「乗っちゃだめかな。殺生丸さまには、後で私からお話しして置くから。」
りんの話に二人は、また顔を見合わせた。殺生丸から、厩には何も指示は出されて
いない。
新しい妖竜を見せて乗るなと言うこともりんには、酷なことであることは、若者に
も判っている。竜の朝の飼い付けも済ませてある。竜責自身でも運動させたし、
殺生丸も一頻り乗った。たっぷり運動は、済ませてあるから、竜は、もう充分落ち
着いてはいると思えた。あとは、入厩したばかりで今ひとつ癖が判っていないことが
不安だった。
家臣の一人でもある若者は、心の内でりんは、乗り手としては、なかなか良いものを
持っていると評価はしている。筋も良いし根気もある。乗り手に必要な勘も良いと
いっていいだろう。乗せても滅多なことは、起きないような気がした。だが、
殺生丸は乗っても良いと考えていたのかどうかが判らない。
若者はたずねた。
「御館様は何か言っておられましたか。」
りんは、その声に聞こえないふりをした。だめだと言われているとわかってしま
えば絶対に乗せて貰えない。かといって嘘を付いてまで乗ればあとで殺生丸から
たっぷりと無言の説教を喰らってしまい、ここへは、しばらく出入りさせて貰えない。
一番いい方法は、殺生丸に知られないようにさりげなく乗ってあとは、ほとぼりが
冷めるまでしばらく素知らぬ振りをすることではないだろうか。
御竜責の若者は、何もそれ以上聞いてこなかった。そして少し離れた柵の方へ歩
いていった。
「邪見さま、殺生丸さまには、しばらく内緒にしてね。ちゃんと私があとで、乗った
感想も添えてご報告するから。秘密だよ。心配しないで。」
それを聞いて邪見はあきれた。りんは、どうしても乗る気らしい。この娘には、
芯は強いがどこか強情なところがある。それともここしばらく屋敷の中だけの退屈な
暮らしが限界に来ているだけなのだろうか。
―あとで殺生丸様に知れて、お小言をもらってもわしゃ知らんからな・・・
竜責は、太い引き綱を一本もって帰ってきた。それを竜の双頭の鼻先にある二つの
轡の横に付属している金具の中を通して各々をきっちり結んだ。そして、その紐の
反対の端を腕にかけたまま竜の胴体の方を向き、緩めてあった竜の腹回りの帯をもう
一度締め上げる。
「私がこの綱を持っていますから乗ってみますか。」
「ありがとう。気を付けて乗るね。」
りんは、妖竜にゆっくりと歩み寄り、鞍の横に立った。ちらりと竜の表情を観察
してみる。大丈夫そうだ。それを確認すると間を置かず鞍の上へよじ登る。そして
素早く座り込んだ。
乗ってみると殺生丸の鞍は、りんには、やはり大きく感じられた。少し落ち着か
ない気もする。竜も思っていたよりかなり大きかった。たぶん、自分には、乗りや
すい大きさではないだろう。けれど気を取り直して手綱を手に取ってみた。
「少し歩かせてみますか。」
「うん。」
脚で合図を入れて歩かせてみる。阿吽より一歩一歩が大きい思いようだ。どしん
どしんと独特の振動が伝わってくる。これも阿吽のものとは、違っていた。
「どうじゃ、いい竜かの。」
邪見は興味深げに聞いてくる。
「そんなこと私には、分かんないよ。殺生丸さまは、何か言っていた?」
「相変わらず何もおっしゃらないわい。」
そうだよね。殺生丸さまってあんまり喋らないよね。りんも何を考えているのか判
らないことが多いよね。いつもりんばかり喋っているもの。殺生丸さまの考えている
ことは、ずっと側にいた邪見さまにもわからないんだね。ゆっくりゆっくりと妖竜を
歩かせながらいろいろなことを思い起こす。
幼い頃から殺生丸の自分を見つめる独特の眼差し。それが特別の意味合いを含ん
できたのは、一体、いつの頃からだったろう。幼いころ殺生丸に平気で言っていた
「大好き」という言葉は、今は怖くて口にすることなどできない。言ってしまえば
何かが始まってしまうだろうから・・
ずっと前から見慣れていたはずの殺生丸の姿。月の光を受けて輝く銀髪、
射るような鋭い光を宿す金色の瞳、表情がほとんど表れることのない美しい顔、
重い刀を操る強靭な肉体。そして・・・
「どうですか。乗った感じは、いかがですか。」
若者がたずねる。りんにも新しい竜の感想を聞きたいらしい。
「大きいね。こうしてみると以外と大人しそうに見えるよ。ただ興奮し易いだけな
のかなあ。良く運動させさえすれば大丈夫なのかな。」
今度は、ちょっと早めにも歩かせてみた。あとは、やっぱり竜だもの。空を飛んで
みたい。
「どうでしょう。今のところは、まだよくわからないんですよ。さあ、もう今日は、
これぐらいにしておきましょう。本当はもっと乗りたいでしょうけど。内緒で乗っては
殺生丸さまに叱られますよ。」
えっ、本当にこれだけなの。こんなの乗ったうちに入んないってば。あんまりだよ。
「もう、おしまいなの?」
邪見が口を挟む。
「仕方あるまい。あとは、殺生丸様に自分で頼むんじゃな。」
「少しこいつを厩で休ませます。すぐそこに繋ぐところを作りましたからそこまで
乗っ行って降りて下さい。」
若者は、妖竜が嫌そうにしていた太い綱を双頭から外してやるとそれを巻きつけて
持ち、邪見と何やら楽しそうに話をしながら、先に繋ぐ場所まで歩き始めた。
その瞬間だった。大きな音とも声ともつかぬ雷鳴が轟き、雷撃が空へ放たれた。
その音に驚いた邪見たちが振り返った。りんは、その時乗っている妖竜の身体が硬直の
ため堅くなるのを感じた。
―油断した。―
これほど大きく見栄えが良く、力のある立派な竜を、わざわざ、―そう、わざわざ
手放した持ち主がいたことをここに居る者たちは甘く考えていたのだ。竜は、唸り
声をあげて邪見たちの前を疾風のように通り過ぎていく。
その時りんがその身を緊張させたのがいけなかったのか、それとも一瞬、前のめりに
なってしまったのがまずかったのか。もうそれはわからなかったが気が付くと竜は、
地を蹴って空へ飛び上がっていた。邪見たちが真っ青な顔をして走り寄ってくるのが
りんから見える。けれど残念ながら降りさせるには、もう遅いだろう。
この竜は、自分から皆の気がそれる瞬間をずっと待ち続けていたに違いない。
そしてその瞬間がやっと来たのだ。
このようなことになってみると、もしかしたら唯一売り主にあったであろう、
殺生丸は、その人物から何かを聞いていたかもしれないと思う。―この妖竜が売られる
ことになった原因、つまりその理由が何であるか―である。そのため、殺生丸は、
りんに乗ることを禁じたのだろうか。
言葉の少なすぎる殺生丸からすべてを知らされることは、滅多にない。あの若者の
狼狽ぶりを見るかぎり、彼は何も知らなかっただろうということは容易に想像がつ
いた。自分も迂闊だった。とは、思い知らされるが、いまさらではある。まずは、
この事態を把握しなくてならない。わかってはいるが頭の中は、突然のことに
真っ白だった。どうしたらよいかは、咄嗟にはわかりようもない。
雷撃を吐きながらどんどん上昇する竜の背からとにかく下を見下ろしてみると
邪見たちがうろたえ、自分の方を指さしながら何か叫んでいる様子がわかる。若者が
大声で何か自分にいっているが、耳元をきる風がうるさくて聞こえない。彼らを見ると
よけい焦ってくるが少なくともあまり心配をかけたくないとは思う。取りあえず、
仕方ない。にこやかに手を振って見せた。
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