- 交泰中院 - 修史館 - 掃苔龕

長運寺 東京都港区三田4丁目
 慶應義塾近く桜田通り沿いに寺町が続いている。その一院。 日蓮宗
 『東京美術家墓所誌』に鏑木家歴代の墓所とあるのを見つけて訪問してみた。
 元和年間、日琢が飯倉に創立、のち当地へ移転。江戸の寺院にしては珍しく大火や震災空襲を免れた古建築であったそうだが、現在は一新されている。曲亭馬琴がたびたび訪れた寺という(日蓮宗東京都南部宗務所)。

鏑木家墓所
 山門近くに二か所に分断されてある。

 ↑左より雲洞夫妻とその子供の墓(銘文はなし、明治26年養子義胤の建立)。中央は「梅溪平先生墓」、次に市河米庵撰書・額の「梅亭墓表」

 ↓一区画を挟んで続いて「鏑木氏之墓」、昭和10年新郎の建立。その右側の墓石は残念ながら剥落して文字がない。背面に「維時嘉永六」とあればその前年に亡くなった雲潭の墓であろう。続いて溪菴夫妻の墓石。右端も渓菴の墓碑で「清樂煎茶社中」の建立。月琴圖線刻がある。右手前は隣地の小田家。


小田家墓所

 小田鐵齋の墓銘は大橋陶菴の撰・山岡鐵舟の書丹。その碑文によれば小田家はもと信濃岩村田藩士大野木信近の第二子韻信が小田と改姓、幕吏となった。信韻(文字不鮮明)號鐵齋(1804〜1870)はその二代目。外国奉行のもとで蕃書調所頭など経て大政奉還をむかえて禁錮の身となり、明治2年致仕、翌年病没した。二子は夭、古郡氏より養子信樹をむかえたとある。

 境内には他に亀扶に酒樽の墓碑あり。(2011.2.6訪問)

 

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