雪道3

「・・・いいねえ、昔ペテログラードの行ったときのことを思い出すよ。綺麗な街だったねえ。」

サヤに小言気味だった老婦人は、今はうっとりと音楽に聞き入っている。だが、何か思いついたように
オーリャは立ち上がった。そして、どこからか毛糸の入った籠を持ち居間に移ってくると椅子に腰掛け、
編み物を始める。サヤは、そのオーリャの膝の上に広がる白く四角い編み地を見て不思議に思った。

「・・これ、なあに?」

サヤの質問にオーリャが嬉しそうに微笑んだ。

「これかい?これはこの間からあんたに編んでやっているのさ。良家のお嬢さんを泊めてくれって頼まれ
てね、それならショールを編んでやろうと思ったんだ。ロシアじゃ、『プラトーク』っていうんだけどね。
まだまだ、寒いからあんたが使うのにちょうど良いだろうよ。」
「・・・これ・・私のなの?」
「そうとも。この編み模様はね、私が子どもの頃、私のおばあちゃんから習ったんだよ。そうだ、あんた
には、刺繍でも教えてあげるとするかね。若い娘には、お裁縫は大事だからね。カーチャ!この子に
道具を揃えてやっておくれ。」

 声を掛けられたカーチャが台所から現れる。サヤは、女中のカーチャに亜麻布や刺繍糸、裁縫道具
などを出してもらい、それを受け取るとテーブルに向かって椅子に座る。そして、言いつけどおり娘らしく
刺繍を始める姿を、ハジは静かに見つめていた。サヤは、横からオーリャにいろいろ教えてもらいなが
ら、刺繍を施している。古色蒼然とした大きな城で召使いに囲まれて育ち、お転婆故か手仕事と縁が
なかったはずのサヤは、戸惑いながらも白い布に針を刺していた。

 ハジはその様子を心穏やかに眺める。長い休眠期の後、目覚めたサヤが、ハジの血を口にし、一番
にしたこといえば、従者のハジに対し、デーヴァを追い、闘うことを確認したことだった。そして、最初に
欲したのは、ドレスでもお菓子でも花でもなく、デーヴァとそのシュヴァリエ達と闘うための武器だった。
その要求により、刀が赤い盾で用意されることになったのだ。そのサヤが、嫁入り前の若い娘さながら
に、懸命に亜麻布に刺繍を施している。それは不思議な光景だった。もっとも、昔、何も知らず幸せな時
を過ごした動物園時代、サヤは花や装飾品や音楽に常に、興味を持っていた。チェロはハジに教えら
れるほどの腕前だったというのに、ジョエルが亡くなってからというもの、弓を取る姿を見たことはない。


              *                 *                 *


 そんな日常が続き、冷え込んだある日の、粉雪の舞う冬の遅い夜明けが訪れたばかりの頃だった。サ
ヤ達が滞在していた村は、雪の降らない雪晴れの数日の後、ここ、二、三日は再び雪が降っている。サ
ヤは厳しい寒さと冬の暗がりを避けてテーブルにランプを置き、ペーチカの近くでオーリャと共に手芸に
専念する娘らしい日々を過ごしていた。

 ハジは、そんな二人にいつものように、さりげなく紅茶を注いでやり、その手元に置いてやった。しか
し、根を詰めて刺繍に専念するサヤは、青年の淹れる紅茶に見向きもしない。
「・・サヤ、お茶が冷めてしまいますよ。」
「・・うん。」
従者に促されて、ようやく顔を上げ、布をテーブルの上に置いたサヤは、ハジが用意した紅茶を口に含
んだ。
「・・サヤ、ここ何日も、そんなに夢中になって、一体何を作っているんですか?」
サヤのあまりにも熱心な様子に、ハジは気になって仕方なかったらしい。
「・・ええと?何だろう?」

サヤが、とぼけた声を出した。肝心の少女は、今まで何も知らずに刺繍糸を刺していたらしい。ハジの
問いかけに、早速サヤがその布を広げてみると、かなり大きな長方形の形をしている。その白い布地
一面には、赤い糸を使った幾何学模様の見事な刺繍が広がっていた。
「・・・ねえ、ハジ。これテーブルクロスかな・・?」

それを聞いたオーリャが横から楽しげに口を挟んだ。
「あんたの嫁入り道具のベッドカバーだよ。夫になる男性と初めて入るベッドに使うのさ。」

「・・ええっ!」
老婦人の言葉を聞いたサヤが驚いて、頬を赤く染める。

「わ、私、お嫁になんか行かないってば!オーリャおばあちゃんが使ってよ。」
「何言ってるんだい。」
オーリャは、さりげなくハジに視線をやる。それに気がついたサヤは、さらに真っ赤になった。
「・・ち、違うってば、ハジは家族みたいなものなの・・!ハジ!あっちに行ってよ!もう、こっちに来ない
で!絶対、こっちに来たらダメ!」

 訳もわからず追い払われたハジは、仕方なくそろそろと窓際へ退散する。おかげで青年は冷え込む
窓のすぐ傍に立ちながら、まだ雪の続く外を眺め続けるはめになった。しかし、ようやく雪も落ち着いて
きたようだ。明日当たりは、止みそうな気配がする。

 その時ハジは窓から、森を抜けて雪野原を勢いよく駆けてくる一台の小さなトロイカを、偶然見つけ
た。郵便馬橇を装っているつもりらしいが、向かって来る立派な黒塗りの橇の横には、赤い盾の紋章が描
かれている。その馬橇はオーリャの家に近づくとその門の前でひっそりと止まった。ハジは、少し離れた
ところにいるサヤに目配せをすると玄関へ急いで回る。
 外に出たハジは橇から降りてくる一人の男を見つけた。帽子を目深に被り、赤い盾の人間であることを
明かす紋章入りのボタンの付いた黒いコートの男は、懐から手紙を出しハジに手渡す。ハジはその手紙を
受け取ると、すぐに反して赤い封蝋の印が本物の赤い盾の紋章であることを確認した。その男は手紙を渡
し終わると、黙って橇に戻り、トロイカは、そのまま気配を消すかのように、あっという間にどこかへ去ってい
った。


「今、貴族の黒い馬橇が来ていなかったかい?」

 突然、玄関に現れたオーリャの質問にハジは答えなかった。この老女は良家の令嬢ということになっ
ているサヤには、特別な事情があると感じているようだった。今、革命の起きたロシア各地で有産階級
である人々に容赦のない粛清が始まっていた。長年、貧困と過酷な労働に苦しめられた農民や労働者
の帝政への不満は頂点に達していたのだ。今や『革命』によって暴徒と化した無知な民衆に殺されてし
まうことも珍しくない。田舎住まいの彼女もそのことは、充分知っているのだろう。そのせいなのか、敢え
てそれ以上聞いてこなかった。そして、気がつくと、サヤが蒼ざめた様子でオーリャの後ろに立ってい
る。その足元には、刺繍のされた大きな白い亜麻布が落ちていた。

「・・・トボリスク県、ポクロフスコエ・・。」

ハジが抑揚のない声で取り出した手紙を読む。サヤが頷いた。グレゴリー・エフィモヴィッチの居場所が
わかったのだ。直ぐ傍で、ハジの微かな言葉を聞き取ってしまったオーリャが呟く。

「・・・トボリスク県・・あんたたち、幽閉されている皇帝ご一家の関係者なんだね?今、白軍(帝政軍)の
状況は、どうなっているんだい?チェコ軍が来るって噂は、本当かい?それに皇帝様達は、ご無事なん
だろうかね。ああ、お気の毒に。あのボルデェヴィキの連中のせいで。」
矢継ぎ早に質問するオーリャに、サヤは振り返った。

「・・・オーリャおばあちゃん、私たちは皇帝ご一家とは関係ないの。ただ彼らに繋がる、ある人物を探して
いるだけなの・・。」
「サヤ!」
喋りすぎたサヤの言葉を、ハジが遮る。

「・・オーリャさん、私たちはサヤの療養のため、西シベリアの親戚の家に行くだけです。これ以上の詮
索は、このご時勢ですからご遠慮ください。」
「・・・そうだね、そうした方が良さそうだね・・・・。」

ハジの少し剣のある言葉に狼狽したオーリャは申し訳なさそうな顔をした。だがその表情は、サヤの身
の上を案じる一人の老女の姿に過ぎない。

 ハジはサヤ達に声をかけ、三人で部屋に戻ると、オーリャとサヤは気を取り直して再び手芸を始める。
だが、グレゴリー・エフィモヴィッチの居場所を聞いてしまったサヤの表情はすっかり硬くなっていた。そ
れに気がついたハジがそっとサヤの側に膝をつく。

「・・サヤ、焦ってはいけません。天候のよさそうな日を見計らってここを出ます。まず、モスクワまで行
き、そこから列車に乗りましょう。」
シベリア鉄道が、まだ赤軍(革命軍)の手に落ちていなければ、何とか列車に乗ることが出来るだろう。
さらに白軍の装甲列車が利用できれば、移動が簡単になるかもしれない。ハジの提案に、サヤは無言で
頷いた



 長い沈黙の時間が過ぎてゆく。ロシアの冬の日暮れは早かった。オーリャは、そろそろ夕飯の準備を
しないければ、と刺繍の進まなくなってしまったサヤを気にしながらも席を立つ。お手伝いのカーチャが
帰るまでに夕飯の支度を終えたいのだ。その一方で、オーリャは手紙が届いてから、サヤの様子がおか
しいことが気になって仕方なかった。







閲覧をありがとうございます。
雪道3をUPしました。まだ、続きます。





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