保原村高子(福島県伊達市)の豪農熊阪家は、覇陵・台州・盤谷三代にわたる漢文学者を輩出した名家である。伊達熊阪氏は保元の乱の伝説的義賊熊阪四郎長範を祖とする。代々上杉氏の士であったが上杉景虎死亡の後同家内紛により北条氏を頼った。
天正年間秀吉が北条氏を討伐すると、熊阪主計は安達郡戸澤に隠れて土地の女性との間に土佐をもうけた。この土佐が慶長年間伊達郡保原市柳に移住して伊達熊阪家の祖となった。
土佐に與惣右衛門と庄三郎の二子あり。市柳を相続した庄三郎の系からは画家の敵山・医家の蘭齋兄弟が出た。
與惣右衛門は中村へ分家。その孫太左衛門は所用の江戸で京極家の士京都の児島定悠と親しくなり、亡弟太次右衛門の寡婦娟に娶せなかば強引に婿入りを乞うた。宝永五年のことで翌年生まれた男子が熊阪覇陵である。
覇陵は生来才知にあふれ、太左衛門の姉の子秦豊重に婿入り。太左衛門は長谷寺にあった末弟太七郎の墓と秦一家を高子村へ移して、太七郎の名跡として分家高子熊阪家を立てた(伊達熊坂氏略系図)。
覇陵は居館を白雲館と号した。そこはその門生や遠方からの文化人との交流の場であり、またその農政の中心であった。熊阪一族の塋域は白雲館の西南に隣接して設けられ現在四十基余の墓碣が立ち並んでいる。平成13年に塋域の整備が行われ、主だった碑碣については基礎の補強と碑面の修復がなされた。覇陵・台州・盤谷三代の墓碑は伊達市指定文化財となっている。
この塋域の碑文については『福島縣碑文集(江戸時代編)』(1937)に五基が収録され、ついで白雲館研究会により『白雲館墓碣銘』(1989)がまとめられ、銘文のすべてが紹介されている。熊阪家の行状については、松浦丹次郎の『ふくしま伊達の名勝 高子二十境〜高子熊阪家と白雲館文学』(2012)が詳しい。
※碑面の補修は表面を研磨した上に強化剤をコーティングしたもようで、鐫刻の輪郭がややあまく見える(覇陵、台州、盤谷、君益、定駿の墓碑)。
図面に見えない1・3は保原の長谷寺にある(『白雲館墓碣銘』)。 1a 泠岩院別解不立居士(熊阪定悠) 無銘
1b コ樹院靈苗休耘居士・青松院覺室好圓比丘尼(熊阪助利夫妻) 無銘 3 熊坂秀意銘(熊阪助定) 源惟馨(佐久間東海)撰
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