晩秋2

「御館さまは夕方まで戻らないとおっしゃっておられました。りん様は
お聞きになっていませんでしたか。」

りんが殺生丸を追いかけてきたと勘違いして、気遣う彼には悪いことだっだが、
残念ながら、彼女はこの家臣の話を全く聞いてはいない。

「―あ、あのね、新しく入ったっていう竜はどこ!」

一人できょろきょろと首を巡らせている。その様子に家臣は納得したのか楽しげに
笑い、少女に落ち着くように言った。そして彼女は、今朝、朝餉の時に殺生丸から
新しい妖竜たちの厩入りを聞かされたことを話した。その話に家臣は大きく頷くと
草地の片隅にいる一頭を指さす。


 無事、竜の居場所を教えてもらったりんは、柵に沿ってそっと竜たちに近寄って行
く。ふと見ると一頭の竜の近くには、御竜責を務める大柄の若者が一人立っていた。り
んに気づいてくれたようだ。

「今朝は、お早いのですね。」

りんは、返事もせず、その若者のそばに歩み寄り、囲いの外から身を乗り出すようにし
て声をかけてみた。

「殺生丸さまから新しい妖竜が入ったって伺ったんです。だから、うれしくて来てみたのだけど・・・あの・・どんな様子なんでしょう。」

若竜の手綱と鞍を持ち、手がふさがっている、人の良さそうな竜責の妖は、大きい方の
竜の方を向き、顎でしゃくってみせた。

「あれが殺生丸様のお使いになるかもしれない竜です。」

そこには、阿吽より一回り大きな岩のように厳つい妖竜が立っていた。りんのよく知っている阿吽の持つような柔和さは、全く感じられない。尖った顎を少し引き、牙を剥くと低い声で唸ってみせる。りんは、思わず後ずさりするとその竜の三白眼で睨み付けられしまった。

「・・なんて大きな竜。殺生丸さまなら大丈夫でしょうけど。この竜は阿吽より大きくなるの?」
「いいえ。もう成獣ですからこれ以上大きくはなりませんよ。こいつの馴らしは、
以前居たところで付いています。ここでは、少し動かすだけでいいでしょう。あとは、
殺生丸様が自分で躾をなさると思いますよ。」
りんは、感心しながら、竜を眺めた。
「殺生丸様が朝早くにもうお乗りになりました。だいぶ難儀しながら動かしてい
たみたいですから、かなり難しい竜でしょう。なんて言うのかな、いい竜ですが、
気難しいところがありますね。前の持ち主の方も合わなかったみたいですよ。」
新入りの悪口を言ってはいるがその顔は、嬉しそうにみえる。

 りんがその竜に近付いてよく見ると殺生丸が阿吽に乗るときよく使っている
使い込まれた黒光りする漆塗りの鞍が乗せられていた。今朝、殺生丸が乗ったときに使ってそのままになっているのだろう。
 その鞍は端に、沈金の細かな装飾が施されていた。その装飾の細工は繊細ではある
が、派手ではなく、全体的には落ち着いた地味な印象を受ける。殺生丸は、概してこ
のような非常に精密で凝ってはいるが目立たない装飾品を好んだ。この大きな鞍には、
りんも幼い頃よく一緒に乗せてもらったことがよくあった。几帳面な殺生丸が邪見に、
この鞍を手入れさせている姿も見たこともある。そのことを思い起こしながら、ふと、
その鞍をよく見ると殺生丸がいつも騎座している辺りには、独特の凹みと擦れ跡が付い
ていた。鈍い光を反射する殺生丸の鞍を見ているとりんの腰の辺りに、何故か痺れるよ
うな感覚が伝わってきた。


「りん、殺生丸様は、お出かけになったか。」

 突然、後ろから聞きなれた声がかかって、りんは、はっと我に返った。足元を見ると
老僕の小柄な小妖怪が立っている。

「・・あれ、邪見さま、ご一緒ではなかったの?殺生丸さまならもうとっくにお出かけ
したよ。・・私はね、新しい竜を見に来たの。」

 りんは、邪見の姿を見ると、ほっとしたように嬉しそうに話しかけた。邪見は、この
頃、殺生丸にりんのそばに付いているように言われているらしく、殺生丸自身にはつい
ていかないことが多くなったような気がする。りんは、館の中で独りにならないで済む
安堵を覚えた。

・・邪見も新入りの竜を見に来たのだろうか。

「大きい方の竜には、殺生丸さまがもう朝にお乗りになったみたい。私も見たかったな
あ。」
「そうじゃ、そうじゃ、殺生丸さまが乗っておられたな。」
邪見が訳知り顔で胸を反らす。

「えーっ、邪見さまは、今朝、殺生丸さまと一緒にいたの。酷いよ。私も誘ってよ。」
「何じゃ。お前は、どうせ、ぐうぐう寝ておっただろうが。文句を言うなら早起きの習慣を付けるんじゃな。しかし、また立派な竜じゃ。」
「私、お寝坊なんかしていないよ。」

りんは、中庭の朝露の付いた楓の葉を思い出していた。うっすらと色づき始め、秋の
気配を感じた庭木。澄み切った静寂の中で赤い実を付ける、さねかずらの美しさ。

二人の話は、いつしか、稲刈りの終わった人里の話題へと移っていった。彼らは、いつ
もたわいもない会話をする。昔からの習慣だった。
 りんと邪見の様子を見ていた若者は、気を利かせてくれたらしく、手綱を引いてりんの近くへ新入りの大きい竜を寄せてくれた。双頭を彼女の方へ向けて話しかける。

「今朝は、少し興奮していましたけど、殺生丸様が一頻りお乗りになったのでもう
落ち着いたと思います。撫でてみますか。」
「うん、ありがとう。」

りんは、囲いの中へ入るとその竜のそばにそっと寄った。すると、竜はグルルと唸った
が敵意はないらしい。恐る恐る首を手で撫でてやる。噛む気配はない。りんに触られて
もあまり反応せずのんびりと片方の頭を柵に乗せ、すっかり落ち着いているようだっ
た。そのとき、背中に乗せてある殺生丸の鞍が目に入った。思わず口から言葉がこぼれ
落ちる。

「もし、大丈夫なようだったら、少しだけ乗せてもらうことは、できないかなあ。ちょ
っと歩いてみたいの。大きな竜には、一度も乗ったことがないから気になるの。いつも
阿吽だけなんだもの。

 りんの言葉に邪見と若者は、顔を見合わせた。主人の竜には、主人の許可がなければ
他人を乗せることはかなわない。だが、その主人が特別の配慮をもって接しているりん
は、例外といっていいのだろうか。りんは、主人にとって気にかけている存在であるこ
とは、事実だろう。殺生丸が大怪我を負ったとき、りんが世話を焼いたことがきっかけ
となり、連れて歩き、親、兄弟を失った彼女の面倒をいろいろ見てきた。

 そして今、殺生丸がりんとの関係を今までとは違うものへと変えていこうとしている
ことも、邪見ですら、うっすらと気が付いていた。従僕なってからは、なぜか女の影す
らなくさらに噂も聞いたことがないことが気がかりだった。最も、老体のこの身、気が
付いていないだけかもしれないが。

―女に興味はなくはないのだろうが、特定の女と深い間になることそのものが自尊心の高過ぎる彼には自分を下げ渡すような屈辱を伴うのだろうか。それとも、何か別の理由でもあるというのだろうか―。

人を嫌悪し、見下げ、蔑み・・・決して寄せ付けなかった孤高の大妖。

もしかして、それは人間に対する単なる警戒すぎなかったのかものかもしれない。

 おそらく妖犬族は、もともと人と共にあった妖だったのだ。人を敵とせず、共に存在
しうる妖怪。それは、ある意味、血が混ざる可能性を持つ。それは、可能性でもあるが
失望でもある。血の濃さを保つことは、不可能になる。妖犬の血筋は絶え果てるのかも
しれない。それを避けなければ、ならないのなら、人と交わる世界で生きることは、許
されることではなく。

邪見は、自分の考えにはっとする。

殺生丸がりんを拾ったのは、偶然ではない。気まぐれのように見えて、おそらく必然の
侯。

 まだ、幼かったりんを手放さず、手元に置き、その身を守り、世話を焼き、成長を育
んできた幼いりんが大人へ成長し始めてからは、彼女に強い関心を示めすようになった
ことは以前から気が付いていた。
 その証拠に、つい一月ほど前に、わざわざ、りんに「初元結」の儀式をを受けさせて
いた。大人髪にしてもらって、無邪気に喜んでいた、りんだったが、ある意味、主の魂
胆は見え透いていた。あきらかに「大人になったりん」に手を付けるつもりなのだろ
う。が、本来なら妖である殺生丸にとって、人間であるりんは、殺生丸が女として知る
べき相手でもなく奥方にするべき相手でもない。

 けれど、物事を割り切って考える怜悧な殺生丸もりんのことに関してだけは、
どうしても割り切れぬ思いを抱いていることは、誰が見ても明らかだった。

 闘牙王が人間の女に懸想して、通い詰めたという事実。恋狂いのあまり、子まで設け
た。その挙句に、愚かにも命まで落としたのだ。これを何と解釈すればよいのだ。

邪見はため息をついた。

―殺生丸は否定するだろうが、人間に惹かれるという点で、彼は闘牙王の血を継いでい
る。

 慣例を守り無理にどこかの妖の姫といっしょにしても結局は、殺生丸は、りんを
あきらきれず、何らかの形でそばに置くことになるだろう。もちろん、側女として
だ。挙句の果て、複雑な経緯をたどってその姫とは結局、破綻するのは目に見えて
いる。気まぐれな主人に仕えてきたのにこれ以上の気苦労は、無用だ。

 主は、人であるりんに自由に振舞わせている。以前は、そう思っていた。
今は、そうは思えない。りんの行く末は定められている。いや、昔に定められていたのかもしれないりんが、人里を戻ることを
望んだとしても、殺生丸は、決して許すまい。

 


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