9月21日(金)

 今日は、いよいよ 日本に帰る日です、朝一番で島を出て ダルにて 時間があれば アウシさんが 先生をしているティンガ ティンガ村を尋ねてみようと思っています。
朝食をとっていると さおりさんが 「もう少ししたら、ストーン タウンに用事があるから乗せていってあげるよ」と言うことで、船に乗る場所に送ってもらうことにしました・
もう一人 昨日到着した 日本の男性も友達と ダルで 会う約束をしているので 一緒に船に乗ります。
 スタッフのみんなにお別れをして、車に乗り込みます。

泊まった部屋 1軒で2つ部屋があります。
運転手は いま免許を取ったばかりで 練習を兼ねて さおりさんの用事の手伝いをしています、時々 ぶつけて修理代が大変だ なんていっていました。
 日本車でエアコンもよく効き 快適な新車です。

のんびり 景色を眺めたり タンザニアの軍隊の駐屯地の横をとおり、ストーン・タウンにつきました。さおりさんは 銀行にいって設備投資の資金の調達と、食材を買い込むそうです。

 久しぶりにのんびりした ザンジバル  やっぱり 海のあるところは のんびりポレポレできるなぁ。
船着場に送ってもらい 彼らと別れました。

 船の時間とチケットを購入して 時間が1時間くらいあったので、旧市街を歩いて見に行くことにしました。
ザンジバルでは ここを見ておきたかったのです。

 旧市街には、日本人がが住んでいた、ところがあります。明治の初めくらいに 四国 九州から まだまだ 日本が今のように豊かではなかった時代に、多くの 女性が 口減らしや ほかの兄弟のために 売られた 「からゆきさん」と呼ばれた人たちがいたのです。
 こんな 日本から遠く離れた場所に なぜその人たちは たどり着いたのか? どんな気持ちだったのか?
 どんな 場所だったのか?見てみたい 感じてみたい そう思って 訪れたかったのです。

 からゆきさん そうです娼婦として 売られていった人の総称です。誰もがすすんでこの状況に身をおくことはなく つらいことだったと思われます。一概に 売春婦として見ることができない 悲しい歴史を 見ておきたかったのです。
 当時彼女たちのような人も多くいて 当時の日本のがんばりを支えていたのも事実です。
 彼女たちは 田舎で育った人ばかりで 何をするのかも知らずに、売られていったのです、当然 両親も 自分の娘は 町に行って働くものだと思い「ああ野麦峠」のように、職工になるものと思い・・・・両親は ここの田舎にいるよりは 町に出て いい暮らしをしていってほしいと願ったのでしょう。食べることも ままならない 時代の話です。


 最初は 何百人もの人たちが 中国に行き その中からベトナムや インドを経て だんだん数が減って 最後に 当時 貿易の要だった ザンジバルにたどり着いたらしいです。

 アラブ商人やインド商人が 集まる ザンジバル島は にぎやかで そこに 日本人町を作ったのです。
  さおりさんも 日本から そのからゆきさんの調査に訪れた人を 通訳や道案内のサポートの仕事をしたことがあり、 いろいろ話を聞かせてくれました。

 つい40年位前までは 日本人の老婆が居たそうです、隠れるようにひっそり 生活をしていたそうです。
 そして いつも 夕方になると 海を見ていたそうです。
 悲しいね・・ 何十年 日本に 帰っていないのだろう、どれだけ 日本が恋しかっただろう もう帰ることのない 日本を 思い 異国の地にて死んでいくことを 受け入れていたのでしょう。
 
 その後、ひっそりと 旅立ったのでしょう。
 お気軽旅行人の私でも 一度は 見ておきたい そして 「ご苦労様」と つぶやいた。
 

からゆきサンたちが住んでいたアパート
今では 現地の人が住んでいます。
アパートの前の路地では、子供たちが
サッカーをしていました。

旧ストーンタウンは 迷路のような 狭い路地が続きます。

町の中は 静かな空間で のんびりした時間が
流れています。

からゆきさんたちが 働いていたBARは 見つけることができませんでした。

しかし、彼女たちは 逆境でもあかるく 貿易で立ち寄った人たちには、人気があったそうです。

みんなに好かれていた。好かれようと努力もしたのでしょう。

 そんな 町を感じて ザンジバルを後にします。

日本に帰ってから 私は、「ザンジバルの姉子軍(カラユキ)」と言う本を 古本で探し(値段が上がっていた!)読みました。