天使の血
第一章 太陽と月
ニ
レギオンには二度と関わるまい。サンティーノは固く決心していた。
身勝手で高慢な同族達の中にあって心穏やかに暮らすため、今まで、ひたすら波風を立てず、おとなしく、誰が相手でも適当にあわせてきたサンティーノにとって、トラブルを自分から好んで引き寄せているようなレギオンに近づくことなど、とんでもない話だった。
たぶん、あの懇親舞踏会でのサンティーノの行動は、一時の気の迷いだったのだ。レギオンが、彼とはあまりに正反対であったから、個性が強烈であったから、つい引きずられてしまった。柄にもなくお節介な忠告をしたり、心配して様子を見に行ったり、ブリジットと一緒に踊る姿に思わず引き込まれ、彼のための演奏まで買って出てしまった。
あんなこと、するべきではなかったと、湖より深くサンティーノは後悔している。
舞踏会の後、しばらくは何事もなく過ぎた。サンティーノは意識してレギオンを避け続けたし、レギオンが彼を訪ねてくることもなかった。
それでも、レギオンの名前はあちらこちらで聞かれた。相変わらず絶えない喧嘩のこと。師について学ぼうとせず、宮廷内のどのグループにも属さず、一匹狼のまま好き勝手し放題に遊びまわっていること。貴婦人の中で一、二を争う美女2人を二股にかけていたのがばれ、凄まじい修羅場が演じられたというような、しようのないゴシップまでが、サンティーノの耳に入ってくるのだ。
(どうやら、あいつは僕のことなんか綺麗に忘れ去っているみたいだな。毎日毎日、性懲りもなく、よくもそこまで我侭を通せるものだ。まあ、おかげで、僕は平穏に過ごせていい訳だけれど…)
そう自分に言い聞かせつつ、胸の中にすっきりしないものを抱えていたサンティーノだが、レギオンの姿を全く見なかったわけではない。一度はバルコニーの上から庭園に眺め下ろした時に、一度は顔だけ見せるつもりで出席した宴席で、遠くに彼を見かけた。レギオンも気がついて、サンティーノに向かって笑いかけたが、それを見ると、サンティーノは何故だか胸が詰まって、顔を背けて逃げてしまった。
(レギオンのことなんか、もう忘れよう…どうせ僕には関係のない奴だし…)
サンティーノが自分でも訳の分からぬ煩悶を抱えたまま、いつしか一月近くが経っていた。
この頃になると、さすがにサンティーノも、レギオンのことを思い起こすことは少なくなっていた。それに、彼には他に、心をかき乱される事件があった。人間の獲物との『恋』が終わって、その血を奪ったのだ。
相手は、銀行家の夫を亡くしたばかりの裕福な若い未亡人で、サンティーノは3カ月彼女と付き合った。ヴァンパイアは狙った獲物をすぐには殺さない。誘惑し、まずその心を奪い、ゆっくりと時間をかけて自分に夢中させてから、血を奪う。人間の感情は、血に変化を与えるエッセンスであり、愛は最も重要なものだ。逆に憎悪は血を毒にする。ヴァンパイアは己を愛する者の血しか飲まないし、飲めないのだ。
そのことはよく分かって狩りをしているのだが、サンティーノは繊細な分、獲物につい感情移入をしてしまい、そのため、殺した後はいつも気持ちが沈んだ。
どうして、かりそめにも『恋人』と呼んだ相手を殺さなければならないのだろう。だが、それがなくては、生きられない。
今度の相手には、それほどのめりこむような恋情は覚えなかったが、涙の一滴くらいはこぼしたし、取り込んだ血と共に流れ込んできた獲物の魂の記憶にしばらくの間振り回されて、心底疲れてしまった。
そんな時だ。何の前触れもなく、あの嵐が突然戻ってきたのは。
「サンティーノ」
庭園のはずれにひっそりとある、湖を望める東屋で、サンティーノは、初夏のまぶしい日差しを避けるようにして、1人、物思いに沈みながらリュートをかき鳴らしていたのだが、突然名前を呼ばれ、びっくりして顔を上げた。
「レギオン」
木立の向こうから姿を見せたレギオンは、サンティーノが自分に気づいたことに、相変わらず豪華な金髪を揺らして、嬉しそうに笑った。
「こんな所に隠れていたのか、探し回ったんだぞ」
レギオンは、サンティーノの当惑もどこ吹く風、東屋の中に軽い身のこなしで入ってくると、彼の近くに腰を下ろした。
「何だ、元気がなさそうだな。さっき弾いていた曲も随分哀しげで沈んだ感じだったが…憂い顔のオルフェウスの悩みとは、何なのだろう」
「君は…相変わらず元気そうだね」
暗い翳りなど微塵もないレギオンの顔をまぶしげに見つめ、サンティーノはふっと笑った。
「いつもいつも話題の中心で、注目の的で、何にも縛られることなく自由で…君はきっと毎日が楽しくて仕方がないんだろうな。うらやましいことだよ」
「おい…失礼なことを言うなよ、私だって、悩みの1つくらいある」
「へえ」
レギオンは、不満げに唇をへの字の歪めて、サンティーノの腕を押した。
「僕は…ついこの間、獲物を殺したばかりなんだ」
サンティーノは、ポツリと漏らした。
「ああ」と、レギオン。
「それで?」
サンティーノは、リュートの弦を神経質に震える指で触れた。
「いつまでたっても慣れない…初めから血を奪うために近づいたとはいえ、しばらく付き合えば、それなりに情も移る。彼女の人生を奪う権利など、僕にはなかったんだ。彼女は、生きていれば、これから先何かを成し遂げたかもしれないけれど、その可能性も僕は奪った。それに、彼女の死を悲しむだろう家族や友人達のことを考えると、僕は…」
「君ってば、本当に馬鹿なことを考えるんだな!」
心底呆れたように目を真ん丸くしてレギオンが叫ぶのに、サンティーノは赤くなって口をつぐんだ。
「私達、血を吸う神の子らが、獲物を殺して血を飲むのは当然じゃないか。それを、相手が可哀想だなんて考えること自体が馬鹿げているよ!」
迷いの欠片もないレギオンの顔を、サンティーノはつくづくと眺めた。
「私だって、殺す人間達に対して全く何も感じない訳ではないけれど…姿形は、確かに、私達と似ているからね。でも、所詮は別の種族なのだし、捕食者である私達がその血を糧として奪ったところで、それは自然の摂理というものだ。罪悪感に駆られることなど何もない」
レギオンは、緑色の目をすっと細めると、ふいに血の味を思い出したかのように薄い唇を赤い舌で舐めた。
「ああ、実際、私にとって…獲物に選んだ綺麗な娘達は、それぞれ魅力的だったよ。甘い汁を一杯に含んだ果実みたいにね。いかにも食べてくれと言わんばかりの可愛い子達を、もいで食べたら、それが罪になるのかい?」
レギオンは、身を固くしているサンティーノの肩を馴れ馴れしげに抱きよせた。
「しっかりしろよ、サンティーノ。ああ、まさか君も、人間達に深く関わりすぎて、その影響を受けてしまったくちか? やめておけ、そんな感傷は。ヴァンパイアのくせに、人間のように教会の言うことを信じ、自分が邪悪な存在だと思うようになった馬鹿達とは、君は違うだろう?」
「人間達の神に対する信仰など持っているわけではないよ。僕の覚えている痛みは、全く個人的なものだ。君の言うことが正しいということも頭では分かっている…ただ…」
サンティーノには、レギオンのように狩りを受け入れられたことは一度もなかった。愛した人間を殺した、最初の狩りの衝撃をいまだに引きずり、克服できないでいる。
だが、レギオンには、そんな経験はないのだろう。生き生きと輝く瞳にたたえられた無邪気な残酷さに、背筋がぞっと凍ったが、サンティーノは同時にそれをうらやましいとも思う。レギオンの誇りはまだ一度も傷ついたことはなく、その確信が揺らいだことも、おそらくないのだ。
それから、サンティーノは、出し抜けにそのことを悟った。
(そうか、レギオンは、まだ恋を知らない…)
少し呆然としていたサンティーノの体を抱くようにして、レギオンはその耳に笑いを含んだ低い声で囁いた。
「分かっているのなら、もう悩むな。人間を殺す度に、いちいち君は、そんな破瓜の血を見た処女みたいな顔をしているのかい?」
カッとなって、サンティーノはレギオンの手を振り解いた。
「冗談だよ」
サンティーノの反応がおかしかったのか、レギオンは小さく噴き出した。サンティーノは居たたまれなくなって、この場から立ち去ろうとしたが、その手をレギオンがつかんだ。
「待ってくれ、サンティーノ」
一転、レギオンは真顔になって、サンティーノに向かって懇願した。
「行かないでくれ。私が言ったことが気に障ったのならば、謝るから…」
あんなに憎たらしかった態度を、どうして一瞬のうちに、こんなにも鮮やかに変えられるのだろう。
サンティーノは少し迷いながら、必死に引き止めようとしているレギオンの真剣な顔を見下ろした。溜め息をついた。
「1つだけ言っておくけれど、人間のことをあまり見くびらない方がいいよ…君は人間達を、僕らよりも劣る、尊敬や共感できる価値のない下等な生き物としか考えていないようだけれど…いつか君もそれが間違いだと悟るだろう」
レギオンは、きょとんとした顔で瞬きをした。
「さて…そういえば、僕を探し回ったと言っていたけれど、一体、何の用があったのかな?」
サンティーノの予言めいた言葉に一瞬心許なげな表情をうかべたレギオンは、サンティーノが話題を変えたことにほっとしたようだ。
「ああ…」
サンティーノが再び腰を下ろして話を聞こうという構えを見せたことに、レギオンはいかにも感謝で一杯という顔をした。こんな様子を眺めると、なかなか可愛いところもあるなと思わないでもない。
「実は、君に頼みたいことがあるんだ…その…」
レギオンは、サンティーノのリュートをちらりと見やった。
「リュートの弾き方を、私に教えてくれないか、サンティーノ」
サンティーノは、僅かに目を見張った。
「リュートを?」
レギオンは素直に頷いた。
「君のリュートの腕前には、私も感嘆した。ヴァンパイアの弾き手でも、あんなに見事な演奏をできる者はいない。イタリア一だ。いや、ヨーロッパ中探したって、君ほどの名手は見つからないよ」
「それは、褒めすぎというものだよ、レギオン。僕をおだてて、その気にさせようとしても無駄だと思うけれど…それにしても、どうして急にリュートを覚えようなどと考え付いたんだい?」
すると、レギオンは、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「君がつむぎだす切ない旋律は、特に女の心によく訴えかけるようだ。ブリジットだって、同じさ。私のような駆け出しの若いヴァンパイアが彼女に近づくことは至難の業だが、君のような特技を何か身につければ、御座所に隠れた女神の気を引くことができると思わないか?」
サンティーノは、一瞬、耳を疑った。
「レギオン…すると、君は何かい、ブリジット様の注意を引きつけるために、リュートを覚えたいというのか?」
「悪いか?」
サンティーノは、とっさに言葉が出てこなくなった。
「私は、あの舞踏会でブリジットと踊った時から、再び彼女に近づく機会をずっと狙っていたんだ。けれど、彼女の周囲はどうにも守りが固くて、近づいて話しかけるどころか、姿を遠くで眺めるのが精一杯だ。ブリジットの取り巻き連中は、私を随分敵視しているようなんだ。きっと私が奴らを出し抜いてブリジットと踊ったことで、嫉妬しているんだな」
サンティーノは軽い眩暈を覚えて、すがりつくようにリュートを抱きしめてしまった。
そう言えば、この一月、サンティーノがレギオンを見かけた場所というのは、どれもブリジットの近くだった。ブリジットが出席した宴席であったり、彼女の好きな薔薇が見ごろの庭園の一角であったり。1人で一体何をこそこそしているのかと思っていたら、ブリジットに近づく隙をうかがっていたのか。
「レギオン、一体、どうして…そこまでして、ブリジット様の目に留まろうとするんだい…まさか、君はブリジット様に…」
恋でもしたのか言いかけて、サンティーノは慄いたように、口を閉ざした。
「何故って、彼女を知ってしまったら、宮廷のどの女達も皆平凡に見えてくるんだから、仕方がないじゃないか。食わず嫌いはいけないと、適当に選んだ何人かと寝てみたが、やっぱりブリジットと踊った時の程の感動は覚えなかった。ブリジットは、私が出会った中で最高の女性だ。欲しいと思って、何が悪い?」
サンティーノは息苦しさを覚えて、とっさに喉を押さえた。それに気づかず、レギオンは熱のこもった口調で続けた。
「それに、私は、彼女になら教えを乞うてもいいなと思っているよ。いや、彼女以外の師について学ぼうなんて、考えられない。生ける女神について学ぶことは、私を誰よりも強力なヴァンパイアにするだろう。実際、それは、とても胸がすくようなことに違いない。私を生意気なだけの小僧だと侮っている奴らを、見返してやるんだ」
サンティーノの中で、怒りの堰が切れた。身を乗り出して熱っぽく語っていたレギオンの頬を、サンティーノは思わず張り飛ばしていた。
「よくも…そんな身勝手なことが言えるな! き、君は、やっぱり、皆が言うような、ただの目立ちたがり屋の馬鹿だ、自己中心的で我がままな最低の奴だ! 他の連中の鼻を明かしたいがためにブリジット様を利用しようなんて…そんなこと、僕は許さない…!」
おとなしいサンティーノの激昂ぶりにしばし呑まれてしまったレギオンだが、やがて、思い出したかのように殴られた頬を触った。
「殴ったな、顔を」
「それがどうした! とっさにリュートで殴りそうになったのを平手にしてやったんだから、ありがたく思え。もっともそれは、君の顔より、このリュートの方に価値があると思ったからに過ぎないけれどね!」
レギオンの頬が、赤く染まった。拳を固め、サンティーノに対して身構えたが、彼が急に全ての興味をなくしたように背中を向けて立ち去ろうとするのに、瞬時に気を変えた。
「サンティーノ、行かないでくれ…!」
レギオンは椅子から飛び起きると、体ごとぶつかるようにサンティーノの背中に抱きついた。
「君が怒るのも分かる…私の言い方も悪かった…でも、私にとって、ブリジットが特別な女性であることは本当なんだ。私は、欲しいと思ったものはどうしても手に入れようとせずにはいられない。例え、どんなに身分違いで、無謀な求愛であっても、何もしないで、ただあきらめることはできないんだよ。ブリジットに振り向いてもらうためなら、何でもする…!」
サンティーノは、唇を噛み締めた。どうして、こんな悔しいような情けないような気持ちになるのだろう。
「僕は…僕は、弟子など取ったことはない。教え方を知らないし、だからと言って君が下手くそな演奏をするのにも我慢ならないから、きっと君をひどく叱りつけるだろう。それでも我慢して真剣に習うというのなら、教えてやってもいい」
腹が立つのか哀しいのか、よく分からない複雑な感情を胸に押し込めて、サンティーノは吐き捨てるように言った。
レギオンが、彼の背中で息を飲んだ。
「サンティーノ…」
レギオンはサンティーノの肩に手をかけて、正面を向かせると、彼の顔を間近で覗き込んだ。
レギオンの輝くような笑み、こぼれかかる金色の髪、甘い吐息に、サンティーノは目が眩み、息が詰まりそうになった。瞬間、サンティーノはレギオンの腕にしっかり抱きしめられていた。
「ありがとう…ありがとう、サンティーノ…」
感謝の思いを体中で表現しているつもりなのだろう。レギオンに頬擦りされながら、サンティーノは膝から力が抜けそうになっていた。
レギオンの方がサンティーノより体格は一回り大きいとはいえ、その気になれば、逃げるだけの力はサンティーノにもある。しかし、何故か逃げられない。
レギオンには二度と関わるまいと決心していたはずだった。厄介が服を着て歩いているような、こんな問題児に近づいても、ろくなことはない。現に、少しの間話しただけで、サンティーノの心はこんなにもかき乱されてしまった。
なのに、拒否の言葉を叩きつける代わりに、レギオンの横暴な申し出を、サンティーノは結局引き受けたのだ。
(どうして…)
その後、レギオンにせがまれるままに、リュートで簡単な曲を幾つか弾いてみせながら、サンティーノはますます憂鬱な面持ちになっていた。溜め息ばかりついている彼を、レギオンはからかい、それに対してサンティーノが怒るというようなことを繰り返していた。
1人リュートを弾いて死者を悼みながら、静かな午後を過ごすつもりが、何故、こんなことになってしまったのだろう。
しかし、ふいにサンティーノは気がついた。
サンティーノの指の動きを熱心に見つめ、奏でられる音色を口ずさみながら追っているレギオンの、じっと押し黙っていても明るい光に包まれているかのような姿を、サンティーノは凝然と見つめた。
そう、レギオンに振り回されているうちに、いつの間にか、あれ程悩まされていた、サンティーノにしばらく取り付いて離れなかった、殺した獲物の『声』がぱったり聞こえなくなったのだ。