斎藤氏 | ||||||||||||||||||||||
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齋藤拙堂(1797〜1865) 本姓増村氏。名正謙。字有終。通称徳蔵。拙堂、拙翁、拙齋、或は鐵研道人、鐵研齋と号す。津藩江戸藩邸生まれ。 「月瀬記勝」や「岐蘇川を下るの記」など、名文章家としてその名を知られるが、24歳で藩校有造館学職に任ぜられての後、藩の文教行政を担うかたわら、国の防衛を説き種痘をいちはやく取り入れるなど幕末に治世救民を躬行した経世の人。佐々木弘綱と交情深く、互いに詩歌を添削しあった。 墓は津市四天王寺「拙堂齋藤先生墓」(無銘文) |
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齋藤誠軒(1826〜1876) 江戸後期・明治の儒者。文政9年2月生。斎藤拙堂の長男。父にまなび、のち京都、摂津などに遊学。伊勢津藩につかえ、藩校有造館の督学にすすんだ。明治9年6月2日死去。51歳。名は正格。字致卿。通称は徳太郎、徳蔵。著作に「誠軒集」。 齋藤雍卿(1848〜1864) 諱正煕、字雍卿、通称小太郎、伊勢津藩碩学拙堂の孫、誠軒の長子。嘉永元年正月10日生れ。幼にして頴達、家学を受け詩を能くし、傍ら剣柔を学び書もまた遒美。衆期するに子父に過ぎ、孫また祖に過ぐるをもってせり。元治元年7月京都大火あり、雍卿選ばれて軍に従い、朔平門を衛るも、にわかに病を得て8月12日竟に起たず。年17.津城北四天王寺に葬る(三重先賢傳)。 |
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齋藤正和(1930〜) 拙堂の玄孫(三重県菰野町)、71歳から拙堂研究をはじめ、『全釈拙堂文話』や『東の艮斎・西の拙堂』『津藩の賢人 齋藤拙堂物語』等の著作・訳注のほか『拙堂文集』『拙堂詩集』などを出版。また池田雲樵による「拙堂肖像」「茶磨山荘圖」を津市に寄贈。 |
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