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訪碑行発端
 掃苔・訪碑に興味を覚えたのは平成20年ころであったろうか。それ以前には東隅子の採拓や谷中徘徊にお付き合いする程度であった。東隅子より掃苔録や碑文集の写しを頂戴したり、そのころ集めていた扇面の筆者の伝、印人墓所など調べるうちに、有名書家の書丹から、さらには撰文者や石工にも興味を覚えるようになった。翌年には近在の社寺から訪問を始めていた。
 
 『福島縣碑文集(江戸時代編)』(1937)にみえる龜田鵬齋書丹碑と、一か所に碑文が五基記載されている熊阪家墓所が比較的近接していることを知り、出かけたのが訪碑のための旅の始まりであったろうか。
 当時時間がなかったのか金がなかったのか、仙台行きの夜行バスに乗って翌日の夜には新宿へ戻るという強行軍であった。新宿駅西口からバスは東京駅へ到着。そこでほかのバスに乗り換えるという不安の中東北へ。途中一度トイレ休憩があったろうか、四時すぎに福島駅に到着。阿武隈鉄道の始発を待っていたが、しびれがきれて五駅目の伊達市高子へタクシーで。
保原 熊阪家墓所
 
 高子駅前で案内板の熊阪家墓所を確認、そのままタクシーで送り届けてもらうと夜明けを迎えた。阿武隈川の段丘丹露盤は伊達氏発祥の地である。保原市柳の望族伊達熊阪氏の覇陵が太祖助英の菩提とともに、当地へ助英の名跡として分家したのが高子熊阪家である。
 覇陵は得能として家業をこなし、経営にも才能を発揮その家基を堅実にした。実は入り婿で父は京出身の鮒子田定悠で、定悠は助英の兄太左衛門助利と江戸で邂逅、縁者となった。覇陵は学にも才があり、台州、盤谷と三代にわたる伊達郡屈指の儒学者・奇特者を育てた。また周辺の勝地を選んで詩題とした高子二十境を創始した人物である。

 当墓所には旧新40基ほどの墓石があり、そのうち銘文を有するものは15基である。撰・書の詳細は掃苔龕熊阪家墓所に記録した。平成13年に塋域の整備が行われ、主だった碑碣については基礎の補強と碑面の修復がなされた。覇陵・台州・盤谷三代の墓碑は伊達市指定文化財となっている。丹念に観察するには半日を要した。 
 
川俣 東圓寺
 帰りは阿武隈鉄道にて福島駅へ。ここより川俣町へ路線バスでおよそ一時間。歩いて10分ほどで浄土宗東圓寺へ。この日は盂蘭盆で焔魔堂も開帳、墓参の人もにぎやかであった。めざす鵬齋書碑は門前右側の目立つところにあった。

水陸齋感應記の碑(飢饉の碑) 
 文化13年(1816) 龜田鵬齋撰・書 館柳灣篆額
 前年、凶作の兆が現われると川俣代官下役人河野猛寛が、さきの天明の餓死者の冥福を祈り、寺院を集め水陸のお齋(施餓鬼)を行ない災厄を免がれたという。これを記念して建てられたものである。

 川俣には中島の石塔婆(建武の碑)、八坂神社の天下泰平の碑(下役多久官蔵の顕彰碑)など見るべき碑石もあるが、感應記碑のみを訪れただけでトンボ帰りで東京へ戻ったのであった。
 
2019.10.22 即位礼の日
淡齋百碑