乾清花苑  太白廡  略伝引得

鏑木家
代々通字に「胤」を用いているのでもとは千葉四天王の一鏑木家の末であろうか。
代々墓所は港区三田長運寺
市河寛齋━┳三亥米庵            ┏女
        ┗三吉雲潭↓           ┣シゲ(夭) 
                   ┏梅亭     ┣弥太郎(夭)
鏑木梅溪───雲潭━━━╋雲洞━━━┸義胤
                   ┗渓庵━━━━新郎       
参考<東京美術家墓所誌・長運寺墓銘>
鏑木梅溪(1803)
 江戸後期の画家。長崎生。名は世胤・世融、字は君胄、通称を彌十郎。沈南蘋の画法を学び、著色の花鳥画を得意とする。のち江戸に住し、その名を伝え聞いて画を請う者も多かったという。享和3年歿、59才
鏑木雲潭(〜1852)
 江戸後期の画家。江戸生。儒者市河寛斎の次男。名は祥胤、字は三吉、初号は米蔵・祥蔵、別号に尚左生等。画は谷文晁に学び山水を能くし、のち鏑木梅渓の養嗣子となる。詩賦点茶を好み、また月琴を能くし、鏑木流という一派を起した。嘉永5年(1852)歿、71才。











山水

龜圖   合作立軸(旧蔵) ※
鏑木梅亭(1804〜1830)
 名賀胤。雲潭の長男。幼時より画を学び、人物山水詣ざるなしという。文政13年5月16日父に先立ち没。26才。
 長運寺の墓銘と額は伯父米庵の撰・書である。

【梅亭墓表】
余弟祥胤出嗣鏑木氏、其嫡賀胤字元吉、號梅亭、爲人温厚、和易維孝維友、與人相交、不見忤色、自幼學畫、人物山水無所不詣人、皆稱其克家之美、文政庚寅五月既望病疫而卒、年二十有六、葬於三田長運寺、嗚呼痛哉、雖曰壽夭有命天亦暴矣、平素視余猶所生、余亦得篤愛不啻、今乃至斯痛可如遂抑涙、以表其墓、伯父河三亥撰書并額    (廣羣鶴刻)

    
富士圖 ? 墨梅
鏑木雲洞(1805〜1892)
 雲潭の男。文化12年江戸生。通称彌三郎。名祚胤。画法を父に受け、花鳥を能くする。子女は夭。明治25年没。87歳。
鏑木溪菴(1819〜1870)
 通称卯三郎、雲潭の男、妻あり、明治3年没 
鏑木義胤 雲洞の養子。

  上へ