天使の血


プロローグ


 サン・カルロ劇場は今夜も素晴らしく込み合っている。当代一と評されるカストラート、パッキエロッティの歌を聞こうとナポリ中から押し寄せたきらびやかな紳士淑女、聖職者、貧しい人々、外国からの旅行者達でびっしりと埋め尽くされ、その熱気で暑いほどだ。

 パッキエロッティの歌は、僕も、この劇場で何度も聞いてきた。容姿にはあまり恵まれないが、その美しいソプラノと優しく温かみのある歌い方、趣味とセンスの良さは、僕も気に入っている。この劇場で、あるいはそれ以前にオペラの舞台として使われていたサン・バルトロメオ劇場で、僕がこの100年もの間に歌を聞いた、数多くのカストラート達の中でも傑出した1人だと言えるだろう。

 しかし、今夜僕の胸を占めている期待感は、この偉大な芸術家に対してのものではなかった。

 ざわめきに満たされたボックス席の1つに陣取りながら、僕は横目でちらりと隣の空いた席を眺めやる。

 待ち人は、いまだ来たらず。

 そろそろ舞台の幕が上がる頃だというのに、全く何をしているのだろう。またしても僕との約束を踏み倒す気か。久しぶりの再会を求めてきておいて、やはり気が変わったと現れないつもりか。ふと溜め息を漏らしたが、彼に待たされるのは考えてみればいつものことだ。出会ってから300年、あの気まぐれな男とどんなふうに付き合っていけばよいかは誰よりも心得ているつもりだ。

「サンティーノ!」

 甲高い女の声に名を呼ばれて、ふと物思いから覚めた僕は、下の二階桟敷席を見下ろした。顔見知りである数人の貴族の女達が、僕に向けて手を振っていた。僕は、にこやかに笑いながら軽くお辞儀をして返した。そのうちの1人が、後で僕のいるボックス席に行ってよいかというような手振りしてみせたが、僕は控えめな仕草で断った。いつもは好意を見せてくれる女性には優しく接する僕だが、今夜だけは勘弁して欲しい。古い友人とのせっかくの再会を、誰にも邪魔されたくない。

 オーケストラボックスに目をやると、おりしも演奏家達が出てくるところだった。続いてオペラの作曲家が現れ、客席に向かってお辞儀をするとハープシコードに向かっていった。

 照明が落ちた。客席の騒がしさはまだおさまらない。その騒音の中で、僕は、このボックス席の扉が開かれ、案内係に導かれて誰かが入ってくる気配を感じ取った。ボックス席の扉は再び閉ざされ、そして、僕は、開演にぎりぎり間に合った客がこちらに近づいてくるのを待ち受けた。

 オーケストラが意気揚々たるテーマ曲を演奏し始めた。それとともに騒音も野次も一瞬かき消えた。

 僕は、顎に指を添えるようにして、舞台に集中している素振りを装い、顔を上げようとはしなかった。すると、彼は滑るような身のこなしで僕の傍に来た。

 彼は、一瞬、するすると幕が上がっていく舞台の方に気を引かれたようだが、すぐに僕に注意を戻した。僕の肩を彼の手が触れた。

「待たせて、すまなかった」

 深く甘い響きを帯びた声にこもる親しみに、僕の胸は不覚にも熱くなった。

 僕は顔を上げた。すると、懐かしい友の顔が、300年前のローマでの出会いから少しも変わっていない美しい顔が、愛情のこもった笑みを僕に投げかけていた。舞台からの照明を受けて、この薄暗がりでも輝くような豪奢な金髪も、燃えるような若葉の色をした瞳も、何かも同じ、僕の―

「レギオン」

 僕は、レギオンに向けて微笑み返した。僕の瞳に溢れる千の言葉を読み取ったかのように、レギオンの微笑みも深くなり、彼はそのまま何も語らずに僕の隣の席に身を落ち着けた。

 舞台では、豪華に飾り立てた男女の歌手がオペラの叙唱部であるレチタティーヴォを歌っていた。客席では再びざわめきが起き、紳士淑女はボックス席を行ったり来たりして社交に余念がない。先程僕に挨拶を投げかけた女達が再び僕のいるボックス席の方を見上げて、何やら囁き交わしている。僕の隣にいる男が誰なのか、気になるのだろう。同じような好奇心と賛嘆の眼差しは近くのボックス席からも送られてきた。昔からそうだったが、レギオンが現れると、さながらそこだけ突然明るい陽が差したかのように、人々の視線はどうしても彼に集まってしまうのだ。

 僕もまた、人間達の中に入ると異彩を放つ存在ではある。それが僕達一族の一種魔法じみた力だ。炎の輝きに魅せられ引き寄せられる虫のように、人間達は容易に僕達の虜になる。そして、僕達は、そんな人間達の中から気に入った獲物を選び出し、恋の罠にかけ、そして、殺す。その血を飲む。

 ヴァンパイア。別の名前で呼ばれることもあったが、それが僕達一族を言い表す言葉だ。しかし、僕達は人間達が思うような夜に属する魔物ではなく、陽の光も、教会が示す神の権威も恐れはしない。太古の時代には神ともされた、僕達一族が恐れるものは、唯一、この身の不滅性、時を経るごとに重くなる永遠の時間だけだろう。

 人間達の間に混じり、人間のふりをして生きながら、僕も次第に、この永生に倦むようになっていた。

 かつて親交のあった仲間達は遠くに去り、消息の絶えた者も多い。僕達一族の時代はとっくに去り、この世界は人間達のものだということはもはや認めざるを得ない。人間世界の中のたった一人の異端としての孤独も、僕達が戦わなくてはならない手強い敵だ。

 だが、今夜は、僕の傍らには同じ古い神々の末裔がいて、まるでそれ自体が舞台であるかのように、人間達が織り成す騒がしさを傍観している。

「全く、今夜の野次はひどくないかな。あれでは、若く初々しいプリマドンナが気の毒だ」

「まあね。彼女の声は、確かに伸びがよくないし、弱々しいのは確かだけれど」

 他愛のない言葉をレギオンと交わしながら、僕は意外なほどの喜びを、今この時に感じている自分に気づいて、少し唖然となった。

 やれやれ。これでは、またいつもの通りだ。いい加減少しは気持ちが落ち着いてもいいものだが、レギオンの傍にいると感じる高揚感は昔から変わることがない。

 地上で輝く、もう1つの太陽。かつてレギオンはそう呼ばれていた。あの懐かしい、今はなき僕達のヴァンパイアの宮廷、あの輝かしいローマでの時代―

 レギオンが、今、僕にどんな感情を覚えているかは分からないが、僕に会いにきた理由は何となく察しがついた。たぶん、人間の『恋人』相手の短い恋が終わった後の感傷からだろう。もしかしたら、それは本気の恋に近いものであったのかもしれない。そう、時として、僕達ヴァンパイアも獲物である人間と恋をする。しかし、それは決まって悲恋に終わる。僕達は、結局、どうあっても愛する者の血を飲まずにはいられないのだ。

 わっというような歓声が下の客席からあがった。舞台を見ると、高名なカストラート、パッキロエッティが舞台に現れたところだった。彼の支援者達が口々にその名を呼び、「偉大なる歌手」と叫んだ。しかし、それらの声は、彼が歌い始めるや感嘆の溜め息と化して、消えていった。

 傍らのレギオンまでが微かに息を飲んだのに、僕は、彼を今夜の舞台に招いたことの快挙に、彼を驚かせることに成功したことに微笑みながら、そちらを振り返った。

「どう、素晴らしい歌声じゃないか。この声を永遠に保つためならば、男らしさを切り落とす行為も、今の世では許され認められ、賞賛される。『ナイフよ、永遠なれ』だよ」

 レギオンは、横目でちらりと僕を見た。その緑の瞳が、微かに揺れているように見えたのは、僕の気のせいだろうか。

 レギオンは、何も言わずに、舞台に注意を戻した。そこでは、白粉をぬりたくり着飾った、痩せてひょろ長い男が、前面に進み出、最初のアリアを歌いだした。

 絹のように滑らかで情感のこもった歌いだしに、僕は思わず引き込まれた。その声は高みに向かって、繊細でありながら、力強く登りつめていく。パッキロエッティの声は、一言で言えば音域の広いソプラノなのだが、最高音でさえ豊かで滑らかだった。演奏の力は傑出しているが、その力を余計なところで誇示することはなく、そして、心に触れる表現や精妙なパトスが己の美点であることを熟知していた。彼のトリルはまさに絶品で、上からだろうと下からだろうと、遅かろうと早かろうと、常に伸びやかでむらなく明快だ。

 僕は、隣にいるレギオンの反応が見たくなって、そちらを振り向いた。すると、レギオンは座席の背もたれに体を押し付けるようにして、顎を僅かに引き、目を細めながら、高く舞いあがったかと思えば徐々に下りてくる、人間離れした声にじっと聞き入っていた。僕が見ていることにも気づかないほど、この声に圧倒されているように思えた。

 その姿を見ているうちに、レギオンを捕らえている感傷は、今回はかなり深いものではないのかという気がしてきた。こんなにも心を揺さぶられているレギオンを見ることは、久しくなかった。

 だが、なぜ。何に対して?

 その時、僕は、アリアを歌いきって舞台を退出するパッキロエッティに対する喝采の中から、別の歌が聞こえてくるのを意識していた。

 突然、目の前が開けたような気がした。

 そうだ、思い出した、あの歌だ。あの声を聞いた頃、僕はまだ若く、そして、僕よりも更に若かった、きかん気の少年のようなレギオンが傍にいた。

 遠い昔に失われた天使の声。この世で覚えている者は、僕とレギオンのただ2人だけだろう。

 パッキロエッティの歌が終わっても、レギオンはまだ深い想念の中に沈みこんで、なかなかうかびあがってこようとはしない。その輝かしい頭は、胸の前にそっと組まれた手の上にうつむけられている。

 レギオンの心をここまで揺さぶったのは、パッキロエッティの天才か。それともやはり、彼を深く捕らえていた感傷が、その心をたやすく過去に振り返らせたのか。

「レギオン」

 僕は、ついに堪り兼ねたかのように、レギオンの腕にそっと触れた。すると、彼はびくっと身を震わせ、驚いたように僕を見上げた。

 レギオンの緑の瞳を僕は覗き込んだ。何ということだろう、駆け出しのヴァンパイアだった頃のレギオン、心を隠すことのできなかった少年に戻ったかのような、無防備な瞳がそこにあった。

 そして、僕は、彼の瞳の中に映る僕自身の顔の中に、同じ無防備な表情を見出して、息を飲んだ。

 それなりに時を経た、老練なヴァンパイアが2人揃って、一体どういう魔法だ、これは?

 僕達2人は、見つめあいながら、今、この時、華やかな歌声とざわめきに満たされた劇場にあって、過去から甦った別の歌を聞いていた。

 歌声は、とどめようもなく湧き上がり、徐々に大きな波紋を作って、僕達の体を隅々まで満たした。揺り動かしていた。

 いつしか、僕達は、ここが18世紀のナポリであることを忘れていった。

 ああ、ここは、果たしてどこだったろうか?

 こんな子供のように慄いた表情をした僕達がいた場所、あれは、そう―




 ローマ。



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