9月10日(月)
写真のとおり・・雲が出ている この時期のキリマンジャロは、天気の変化が大きく なかなかきれいに見えないそうだ。
でも 、まあ ブラブラするのもいいかぁ、と ガイドが迎えに来る、まあ ガイドというより その辺の暇な おにいちゃんのバイトという感じだ。

 ダラダラに乗って、山の麓の村に行って その周りをハイキングするって いう感じです、まあ のんびり贅沢に1日を使う感じです(笑)まずは ダラダラの乗り場から すこし離れたところにある、飯屋で 昼ごはんを ランチパックにしてもらいます。
 それと水をもって ダラダラに乗り込みます、ダラダラとは 日本車のハイーエースに、座席をいっぱいつけて、そうですね、30人くらい乗っていく乗り合いワゴンみたいなものです、「ダラダラに 限界はないんだ」って 言葉をよく聞きましたが、要は もういっぱいで 乗れない状態でも、乗客を拾っていくというものです、そして・・・いすに座った者も、窓にぶら下がっている者も 値段は同じです。いやなら 乗らなくていい 歩くべし

 ダラダラは 村の入り口のもうこれ以上 車が入れないところで止まりました、朝の時間 家からは料理の煙が上がり、のんびりした空気が流れます、すこし 物珍しそうに村の人たちが見ています、「ジャンボ」・・・挨拶しながら 歩きます。小道をグルグル回るように 登っていきます、のんびりガイドのBENBOYと歩く、彼はもともと、ビクトリア湖の近くムアンザ出身らしく、ここに仕事のために来た、将来はお金をためて、大学に行き動物のことを勉強して、サファリの事務所で 働きたいと 言っていた。

鉛筆をあげると クンクンした(笑)

 何もない、山道を景色を眺めながら
歩きます。

 行き着いた先は、滝でした、ここタンザニアでは珍しいのかな?まあ日本では よく見る 滝です。でもそこの麓で、ランチにします。滝の音と すこし川下で、丸太の橋の架け代えをしている2人の会話だけが、聞こえます
 ここに来る途中で 地元の人たちに通行料を払って ここまで着ます、このお金は村の収入になるそうです。

 Benboyと いろいろな話をします。
キリマンジャロ登山は、普通の人でも 1週間くらいで 気軽に行けるようです、ただし、入山料やら 環境税やら ガイドをつけなくてはならずガイド量などで、日本円で私の行ったときは、15万くらいかかるそうです、だんだん高くなってきているそうです。
後で知り合った、イギリス人は短パンに 草履で登っていったそうだ(笑) しかし 頂上は氷点下 すごく 寒かったそうです。今回は、費用も時間もなかったので、登山はしませんでした、登ると登頂証明書が もらえます。
 森の様子は、日本のように 針葉樹植林という感じではないのですが、森のにおいとか気温は 日本の山を歩いているようです、すこしひんやりした森で マイナスイオンをいっぱい 浴びてきました。

羊を押さえて、毛を刈っています。ジャンボー

 帰りに、小学校の横を通って、また ダラダラの
着く場所に行きます。

 のんびりのんびり歩いていると、Benboyが「あなたは、ポレポレタイムを 知っているね」
と言っていました。
 「なに?それ」って 聞くと「タンザニアの人は、のんびりゆっくりと 言う事が 口癖で あわてても なにも 変わらないよ 時間をゆっくり過ごしましょ」 みたいな 事だそうです。

どこの国でも 子供は元気いっぱい
押しすぎて 柵が壊れるよぅ

 16時半の最終の ダラダラに乗って モシに帰ります、残念ながら キリマンジャロは雲の中に隠れたままだったけど、昨日すこし勇姿を見れたので、よしとします。
モシの町に帰り、BENBOYを誘って 夕飯にいきます。

町をテクテク歩き、丘の上のほうに行きます「ひょっとしたら 夕方すこし晴れるときがあるんだ、だから 丘の上のレストランに行こう」ということで
レストランに到着、私にとって、すこし高級な感じ、彼は 私が外国人だから 気を使ったんでしょう 「地元の人が 食べるところはないの?」と聞くと、「地元の人は 外では食べないよ」と言われました。確かに、アジアのように外で食べる 屋台はなく お金を使って 外で食べると言う概念がないんだなぁ と感じました。

 そうそう、キリマンジャロと言えば、キリマンジャロコーヒーって 思うでしょ ?
私もそう思って、いたるところで 探したんだけど、ないんだよね それが ネスカフェ オンリーで、それで 宿のおっちゃんに聞いたんだ「豆から作る コーヒーが飲みたいんだけど ない?」って
 そうしたら、「ないね、みんな これだよ」 って インスタントが ボーーンと出てきた、町のなかでも インスタントの瓶とお湯が出てきて、はい どうぞ って 言うところばかりだった・「高い ホテルならあるんじゃないの? アルーシャのような 大きな町なら・・」と言うことで、また、インスタントコーヒーを 飲む毎日だった・・・・・

benboyに 5ドル チップを 渡して 別れる、その足で 旅行会社に行く 今日と明日からのサファリツアーに申し込んだ 会社だ、すこし高かったけれど、ここに決めたのは、ひとつの約束があったからだ「ティンガ ティンガ アーチストの ジャファーリー・アウシ さんという人を 探して おいてくれないか?」と言うことです。
「よし わかった」って言うことで 私が 日本から持ってきた 彼の写真と、名刺を渡しておいたんです。

どうなったのかな?

※  アウシさんとの出会い
タンザニア人の彼とは、2005年 愛知万博で知り合いました、家から20分くらいの場所で 開催されていたのでよく通いました、パスポート券を買って、暑い日は夕方に行って、各国のビールを飲んだり、ぶらぶらしに行っていました。

 6月くらいのころ、アフリカは共同館として いろいろな国が ひとつの大きなパビリオンの中に ブースを作って参加していました。
いつも 机ひとつで 会場の隅で ポツンと 絵を描いている アフリカ人の体の大きな おじさんがいました。
誰も近づかず やさしそうな 目をした動物の絵を描いていました。
 そのうち、話をするようになって、日本の人は彼のティンガ ティンガ と言う絵をあまり知らないようで、それを 日本語で説明して、これは 売り物ですよ って 書いた紙を作って 張ったり 「値段を書いておいたほうが、日本の人には買いやすいよ」とひとつずつ 値段をつけたり すこし手伝いをしたり、夕方になると、彼もタンザニア人 ポレポレタイムになるんです。
二人で 外に ビールを飲みに いったりしていました。
ティンガ ティンガとは 最初に その絵を書いた人の 名前からきています、誇示現場で働いていた、その人は落ちていたベニヤに現場のペンキで 動物の絵を描いて、それを旅行に訪れた 北欧の人に 認められて、絵を描くようになったんです。

そのときは 私も 彼がそんなに有名な人とは 知らなかったんですが 、彼は その最初に書いた人の従兄弟なんです、それで小さいときから絵を描いていたそうです。
でも そんなティンガ ティンガさんは、お酒を飲んで 車を運転していて 警官の制止を知らずに 走っていて 銃で撃たれて 死んだそうです。
大切な画家を、撃ち殺してしまったのです。
だから 今では その人が生きていたら その後 どんな絵を書いていったのか? 残念なところです。
アウシさんは このごろ、タンザニアの様子を描いたもの 病院とか 町の中とかも 描くようになったそうです。

そして 年中アメリカや ヨーロッパで 個展を開いたり、日本も来ています。 田中元長野知事や石原東京都知事が お客さんだとか・・・・・

ただ その時の私の印象は 大きな体を丸めて、丁寧に動物を書いている、おじさん程度でした。
 その寡黙なおじさんは 私の顔を見ると とてもうれしそうな顔をするようになって、親交を深めていきました。
 日差しが強いときは、ハンチングをあげたり、家で聞く音楽を持っていったり 少しでも長い滞在になる、万博の思い出を作ってもらおうと思いました。

万博も 終わりごろになると、アウシさんの 絵も多く描きあがってすこし大きな場所をもらって、そこで絵を描いていました。
素朴な きれいな色使いの彼の絵は、日本人にも 受け入れられて、結構 売れたそうです。(笑) 

日本を離れる前に、私にきれいなほろほろ鳥の絵を描いてくれました、私の名前を入れて、そして 「いつかタンザニアに 着なさい、私の家はいつも窓から キリマンジャロが見えるところで、サファリも近いんだ」と言って別れたのです、それから2年余り、今回の旅行の目的は アウシさんに
会えないかなぁ、どんなところで 絵を描いているんだろう。
と言うことです。


旅行会社の人が、「わかったよ! すぐ近くのアルーシャーに住んでいるんだ、あなたの名前を言ったら、すぐわかったよ」って
有名な画家なので そうゆう絵を描いている人に 聞いたら、私たちの先生だ」と言うことで すぐわかったそうです。
ダルエスラサームの ティンガ ティンガ村という画家の卵の集まる村があって そこに学校があって そこの スペシャルオブザーバーになっているそうです。

3日後のサファリCAMPから 帰ったら,連絡できるようにしておいてくれました。
ありがとう 旅行会社のおじさん!

明日jからは サファリCAMPだ

BENBOY
私のposeをまねて、パシャ

banana trees

water fall

キリマンジャロ ビール 味は・・ボチボチ

さっきの ぼうずとは 違うのかな?
みんなおなじに 見えるぞ

テクテク 歩く

まだ テクテク歩く