだった。

 人間の作り出した美に心奪われた事実に微笑みながら、レギオンは歌う若者に賛嘆の眼差しを注いだ。

 大きく広げた肺から溢れ出す歌に自らも溺れているのか、若者の顔にも恍惚とした表情がうかんでいる。滑らかな白い頬は紅潮し、今にも死にゆこうとする者のような奇妙な幸福感を漂わせて、それはいっそ他人が見てはならぬ後ろめたい悦びを思わせた。

 レギオンはふいに喉の渇きを覚え、妖しく目を細めながら唇を舌で湿した。この歌手がつむぎだす官能が、別の欲望を刺激したようだ。

(誰だ、おまえは…?)

 欲しいと、この瞬間レギオンは強く思った。相手が男だろうが女だろうが、人間だろうが化け物だろうが、構わなかった。とにかく、欲しいものは欲しいのだ。

 知らず、レギオンの唇はまくりあがり、鋭い牙が覗いた。突き上げてくる飢渇のあまりレギオンが低いうめき声を発した、その瞬間、歌がやんだ。

 はっとしてレギオンが目を上げると、歌手が呆然とした面持ちでレギオンをまっすぐ見ていた。

 レギオンはとっさに己の口を手で覆い、むきだされた牙を隠した。

 歌手の顔には非常な衝撃がうかんでいた。聴衆がいるとは、夢にも思っていなかったのだ。

 しばし呆気に取られてレギオンを見つめ返すことしかできなかった若者の顔に、次の瞬間朱の色がのぼった。そして、再び青ざめた。

 彼は、誰にも聞かれたくなかったのだ。歌う自分を見られたくもなかったのだ。

 若者が覚えている恥辱が、レギオンも動揺させ、後ろめたい気持ちにさせた。

(何だか、他人の自慰の場面でも目撃してしまったような心地だな)

 若者に何と声をかけていいのか分からず、レギオンは居心地悪げに身じろぎをした。 

 そうするうちに、若者の表情がすっと冷めたものになった。満開に開いた花が瞬く間に再び花弁を閉ざしていくかのごとく、あの溢れんばかりの官能と情熱をあっという間に拭い去って、彫像めいた固い無表情に変わった。

 レギオンから視線を逸らすと、若者は祭壇の前から離れ会衆席の脇の通路を通って礼拝堂の扉に向かった。

「待てよ!」

 レギオンは慌てて椅子から飛び起きると、傍を通り過ぎようとする若者に駆け寄り、その腕をつかんだ。一瞬、その骨の細さにぎくりとした。

 若者は無感動に冷めた目をレギオンに向けた。その顔を間近でしげしげと見下ろしながら、レギオンは妖しい惑乱を覚えていた。歌手の顔は陶器のように滑らかで、男らしい野蛮さの片鱗もない。もしかして、男装した少女なのだろうか。

「あ…」

 レギオンは、我にもあらず口ごもった。

「君の歌を聞いた…素晴らしかったよ…その…あんな声を聞いたのは初めてだ…奇跡のような歌声だった」

 レギオンがたどたどしい賛辞を述べるのに、歌手は皮肉に唇を歪めただけだった。

「その…盗み聞くつもりはなかった。もし、そのことを怒っているのなら、許して欲しい…」

 相手の沈黙が、レギオンを不安にさせた。

「だが、別に恥ずかしがることなんて何もないと思うよ。むしろ、君はその声を誇らしく思うべきだ…」

 レギオンが的外れなことを言ったというように、歌手は眉をひそめ、視線を逸らした。

 レギオンは、ふいにカッとなった。後ろめたいのはレギオンも同じだった。はからずも、レギオン自身もこの歌手の声に官能を目覚めさせられてしまったのだから。

「黙ってないで、何とか言えよ。その口は、歌以外には使えないというわけじゃないんだろう?!」

 歌手は不愉快そうに眉間を皺めて、レギオンを睨みあげた。若者の瞳は、土耳古(トルコ)石の深い藍色をしていた。

 若者の怒りが、天邪鬼のレギオンを挑発的にした。

「ああ、確かに君の声は素晴らしかった。正直に告白するが、実に艶かしくて、聞いていてぞくぞくとしたね。君自身も感じたんだろう? 歌っている君の顔を見たが、何だか他人の閨房の秘め事を覗き見しているような変な気分がしたよ」

 若者の目がすっと細まり、ますます冷たく無情なものとなった。

「ところで、先程からずっと気になっていたのだが、君は女の声を持つ男なのか、それとも男装した少女なのか、どちらなんだ?」

 そこまで直截的に尋ねるつもりはなかったのだが、やはりレギオンも動揺していたのだろう。相手を余計に怒らせるだろうとは予想できたが、口を開くと止められなかった。

 若者は己の手首をつかむレギオンの手をちらりと見やって、離すよう無言で促した。レギオンが素直に従うと、今度はすっとレギオンに近づいて、彼の顔をじっと覗き込み、薄く笑った。

 先程感じた官能の名残りのようなときめきを覚えて、レギオンは小さく息を吸い込んだ。反射的に相手を抱きしめようと腕を回しかけた、その時、若者の鋭い一撃がレギオンの鳩尾に叩き込まれた。

「うっ…」 

 見事に急所を捕らえられ、さしもの無敵のヴァンパイアも身を2つに折って呻いた。

(女みたいな見かけをしているくせに、随分暴力的じゃないか…)

 腹を押さえてうずくまり悶絶しているレギオンを冷ややかに見下ろすと、若者はそのまま通り過ぎて礼拝堂を出て行こうとした。

「ま、待てよ! お前は、一体何者なんだ?!

 やっと声が出るようになると、レギオンは悔しさと腹立たしさを込めて、若者の背中に向かって叫んだ。

 そのまま出て行くかと思われた若者は扉の前で一瞬足を止めた。振り向きもせず、

「それが知りたければ、今夜の音楽会に来い」

 感情を欠いた声で言い捨てて、謎めいた歌手は礼拝堂の扉の向こうに消えていった。

 レギオンは燃えるような目で、それを見送った。

「音楽会、だと…?」

 むくむくと、持ち前の負けん気が頭をもたげてくる。誇り高い神の一族が、たかが人間風情からあんな挑発を受けて黙っていられるものか、殴られっぱなしですませるものか。

 レギオンは怒り狂っていたが、実際には、思いもよらぬこの出会いに喜んでもいた。何もすることがなくただ無為に過ごす日々にはうんざりしていたのだ。

(私を侮辱したことを後悔させてやるぞ、人間め)

 あの歌手が何者であれ、レギオンの退屈を紛らわせる格好の相手にはなりそうだった。





 謹慎中の身であるレギオンは、今夜催される音楽会にももちろん出入り禁止だった。

 だが、今の彼は、そんなことは全く構わなかった。

 レギオンを挑発した、あの生意気な人間が来いと言ったから来てやったのだ。何が悪い?

 おそらく彼は、今夜の催しのために招かれた歌手なのだろう。確かに、あの声ならば、人間より鋭い審美眼を持つヴァンパイアの貴人達でも満足させることは間違いない。

 だが、そんなことよりも、レギオンが知りたいのはあの歌手の身元だった。

 とにかく、仕返しの1つくらいしないことには、気がすまない。

 それでも、さすがに正面から堂々と入っていくと余計な騒ぎを招くことは分かっていたので、レギオンは庭園の方からこっそりと音楽会の催されているホールに忍び込むことにした。

 人のいないバルコニーから入っていくと、どうやら音楽会は今がたけなわらしい。ホールに集った貴人達のほとんどは楽団の前に用意された椅子に座るなり、その周りに立つなりして、奏でられる音楽に聞き入っている。

 ブリジットはいないが、最長老のハイペリオンは一番前の席に他の長老達や、どうやら人間らしい数人の男達―ローマの有力な貴族や聖職者だろう―と一緒に座って、音楽を楽しんでいる様子だ。

 ふとレギオンが耳を澄ませると、重なり合った弦楽器の音の中から際立って美しい音色を拾い出すことができた。

(おやおや、誰かと思えば、我が友人殿ではないか)

 楽団の一番前に陣取って自慢のリュートを弾いているのは、誰あろう、サンティーノだった。どおりで人が集まる訳だ。サンティーノばかりが注目を浴びていることに、レギオンは少しばかり嫉妬を覚えたが、それよりも今はあの歌手を見つける方が先だ。

 眺め回したところ、このホールにはいないようだ。彼の出番がまだならば、控えの間にでもいるのだろうか。まさか、もう歌い終わって帰ってしまったなどとは考えたくはない。

 壁際のカーテンの陰に隠れるようにしてレギオンが様子をうかがっていると、楽団の演奏が終わった。

 聴衆達の喝采を一番浴びているのは、やはりサンティーノだが、内気な彼は、それに応えることも恥ずかしいとばかり、早々に逃げ出すようにして奥の控え室に消えていった。

 それを見守るレギオンの目が、きらりと光った。

 レギオンは誰にも見つからぬよう気をつけながら壁沿いに移動し、時には行方をさえぎる柱や壁をするりと抜けながら、サンティーノが引っ込んだ控え室へと近づいていった。

 演奏を終えた宮廷一の演奏家の控え室とホールを遮る分厚いカーテンの間に、レギオンは音もなく影のように忍び込んだ。

 飲み物を手に1人疲れたようにソファに座って、緊張から解き放たれた後の虚脱感に浸っているらしいサンティーノを見つけると、レギオンはすうっと息を吸い込んだ。

「サンティーノ!」

 レギオンがいきなり大声で呼びかけるのに、サンティーノは小さな悲鳴をあげて椅子から半ば飛び上がった。

「レ、レギオン?!」

 動転するサンティーノを見て、レギオンはしてやったとばかりに微笑みながら、悠然とカーテンの陰から出ていった。

「あれ程の喝采を受けながら、何を憂鬱な顔をしているんだい? もっと誇らしげに堂々と振舞って、君の演奏に夢中な女達を喜ばせる愛想の1つでもしてやれよ。君の引っ込み思案には、いい加減、いらいらさせられるな。全く、理解もできない」

 いきなり目の前に現れて、腕を組んで傲然と立ちながら、こんなことを言うレギオンをサンティーノはしばし呆気に取られたように見上げていた。

「レギオン…こんな所で何をしているんだ、君は謹慎中の身だろう? ブリジット様の取り巻きだとか口うるさい年長者達にでも見咎められたら、どうするんだ?」

「嬉しいね。心配してくれるんだ」

 レギオンがにやりと笑うのに、サンティーノは唇を噛み締め、そっぽを向いた。

「出て行ってくれ」

 サンティーノは固い声で言うがレギオンは聞こえない振りをして近づき、彼の隣に腰を下ろした。

「ここしばらく君に会えなくて寂しかったよ、サンティーノ」

 これは、もちろん嘘ではない。久々にサンティーノを突付きまわって困らせてやることに、レギオンは実際うきうきしていた。

「僕はせいせいしていた」

「嘘をつけよ」

 レギオンが脇腹を突付くのに、サンティーノは怒った顔で睨みつけ、口を開きかけるが、ふいっと顔を背けた。

「何をそんなに怒っているんだよ。私が、一体何をしたというんだ?」

「本当に何も覚えていないのか?」

 サンティーノの恨めしげな声に、レギオンはさすがに少し不安になって首を傾げた。

「うん…あの夜のことを言っているんだよな?  でも、私は酔っていたんだから、少しくらいの粗相は大目に見てくれよ」

「少しくらい、か。君にとっては、その程度のことなんだろうな。そんなに綺麗さっぱり忘れてしまえる程度の悪戯だったんだろうな」

 サンティーノは、はあっと溜め息をついた。

「いいよ、もう。君のやることなすことについて真剣に悩んでも、僕が疲れるだけだ。それで、わざわざここにやってきた理由は何だ?  君のことだから、何か魂胆があるんだろう? 頼むから、謹慎処分をくらった腹いせに、ここで何か悪さをしようなんて考えないでくれよ」

 サンティーノがやっとまともに口をきいてくれたことに正直ほっとしながら、レギオンは気安く続けた。

「別に、そんな子供じみた憂さ晴らしはしないよ。ただ、ちょっと人を探しているだけなんだ。この音楽会に招かれた歌手だと思うんだが、君に心当たりはないだろうかと思って」

 そうしてレギオンは、礼拝堂であの若者と出会った顛末を簡単に説明した。彼の声にうっかり溺れてしまって、妙に艶めいた気分になったことや、情けなくも人間相手に不意打ちをくらったことは、自分の名誉のために黙っておいた。

「確かに、今夜の音楽会では人間の演奏家や歌手が何人か参加することになっているよ。この催しにはローマの有力者も数名出席しているが、そのうちの1人が芸術家のパトロンとしても名高いオルシーニ枢機卿だ。彼が後援する音楽家達の歌と演奏が、この音楽会の目玉だと言えるだろうね」

「人間の音楽家にそれ程期待できると思えないけれどな。特に、君の演奏を聞いた後では、とてもじゃないが…」

 言いかけて、あの謎めいた歌手の神秘の声を思い出したレギオンは、黙り込んだ。

「君が僕の腕を高く評価してくれるのは嬉しいよ、レギオン。僕自身、リュートならば誰にも負けないと思っている。けれど、今夜のゲストは特別なんだ。僕も彼の評判だけは聞いたことがあったので、その歌声を聞くことをそれは楽しみにしていた」

 サンティーノの言葉に、レギオンははっとなった。

「君が聞き惚れたほどの声の持ち主ならば、それは、たぶん彼ではないかと思うのだけれど…ただ他にも何人か人間の歌手は招かれているから、確信は持てないな」

「顔を見れば分かる! どこに行けば、会えるんだ?」

 つい意気込んで尋ねるレギオンを、サンティーノは不審そうに見つめた。

「僕達の演奏が終わった後、歌手達の歌が始まるはずだ。そろそろ休憩時間も終わるころだし、そうすればホールに出てくるだろう」

 レギオンが息を吸い込んだ時、ホールの方で人々のざわめきが起こった。そして、弦楽器とフルートの伴奏による歌が始まった。

 弾かれたようになってホールの方に駆け出そうとするレギオンの手を、とっさにサンティーノが捕まえた。

「馬鹿! 何度も言うが、君は謹慎中の身なんだぞ! そのまま皆の前に飛び出していくつもりか、無用心すぎる」 

 サンティーノに叱られて、レギオンも考え直し、ホールに出て行くことはせず、カーテンの陰からこっそり外をうかがうことにした。この控え室は舞台の斜め横にあって、演奏者達の姿を割合近くに眺めることができる。

(いた…!)

 レギオンには、すぐに目当ての若者の姿を見つけることができた。他の2人の歌手達と共にロマンチックな恋愛詩を披露しているところだが、まだ彼のパートは始まっていないので、憮然とした面持ちを聴衆の方に向け唇を固く閉ざしたまま彫像のように佇んでいる。

 彼の歌を楽しみにしている貴人達に、少しは愛想のいい顔をすればいいものを。いくら見目形は麗しくても、石さながらのあの仏頂面では興ざめだ。

「どうだい、君が探す相手は見つかった?」

 心配でついてきたらしい、サンティーノがレギオンの肩に手を置き、カーテンの隙間から外の様子を覗き見た。

「ああ」

 レギオンは瞬きもせず、若者の姿を見つめた。瞳に力を込めて、彼を振り返らせようとすのかのごとく、熱心に追い続けた。

「ほら、一番前の貴賓席に人間達がいるだろう。緋の衣の聖職者がオルシーニ枢機卿だ。ローマの有力な貴族の出で、ヴァンパイア一族とも長年懇意の間柄だよ。この催しに彼が自慢の音楽家達をよこしたのも、僕らとの友好関係を更に深めようとの気持ちの表れさ」

 サンティーノが示す方向にいる人間の男を、レギオンはちらりと見やった。枢機卿といえば教皇の側近の地位にある高位聖職者だ。芸術の愛好家らしい、熱情を秘めた眼差しを持つ、典雅な貴公子然とした壮年の男である。

 だが、レギオンはすぐにオルシーニ枢機卿には興味をなくして、目当ての若者に視線を戻した。そうするうち、若者の薄い唇が開いた。

 ふいに、他の全ての歌声と器楽による演奏を突き抜ける、澄みきった銀の笛を思わせる声が響き渡った。

 レギオンは思わず息を吸い込んだ。そうだ、この声だ。

 清冽でありながら甘美。夏の嵐と冬の光をあわせもつ声。それは聞く者の胸に媚薬を注ぎ込み、心をとろかせる。

 彼が歌い始めるや、それまで微かに聞こえていた囁きやおしゃべりがぱたりとやんだ。

 美しいものに弱い、堕ちた神の血族ならば、この歌声に魅了されないはずがない。そこに集うヴァンパイア達は、皆、陶然となって、若者の歌に聞き入っている。

「驚いたな」

 レギオンの後ろで、サンティーノが呻くように呟いた。

「噂というのは大抵誇張されるものだから、彼の歌についてもそうだとばかり思っていた。だが、実際は噂以上だ」

 レギオンは、歌い始めると途端に生き生きとし始めた若者を、激しく睨みつけていた。先程までは冷たく頑なだった石の仮面に血が通い、無感動に黒ずんでいた瞳は青く燃え上がって、あたかも歌によって初めて彼自身も花開き、輝くかのようだ。 

「誰なんだ、あいつは?」

 鋭く問いかけるレギオンに、サンティーノはしばし黙り込んでうろんげ眼差しを注いだ。

「ローマで最高の歌手、ミハイ。オルシーニ枢機卿の一番のお気に入りだよ。教皇庁の礼拝堂で歌っている。彼の歌を聞くと病も癒されるとか、生きながら天国を垣間見ることができるとかという評判だが、あながち嘘ではないのかもしれないね。ほら、彼の歌を聞いている仲間達の顔を見ろよ。恍惚として、ここが公の場だということも忘れてうっかり牙を出しかねないくらいだ」

 サンティーノの言葉にレギオンは顔をしかめて、己の口元に手を持っていった。

「ミハイ…」

 レギオンは、その名を胸に刻みこもうとするかのごとく呟いた。

「どうして、あんなふうに歌えるんだ?」

「彼のソプラノのことを言っているんだね。さあ、それは僕にも分からない。ファルセット(裏声)歌手だというふれこみだったけれど、聞いてみると、違うような気がする。ファルセットでは、こんなに滑らかで澄んだ声は出せないだろうからね」

 舞台はいまやミハイの独壇場となっていた。ソロを歌う彼の声はどこまでも伸び、高く飛翔する。それは、ただ透明なだけではなく、どこか凶暴な力を感じさせた。昂然と頭を反らせて、己の歌に酔いしれている聴衆達に歌いかけるミハイの顔は歪み、瞳には暗い炎が燃え、我とも分からぬ怒りに突き上げられているかのようだった。

「君が探していた相手はやはりミハイだったんだね、レギオン。随分と彼のことが気になっている様子だけれど、君もあの声の虜になったくちかい? ミハイを見つけて、どうしようというつもりなのかな?」

 どことなく棘のある口調で問いかけながら髪を引っ張るサンティーノの手を、レギオンは苛立たしげに振り払った。

「うるさいなっ! 君には関係ないだろう?」

 レギオンが振り返って睨みつけるのに、サンティーノの顔が僅かに強張った。 

「そうだね」

 サンティーノは、レギオンとカーテンの向こうで歌っているミハイを見比べると、端正な顔に毒の含んだ冷笑をうかべた。

「君が誰に関心を持とうが、何をしようが、僕には関係のないことだ」

 サンティーノが本気で腹を立てたことに気づいたレギオンは慌てて謝ろうとしたが、その前に、サンティーノはくるりと踵を返して、控え室の奥の扉から外に出て行ってしまった。

「あいつってば、何をそんなに腹を立てて…」

 レギオンは唇を尖らせて、サンティーノが消えていった方をしばし目で追ったが、再び注意を舞台に戻した。

(ミハイ、おまえの誘いに応えて、私はここに来てやったぞ。私を侮辱した生意気な奴を、さあ、どうしてやろうか…?)

 レギオンが見守るうちに歌は終わり、それと共にホールが揺れ動きそうな程の拍手が沸きあがった。誇り高いヴァンパイアが人間相手にここまでの賞賛を示すことも珍しい。

 それを、ミハイは再び無表情な顔に戻って、特に何の感慨もなく眺めている。

 ミハイは、レギオンが己を見つめていることに全く気づいていない。探しに来いと言ったくせに、自分からはレギオンの姿を求める素振りもないことが、自意識の強いレギオンには癪に触った。

 一瞬、カーテンの陰に隠れるのはやめて、ホールに出て行きミハイの前に立ってやろうかとも思ったが、それで何をしようという考えがあるわけでもなく、レギオンは気を変えた。

(まあ、いいさ。今夜のところは見逃してやる。こんなに大勢の前でおまえを捕まえにいくのも面倒だからな。けれど、近いうちに必ずおまえのもとに行って、今日の借りは返してやるぞ)

 ひとまず退くことにしたレギオンは、最後にミハイに向けて噛み付くような目を向けると素早くホールを後にした。

 ミハイは無論、他の誰も今夜レギオンがここにいたこと、カーテンの陰から舞台で歌う歌手をひたすら目で追っていたことに気づいていないかに思われた。レギオンもそう思っていた。しかし―。

 レギオンが引っ込んだ控え室のカーテンの方を、興味深げに眺めやった者がいた。

 一番前の特別席に人外の貴人達にかしづかれながら座していたヴァンパイア、最長老の1人、ハイペリオンは控えの間を遮るカーテンから再び舞台に目を戻すと、誰にも気づかれぬところで密かな微笑を漏らしていた。


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