乾清花苑  太白廡  略伝引得

市河家
 清和源氏武田の支族市川氏を遠祖とする。上州甘楽郡南町に帰農、のち砥沢塩沢等に分家。塩沢市川は氏一時沼田の真田家に仕えるが、真田家が領邑を失ったのちはふたたび甘楽の下仁田へ帰る。
 市河家は、群馬県南牧村大塩沢の出身であり、その生家は今も残ってるとのこと。蘭台のとき、細井広沢に入門。その子寛斎は、江戸へ出て昌平廣に入学、学頭となり、その系からは米庵・雲潭という文人を輩出した。寛斎が富山藩前田家の儒臣を務めたのを皮切りに、米庵が加賀前田家から禄四百石で召し抱えられるなど、前田家とは非常に縁が深い。さらに養子遂庵とその子得庵父子は大聖寺藩前田家と加賀藩前田家に仕えた。
 歴代墓所は谷中本行寺。
∴清和源氏甲斐武田氏支族塩沢市川家
         ┏山瀬英一        ┌三千恭齋
         ┃              ├三治遂庵━━三鼎得庵
○市河蘭台━┻寛齋━┳三亥米庵━┷三兼万庵━┳三陽
            │  ┗三吉雲潭↓         ┣三喜━━野上三枝子
            ┝━━克順↓             ┗三録
┏杉山家━━━杉山ヨシ  鏑木梅溪──雲潭  
┗杉山氏女     │
高橋 ┝━━夭  ┝━━女  
┏━道齋─〇─蘭皐──克一──克順
┣七郎兵衛↑ 
┗妙惠━━富永蘭皐↑
参考 梧竹異聞27、高崎學検定講座、上毛書家列伝ほか
市河蘭台(1702〜1763)

 市川小左衛門二男、上野塩沢生。山瀬家の嗣子。名好謙。長じて舘林藩秋元侯に仕えて刀番、君辺御用、留書方を勤める。藩儒河内竹州と関松牕に学ぶ。書は細井広沢に学びよく上達したという。宝暦13年秋元藩を致仕して川越へ転任、まもなく62歳で死去する。二子寛齋に塩沢市川家再興のことを遺言とする。
市河寛斎(1748〜1820)

 江戸中・後期の漢学者・漢詩人。上野生※。市河蘭台の子。名は世寧、字を子静・嘉祥。別号に半江・江湖詩老等。初め父蘭台につき、ついで、関松窓、大内熊耳に学ぶ。昌平黌の学員長となり、天明7年には江湖詩社を設立。柏木如亭、菊池五山を教え、写実的な新詩風を確立した。越中富山藩藩校広徳館の教授を務めた。細井平洲・井上金蛾等交流も広い。著書に『日本詩紀』などがある。文政3年歿、72才。
※上毛書家列伝には江戸生まれ
 寛齋ははじめ山瀬新平といい、15歳で父を亡くすと19歳で兄山瀬英一の仕える秋元藩に出仕、27歳の時藩を退き高橋道齋に客す。ここで道齋の蔵書を読破しで学を深めたが、道齋に養子を迫られ、第二養子で早世した蘭皐の遺妻おヨシに胤を残して、28歳で江戸へ出て市川家を再興。
寛齋落款


半江


世寧

 

市河米庵(17791858) 

 江戸後期の書家。江戸生。寛斎の長男。字は子陽、別号に楽斎・小山林堂等。林述斎・柴野栗山に宋の米芾・唐の顔真卿の書を学ぶ。隷書・楷書を能くし、巻菱湖・貫名菘翁と共に幕末の三筆の一人。安政5年歿、79才。書丹碑多し。
 東博「市河米庵コレクション」
 米庵は、日本や中国の書画・拓本・古器物・文房具などを熱心に収集し、それらの収集品から260余件を精選した『小山林堂 書画文房図録』を上梓した。米庵の収蔵品は、その歿後に散佚したが、子孫三喜が再収集に尽力して東博に寄贈された。

樂齋

雲洞松岩題詩














「喬松館扁額」





小山林堂


河三亥氏


小春居士
合作立軸(旧蔵) ※ 鶴龜七對隷書(旧蔵)

 

米庵   弎亥


 

米葊 三亥



三亥 米顛





三亥


  偶成 龜圖 金陵合作 清靜經​節録 
※合作立軸(旧蔵) 書:市河米庵 遂庵 山内香雪 画:鏑木雲潭  雲洞
恭斎(三千、1796〜1833)  
 
 米庵のはじめの養子、早死にした。江戸後期の書家。寛政8年生。稲毛屋山の長男。江戸で市河米庵に書をまなび、その妹婿で養子となる。篆刻もよくした。天保4年6月27日死去。38歳。讃岐出身。名三千。字桃翁。通称三千太郎。編著「米庵先生百絶」。


古學葊




恭齋三千

武陵仙事

「偶賦」七絶

歳晩縦筆
遂庵(三治、1804〜1884)  

 加賀大聖寺藩の藩医横井百翁の次男、米庵の2番目の養子となる。米庵60歳で実子万庵をもうけるが、米庵の没後家を継ぎ、養父以来子弟誘掖功労抜群をもって将軍謁見の栄あり。明治17年10月27日80歳で没した。




 
合作立軸(旧蔵) ※ 
市河得庵(三鼎、1834〜1920)   

 幕末・明治の書家。字は鉉吉、通称を周吾・小右衛門、別号に小山林堂・潤暉軒などがある。市河遂庵の子。天保5年江戸下谷に生まれる。文久2年(1862)前田侯に従って加賀金沢に行き、明治4年廃藩置県によって東京に帰る。明治7年徴されて大蔵省の官吏となる。4歳年少の万庵と同僚となったのである。明治8年命によって家蔵の書画を天覧に供し、翌9年これらの書画法帖百五十種を帝室に献納した。明治23年大蔵省を辞して、四国・九州・北陸各地を巡遊。明治25年東京から横浜・野毛に居を移し、のち中区北方町492番に転居。書道を教授して悠々自適の晩年を送った。(『開港五十年紀念 横浜成功名誉鑑』明治43年7月刊)

市河万庵(三兼、1838〜1907)

 幕末・明治の書家。江戸生。市河米庵60歳のときの長子。米庵はそれまでに恭斎(早死)、遂庵を養子とした。万庵名は三兼、通称は昇六、字は叔並。幕府に仕え、江川太郎左衛門、高島秋帆に洋式砲術を学び、鉄砲方となる。父の業を承け、篆隷に長じた。また篆刻・点茶・弾琴も能くした。維新後は大蔵省に勤め、ロンドンで新製したわが国紙幣の文字を書いた。明治40年(1907)歿、70才。書丹碑多し。


河・弎兼

五絶

市河三陽   万庵の長男三陽。家督を継ぎ『市河米庵伝』を著した。書丹碑あり。
市河三喜(1886〜1970)

 大正・昭和を代表する英語学者・文学博士。東京生。市河万庵の次男。東京帝大卒。大正元年英米に留学し、日本人として初めて東京帝大の英文科教授となる。文化功労者。昭和45年(1970)歿、84才。
 児童英語教育者の野上三枝子は娘
 墓は多磨霊園

市河三禄

 万庵三男三禄は林学博士で『満蒙の森林』『三禄瓢談』などの著がある。