乾清花苑 太白廡 略伝引得
本姓青木、京保12京生、松阪の豪商田丸屋中川家の養子となる。生家青木氏は韓国餘璋玉の裔にて自ら韓姓を称す。青木夙夜の従兄。字大年、通称中川長四郎。幼少より筆管をとり、はじめ松下烏石の門に入り、のち澤田東江にまじわり、魏晋の風をしたい自ら醉晋齋と号す。書は一家をなし内外に聞こえ、また篆刻を能くし、古帖癖あり。双鉤に長じて摹刻墨帖第一人者として「岡寺版集帖」を刊行。天壽死後も無倪和尚に良い観光が引き継がれている。 余技としてまた画もたしなんだ。従弟夙夜の師池大雅と親しく、また芙蓉とも交厚く、三名で連れ立ち白山・立山を経て富士山を巡り、これを記念して三人おのおのが「三岳道者」を号したという。晩年江戸に至り、己が名声の高きに驚いたまま寛政7年3月23日客舎にて亡くなる。69歳。墓は松阪清光寺(篠田山墓地)。故紙塚は京通妙寺にあり(三重先賢伝、韓天壽とその周辺、三重の文化)。 書丹碑あり。
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