天使の血

第一章 太陽と月


「違う、そうじゃない! 何度教えれば分かるんだ! 物覚えが悪いのにも程がある。君のその豪華な頭は見かけだけで中身は空っぽなのか?」

 リュートの弦の上を滑るレギオンの指を、サンティーノは細い鞭で容赦なく打った。

「リュートは、そんなふうに力を込めて打つように弾いてはいけないんだ。君の弾き方は攻撃的でありすぎる。爪は使うな。打つ時も、指先の柔らかい部分で優しく弾くようにして、手の動きはなるべく小さくする。それから、リュートの弦をかき鳴らした後は、その震動を不必要に止めたりしないで、自由に響かせることが重要なんだよ」 

 湖を見下ろす丘の上にあるヴィラの庭園の外れに、今日もサンティーノの怒鳴り声が響く。

「そんなに怒らなくても…」

 2人にとってはおなじみの場所となった東屋で、レギオンは打たれた手をさすりながら、サンティーノを恨めしげに見上げた。

「嫌なら、僕は教えるのをやめてもいいんだよ、いつだってね」

 サンティーノは手を背中で組むようにして、リュートを抱えたレギオンの前に佇みながら、血のように紅い唇を皮肉に歪めた。

「分かった、分かった。大いに叱りつけてくれたまえ、鬼のように」

 観念したように、レギオンは、再びサンティーノが教えた練習曲を弾き始める。そんな彼を、サンティーノは恐い顔をして、それでも、内心では結構楽しみながら、見下ろしていた。

 リュートを習う時は、我がままレギオンも師であるサンティーノに逆らえない。何度か爆発しそうになっても、それをすんでの所でとめている。よほどリュートをマスターしたいのか、レギオンの殊勝とも言える態度には、サンティーノも驚いた。

(つまり、それほどブリジット様への執着が強いわけだ)

 そのことを思うと、いつもサンティーノの胸は微かに痛んだが、理由については考えないようにしていた。

(そうだ、さっさとリュートを覚えさせて、後はレギオンの好きにさせよう。レギオンが僕から欲しい技術を学び取ったら、僕も、この素人相手のうんざりするレッスンから解放される)

 またしても、ちくんと胸の奥。

 レギオンがまた間違った音を出すのに、サンティーノは細い眉を吊り上げ、鞭を振り下ろした。レギオンが情けない悲鳴をあげる。

(それまでは、せいぜい、こうして苛め抜いてやる)

 実際、レギオンは一生懸命にリュートを覚えようとしていた。そして、それは確実な成果となっていた。物覚えが悪いと、サンティーノは罵倒したが、実際には飲み込みは悪くない。もともとヴァンパイアは学習能力には長けていて、1つの技術を習得するためにかかる時間も人間よりずっと短い。

 サンティーノの個人レッスンをほとんど毎日受けるようになって、最初はリュートの構え方も知らなかったレギオンは、ぐんぐん上達していった。

 1週間経つ頃には、簡単な曲は危なげなく弾けるようになり、どんどん複雑なテクニックを覚えていって、一月も経てば、なかなか立派なリュート奏者になっていた。人間相手ならば、充分通用するだろう。しかし、耳の肥えた、趣味にうるさいヴァンパイアを相手にするには、まだ素人臭い。レギオンは、技術に一層磨きをかけることに専念した。

 目標は常に高く、大言壮語も叩くが、実現するための努力は、レギオンは怠らない。

 サンティーノもこの一月レギオンに付き合って、そのことに関しては、彼を少し見直すようになっていた。

 この辺りまでは手入れもあまり行き届かないのか、勢いよく伸びた青草や周りを取り囲む樹の梢に隠れた東屋で、2人はリュートの連弾をするようになった。

 この短い時間で、レギオンは、ついにはサンティーノの巧みな演奏についていけるほどの技術を身につけたのだ。

 初めの頃は慣れない教師の真似事に戸惑い、苛立ちを覚えることの多かったサンティーノも、今ではレギオンと共に音楽を奏でる一時を大いに楽しんでいた。1人でひっそりと弾いている時とは違う、胸のときめきと気持ちのよさを覚えた。

 サンティーノは巧みな指使いで様々な音色を自在に作り出し、レギオンの奏でる音色を誘い、引き出して、リードした。レギオンは負けるものかというように懸命に追いかけ、先を行くサンティーノに追いつき、からみつくような音色を響かせた。

 また、時には、レギオンが2人の演奏にあわせて歌うこともあった。巷で流行のマドリガーレであったり、曲にあわせて即興で歌詞を作って歌ったりすることもあった。

 レギオンは、よく通る美しい声をしていた。もしかしたらリュートを弾くよりも歌う方が彼にはあっているのかもしれないと、サンティーノは思わず聞きほれながら思った。

(本当に、よくもまあ、僅か一月の間でここまで上手くなったものだ。もう、僕が教えることはないかもしれないな。情感の部分ついてはまだ深みに欠けるけれど、そこまで僕が面倒をみていたらきりがないし、後はレギオンが色んな曲を数多く弾きこなしていけばいい)

 一抹の寂しさを覚えながら、サンティーノがそろそろレギオンにレッスンの終了を告げようと考えていた、ある日―。

 レギオンが、またとんでもないことを言い出した。

「レギオン?」

 暑い昼下がり、約束の時間を少し遅れて、サンティーノがいつもの東屋にやってくると、大抵こんな時は先に1人でリュートを弾いているレギオンは、椅子に座って何をするでもなくぼうっとしていた。

「ごめん、待ったかい…?」

 言いかけて、レギオンの傍らに彼のリュートが見当たらないことに、サンティーノは眉をひそめた。 

「サンティーノ」

 レギオンは、東屋に入ってくるサンティーノに顔を向けると、開口一番、こう言った。

「私は、リュートのレッスンは、もう終りにしようと思うんだ」

 サンティーノは、いきなり胸を突かれたようになって絶句した。

「あ…」

 サンティーノはまっすぐに己を見返すレギオンの顔からとっさに目を逸らし、喘ぐように肩で息をした。

「そ、そう…実は、僕もそのことについて君に話そうと思っていたんだよ、レギオン。取り敢えず僕が教えるべきことは全て教えたと思うし…」

 動揺を隠そうとしたが声が震えて失敗し、サンティーノは口篭った。

「で、でも、君はつい昨日まであんなに熱心に練習をして、僕との演奏をあんなに楽しんでいたのに、どうして急にやめるなんて言い出すんだ? い、いや、もちろん、いつまでも僕が面倒をみてやるわけにはいかないんだけれど、あんまり突然だから驚いて…」

 サンティーノはうつむいたまま、唇を噛み締めた。何を言っているのだろうと思った。レギオンを引きとめようとでもいうつもりか。本当は、これでせいせいするはずなのに。

「君にはとても感謝しているよ、サンティーノ。おかげで、全くの素人だった私が、そこそこリュートを弾きこなすことができるようになった」

 レギオンは、サンティーノの戸惑いに気づいていないのか、ただ素直に礼を言った。

「君の努力があったからこそだよ。僕も驚いた。まさか、君がここまでやるとは思ってなかったから…」

 最初の衝撃から立ち直れないサンティーノは、椅子に座ることも考え付かずに立ち尽くしたまま、上の空でレギオンに応えた。

「見直したか?」

 子供が得意がるような調子で、レギオンは言った。

「うん…」

「つまりは、宮廷一のリュート奏者の君からも合格点をもらえたという訳だ」

 レギオンは、肩をすくめた。

「でも、それが今の私にとっては限界なんだ」

「え?」

 サンティーノは怪訝に思って、レギオンを見た。

「確かに私は上達した。この宮廷に出入りする人間のリュート奏者になら、もう負けないと思う。でも、生憎、ここには君がいる」

 サンティーノは戸惑うよう、まばたきをした。

「ここしばらく君とリュートの連弾をやるようになって、私は痛感したんだ。天才のサンティーノには、私がどんなに努力しても、どうしても敵わないって。まあ何年も腕を磨いたら、何とかなるかもしれないが…私もそこまで待つことはできないし…。どんなにがんばっても、所詮二番止まりなら、私はもうリュートなんかやらない。残念だけれど、泣く泣く諦めるよ」

 残念だと言う割にはあっさりとして、レギオンは呆然と立ち尽くすサンティーノに片目を瞑ってみせた。

 サンティーノは、頭がぐらぐらしてくるのを覚えた。

「レ、レギオン…き、君は…それでいいのか…? ブリジット様に見直してもらうという野望だとかはどうなった?」

「だって…よく考えてみたら、君のリュートを聞きなれているブリジットに私がリュートで訴えかけても、ああ、レギオンは所詮サンティーノに劣るのねって思われてしまう。それは格好が悪いじゃないか」

 サンティーノは、思わず、あんぐりと口を開けてしまった。この言い草は、一体何だというのだろう。信じられない。あんなに必死の面持ちで頼み込んで、弟子など取ったことのなかったサンティーノを強引につきあわせて、その結果がこれか。この素人をここまで仕込んだサンティーノの努力は、そのために費やした時間は、全くの無駄であったのか。

「よくもそんなことが言えるな!」

 ついにサンティーノは爆発した。

「僕には敵わないから諦めるだって?! そんなの当たり前じゃないか! リュートを始めたばかりの素人奏者が、この僕に敵うなんて本気で思っていたのが、そもそも間違いなんだ! そんなこと、初めに気づけよ。僕を巻き込んで…振り回して…挙句の果てがこの仕打ちだなんてあんまりだ。僕の時間を、君に注いだ労力を返せ、この馬鹿野郎…!」

 サンティーノが怒ることは予想していたのか、レギオンは、身悶えせんばかりに憤慨している彼を見ても、平然としていた。

「ヒステリーの発作を起こした女みたいに怒るなよ、サンティーノ。せっかくの美しい顔が台無しだぞ」

 サンティーノはほとんど泣きたい気分で、レギオンを激しく睨みつけた。

 サンティーノの悔しさや哀しさなど理解していないのか、レギオンはにやにやと笑っている。

 何という無神経さ!

「もう、分かった! いい加減で気まぐれな君なんかに、本気でつきあった僕が馬鹿だったんだ。もう君に関わるのは、御免だとも。そう、君の相手は、金輪際お断りだ。僕が君に話しかけるのも、これが最後だと思ってくれ、レギオン。二度と僕に近寄るな!」

 胸の奥からせりあがってきた激情に任せ、叩きつけるようにそう告げると、サンティーノは、これ以上をレギオンの傍にいることは耐えられないというかのごとく踵を返した。

「サンティーノ、待てよ、まだ私の話は終わっていない」

 レギオンは素早く動いて、逃げるように立ち去ろうとするサンティーノの腕を捕まえた。

 サンティーノはカッとなって、振り返った。

「君の話など聞く義理は、僕にはない! その手を離せ! さもないと、僕は…僕は…」

 怒りに我を忘れ、鋭い牙をむき出しにするサンティーノに、さすがのレギオンもこれはまずいと悟ったのか、神妙な面持ちになった。

「君の期待を裏切ってしまって、すまない。この上また君を引きとめて頼みごとなど虫が良すぎるということも分かっている。でも、私が…こんな頼みごとをできるのは君だけなんだ、サンティーノ。お願いだから、行かないでくれ」

 レギオンは、ちょっと躊躇った後、うっすらと顔を赤らめてぽつりぽつりと打ち明けた。

「その…他にいないんだ、何かを相談できる仲間とか友人は…ここにいるのは私をライバル視し蹴落とそうとする敵ばかりで、少しでも信用のおける者は1人もいない。君だけが、私の話をちゃんと聞いて、誠実に応えてくれる…」

 それは、君の日頃の態度が悪すぎるからだろう。舌の先まで出かかった言葉を、サンティーノはぐっと飲みこんだ。

「君にまで拒まれるのは、さすがの私も辛いよ」

 いつも癪に障るほど自信満々であったレギオンが、いきなり、こんな心細げな顔をするものだから、サンティーノは、どうしていいか分からなくなった。

「レギオン、そんな目で見るのはやめろ…僕は…」

 レギオンに乗せられてはいけない。以前も、同じような手に引っかかってしまったのだ。傲慢で身勝手な顔の裏のある、この無防備な子供のような表情。自分で分かって使い分けているのなら大した悪党だが、人間相手に嘘の自分を演じ続けて、100年、200年を生きてきた老練なヴァンパイアならともかく、まだ若いレギオンはそこまで悪賢くはなれないだろう。

「お願いだから…サンティーノ、私を助けてくれないか…?」

 レギオンはサンティーノを正面に向かせるとその手を取り、そっと握りしめた。

「レギオン…」

 駄目だ、そんことは言うな、やめろ。

 頭の中で警告を発している自分がいることは、サンティーノも意識していた。しかし―。

「…僕が、君にしてやれるのはリュートを教えてあげることくらいだ。その僕に、これ以上、一体何を頼もうというつもりなんだい…?」

 言った途端、サンティーノは激しく後悔したが、レギオンが美しい瞳を喜びと期待に輝かせるのに、はねつけようという気持ちが挫けてしまった。

「君には、もちろんリュートの演奏を頼みたいんだ」

 レギオンは魅力たっぷりの明るい笑顔をサンティーノに投げかけながら、甘い猫なで声で囁いた。

 サンティーノは、問いかけるかのごとく首をかしげた。

「私は決めたんだ。どうやったらブリジットに気がついてもらえるのだろうかと、ああだこうだと悩んでいても埒が明かない。そんなことに時間を費やすくらいなら、さっさと行動に移して、いっそ、人目につかないようブリジットの寝所に忍び込んでやろうと…」

「何だって?!」

 またも顔色を変えるサンティーノの腕をなだめるように撫でながら、レギオンは続けた。

「別に夜這いをかけようという訳じゃないよ。いくら私でも、いきなり、そんな破廉恥なまねはしないさ。ただ、昼間はどうしてもガードが固くて近づけないから、ならば夜、こっそりとブリジットの部屋の前にある庭園に忍び込んで、窓の下で1つ歌でも歌ってやれば、彼女も何事かと顔を見せるんじゃないかと思ったのさ」

 サンティーノは、もう怒鳴りつける気力もなくなって、熱心に計画を打ち明けているレギオンに向かって、投げやりに言った。

「ああ、そう、リュートが駄目なら、今度は歌で勝負をしようというわけかい?  確かに、君はいい声をしているからね」

「本当に、そう思うか…?」

おずおずと尋ねるレギオンに、サンティーノはふっと微笑んだ。本当に、もうどうでもよくなってきた。

「リュートよりも、もしかしたら君にあっているかもしれないよ。それに、ブリジット様の窓の下で恋の唄を歌おうなんて、大胆な馬鹿も他にはいないだろうから、新鮮な驚きと強い印象を彼女に与えるんじゃないかな」

 馬鹿呼ばわりされて、少し引っかかったような顔をレギオンはしたが、そのことについては、何も言い返さなかった。その代わりに、熱心な、何かを訴えかけるような雄弁な眼差しをサンティーノに注いだ。

「どうして、そんな目で僕を見るんだい?」 

 サンティーノの胸に不安が差した。後退りしようとしたが、レギオンに手を取られていては逃げ出せなかった。

「サンティーノ、私に付き合ってくれないか。私がブリジットの御座所に忍び込んで彼女の気を引く、手助けをして欲しい」

 サンティーノは息を吸い込んだ。

「な、何…?」

 サンティーノはしばし呆然とした後、腕をつかむレギオンの手を荒々しく振り解いた。 

「君は、また何を言い出すんだ?! 大体、どうして僕が、君がブリジット様の寝所に忍び込む手助けをしなければならないんだ! そんなことは、君が1人でやればいい、僕はごめんだとも!」

「ただ忍び込むだけなら、私1人でどうにでもなるさ。けれど、私は、どうせ歌を歌うのなら、君のリュートの伴奏があった方が効果的で、ブリジットの心に訴えかけられると思うんだ」

 何の衒いもなくそんなことを言うレギオンを、サンティーノはつくづくと眺めた。

「君が…僕にリュートを弾いて欲しいと思うのは勝手だとも…だが、僕が、それを受け入れるかはまた別の問題だ。僕には、君のために、そこまでしなければならない理由などない…」

 固い声で言うサンティーノを、レギオンはまた、あの心細げな少年のような目で見つめた。

「駄目なのか…どうしても?」

 辛そうに顔をしかめるレギオンに、サンティーノは、とっさに胸が詰まって、応えられなくなった。

 衝動的に優しい言葉をかけたくなるほど、こうして見ると、レギオンはまだほんの子供のようで、頼りなげで、サンティーノの庇護欲を刺激してくる。

 これを演技ではなく、素でやっているのだとしても、それはそれで立派な悪魔なのかもしれない。

「レギオン…」

 サンティーノは葛藤した。

 駄目だと、きっぱり断るのだ。さもないと、この先ずっとレギオンの我がままと気まぐれに振り回されることになる

 だが、こんなすがるような目で見つめられては―。

 いや、ここで甘い顔を見せてはいけない。レギオンを余計に付け上がらせるだけで、ろくなことにはならないだろう。

 そうだ、言え。付け入る隙もないほど明確に拒否するのだ。

 君の相手など僕はごめんだ、と。

 サンティーノは、レギオンと顔を付き合わせたまま、肩で大きく息をした。唇を震わせた。

「レギオン、僕は…」




 その日の夜―。

 最長老ブリジットが住まうヴィラの一角、ひっそりと静まり返った庭園の片隅に、サンティーノはレギオンと共に立っていた。

 こぢんまりとしているがよく手入れされた、女神のための美しい庭園を眺め回しながら、サンティーノは落ち着かなげに身じろぎをし、愛用のリュートをそっと抱きしめた。

 結局、ここまで来てしまった。

 溜め息をつくサンティーノの肩を、レギオンが励ますように叩いた。

「さあ、行くぞ」

 迷いのない足取りで建物に向かって歩いていくレギオンの背中をしばらく見つめた後、サンティーノも仕方なくその後に続いた。

 ヴァンパイアの頂点に君臨する女性の住まう場所と言っても、特に厳重な警備がされているわけではない。庭園も他の場所から隔絶した空間を作り出すよう壁や生垣で囲われてはいるが、その気になれば、簡単に入って来られるような造りだ。どんな障壁も通り抜けてしまう能力を持ったヴァンパイア相手に壁を築いても無駄であり、また、最高の力を持つ古き血の者を傷つけることのできる力など、事実上皆無だからだろう。

(神にも等しい、そんな女性に君は求愛をするつもりなんだ。恐れおののくなんて気持ちは、君には少しもないのだろうか…? どう足掻いたって、僕には、君と同じことはできそうにない。ブリジット様のことは好きだけれど…傍にいられれば幸せだけれど、それ以上のことを望もうなんて、考えたこともなかった…僕には、あの方をただの女性としてなど捉えられない)

 そんなことを考えながら、ブリジットのもとに向かうレギオンの背中を追ううち、サンティーノは何故だか切なくなってきた。

(もう、帰りたい)

 サンティーノはふいに立ち止まった。レギオンは、ブリジットのことで頭が一杯で気づいていないのか、振り向きもしない。

 迷うように、しばらくレギオンを見送っていたサンティーノは、その時、レギオンの傍にある大きく枝をはりのばしたマロニエの樹の陰で何かが揺らぐのに気がついた。

「レギオン!」

 サンティーノがレギオンの背に向かって叫ぶのと樹の陰から飛び出してきた数個の人影が彼に襲い掛かるのとは、ほとんど同時だった。

 レギオンは反射的に飛び退って、同族の攻撃をかわした。

「この不心得者め! まさか本当に、こんな場所にまで忍び込んでくるとはな!」

 襲撃者は3人。サンティーノにも見覚えのある顔だった。皆、ブリジットの取り巻きで、レギオンに対していつもあからさまな敵意を示し、あちらこちらで彼の悪口を吹聴している連中だ。

「生憎だったな。おまえの行動には、この所俺達は特に目を光らせていたんだ。中立で穏健派のサンティーノまで引き込んで、一体何を企んでいるのかと思っていたら…。ブリジット様の寝所にもぐりこもうなど、無礼なこと極まりない。不敬罪に問われ、宮廷を追放になっても文句は言えないぞ、レギオン」

 己を取り囲み憎々しげな威嚇の言葉をかける男達を前にしても、レギオンはひるまなかった。豪奢な金髪を面倒そうにかき上げ、殺気を放つ男達を鼻先でせせら笑った。

「ご苦労なことだな。いつ現れるか分からない私を待ち受けて、ずっとこの庭に潜んでいたのかい?  君達の行動こそ、充分怪しいと思うけれどな。そんな馬鹿馬鹿しいことをする気力があるのなら、あの窓の内側にいる君達の女神に呼びかけて、他の仲間に先んじて愛の告白でもすればいいものを」

 その口調、仕草、悠然と佇んでいる姿の全てが、あまりにも挑発的だった。

「どうした、黙り込んで。やはり、自分だけ抜け駆けして女神に求愛する勇気はないか」

 男の1人が低い唸り声を発して飛び掛ってくるのを待ち受けていたかのごとく、レギオンは肩から剥ぎ取った短いマントを投げつけた。一瞬視界を塞がれた男に向かって、レギオンは飛鳥のごとく襲い掛かり、顔の辺りを思い切り殴りつける。ヴァンパイアの手加減なしの一撃に、男の体は地面に穴が開くのではないかという勢いで投げ出された。そのまま動かなくなった。どうやら気を失ったらしい。

「この生意気な小僧め!」

 もう1人の男がレギオンに突進する、それを軽い身のこなしでかわすと見せかけて、レギオンは相手に強烈な脚払いをかけた。レギオンに飛び掛ろうとした男は、そのままの勢いで地面にどうっと転がった。その上に素早く馬乗りになると、レギオンは固めた拳で男の頬を右から左から何度も殴った。

 レギオンはやたらと喧嘩慣れしていた。

 こんなことは日常茶飯事とばかり、同族が相手、しかも3人がかりでも、その動きは滑らかで活力に満ち、余裕すら感じさせた。典雅な貴公子然とした、その辺りのヴァンパイア男性では、とても彼に敵わないだろう。能力的には互角か少しくらい上であっても、レギオンとは覇気が違う。野蛮な生命力が違う。

 まるで捕まえた獲物にじゃれかかる大きな猫のようだ。これも面白い遊びの1つであるかのごとく、むしろ喜々として、レギオンは半分のびている相手の頭をがんがん地面にぶつけている。

(あ…あぁ…何てことを…)

 一方、全く喧嘩慣れしていないサンィーノは、真っ青になって、おろおろと手をもみ絞りながら、レギオンの大暴れを少し離れた場所から眺めることしかできないでいた。穏やかな気性のサンティーノは、争いごとが死ぬほど嫌いなのだ。

 しかし、現在の喧嘩相手を叩きのめすことに夢中になっているレギオンの背後に近づく、別の男に気づいた時、サンティーノの顔つきが変わった。ついさっきまで、レギオンの猛攻ぶりと、あまりにも呆気なく仲間が倒されたことで、すっかり戦意喪失して立ち尽くすばかりだったのが、レギオンの隙をつこうとしている。

(レギオン!)

 サンティーノの頭の中がカッと熱くなった。リュートがその手から滑り落ちたことにも気づかなかった。瞬間、彼は動いていた。

 黒い不吉な鳥と化して、音もなく地面を滑るように走ると、サンティーノはレギオンの背後に立つ男の振り上げた腕を捕らえた。

「サンティーノ?!」

 ぎょっとして肩越しに振り向く男に、サンティーノは淡い色の瞳を妖しく光らせながら凄みの含んだ声でささやいた。

「彼を傷つけることは許さない」

 そうして滑らかな手のひらで男の頭に触れた。瞬間、男の体が激しく跳ねる。

「サンティーノ?」

 レギオンもやっと背後の異変に気がつき、振り返った。サンティーノの足下に声もなく崩れ落ちる男を見て、目を丸くする。

「何をしたんだ?」

 サンティーノは疲れたような溜め息をついた。

「こいつの頭の中をかき回してやった」

 レギオンの無事な姿を確認すると、サンティーノは少しほっとした顔になった。 

「この男にとって、最も忌まわしい過去の記憶を引き出して作った悪夢に溺れさせてやったんだ」

「へえ」

 レギオンは、ぐったりと動かない男をしげしげと眺め、恐ろしそうに首をすくめた。

「それは、酷い」

 サンティーノが小さく笑うと、レギオンは茶目っ気たっぷり片目を瞑ってみせた。

「さて、この邪魔者どもが目を覚まさないうちに、ブリジットのもとに急ごう」

 サンティーノはレギオンの言葉に頷くと、思い出したように地面に落としたリュートを取りに行った。

(僕は、一体どうしたのだろう。僕らしくもない、あんな暴力を仲間相手に振るって…後でどんな揉め事になるか知れないのに、不思議と気分はすっきりとしている…)

 サンティーノが戻ってくるのを、レギオンは腰に手をついてじっと待っている。その顔には、親しみに溢れた笑み。

 サンティーノは思わず胸を押さえた。

(変だな。どうして、こんなに高揚しているんだろう、僕は…別に、好き好んでここにいるわけじゃない…レギオンに引っ張られて、嫌々来たはずなのに…)

 レギオンといると、サンティーノの胸は高鳴り、気持ちもいつもと変わってくるようだ。わくわくする、とでも言えばいいのだろうか。

「行こう、サンティーノ」

 レギオンはサンティーノの手を取って、迷わず歩き出した。サンティーノも、素直に従い歩いていった。

 目の前で揺れるレギオンの金色の頭を、サンティーノはまばたきも忘れて、ひたすら見つめていた。

(こんなこと、全く僕が考え付きもしなかったことで…)

 馬鹿げた冒険。子供じみた悪戯。そんなことはとうに卒業したくらいには年を取っている。いや、そもそもサンティーノには、無邪気に遊びはしゃぎまくった少年時代はなく、共有できた友もなかった。

 あの襲撃者達を黙らせた後、再び静まり返った夜の庭園は、微かな花の香りに満ちている。耳を澄ませば、草陰に潜む小さな生き物達がたてる音。頭の遥か上には銀貨そっくりな小さな月が輝いて―。

(まるで、今まで見たこともない、夢の中にでもいるようだ)

 レギオンが足を止めるのに、サンティーノは物思いから覚めて瞬きをした。顔を上げると、古い蔓薔薇を這わせた赤みがかった壁、せり出した2階の窓。

 サンティーノは息を吸い込んだ。

「サンティーノ、君は、その植え込みの陰に隠れていろ。そうして、私が歌い始めたら、適当に伴奏をしてくれ」

「レギオン、本当にやるつもりなのかい?」

「ああ。ここまで来て何もしないで帰るつもりなど、私にはないからな」 

 聞いた自分が馬鹿だったとサンティーノは溜め息をついて、言われたように傍にある植え込みの陰に身を潜めた。

 レギオンは、窓の真下に立って、その内側に熱心な眼差しを送っている。まるでそこにいる者に出てこいと念じているかのようだ。

 突然、何の前触れもなく、レギオンは歌い始めた。サンティーノも聞きほれた、甘い響きを帯びた声で彼が歌うのは、今、街中で即興歌人達が歌うような流行のマドリガーレだ。虚を突かれたサンティーノは慌ててリュートを構えると、レギオンの歌に合わせて美しい調べを奏でだした。

 レギオンには、意中の人が休む部屋の下での大胆な行為に、気後れしたり、躊躇ったりする気持ちは少しもないのだろうか。彼の声は実に伸びやかで、朗々と夜のしじまに響き渡った。

 1曲目終わっても窓の内側には何の変化も生じず、レギオンは、今度はフランスの古いシャンソンを歌った。

 その歌が終わっても、特に目に見える変化はなかったが、それでも微かな兆しは現れた。窓の内側で誰かがじっと耳を傾けている。リュートを熱心に奏でながらも、サンティーノにはそう感じ取れた。

 レギオンも気づいたのか、歌に一層の熱がこもった。今度は、どうやら即興で作った歌らしい。


 窓を開けておくれ、愛しい人。

 銀の鏡に映った百合の影のごとき姿を見せておくれ。

 銀の手を持つ女神よ。


 瞬間、サンティーノは息をのんだ。

 甘い香りを含んだ微風がそよそよと吹いてくる。

 ほとんど音もたてずに、窓が開いた。そして、ほっそりとした白い影が、雲間から差す月の光のように暗がりの中から現れ、待ち受けるかのごとく佇むレギオンを見下ろした。

 ブリジット。

 菫色の絹のガウン、ほどかれた長い銀の髪、その美貌以外に身を飾る宝石の1つもつけてはいないが、充分過ぎるほどに彼女は美しい。

 歌うことも忘れ、呆然と立ちつくすレギオンを見出すと、ブリジットは笑った。

 彼女の笑みを見ろ。10才の少女のようにも2千才にも見える!

 サンティーノも思わずリュートを奏でる指を止め、ブリジットの微笑みに目を奪われていた。

 ブリジットは窓枠に手を置き、僅かに身を乗り出すと、レギオンに向かって、それでと問いかけるように首を傾げた。

 レギオンは我に返ったように身じろぎをした。彼の頬に血の色が上るのを、サンティーノは見た。

(サンティーノ、続けろ!)

 そうレギオンが小声で促すのに、サンティーノは再びリュートを奏で始めた。 レギオンと2人で過ごした長い午後、戯れにサンティーノがリュートを弾いて、それにあわせてレギオンが適当な歌詞をでっちあげて歌った曲の1つだ。

 レギオンは傲然と胸を反らせ、ブリジットをひたと見据えながら歌を続けた。熱心な求愛の歌ではあったが、どこか挑みかけるような調子があった。まるで、そうしないと相手に飲まれ負けてしまうとレギオン自身が恐れているかのように。

 だが、女神を前にしても萎縮することなく堂々と振舞い、恐れ気もなく恋の歌など歌えるのは、確かに大した度胸だった。

 ブリジットにしても、こんな体験は、この宮廷に身を落ち着けてこの150年、初めてのことではなかったろうか。若者のぶつしけな態度に対して怒る様子は少しもなく、レギオンの歌声に目を細めて聞き入っている顔は楽しげでさえあった。

 レギオンは歌う。ブリジットの美しさや類まれさを称えたかと思うと、己の恋情を切々と訴えた。

 サンティーノはブリジットに対するレギオンの自己中心的な言い草を知っているだけに、それを聞くと首を傾げたりあきれ返ったりもしたが、少なくとも、この時のレギオンはとても真剣で、真実を語っているように見えた。

 優しく口説いた次には、少し棘の含んだ歌をレギオンは歌った。


 もしも、私のこの歌が、貴女の心に触れないならば、

 その冷酷な胸を攻め落とせないならば、

 無慈悲な夜の女王よ

 貴女の心など、永遠に凍りついたままであればいい。


 あからさまな挑発と嫌味を含んだ言葉に、ブリジットはまあとでもいうかのように唇をすぼめたが、すぐにろうたけた女が憎からず思っている若い男に向けるような艶めいた表情になった。あだっぽいと言うには気品があって、むしろ母性めいたものに近い表情ではあったが。

 レギオンは胸に手を置き、もう片方の手をブリジットに差し伸ばして、ひとまず歌を終えた。

 サンティーノはほっと息をつき、どうなることかとはらはらしながら植え込みの陰から様子をうかがった。

 すると、ブリジットの顔に悪戯っぽい表情がうかんだ。

 ブリジットは古い蔓薔薇を這わせた窓枠にそっと手を押し当て、レギオンの方に身を乗り出すと珊瑚色をした唇を開いた。

 銀の鈴のような声がブリジットの口から発せられた。声というより不思議な透明な響きを帯びた音。人間の声とは明らかに違っていた。堕ちても神の末裔、ヴァンパイアの声はふくらみ、蕾が花となり、かろやかに舞い踊った。天国で歌う鳥ならば、こんな声も出すだろう。

 天上の音楽はやがて人の声の形を取って、歌をつむいだ。


 愛だなんて、口先だけ。

 いまだ本当の恋も知らないあなた

 愛だなんて、そんなに軽々しく言うものではないわ。

 人の心に触れたいならば、あなたの心で触れようとなさい。

 口先だけで、人の心を手に入れようなんて、

 とんでもない駄々っ子ね


 女神の歌に世界は密やかに耳を傾けた。

 歌は力に満ちていた。奇跡を内包していた。

 サンティーノは、そのことに気づき、愕然となった。

 ブリジットが歌いながら触れていた薔薇の古い樹に変化が生じていた。あまりに年老い、既に花もつけなくなっていたような樹にいつの間にか新芽が生じ、赤味がかった柔らかな若葉が生い茂っていく。ブリジットの手の近くでは固い蕾が見る間に膨らんで、ついには夜目にも鮮やかな赤い薔薇が咲き開いた。

 レギオンも、目の前で展開されていくこの不思議に圧倒され、ぽかんと見つめることしかできないようだった。

 ブリジットはやがて歌い終わると、慈しみに溢れた眼差しをレギオンに注いだ。

「レギオン」

 穏やかながら威厳に満ちた声が呼びかけるのに、レギオンは身を小刻みに震わせた。

「あなたの歌は、私の無聊を慰めてくれました。さて、大胆な吟遊詩人に、私は褒美となるものをあげたいのですが、あなたは何を望みますか?」

 ブリジットの気前のよい言葉を聞きながら、サンティーノはふいに頭の中に閃いた、嫌な考えに身震いをした。

 そんな優しい言葉をかけたら、レギオンは付け上がる。

 頭に乗って、ブリジットの寝室に上げて欲しいとまで言いだしかねない。いきなり夜這いなどかけないと言っていたが、こらえ性のないレギオンのこと、どこまで当てになるものか。

 でも、いくらレギオンでも、そこまでは破廉恥な願いは言わないだろう。

 それでも、もしかしたら言うかもしれない。

 いや、こいつなら、絶対に言う!

 サンティーノはとっさに植え込みの陰から飛び出そうとしかけたが、こんな状況でブリジットの注意を引くことが嫌だったので踏みとどまった。代わりに、レギオンに向かって必死の身振り手振りで言うな言うなとメッセージを送った。

 だが、レギオンは、そんなサンティーノを振り返りもしない。

 その横顔にうかぶ夢見るような表情に、そのうち、サンティーノも気がついた。浮ついた恋の真似事を演じる顔ではなくなっていた。そこにあるのは、少年の熱っぽい憧憬と崇拝。

「ブリジット」

 レギオンがふいに口を開いた。窓辺で微笑むブリジットをひたと見つめ、頬を紅潮させながら彼が言った言葉は、サンティーノの予想したものではなかった。

「私の望みは、今夜貴女の姿を見、こうして言葉をかわすだけで叶いました。ですが、あなたの優しい言葉に甘えることを許してもらえるのでしたら、どうか、この夜の思い出に、貴女の手に触れたその薔薇をいただけないでしょうか」

 レギオンらしくない謙虚な願いに、サンティーノは思わず前につんのめりそうになった。

 レギオンの申し出に、ブリジットの白い顔にうかぶ笑みはますます深くなった。彼女が手元で咲く薔薇に眼差しを向けると、花は、まるで自ら女神の命令に従ったかのごとく樹から離れ、小さな輪舞を踊りながら落ちていった。

 差し伸べられたレギオンの手が、すかさず薔薇を捕らえる。

 レギオンは手の中の赤い薔薇を、これは現実のものか確かめるかのようにおずおずと指で触れながら、溜め息をついた。

「もうお行きなさい、レギオン。あなたが力づくで黙らせた、あの貴公子達については、私が後で何とかなだめておきましょう。けれど、これからは、このような大胆な行動を安易に起こすことは二度となりませんよ」

 ブリジットが少女めいた軽やかな笑い声をたてるのに、レギオンは何かしらはっとして顔を上げた。

「おやすみ、レギオン。それから、そこに隠れている、気の優しいあなたもね」

「ブリジット…!」

 レギオンが引きとめようとするかのごとく手を伸ばす間もあらばこそ、ブリジットの月炎めいた姿は、部屋の中の暗がりに消えていき、窓も再び閉ざされた。

 後には、素晴らしい夢から覚めた後の虚脱した静寂が残された。女神のかけた魔法の名残は、まだそこかしこに残っていたが、もう彼女は行ってしまった。

 しばし植え込みの陰から動けなかったサンティーノは、ようやく、よろよろと身を起こした。ブリジットが立っていた窓辺を改めて振り仰いだ。夢ではなかった証拠に、新しく生まれ変わったかのごとく若葉に覆われ花の蕾を幾つもつけた薔薇の樹がある。

「レギオン」

 サンティーノは、黙り込んだきりのレギオンに向かって、躊躇いがちに呼びかけた。 

 だが、レギオンは答えない。まだ夢の続きを見たがっているのか、うっとりと潤んだ瞳をして、窓の向こうに消えていった者をひたむきに追っている。

 その姿を見ているうちに、サンティーノは無性に腹が立ってきた。

 サンティーノは植え込みから飛び出すと、怒った足取りでレギオンのもとに歩み寄り、その頭をいきなり殴った。

「な、何をするっ?!」

 レギオンは、瞬時に怒りを爆発させて、サンティーノを噛みつかんばかりの勢いで振り返った。

「やっと目が覚めたかい、坊や」

 サンティーノは唇を皮肉に歪めた。

「ブリジット様に求愛するとあれ程大口を叩いて意気込んでいたのが、この体たらくとはね。全く、目も当てられないよ」

 レギオンは唇を引き結んで、サンティーノを睨みつけたが、何故か言い返してこなかった。

 サンティーノも不審に思った。レギオンの態度がおかしい。ここに来るまでは、何としてもブリジットの目に留まろう、彼女の弟子になり愛人になりしてもらおうと躍起になっていたのが、今は奇妙なほど落ち着いている。

「レギオン、さっき…ブリジット様が褒美をと言われた時に、どうして…その薔薇をもらえればいいなんて答えたんだい?」

 サンティーノは、探るような口調で慎重に問うた。

「どうして、あの窓に上げてもらわなかったんだ?君にとって、彼女の愛を勝ち取る絶好の機会だったはずだよ。ブリジット様は、君に好感を覚えていた…真剣に頼めば、君の師匠にだってなってくれたかもしれない…」

 すると、レギオンは意外なことを聞いたというように目を丸くし、それから、これまでとは少し違う、どこか大人びた顔で微笑んだ。

「これでよかったんだよ、サンティーノ。私は、ブリジットのことはあきらめる」

 少しも未練なところのないレギオンの様子に、サンティーノはまたしても予想を裏切られた。

「ど、どうして…君は、あんなに必死だったじゃないか…真剣だったじゃないか…せっかく、ここまで来ていながら諦めるなんて、それでいいのかい…?!」

 つい動転して、そんなことを訴えながら、サンティーノは、果たして自分はレギオンをブリジットと結び付けたいのか、それとも結び付けたくないのか、どちらなのだろうと考えていた。

「今の私では、あの窓の中に入れてほしいと望むことすら到底相応しいとは言えないと、分かったからだよ」

 常日頃の高慢さはどこへやら、素直に認めるレギオンを、サンティーノは初めて見るかのごとき目つきで眺めた。

「ブリジットが欲しいなら、私がまず変わらなければならない。想像もできない時を経てきた女神に完全に追いつくことまでは無理でも、せめて、まともに相手をしてもらえるほどには、私が大人にならなければ、とね」

 レギオンはブリジットからもらった薔薇を恭しく持ち上げ、口付けでもするかのように香りをかいだ。

 そうして、不思議な胸苦しさを覚えているサンティーノを振り返り、いつものやんちゃぶりを取り戻した口調で付け加えた。

「あきらめると、さっきは言ったが、永遠に手を引くつもりではないよ。時期尚早だったというだけだからな。見ていろよ、サンティーノ、いつか私は彼女の横に立ってやる」

 レギオンはサンティーノに向けて軽く片目を瞑り、自信満々、そう宣言した。

 謙虚なところも少しは見せたレギオンだが、別にへこたれた訳ではなかった。生き生きと輝く瞳や屈託のない笑みに、深夜の庭園にあって、陽の名残りを見出したような眩しさを覚え、サンティーノは目を細めた。

 レギオンは太陽だ。漠然と、サンティーノは思った。

(君の発する光に、僕はとても惹き付けられる…できることなら、いつも傍にいたいと…) 

 ぼんやりとしていたサンティーノの肩を、その時、レギオンが叩いた。

「さあ、帰るぞ。ところで、サンティーノ、私はこれから君の部屋に遊びに行きたいのだが、構わないだろう?」

 ぎょっとして、サンティーノは、レギオンのどことなく媚を含んだ悪戯っぽい顔を眺めた。

「この上、まだ僕を振り回そうという気か?」

「だって、何だか興奮して、今夜は眠れそうにないんだ。酒でも飲みながら、君と語り合いたとい思ったんだが…駄目かな?」

 レギオンはサンティーノの肩を引き寄せて、顔を覗き込んだ。

 大きな猫になつかれているようだとサンティーノは思った。あの生き物は、自分に好意を抱く人間をどうしたものか的確に見抜いて、身を摺り寄せ甘えてくる。

「サンティーノ?」

 レギオンの焦れたような問いかけに、サンティーノは深い溜め息をついた。

「僕が嫌だとは言わないことは、分かっているんだろう?」

 サンティーノの言い方がおかしかったのか、レギオンは喉を仰け反らせ華麗に笑った。豪奢な毛並みを持つ珍獣の叫びさながらに。

 顔を赤らめて黙り込むサンティーノの手を取って、レギオンはさっさと歩き出した。

 サンティーノは不承不承ついていく振りをしながら、前を行くレギオンの明るい髪が揺れるのを目で追う。

 金色に揺らめき踊る陽の名残り。

 見守るサンティーノの胸の鼓動は早くなる。

(レギオン、レギオン、どうしてだろう、君の輝きに照らされていたいと、僕は思っている…?)

 強引なレギオンに引っ張られながら、別にこの状態をそれほど嫌だと思っていない自分に、サンティーノは、その時はたと気がついた。


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