・・サヤは、資産家の娘のようだから何か事情があるのかもしれないね。フランス訛りのロシア語とドイ
ツ系の苗字がそれを物語っているじゃないか。あの子は、身なりや振る舞いを見ても庶民の出でない
ことは確かだしね・・。
オーリャは、嘆息する。人は年を取ると、悲しいことになかなか他の人の役に立ことがなくなってしま
うものだ。 その夜の夕食は、大変静かな食事となった。ここへ来てからよくしゃべるようになったはず
のサヤは、その夜は、ほとんどしゃべらず、窓の方ばかり見て、雪が降っていることを気にしているよ
うだった。食事中、しばしば外を見ては、さらにハジを見る。そのハジも天気の様子が気になるようだ。
静まり返った夕食が終わる。
「オーリャおばあちゃん、私、もう寝るね。お休みなさい。」
サヤは、そう挨拶し二階の部屋へと上がっていった。ハジはそれを目にすると、追いかけるように席を
立ち、二階へと上がる。食堂に残ったオーリャは、深いため息をつきながら、下男とお茶を飲み続け
た。
サヤは後から部屋にやって来たハジに促されて、早々と寝床に入ったものの、グレゴリーの居場所
がわかった今となっては、落ち着いて眠れそうになかった。自分でも神経が昂ぶっているのが、よくわ
かる。こんな暢気にベッドに横になっている間にも、逃げられてしまう可能性があった。
今頃、デーヴァは何処だろう。絶対逃さない。次の休眠期に入ってしまうまでに、必ず決着をつけるのだ。
サヤは揺るぎない決心とともに目を閉じる。その決意とは裏腹に、長く続く追跡で疲れきった身体は、
ゆっくりと眠りに落ちていった。
* * *
・・どこかで誰かの大声が聞こえていた。
ベッドの中で熟睡していたサヤは、ふと眠りが浅くなる。こんな凍えるような冬の夜中に誰が騒いでい
るのだろう。ここは、近くに人家のない、ひっそりとしたところなのに。サヤは寝返りを打ちながら、寝ぼ
けた頭で考える。
・・・奇妙な音も聞こえてくるようだ。焦げ臭い煙の臭いと共に、ぱちぱちという物の燃える微かな音。
その音で突然サヤの脳裏に焼け落ちようとするジョエルの屋敷の光景が蘇った。一面の炎が、壮麗
な館を容赦なく飲み込んでいく。氷水でも浴びせられたかのように、サヤの頭がはっきりと目を覚まし
た。
そして、次の瞬間、聞こえてくるその悲鳴が、他ならぬこの家主のオーリャの声であることに気がつく
のだった。オーリャの叫び声に動揺したサヤは、上掛けを押しのけベッドから跳ね起きる。急いで部屋
の窓を開け、さらに重い鎧戸を押し開けた。その姿勢で身を乗り出して外を覗く。眼下に見える庭の片
隅の古い納屋に火の手が上がっていた。
誰かが火を出してしまったらしい。下男の火の不始末だろうか?
―こんな夜中に?・・わざわざ納屋で?
間をおかず、部屋にハジが飛び込んできた。
「ハジ!何があったの?まさか・・!」
従者を見つけたサヤは、咄嗟に畳み掛けるように尋ねる。
「まさか翼手?・・何の気配もなかったはずなのに!」
ハジは、落ち着いた様子で首を振った。
「ただの火事です。」
「まさか!第一、火の気のない納屋で?アンシェルの手の者ではないの?」
ハジは、窓の外の門を指差した。こんな冬の真夜中にみずぼらしい身なりの村の若者たちが家の周
りを取り囲んでいる。彼らは、何故かその中の数人の男たちを遠巻きに眺めていた。中心にいる興奮
した若い男たちは、火のついた松明らしきものを手にしている。
「多分、火を付けられたんです。」
「・・火を?何のために?」
サヤには事態が飲み込めなかった。こんな年寄りの家に?わざわざ?
「焼き討ちに来たんでしょう。ロシアでは、最近こういう事件が多いと聞いています。この辺りでは裕福
な方ですから、狙われたのかもしれません。息子さんも、商いがうまくいってペテログラードで暮らして
いるくらいですから。」
ハジの声は冷静だった。
「・・・でも、何も火を付けなくても・・!この家は別に貴族でも地主でも何でもないじゃない!別にお金持
ちだとは思えないけど。」
サヤは呟く。
「・・サヤは、大富豪のゴルトシュミット家しか知りませんからね。世の中には、食べるのにも困っている
人も沢山いますから。」
「でも・・。」
「とにかく、外に出ましょう。火が広がらないに様にしないと。」
ハジは、すばやくサヤを引き寄せて脇に抱え、開け放った窓から身を乗り出すと、そのまま雪の中へ
ひらりと飛び降りた。降りてみるとオーリャが庭の真ん中で半狂乱になって騒いでいる。
「誰か火を消しておくれ!このままじゃ家畜小屋に火がついちまうよ!」
老いた下男が慌てふためいて、庭の隅にある井戸のポンプへ急いでいる。ハジは、抱えていたサヤを
離し、半ば雪に埋もれた薪割り場に落ちていた斧を拾った。その斧を持って燃えている納屋まで走っ
ていくと、いきなり、納屋の柱の角へ斧を勢いよく、何度も振り下ろした。ハジの力に古くなっていた木
の柱は難なく折れ、納屋が傾き屋根が崩れ始める。その様子を見ると、さらに他の柱にも斧を打ち込
み、壊し始めた。
「・・・ハジ、一体、何をするつもり!」
ハジの異様な行動に驚いたサヤが叫んだ。
「納屋を雪の中へ崩して、火が広がるのを防ぐんです。サヤ、下がって。崩れる納屋の下敷きになりま
すよ。」
「大丈夫!押しのけてすぐ出てくるから!」
「普通の人たちの前でそんなことしないでください!それより・・・。」
ハジがもうひとつの斧を放り投げる。それをサヤが細い腕を伸ばして受け取った。
「小屋から家畜を出してください!火が移れば、家畜たちは小屋ごと焼かれてしまいます。」
サヤが受け取った斧を抱えて、雪の中を家畜小屋まで走る。そして、すぐさま小屋の古い木製の扉を
斧で叩き割った。鍵はかかっていても粗末な扉は瞬く間に壊れて、中からただ事でない騒ぎに怯えた
鶏やガチョウが群れて飛び出して来た。さらに、サヤが鶏たちをかき分け小屋の中へ入り込むと、中
の柵を壊して、嘶く馬や牛たちを外へ放し始める。
そんなガウンを羽織っただけの寝間着姿のサヤを、物陰から火付けをしたらしい者達が見ていた。
彼らは、口元に好色な笑みを浮かべ囁きあい、独特の目つきで、舐めるように少女の華奢な身体を
眺めている。ちょうど、サヤが小屋から仔を孕んだ大きい牝牛を外まで引きずるように、外へ出したと
きだった。その隙を突いて、いきなりサヤの背中に薄汚い身なりをしたその若い男たちが飛びついた
のだった。不意を突かれた少女はそのまま雪の上へ倒され、押さえ込まれる。少女の優雅な毛織りの
ガウンは奪われ、雪の中へ捨てられた。
「こいつは、綺麗な娘っ子だ!ここいらじゃ、こんな上等の娘は見たことねえ!」
男の狼藉に、サヤが手を振りほどこうとする。
「離して!火事なのよ!」
その横でサヤの左手首を押さえた別の男が叫んだ。
「フランス語をしゃべっているぜ!お貴族様だ!それに、こいつ指輪してねえ、きっと嫁入り前だな!
まだ男を知らねえぞ!」
「けっ、お嬢様かよ!上玉だな!」
男達は、慌てるサヤの身動きを封じて、そのまま家畜小屋の裏へ引きずり込もうとする。
「ハジ!」
何が起きたのかわからず、混乱するサヤが叫んだのと同時だった。勢いよくハジが男たちの間に割っ
て入った。その彼が見たものは、汚らしい男達に身体を押さえつけられ、何故か、薄物のリネンの白
い寝間着だけになってしまっているサヤだった。それを見た青年は、怒りに我を忘れ、一人の若い娘
を掴みあう不心得者たちを振り解く。そして力任せに、その醜い雄の群れからサヤを引き離した。彼ら
は、ハジの鬼気迫る様子から彼にただならぬ気配を感じたのだろう。太刀打ち出来ぬと悟ると、彼ら
は、すぐさま逃げるように暗闇の中へ退散した。
火事の騒ぎに乗じて、卑しい男たちは青年の大切な女主人にさえ手を出そうとしたのだ。ハジが雪
の中に落ちたガウンを拾って少女にかけてやると自分の腕の中へ抱きしめた。
「・・サヤ。」
ハジが囁く。サヤの体が小刻みに震えていた。
「大丈夫、少し驚いただけだから・・。」
そういいながらも少女は従者の胸に顔を埋め、シャツを掴んだまま離さなかった。『翼手』であるサヤ
の力を持ってすれば、彼らなど十分蹴散らすことは出来たはずだ。だが、ジョエルの館で、ある意味
『深窓の令嬢』であった少女には、このように身も知らぬ男たちに襲われることなど想像したこともなか
ったのだろう。 喉を詰まらせながら従者の名を呟くサヤを、ハジはもう一度強く抱きしめ、その背中を
そっと擦ってやった。
雪道4を、UPしました。
読んでいただきありがとうございます。
まだ、続きます。
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