天使の血

第一章 太陽と月


 それは、1480年代半ば、後にルネサンスと呼ばれる時代のイタリアでのこと。

 当時の雰囲気を語れば、1453年のコンスタンティノープルの陥落以来、繰り返されてきたオスマン・トルコのヨーロッパへの侵攻は、人々の心に不安な陰りを落としていた。遠くは、キリスト教国の砦となって果敢な抵抗を続けてきたワラキア、アルバニア、クリミアがトルコの属領となった。1480年のロードス島での聖ヨハネ騎士団の勝利に人々は快哉を叫んだが、同じ頃南イタリア、オトラントがトルコ軍によって攻撃され、対立するイタリアの諸国が共闘しなければならなかった。

 しかし、一方で、この時代はイタリア各地に豊かな文化が花開き、光を放った。フィレンツェでは豪華王ロレンツォ・デ・メディチのもとボッティチェリの神話的絵画に代表されるようなルネッサンスの春の時代が謳歌されており、ローマではシスティーナ礼拝堂が竣工され、フィレンツェ人の画家達による美しい壁画の数々が描かれた。

 これから語られるのは、そんな人間達の眩い時代に寄り添う影の世界の物語。人の歴史の書物には残されることのなかった、別の種族が最後の栄華を誇った時代に唄われた、ある恋の話だ―。




 今宵、人外の貴人達が集うホールには眩い光と音楽が溢れていた。

 楽師の一団が、新しい曲を演奏し始めた。ヴィオラやフルートが織り成す軽やかな音楽に合わせて、舞い手達も3人一組になって、フィレンツェ風のバッサ・ダンツァを踊る。

 絹と朱子とレース、きらめく宝石、縁飾りのある上着で着飾った優美な男女は、複雑で早いステップを羽根のような身のこなしでさばいた。

 春の盛りの5月、長くなった陽がようやく沈んだ後も、ローマ郊外にある、この壮麗なヴィラのホールには灯りが煌々と燃え、昼さながらに明るい。壁にはフランドル地方の巨大なタペストリー。床に描かれた鮮やかなモザイク画は天井からの光を受けて、きらきらと輝いていた。 

 広いホールには、中央でダンスを踊る男女の群れを囲むように、着飾った大勢の貴人貴婦人達。舞い手達の1人1人を値踏みするように眺めながら、互いに囁きを交し合ったり、意味深な笑いをうかべたりしていた。

「サンティーノ」

 かなり遅れてこの舞踏会場に足を踏み入れたサンティーノが声のした方を見ると、お仕着せの小姓からワインのゴブレットを受け取りながら、3人の男達が笑いかけていた。友人と言えるほど親しくはないが、同じ血族の若手に属する者として、それなりの付き合いのある相手であり、サンティーノは挨拶するため、そちらに近づいていった。

「珍しいな、宴席嫌いの君が顔を見せるなんて」

 黒い絹のチュニックに濃い紫色の上着と控えめな衣装にほっそりとした体を包み、腕には愛用のリュートを抱えたサンティーノの姿を、相手は鋭く観察する。その視線に少し居心地の悪さを感じながらも、サンティーノは礼儀正しく返した。

「今夜の余興の1つにと、後で何か演奏するよう頼まれているんだ」

 本当は、こんな大勢の前でより、ごく親しい者達だけの小さな集まりか、あるいは誰もいない場所でひっそりと好きな曲を弾いている方が好きなサンティーノではあったけれど、最長老の1人、ブリジットの所望とあれば仕方がなかった。

「ああ。君のリュートは素晴らしいと評判だからね」

 どことなく嫉妬めいたものの感じられる声で、また別の男が言った。

「僕の特技と言えば、これだけだから」

 早くも、やたらと誇り高く嫉妬深い傾向のある同族との会話に疲れを感じながら、サンティーノは相手の視線を避けるようにうつむいた。濡れたカラスの羽根を思わせる艶々とした黒い巻き毛が額にこぼれかかるのを、わずらわしげにかきあげ、男達の後ろに見え隠れする、ダンスに興じる一団を見やった。

「それに―僕も、一応興味はあるからね。今年は、どんな連中が、僕らの宮廷に加わることになるのか。この懇親舞踏会でデビューする、初々しい駆け出しのヴァンパイア仲間の顔くらい見ておこうと思って」

 人垣の向こうで、ドレスの裾や美しく結われた様々な色の頭や流行の形の帽子が揺れる様に目を細め、サンティーノは微笑んだ。彼自身のデビューはもう10年近く前になる。元来内気な性向であり、ここに来たばかりの頃は故郷のナポリに帰りたくてたまらなかったものだが、いつの間にか時間は飛ぶようにすぎてしまった。生まれた土地と言っても、親とはとっくに袂をわかってしまったし、たまに帰郷してみることもあるが、1人でいることの寂しさに耐えかねて、すぐにローマに戻ってきてしまう。 

(別に、それ程親しい友がここにいる訳でもないし、宮廷生活が心底好きだという訳でもないのだけれどね。ただ、自分の居場所があるというのは、それなりに安心できることで…)

 物思いに沈みかけたサンティーノは、仲間に軽く肩を押されて、我に返った。

「もっと前に出て、じっくり見てみたらどうだ、サンティーノ。今年こそは、君の気に入るような、いい娘がいるかもしれないぞ。何なら、ダンスに加わってこいよ」

 サンティーノは薄く頬を染めて、首を横に振った。

「君の内気は困ったものだなぁ」と呆れたように相手は言った。

「10年近くもここに留まって、一体何をしているのだか。さっさと適当な伴侶を見つけて、国に連れて帰って、子供の1人くらい作れば、一族に対する義務を立派に果たしたということになる」

「君なら、その気になれば、いくらでも恋はできると思うんだが…当世、人間達の間で広まっているという同性愛の風潮に感化されている訳でもないだろう?」

 仲間のからかうような口ぶりに、サンティーノは溜め息をついた。

「そんなの…別に焦る必要はないじゃないか。時間なら、僕らにはいくらだってあるんだし、そのうちにこれはというような出会いがあれば、僕だって…」

 結婚の2文字は、しかし、サンティーノにはどうしても言えなかった。人間の獲物相手の『恋』だけで大変なのに、この上、気位の高いヴァンパイア女性の相手までして、おまけに子供だなんて気が遠くなりそうな話だ。 

 しかし、他の男達にはそんな心配は全くないのか、サンティーノを引っ張るようにして、人垣の前に出て行くと、若く美しい舞姫達の中で、どの娘が一番美人か、優雅な身のこなしをするか、センスがいいかなどと評しあっている。そのうち2人は、気になる娘を見つけたのか、曲が変わるところで、ダンスに加わりにいった。

 確かに、彼らの気持ちは分からないでもない。現在、ヨーロッパのヴァンパイア世界の中心であるローマならば、こうして宮廷に身を置いていれば、同族の異性と出会う機会もあるが、故郷に帰るとそういう訳にもいかない。ここ千年人間の数がどっと増えたのに対して、古い神々の末裔であるヴァンパイア一族の数はどんどん減るばかり。基本的には不死であるはずのヴァンパイアだが、年経た者達は何処かへと姿を消していった。そして、問題なのは、新しく生まれる一族の数が極端に少ないということだ。不滅の体を持つヴァンパイアは、もともと子供を作る機能は弱いのか、伴侶を得ても、めったに子供は授からない。例え1人1人は強力でも、絶対的な数が少なければ、次第に知恵をつけてきた獲物である人間に世界の覇権を渡してしまうことを意味する。それは、宮廷を取り仕切る長老達にとって頭痛の種であり、だからこそ、独り身でいる者は早く伴侶を見つけて一族に貢献するよう奨励される。

(それでも、子供をただ作ればいいというものではないと思うけれど…無責任に後は放っておくなら、初めから生まない方がましではないか?)

 サンティーノのことを自分で育てようとしなかった冷たい母のことを思い出し、ふと暗い気持ちになりながら、彼は、緊張と興奮に頬を火照らせている若々しい踊り手達に視線をあてた。毎年、春、復活祭の終わった辺りから、ヨーロッパ全土、イタリアのみならず、フランス、ドイツ、海を渡ってイギリスから、あまり馴染みのない東欧やロシアからも、若いヴァンパイア達が宮廷に集まってくる。人間流に言うと、礼儀作法を習うためというところか。それぞれの地方で好き勝手に育ってきたのを、ここに来るや、1人1人、年かさの血族を師として紹介され、ヴァンパイアとしての流儀を習い、狩りの仕方も手直しされ、血族に対する義務と責任をたっぷりと頭の中につめこまれることになる。そうして数年後には一人前の洗練された狩人になって、大抵の者達は伴侶も見つけて、故郷へと戻っていく。こんなことが、このローマに最長老達を中心にした最初の一団が住み着いて以来、150年ばかり続いている。

(そういう歴史から、あの若い子達は教えられている最中だろうか。初めに7人の最長老がローマを定住の地に選び、彼らを中心に宮廷ができ、ばらばらだった各地の血族同士の結びつきが強くなったことや、このローマで、いかに一族が人間の支配者層の中に食い込んで、彼らを利用しながら、ここまで宮廷を栄えさせたのか、そんなことを…)

 誰も彼もが極めて美しい、血を吸う神の子らの姿をぼんやりと眺めていたサンティーノは、ふと、そのうちの1人、肩までの長さの豪奢な金髪をした、背の高い若者に目をとめた。

 その若者は、美形ぞろいの血族の中でもはっとするほど美しかったが、サンティーノの視線を捕らえたのは、それが理由ではなかった。立ち居振る舞いが、何かしら人の目を引き付ける華を備えているのだ。男女が列になって次々とパートナーを変えていくダンスの中、深紅色の衣装に身を包んだ彼が身を翻す度に、そこだけ巨大な薔薇が開いたような華やかさ、誇らしげで自信に満ちた身のこなしは王侯然としていて、とてもこれがデビューとなるお披露目の舞踏だとは思えない。明るく輝く瞳は抑えきれぬ好奇心を湛えて、ホールを見下ろすようにある空席のままの玉座を見やったかと思うと、挑みかけるような不敵さで周りを取り囲む年長のヴァンパイア達を眺め回した。

「誰だい、あれは…あの金髪の…派手な坊やは?」

 思わず、サンティーノは傍らに残っていた仲間の1人に尋ねていた。

「ああ」

 面白くなさそうに、男は答えた。

「レギオン。ベネツィアの生意気なゴンドラ漕ぎさ。社交に疎い君でも、あいつの噂くらい小耳に挟んだことはあるんじゃないか。ここに来た日から、しょっちゅう問題を起こしている。紹介された師とはその日のうちに大喧嘩をして別れてしまうし、長老達の命令にも従わない、仲間との喧嘩も日常茶飯事だ。まあ、あの顔だから、女達の受けは悪くはないさ…中には、初めの師とうまくいかなったのは男性だったからで、自分のような経験豊富な女性が師についた方がいいんじゃないかって妙な色気を出す年増もいるくらいだ。けれど男達のほとんどはあいつに敵意を覚えている…鼻につくと思わないか、これ見よがしな、あの態度…ここの庭園で闊歩している孔雀だって、あいつに比べれば随分謙虚でおとなしく見えるだろうさ!」

 どことなくやっかみのようにも聞こえる仲間の言葉に、サンティーノは薄く笑った。そして、踊りの中心にいるレギオンが、優雅にお辞儀をして新しいパートナーの手を取り、曲にあわせて大きく旋回するように動く、その一挙手一頭足を目で追った。確かに目立ちたがり屋ではあるのだろう。その仕草の端々、挑戦的な目の動きや表情豊かな口元に、彼の自意識の強さが現れている。さながら、自分はここにいるぞと世界に向かって全身で叫んでいるかのようだ。

 しかし、サンティーノにとっては、それは別に反感を覚えさせられるものではなかった。たぶん、自分とあまりにも違いすぎるからだろう。まるで異国からきた美しい珍獣を眺めているような心地で、あまり近くには寄りたくないが、遠くから眺めている分にはなかなか愉快ではないか。

「レギオン」

 サンティーノがその名を呟いて笑ったのを、どう受け止めたのか、レギオンの態度に憤慨していた仲間が、急に声を低めてささやきかけてきた。

「どうした、サンティーノ…レギオンのことが気になるのか…?」

 肩に手を置き耳元にそっと顔を近づけてくる男の言外のほのめかしに、サンティーノは、顔は踊りの方に向けたまま、淡い色の目をすっと細めた。

「やめた方がいいよ、同性愛なんか。一族に対する貢献という観点からは、非生産的なこと、この上ない行為だ」

 すると、相手はチッと舌打ちをして、サンティーノの肩から手をどけ離れていった。

 サンティーノも、別にダンスに加わるつもりはなかったので、早々にその場を離れることにした。それでも、金髪を翻しながら華麗に踊るレギオンに、最後の一瞥を向けることは忘れなかった。

(それにしても、あんなふうにわざわざ派手に振舞って、皆の注目を集めることに何の意味があるのかな。余計なトラブルを招くだけで、いいことなんかないような気が、僕はするのだけれど)

 初めての大舞台に興奮しはしゃいでいる子供のように見えないこともないなと含み笑いをして、サンティーノは明るいホールの中心から離れ、壁際に垂れたカーテンの奥に入っていった。そこは椅子の置かれた小部屋になっており、サンティーノが入ってくると、隅で控えていた小姓が飲み物を勧めにやってきた。

「ありがとう」

 椅子の1つに腰を下ろし、脇にリュートを置くと、サンティーノは高価な硝子のゴブレットを小姓から受け取って優しく微笑んだ。すると、なかなか美しい人間の少年は、眩しいものを見たかのように一瞬陶然となり、目を落とした。

 その様子を可愛らしく思いながら、サンティーノは、人間であるこの子の目には自分はどんなふうに映っているのだろうかと考えた。おそらく幼い頃からここで暮らし、ここで見聞きするものに慣らされ、また時に異常な物事に出会ってもそれを不思議と思わぬよう暗示にかけられてもいるだろう。この宮廷で人外の貴人達に仕える人間は、皆、どこか夢見るような表情をしている。そうでなければ耐えられないはずだ。己を獲物として喰らう者達の傍にいることなど。

 いや、同じ人間でも、一族の正体を知って尚深い付き合いのできる豪胆な神経の持ち主も中にはいる。『闇の貴族』というような隠語で呼んで、血を吸う神々の恐ろしい素顔には目を瞑り、その力を己の権勢のために利用する。権謀術数に長けたローマの有力者達にとっては、人外の力を持つヴァンパイアも駒の1つということだ。敵に回すよりは味方にと自ら近づいてくる人間達は少なくはなく、今夜のような一族だけに限られた催しではない、通常の宴席ならば、古都ローマの権力者達のグループが1つや2つ混じっていることも珍しくはない。 

「ああ、君、すまないが、僕がここで休んでいるということを宴の進行係に伝えて欲しいんだが…」

 つい必要以上に長く少年を見つめてしまったことに気づいたサンティーノは、赤くなってもじもじしている小姓を慌てて使いに出した。

 ダンスが終わって、休憩時間になれば、その間の余興に歌や楽曲の演奏が始まるはずだ。サンティーノがここにいると知らせておけば、後で誰か呼びにくるだろう。

 サンティーノは積極的にホールで社交を楽しむ気もなければ、衆人環視のダンスも御免だった。幸い、この控え室は他に誰もいないし、リュートの演奏に備えて精神統一でもしておこう。あまり大勢の前では緊張のあまり手が震えて、いつもはしないようなミスを犯しかねない。

(今夜はまだ最長老の方々は姿を見せていないようだった…ブリジット様は来られるんだろうな…わざわざ、僕のリュートが聞きたいとお召しになるくらいだから…)

 それを思うと、ひっそりとしたサンティーノの胸は誇らしさに膨らんだ。最も古い血を誇る、生ける女神のような、あの特別な女性の心に訴えるものを持てたことは、やはり嬉しい。

(キリストよりも古い時代から生きていたという偉大なヴァンパイアなのに、あの方は、僕のような取るに足りない者にでも優しく微笑みかけてくださる…あの方の傍にいると胸が温かくなり、心が癒されるような気がする…自分の居場所などどこにもないと感じて生きてきた僕だけれど、ブリジットがいる、この場所にならば…ずっといたいと思える…)

 サンティーノはリュートを持ち上げ、構えると、その弦に触れた。目を閉じて、長い銀の髪を持つほっそりとした女性のほの白く輝くような姿を瞼の裏に描いた。

(今夜は、貴女のためだけに曲を奏でることにしよう。他の聴衆のことは心からしめだして、貴女だけを見つめていれば、気持ちが落ち着いて、僕のリュートの音色も滑らかに流れそうだ)

 今宵演奏する予定の曲が頭の中に響きだす。サンティーノは目を瞑ったまま、リズムを小さく口ずさみ、しばらく指先でリュートの弦を軽く弾いていた。ふいに、指先が勝手に動いてしまい、美しい音色が泉のごとく流れ出した。

「あっ」

 サンティーノは、夢から覚めたようにはっとして、手を止めた。カーテンの向こうをそっと窺った。さっきの音は外に漏れてしまったに違いない。

 できれば誰も聞きとがめないでいて欲しかったのだが、サンティーノの願いに反して、カーテンの外では誰かが足を止めていた。

 サンティーノがじっと息を殺していると、重たげなカーテンが微かに揺らいで、その間から、1人の男が部屋に入ってきた。

 その姿を見た途端、サンティーノの心臓が、胸の中でぎゅっと縮んだ。

(レギオン…)

 ついさっき、敵意と好奇心、賛嘆と意地の悪いあら探しのこもった視線を浴びながら、少しもひるむことなく、むしろそれらを楽しむように堂々と踊っていた若者だ。ダンスにはもう飽きてやめてしまったのだろうか。ならば、ダンス中に知り合った可愛い娘や彼に興味津々な世慣れた美女達とでも一緒にいればいいものを。演奏前の一時、心を落ち着けるため、1人きりでいたかったサンティーノは、こんなふうに見つけられたことに、何とも居心地が悪かった。

 しかし、レギオンが、そんなサンティーノの気持ちに気づくはずもない。薄暗い部屋の中で1人、リュートを抱えたまま固まっているサンティーノを見つけて、彼は少し驚いたように瞬きした。

 遠目で見た時は、もっと大人びて見えたレギオンだが、本当はかなり若いのではないだろうか。確かに背は高く、体つきも逞しい大人のそれだが、まだ傷ついたことのない澄んだ瞳の輝きや無邪気な表情が、彼の若さを雄弁に語っていた。それにしても、何と豪奢な髪だろう。純度の高い金糸が波打ち流れる滝のように肩に零れかかり光を放って、暗くしてあるはずの部屋の中が、少し明るくなったような気さえする。

 レギオンは、サンティーノの顔とその腕のリュートを見比べたかと思うと、親しげに笑いかけた。

「やあ」

 暗さなど微塵もない輝く瞳が、鮮やかな新緑の色をしていることに、サンティーノは初めて気づいた。

 レギオンは、そのまま臆することなくサンティーノの傍にやってくると、彼の前の椅子にどさりと腰を下ろした。

「続けろよ、さっきの曲」

「え?」

「さっき、何か弾きかけて、すぐにやめただろう? どうしてだ?」

 先程小耳に挟んだレギオンの評判は芳しいものではなかったが、屈託のない笑顔は世間ずれしていない初心な少年のようで、つい釣り込まれて、サンティーノも微笑み返した。

「こんな所で本格的に演奏を始めたら、君みたいに、誰かがここを覗き込んだり曲を聞きにやってきたりで落ち着かないからね。僕は、この宴席で、後で演奏することになっているんだが、そのために、ここで1人、気持ちを静めようとしていたんだよ」

「気持ちを静める?」

 率直に問い返すレギオンに、サンティーノは少し口ごもった。

「その…つまり、僕は苦手なんだ…人前で演奏なんて、注目を集める行為は…緊張すると言ったらいいのかな…」

 すると、レギオンは、さっぱり意味が分からないというような、しかめ面をした。

「それは、自分の腕前に自信が持てないからか? ならば、無理をして演奏などしなければいいだろう。自分を上手いと思ってもいない奏者の演奏など、誰も聞きたいものか。弾きたくないのなら、やめてしまえ」

 サンティーノは、少しむっとした。本当は、リュートに関してだけは、それなりに自信もプライドもあるのだ。

「僕のリュートを所望されたのはブリジット様だ。少なくとも、彼女は僕の演奏をとても愛されているし、女神の楽師に相応しい技量は、僕も備えているつもりだよ」

 すると生意気そうなレギオンの表情が、ころりと変わった。

「へえ…」

 大きな目を見開き、感心したようにしげしげとサンティーノを見つめると、レギオンは、何を思いついたのか、彼が腕に抱いたリュートに手を伸ばした。

 とっさに、サンティーノは、レギオンの手から逃げるようにリュートを持ちかえた。

「悪戯しないでくれ」

 レギオンは、不平そうに唇を歪めた。何か言いたげに口を開きかけたが、気を変えたようだ。子供じみていると、自分でも気がついたのかもしれない。

「私は…レギオンだ。ベネツィアから来た。君は?」

 思い出したように自己紹介などするレギオンに、ふと気持ちを和らげながら、サンティーノは返した。

「僕は、ナポリのサンティーノ」

 サンティーノが名乗ったことを自分に気を許した証とでも取ったのか、レギオンは、ぐいっと身を乗り出し、矢継ぎ早に質問し始めた。

「君は、何歳だ? ナポリの出身だと言ったが、私はまだ南イタリアには行ったことがない。どんな場所だ? そこには、何人くらいの同族がいる? 君は、ここに来て、もうどのくらいになる?」

 サンティーノはしばし黙り込んだ後、用心深く問い返した。

「そう言う君は、いくつになるんだい? 人に質問をする時は、自分のことを先に話すものだよ」

 レギオンは、一瞬躊躇った後、ポツリと答えた。

「18…」

「そうかい、なら、僕より八つも年下という訳だ。僕は、この宮廷を訪れて、もう、かれこれ9年にもなるよ。これほど長くここに留まる者も珍しいけれど、僕にとっては、ここは故郷よりも落ち着く、自分の家のように思える場所だからね」

 レギオンは何やら不満げな顔になって、サンティーノをじっと見つめた。年下扱いされたことが引っかかったのだろうか。

「私は…壁を通り抜ける技も習得したし、空中に浮かぶことも、鳥のように自在に飛ぶこともできる…それほど長い距離の飛行は試したことはないけれど…」

「ああ、なかなか優秀なんだね、君は。ここに来たばかりの若い子達で、まだそこまでヴァンパイアの能力を使いこなせている者も珍しいんじゃないかな」

「君は、何ができる? リュートが上手いというようなことではなく、君のヴァンパイアとしての特技は、何だ?」

 自分とサンティーノは、年齢はともかく、能力的にどちらが上か気になるのか。本当に自意識の塊のような子だなと呆れながらも、サンティーノは辛抱強く答えた。

「そうだね…君が言ったようなことは一応できるよ…空中飛行はあまり好きではないが…特技ならば1つ、そう、僕にはこんなことができる」

 サンティーノは素早く手を伸ばして、レギオンの輝く頭の上に載せた。

「君の頭の中に忍び込んで、そこをいじるんだ。気を抜いたら、君は僕に心の秘密をすべて読み取られ、記憶を変えられてしまうかもしれないよ?」

 レギオンは、サンティーノの手を振り払った。動揺のあまり瞳を揺らしているレギオンを見て、サンティーノは猫のように喉の奥で笑った。

「君の意志が強ければ、大丈夫だよ、レギオン」

「そ…そういう力を持った同族のことは聞いたことがなかったから…」

「僕らは同じ一族だけれど、その力には若干の違いがあるんだよ。僕の母も同じ力を持っていたが、彼女は、かつてトルコ軍から逃れるようにしてギリシャを離れイタリアに渡ってきた。かの地に根付いた血統に特有の力かもしれないね」

 サンティーノの話はレギオンには初耳であったのか、彼は、感じ入ったように、じっと考え込んでいる。

「君の噂は色々と聞いている」

 サンティーノは、もともと無口な方だが、レギオンを見ていると、つい何か声をかけずにいられない気分にさせられた。

「来て早々、師と大喧嘩をしたそうじゃないか。よくない態度だよ。長い時を生きてきた年長の同族には敬意を払わなければ。実際、何が気に入らなくて、師のもとから出て行ったりしたんだい?」

「つまらなかったからだ」

 やんちゃな小僧のようにレギオンは答えた。

「つまるとかつまらないという問題ではないよ。一体、君は何のためにわざわざベネツィアからここまで来たんだい? ここで学んだことを生かして、一流の狩人、堕ちた神の末裔と呼ばれるにふさわしい、一人前のヴァンパイアになるためじゃないのかい?」

 柄にもなく、つい説教じみたことを言っている自分に少し唖然となりながら、サンティーノはレギオンに向かって、年上らしく、たしなめるような手振りをした。

 途端に、レギオンの顔がさっと紅潮した。見開いた緑の双眸が鮮やかに燃え上がった。

「教えとやらが、本当に私のためになるものならば、喜んで受け入れるとも。だが、実際は期待はずれだったというだけのことだ。今更おさらいするまでもない、分かりきった心得だの作法だの、理由の分からない決まりだの、私がどうして我慢して聞かなければならない? 私が学びたいのは、長い時を経てきた同族の生きた経験であり、教訓だ。老人が自分の偉さを自己満足できるような、もったいぶった黴臭い訓示じゃない」

 サンティーノは一瞬、言葉を失った。世間知らずの生意気な少年が粋がっているだけだと思いながらも、サンティーノが決して言えないようなことを迷いもせずに言ってのける大胆さに圧倒された。

「私は、自分が何を必要としているか必要としないか自分で判断できる。誰かについて学ぶなら、その相手は自分で選びたい。ただ、それだけのことだ」

 傲慢に言い放った後、しばらくサンティーノを睨みつけていたレギオンだが、ふいに、思いついたように言った。

「この舞踏会の間、ずっと気になっていたんだが…5人の最長老とやらは、一体、いつ現れるんだ? 私は、結構楽しみにしていたんだが…伝説の時代から生きているヴァンパイアとは、どんなふうなのか…だが、ここに来て1月以上になるのにまだ一度も実物を見たことがない。この懇親舞踏会なら、もしかしたらと期待していたんだが、玉座はずっと空席のままだ…」

「最長老達に興味があるのかい?」

 何やら嫌な予感がし始めたが、サンティーノは、まさかと思っていた。

「ああ。1000年以上の時間を越えて生きてきたヴァンパイアが、どんな怪物なのか、この目で見たい」

 一瞬、サンティーノは、この信じられない暴言が外に漏れて誰かに聞きとがめられないかと焦った。

「最長老達は…めったに人前に姿を現すことはないんだ。最初の時代には7人存在していたのが、2人は去り、今は5人残っているということくらいは知っているだろう? でも、予知の力を持つとされる巫女アリアンは、ここ数十年眠ったままだというし、マハとフロリアンは、誰も知らぬ間に旅に出ては戻ってくるということを繰り返していて、今ここにいるのかいないのかも分からない。一番若いハイペリオンは、宮廷の実務を取り仕切る長老会議に加わるなど活動的だけれど、それでも、彼らの存在は、ほとんど象徴的なものになっていて、それは人間にとっての神のような存在に近い…神は、そうしたいと思えば、僕達の前に姿を見せたり奇跡を起こしたりするかもしれないけれど、誰も、彼らにそうするよう強いることはできないんだよ」

 レギオンは、ふんと鼻を鳴らした。

「神だなんて大げさだな。私達だって、1000年生きれば、彼らに追いつく」

「レギオン…」

「しかし、つまり…いつ会えるか分からない最長老だが、少なくとも今夜は、そのうちの1人は、ここに現れる可能性が高いということだな」

「え?」

「君が言ったんじゃないか。ブリジットは、君のリュートを聴きたがっているんだろう? ならば、そろそろ現れてもおかしくないな。よし…決めたぞ」

 サンティーノは、この暴れん坊が何をする気か、本気で心配になってきた。

「い、一体何を…する気だ、レギオン。ブリジット様がここに現れたら、それで、どう…?」

「だって、これは舞踏会なんだぞ、サンティーノ。決まっているさ、ダンスを申し込むんだ」 

 サンティーノは息を飲んだ。

「ば、馬鹿…何てことを言い出すんだ。ブリジット様にダンスをなんて、君のような新米が…そんなこと、許されないよ…大体、ブリジット様が誰かと踊られることなんか、ずっとなかったし…」

「いくら年を重ねているからと言って、人間の老婆じゃあるまいし、踊れないという訳ではないだろう? 月光を浴びた百合のように美しいと聞いているぞ。ここにいる同族の男達は皆腰抜けのようだから、ただ単に誰も誘ってみたことがないというだけじゃないのか? 神だとか言って恐れおののき、自分から近づこうとする勇気がなかったんだ。私は違うからな。そうとも、私を陰で散々ののしっている臆病者どもを出し抜いて、奴らの前で女神と踊ってやるんだ」

「レギオン、君は…他の同族の男達を見返すためにブリジット様にダンスを申し込もうという気か…? いい加減にしろ! 図体はでかくてもやっぱり頭の中はまだ子供だな。そんな勝手な理由でブリジット様に近づくな。大体、彼女が君なんかを相手にするものか。皆の前で大恥をかくのは君だよ、レギオン」

 かっとなったサンティーノの言葉は、余計にレギオンを挑戦的な気持ちにさせたようだ。彼は、荒々しく椅子から立ち上がった。

「生憎、行動に移す前からあきらめるなんて、私の性には合わないんだ。君には、分からないだろうさ。女神に愛されるだけの才能を持ちながら、人目を避けるように、こんな所で1人引きこもることしかできない意気地なしには」

 温和なサンティーノも、この挑発には激怒した。勢いよく椅子から立ち上がると、レギオンと正面からにらみ合った。

 レギオンの鮮やかに燃える緑色の瞳とサンティーノのけぶるような銀灰色の瞳が重なり合い、互いを押し返そうとするかのような激しい火花を散らした。

 その時、カーテンの向こうのホールから、わっというような歓声が押し寄せてきた。

 サンティーノもレギオンも瞬間びくっと身を震わせ、ほとんど同時にそちらを振り返った。

「どうやら、『神』のご降臨のようだな」

 嘲るように呟くレギオンの声。しかし、そこに含まれた微かな震えを、惑いを、サンティーノは敏感に感じ取った。

「レギオン、無茶はするものじゃないよ。君が優れているということは、そのうちに皆気づいて、認めるようになるだろう。焦ることなんか、何もないんだよ」

 思わず、サンティーノは引き止めるようにレギオンの腕をつかんだ。すると、レギオンは、意外そうにサンティーノを振り返った。サンティーノはよほど心配そうな顔をしていたのか、レギオンは、怒りをみなぎらせていたのが一転、屈託のない笑顔になった。

「駄目だよ、サンティーノ。待つことなんて、私にはできないんだ」

 レギオンは、ほとんど優しいと言っていい仕草でサンティーノの手を袖から離すと、緋色の衣の裾を鮮やかに翻し、カーテンの向こうに歩き去った。

「あの馬鹿…どんなことになっても、僕は知らないぞ…!」 

 ヴァンパイアは誇り高く、嫉妬深い。レギオンのような態度は、年長者達には決して認められないだろう。

 明るいホールへと戻っていったレギオンを呆然と見送った後、サンティーノはどさりと椅子に腰を下ろし、頭を抱え込んだ。

(そうだ、僕はあんなに親切に忠告までしてやったのに、それを無視したあいつが悪いんだ。もう、僕は知らない。悪い噂は聞いていたが、あそこまでひどい奴だとは思ってなかった。あんな奴に、これ以上関わるのは、ごめんだとも)

 それから、椅子の下に転がっていたリュートを思い出したように拾い上げ、胸に抱きしめた。演奏前にここで心を静めるはずが、余計に取り乱すことになってしまった。

 今からでも遅くはないから、1人で静かに過ごして、演奏する予定の曲を頭の中でイメージしながら、心の平静を取り戻すよう努めよう。 

 しかし、目を閉じるとレギオンの燃えるような瞳と翻ったまばゆい金色の髪の面影がちらついて、サンティーノの惑いは余計に深くなるばかりだった。

(もう…一体、何だって僕が…!)

 サンティーノは、ついに堪えきれなくなったように椅子から立ち上がると、人のざわめきが聞こえてくるホールへ向かった。

 控え室から出て行くと、丁度次のダンスが始まったようで、風にそよぐ花々のように、美しく着飾った美貌の血族達が先程とは違ってどこか落ちつかなげに頭を揺らしている。そして、このホールの一段高い所にある玉座には、やはり、彼らヴァンパイアの神々が座していた。

(ブリジット様…ハイペリオン様も一緒なんだ)

 大昔、未開のブリテン島でケルト人の女神であったという最も古い血を誇る女ヴァンパイア、ブリジットは、外見上はうら若い乙女のようだ。白鳥のようにほっそりとした首にしなやかな腕。美しい銀髪は綺麗に結い上げられ、紫水晶の髪留めで飾られている。そして、彼女の隣には、ハイペリオン。どこかの国の王と言っても通りそうな堂々たる物腰の美丈夫は、目の前でダンスに興じる血族達を眺めながら、ふと何か気を引かれるものを見つけたように、ブリジットの方に頭を傾け、微笑みながら語りかけている。話に耳を傾けているうちにブリジットの真珠色をした頬に愛らしいえくぼができたが、何を話しているかまでは、ヴァンパイアの聴力をもってしても、サンティーノには分からなかった。

 それにしても、やはり他の最長老は、今夜も出席しないようだ。このヴィラの最奥で、聖像と化したかのように眠り続けているアリアンはともかく、他の2人は今どこで何をしているのだろう。フロリアンを最後に見たのは、もうかれこれ1年前。ブリジットの姉マハについては、半年ほど前にサンティーノがブリジットの傍に侍っている時に姿を見かけたことがある。しかし、放浪癖のある2人の行方は誰にもつかめない。

(そうだ、レギオンはどこに…)

 サンティーノは、大胆な捨て台詞を残してホールに戻っていった若者を探して、人波をかき分け、ダンスに興じる一団が見えるところまでいった。

(ああ、やっぱり…)

 若い娘ではなく今度はやや年かさのろうたけた美女をパートナーとして、先程よりも一層熱のこもった見事なダンスを踊るレギオンの姿は、すぐに見つけられた。彼のことを毛嫌いする血族達も、彼が、今ここで踊っている他のヴァンパイア達の誰よりも華麗で、美しく、そして巧みな舞いをすることは認めないわけにはいかないだろう。感嘆の溜め息をもらし、彼のパートナーに嫉妬を覚えた女達の数は少なくないはずだ。それでも、レギオンの動きは、どこか不自然だった。

 彼は、一緒に踊るパートナーのことなど、ほとんど意識にないようで、顔を見ようともせず、しばしば挑発するような大胆な仕草を示した。まるで何かを誘いかけているかのようだと、次第に気づいた者も出てきたようだ。そして、その不敵な視線がしきりに向かう、その先にいる者が誰なのかを悟った時、非難のざわめきか密やかな地鳴りのように沸きあがった。

(あいつ、ブリジット様に誘いをかけているのか…!)

 この大勢が見守る前でよくもそんな不敬なことができるものだと、怒るのを通り越してあきれ果てながら、サンティーノは、レギオンの挑発的な身のこなし、誘惑的な眼差しに、つい引き付けられてしまっていた。

 ここに来いと輝く緑色の瞳が誘う。くるりと回る度に大きく翻る緋の衣と金の髪、何かをつかもうとするようにかざされる手の動きが、胸に迫ってくる。抗いがたいほどの魅力で誘いかける。

 私のもとに来い!

 ブリジットは、おそらく、この大胆な誘いにとっくに気づいているのだろう。もしかしたら、先程ハイペリオンとささやき交わしていたのは、そのことについてだったのかもしれない。

 微笑をうかべ、軽く小首をかしげるようにしながら、ダンスに興じる者らを眺めているブリジットの顔からは、しかし、レギオンの挑発をどう受け取っているか読み解く手がかりは見つけられなかった。  

「おい、誰か、あの無礼な小僧をここからつまみ出せ!」

 苛立たしげな声が後ろの方で叫ぶのに、サンティーノは我に返った。

 ついに男達の我慢の限界が来たらしい。サンティーノが後ろを振り返って思わず制止の声をあげかけた時、新たなどよめきが起こった。

「おい、ブリジット様とハイペリオン様が、ダンスに加わるぞ」

 サンティーノはぎょっとなって、そちらに視線を戻した。見ると、本当に、玉座から2人のヴァンパイアが立ち上がり、互いの手を取って、泰然とホールに下りてくるところだった。

「最長老様達がダンスを…!」

 予想外の展開に、仰天した舞い手達は、ダンスを忘れて立ち止まってしまった。一瞬、曲も止まったが、ハイペリオンが落ち着き払った態度で演奏を続けるよう手振りで示すのに、再び舞曲が始まった。

「これはまた、久しぶりにすごい見ものだな!」

 地上に舞い降りた神々のように超然として美しいカップルが踊り始めるや、険悪なものになりかけた舞踏会の雰囲気が変わった。レギオンの不敬な態度に対する怒りなど、ブリジットとハイペリオンが踊る様子の前に、忘れ去られたようだ。

 サンティーノは胸を撫で下ろしつつ、レギオンの方に視線を戻した。すると、レギオンは悔しくてたまらないといった気持ちを隠しもせずに、少し離れた場所でくるくると回っている2人の最長老を目で追っていた。彼の腕に抱かれたパートナーにとっては、全く気の毒なことだった。レギオンの目当てが誰なのか悟ったらしい美しい女は、怒りと屈辱に頬を染めて、レギオンに振り回されるがままになっている。

(あいつ、これで、女達からの支持も失ったな)

 深い溜め息をつきつつ、サンティーノは周囲を見渡した。それでもレギオンに対する一触即発の敵意が霧散したのは、2人の最長老のおかげと言えそうだ。

 やっと気持ちの余裕を取り戻して、サンティーノが、確かにめったに見られるものではない舞踏会の様子を楽しめるようになった時、曲が終わった。

 すると、このまま2人で踊り続けるのではないかと思われた最長老達は、にこやかに微笑を交わして互いから離れた。そして、まずハイペリオンが、一番近い場所に佇んでいた、見るからにこれがデビューというような初々しい女の子に優雅に手を差し出した。

 えっと思ったのはサンティーノだけではないはずだ。彼らのダンスだけでも珍しいのに、他の血族と、それも一番格下の地方から出てきたばかりの若いヴァンパイアをパートナーに選ぶなどと、前代未聞の珍事だった。最長老達は、今夜は皆を驚かせようという妙な悪戯っ気を出しているかのようだ。

 ハイペリオンが緊張のあまり顔も上げられない女の子を優しくなだめている時、ブリジットも動いた。彼女が湖面を滑る白鳥のように優雅な足取りで進むと、近くにいた若い男の子達は圧倒されたように後退りする。まるで海が真っ二つに裂けたかのように、人波は2つに分かれてブリジットを通した。そして、ブリジットが進む、その先に、1人の若者が立ちはだかるように佇んでいた。

(レギオン…)

 レギオンは気後れすることもなく、傲然と胸を張り、そこでブリジットを待ち受けていた。しかし、よく注意して見れば、彼の双眸が微かな動揺をたたえていることが、滑らかな頬が紅潮していることが分かったろう。

 ブリジットはまっすぐにレギオンに向かい、その前で足を止めた。瞬間、レギオンの体が小さく震えた。

「さあ」

 ブリジットは、幼子に優しく問いかける慈母のごとく首をかしげた。

「私は、ここに来ましたよ…?」

 一瞬消えかけた激しい光が、レギオンの瞳の中に戻った。

 レギオンは負けるものかというように典雅に微笑み、そうして完璧な身のこなしでお辞儀をした。

「最も古き血のブリジット。どうか、私と一曲踊っていただけませんか?」

 ブリジットが差し出した乳のように白く滑らかな手を、レギオンが恭しく取った。新しい曲がホールに流れ出し、それに乗って、2人はダンスの中心へと滑り出て行った。 

(嘘…)

 今夜は一体どうしたことだろう。目の前で信じがたい出来事が次々に起こっている。本当に、宣言どおり、ブリジットとダンスを踊ることに成功したレギオンの誇らしげな姿を、サンティーノはぽかんと眺めていた。

 最初は、衝撃のあまり、踊る2人をただ見守ることしかできなかった他の男達も、頭が働くようになるや、悔しげに舌打ちしたり、苦々しげに吐き捨てたりして、再びレギオンに対する敵意を燃やしだした。出し抜かれたと思っているのだろう。しかし、ブリジットにダンスを申し込むことなど考え付きもせず、その勇気もなかったのは、彼ら自身なのだ。

 最初は女神を前に怯んだようにも見えたレギオンだが、今は全く、そんなことはなかった。羽根でもまとっているかのような優雅な足運びで踊るブリジットに遅れをとることもなく、対等なパートナーとして滑らかにリードしていた。年齢差と経験不足を、持ち前の度胸と、これはもう天才的と言うしかない舞台強さで埋め合わせ、ブリジットと比較しても、彼が見劣りするということは全くなかった。それどころか、実際、2人が踊る姿は、一幅の絵画のような見事な眺めで、複雑な思いで見守っている観衆や他の舞い手がつい見とれてしまうほどだった。レギオンは自分を際立たせるだけでなく、パートナーを美しく見せる術にも長けていた。寄り添いあったかと思えばぱっと離れる、蝶のようにひらひらと舞うブリジットとそれを受け止めるレギオンは、動きの全てが一対の美しい調和を作り出しているのだった。

「美しいことだけは確かに認めざるをえませんわね。月のようだと評されるブリジット様と並べてみれば、あの若者はさながら太陽というところでしょう。けれど、少々眩しすぎて、目に障りますこと」

 棘を含んだ低い声で、そう囁く女がいる。

 最初の曲が終わっても、2人が離れることはなかった。2曲、3曲と続けるうちにどんどん興が乗ってきたのか、その動きは次第に早く、ステップも複雑なものに変化していく。

 ハイペリオンは、とっくにダンスをやめて玉座に戻り、依然として踊り続けているブリジットとレギオンを興味深げに眺めている。

 太陽と月。

 レギオンは夢中でブリジットの瞳を追い、ブリジットも瞳を逸らさなかった。互いの存在にのめりこみ、共に作り出す舞いに酔いしれて、その動きは今やほとんど人間にできる踊りの域を超えていた。彼らの足先は、もしかしたら、しまいには床から少し浮き上がっていたかもしれない。

 彼らに合わせて曲を奏でている楽団も必死だ。いつの間にか曲自体、この超越した舞い手に引きずられるように早く複雑なものに変化していた。

 しかし、どうやらついていけなくなったらしい。リュートとヴィオラとフルートからなる奏者達の中には ヴァンパイアもいたが、人間であるリュート奏者は既に思うように指が動かなくなっており、音の遅れと乱れが目立ってきた。

 サンティーノは、ホールの中央で陶然となって踊り続ける二人を見、それから彼らを憤りと感嘆の入り混じった複雑な表情で見守る観衆を見渡し、それから壁際で必死に演奏を続ける楽団を見た。

 サンティーノは、また1つ、深い溜め息をついた。

(一体、僕は何をやっているのだろう…)

 意を決したように、サンティーノは愛用のリュートを手に奏者達に向かって歩いていった。そして、息も絶え絶え、額に汗を浮かべてリュートと格闘している奏者の肩にそっと手を置いた。

「そこまでで、いいよ。僕が代わろう」

 憔悴しきった奏者の代わりに椅子に座るや、サンティーノは愛用のリュートを構えた。ボローニャの名工房で作られたリュートは、ごく軽く薄い糸杉材が使われおり、繊細で微妙な音色を響かせる。サンティーノは、調律された9本の弦の上をいとおしむように指の腹で撫でた。深呼吸をした。

 サンティーノは、天空を舞う神々のように軽やかに踊るレギオンとブリジットを見やった。そして、最初の旋律を優雅にかき鳴らすと、フルートとヴィオラが懸命に演奏を続ける軽快な舞曲の中に滑り込んでいった。

 ヴァンパイアは、耳がいい。

 それまでは平凡であった楽曲がふいに深みを増したことに気づいて、ダンスから楽団の方に視線を移し、ひそひそと囁きかわしだした。 

(あれを見ろ、サンティーノだぞ)

(まあ、おとなしいあの人が、自分から進んで楽団に加わるなんて珍しいこと。でも…本当に、いつ聞いても素晴らしい腕前ね)

 リュートに関しては宮廷一とされるサンティーノだが、内気な性格のため人前での演奏は苦手とし、演奏を頼まれることを恐れるあまり、大掛かりな宴席などはいつも逃げ回っていた。今夜にしても、ブリジットの願いということで、断りきれずに出席しただけで、その彼が、頼みもされない、こんなダンスの伴奏など自分から買ってするというのは、彼らしくない不思議な行動であった。

 珍しげな顔をして楽団の方にぞろぞろと近づいてくる集団に、サンティーノは心の中で悲鳴をあげたが、今更、演奏をやめるわけにはいかなかった。

 サンティーノのリュートという、名人技にふさわしい音楽を得て、レギオンとブリジットは、ますます生き生きと華麗に踊った。淡い紫のドレスの裾を花びらのように広げてくるりと回るブリジットの顔には、いつの間にか満開の笑みが咲き零れ、滑らかな頬は紅潮し、美しい瞳はきらきらと輝いていた。それに負けないほど、レギオンの若々しい顔も喜びと興奮に燃え上がっている。2人は、目にもとまらぬほどの複雑で早いステップを踏みながら、楽しげな笑い声をあげた。

 こんなにも高揚したブリジットを見たことのある者は、この会場の中には1人もいなかったのではないだろうか。

 サンティーノは演奏の最中もしばしば顔を上げて、踊り続ける2人を眺めた。

 太陽と月。

 眩い光を放つカップルにどうしても視線が吸い寄せられ、いつまでも見ていたいような気持ちにさせられた。

 レギオンは、今夜のこの一件で、宮廷の者すべてに忘れようにも忘れられない強烈な印象を与えただろう。敵は大勢作ったが、それでも、ある意味快挙だった。今まで誰もしようとしなかったことを、思いつきもしなかったことを、若さゆえの大胆さで、レギオンは、あっさりやってのけたのだ。

 ようやく長いダンスを終え、ブリジットに対して優美にお辞儀をして離れた時のレギオンは、実に得意げだった。冷たく余所余所しい態度で彼を遠巻きにしている同族達など、彼にとっては問題ではなかったろう。今夜の勝者は、誰が何と言おうと、間違いなくレギオンなのだ。

 レギオンは、玉座に戻ってハイペリオンと親しげに話しているブリジットを一瞬、仰ぎ見た。微かな憧憬が、その端正な顔に過ぎって、すぐに消えた。

「サンティーノ!」

 レギオンは喜色満面サンティーノを振り返ると、大声で名を呼んだ。何事かと、周りにいた者が振り向く。

 恥ずかしくなって、サンティーノはそそくさと逃げようとしたが、大股で近づいてきたレギオンが、その腕をしっかり捕まえた。

「さっきは、失礼なことを言って、すまなかった。君の演奏なんか、実は大したことないに違いないと疑っていたんだが、それも許してくれ。本当に、素晴らしかったよ、君のリュートは。おかげで、踊るのがますます楽しくなって…あんなに気持ちのいいダンスをしたことなんて、初めてだったかもしれない。ありがとう」

 サンティーノは、正直言って、これ以上レギオンに関わりたくはなかったのだが、美しい顔に輝くような無邪気な笑みをたたえているレギオンを見ていると、つい逃げられなくなった。

「そうだ、今度は、君の独奏を聞きたいな」

 レギオンは、はたと思いついたように手を打った。

「もともと、そのつもりだったんだろう? さあさあ、何か弾いてくれよ」

 そうして椅子から立ち上がりかけたサンティーノを押し戻して再び座らせると、気まぐれにまつわりついて甘えてくる猫さながら、その足元に腰を下ろし、ねだるように彼を見上げた。

「レギオン…」

 当惑するサンティーノに片目を瞑って見せると、レギオンは、サンティーノが演奏すると聞いて、近寄りたそうにしていた若い女の子達の方に、にこやかに手を振った。

「おい、君達も、よかったら、ここに来いよ。このオルフェウスは優しくて気前がいいから、可愛い君達が頼めば、どんな曲でも演奏してくれると思うよ」

 はしゃいだ笑い声をたてて群がってくる娘達を、サンティーノは頬を引きつらせつつ呆然と眺めた。それから、傍らにうずくまるレギオンの罪のなさそうな笑顔を、途方に暮れたように見下ろした。

 大きな溜め息が、またサンティーノの唇から漏れた。

(全く、こんな奴に関わるんじゃなかった)

 そうして、もうやけっぱちのサンティーノの演奏が、再びホールに美しく流れ出した。そこに集う貴人達は皆それに聞きほれ、なんだかんだと言って結局は大いに盛り上がった懇親舞踏会の夜は更けていくのだった。


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