伊達熊坂氏 | |||
伊達熊坂氏は保元の乱世の伝説的義賊四郎長範を祖とする。代々上杉氏の士となったが上杉景虎死亡の折義子三郎と景勝争立の時、三郎方にあったが形勢不利となり、北条氏を頼った。 熊坂主計は天正庚寅(1590)秀吉が北条氏討伐のとき16歳であり、安達郡戸沢村に隠れて、のちに土地の女子を娶り土佐を生んだ。この土佐が慶長中伊達郡保原に移住して伊達熊坂祖となる(熊坂助英墓碑)
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熊坂適山(1796〜1864)
江戸時代後期の画家。 寛政8年7月15日生まれ。熊坂蘭斎の兄。陸奥伊達郡(福島県)保原の人。同郡梁川に移封された蝦夷地松前藩の家老蠣崎波響に絵をならう。京都に出、浦上春琴に文人画をまなび,松前藩の絵師となる。田能村竹田とまじわり、山水画、詩文にひいでた。「適山画譜」がある。元治元年9月12日死去。69歳。名は助広。通称は昌三郎。別号に千水(kotobank) |
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熊坂蘭斎(1799〜1875) 江戸後期-明治時代の蘭学者。 寛政11年生まれ。熊坂適山の弟。陸奥伊達郡(福島県)の人。諸国をめぐって医をおさめ,長崎で蘭学,眼科をまなぶ。嘉永5年松前藩につかえ、のち藩医となる。画にもすぐれた。明治8年11月14日死去。77歳。名は助嘉。通称は主計。著作に「英吉利(イギリス)文話書」「珠礫画譜」など(kotobank) |
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