雪道5

ようやく火が消し止められ、雪の中へ崩れ落ちた納屋の残骸を、サヤは家の窓から、
じっと眺めていた。

「やれやれ、気がつくのが早かったんだね。大火事にならなくて良かったよ。あんたたちも
無事だったし。」

オーリャのほっとしたような言葉をサヤは複雑な気持ちで聞いていた。先ほど火事が収まっ
たのを確認し、直ぐに放した家畜たちを集めたが、どう見ても足りているとは言えなかっ
た。明らかに減ってしまっている。子牛が生まれる予定のお腹の大きな牝牛は当然のように
いなかった。サヤを襲おうとして失敗した連中が腹いせに持ち去ったのかもしれない。小さ
な穀物倉庫さえも荒らされた後があった。
「回りは雪でしたからね。燃え広がらなくて良かったです。」

ハジが、濡れた髪のままでオーリャと小夜のカップに紅茶を注いだ。
「あんたには世話になったよ。サヤも無事でよかった。さっき、下男から聞いたよ。」
「うん、もう大丈夫だから。ハジもいたし。」
サヤが、案ずるオーリャに微笑んでみせる。
「皆、無事で何よりでした。」
ハジも微笑んだ。
「やっぱり男手は必要だね。」
「私など、大して役には立ちませんが。」
ハジは皆の紅茶を足す。オーリャは、サヤのほうを向いた。
「しかしサヤ、あたしゃ、びっくりしたよ。あんな薄着で雪の中に飛び出してきて、斧なん
か振るうから。まるで、皇帝陛下にお仕えする勇猛果敢なコサックの兵士みたいだった
よ。」
「だって、火事だったんですもの。ハジに言われて小屋から家畜たちを出してあげないと思
って。オーリャおばあちゃんだって最後に馬を出すのを手伝ってくれたでしょ。」
サヤは、にっこりと笑った。
「そりゃ、あんたたちの馬だからね。」
「ありがとう。オーリャおばあちゃん。」
サヤの落ち着いた返事を聞いたオーリャは、安堵したように呟いた。
「・・しかし助かったよ。やっぱり家畜は減っちまったけどね。うかうか家畜も飼えやしな
い時代になったねえ。先週ボルシャヴィキの人民委員とか言う連中が来てさ。家畜は『人民
』のものだから、『人民』から搾取したものは、全て返せっていきなり言うのさ。何寝ぼけ
たこと言ってんだよ!私は農民で、こいつらはあたしが世話をして育てて増やしたのさ!っ
て怒鳴って追い返したらこの様だよ。」
「・・・・・・・・・・。」

 ハジは何といってこの老女を慰めていいのかわからなかった。このようなことは、今やロ
シア各地で起きている。ただの略奪に変わりつつある革命をもはや止めることはできない。
僅かでも財産のあるものは労働者のための社会革命という大義名分の元、徹底的に奪い尽く
されることだろう。そのために人の命をも平気で奪う狂乱へ変わっていくのも時間の問題に
過ぎない。今回は、同じ村人であるため、情けが働いたのだろうか。オーリャが命を奪われ
なかっただけでも幸いだったのかもしれない。胸の痛いことだった。

「あんたたち、お腹が減っただろ。昨日のスープでも温めてきてやるよ。」 

  オーリャは席を立ち、台所へと姿を消した。その隣の席で小夜は、まだ寝間着姿のまま
で、相変わらず紅茶を啜っている。手の込んだ白いボビンレースのあしらわれた寝間着も艶
やかなガウンも泥雪で汚れ、さらに身体のあちこちには、鶏やガチョウの羽根がへばり付い
ていた。つい今しがた、浅ましい男達に組みしかれそうになったことのショックからは、す
っかり立ち直っているようだ。だがハジにしてみれば、いつも面倒を見て身綺麗にさせ、ご
く身近な人間しか彼女に触れさせることはしていなかった。そんなサヤをあんな下賤の男た
ちが何の遠慮もなく、掴みかかり、さもしい目的を遂げようと引き倒したのだ。早く着替え
てほしい。つい先刻も早く着替えるよう進言したのだが、鈍感なサヤは意に介さなかった。
ハジの口から、思わずため息が漏れる。

「・・・サヤ、その姿はあんまりですので、そろそろ着替えてきてはどうでしょうか?」
青年は先ほどの言葉を繰り返す。
「いやよ。まだ、紅茶を飲んでいるんだもの。」
「しかし、それでは、まるで泥の中を走り回ったガチョウのようです。」
小屋を壊され居場所を失ったガチョウたちが玄関ホールで騒いでいるのが聞こえてくる。従
者に干渉され、むっとしたらしいサヤは、彼を睨んだ。

「・・・わかっているから。」
「・・私は、もう着替えましたし、オーリャさんも。」
「・・もう、放っておいてよ。後で着替えるから」
サヤは、ハジの話をまともに聞く気がないらしい。
「サヤ、いい加減、素直に着替えてきてください。」
「何よ、さっきから、着替えろ、着替えろって・・・!おまけにガチョウみたいだなんて失
礼なことを言うし。」
なかなか着替える気配のない強情なサヤにハジの腹も据えかねたようだ。
「・・何を言っているんです!ろくでもない連中に襲われそうになったから、そんな姿にな
ってしまったんじゃないですか!それなのに、そのような格好をいつまでもしているなんて
、感心しません!何でしたら私がお召しかえを手伝いますから、二階へ上がりましょう!」

 ハジは、つかつかと歩み寄ると少女の腕を乱暴に掴んで引っ張る。そのとき彼は、サヤの
首に奇妙な引っかき傷がついているのに、気がついた。
「・・・サヤ、これは?」
ハジの問いにサヤが、こわごわと答える。
「ほら、何人かで押さえ込まれたでしょ、撥ねよけようと思って動いたときに・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
「・・他に足にもあざが出来ちゃって・・。でも、どうせすぐ消えちゃうし、平気だか
ら。」
サヤの話にハジの表情が強張っている。
「・・足のどこですか?」
サヤは、ちょうど回りに誰もいないことを確認すると、白い寝間着の裾を少しだけ捲る。右
膝の内側に大きな青いあざが残っていた。乱暴目的の男たちが力づくで少女の動きを封じよ
うとしたのだ。ハジの顔色が変わった。

「・・でも大丈夫だよ、ハジ。あと十分もしたら治ると思うから。」
「・・何を暢気なことを!」

ハジが怒りも露わに答えた。サヤは従者にあっという間に二階へ連れて行かれると、衝立の
向こうへと押し出され、オーリャの用意しておいてくれた衣服をそそくさと着替える羽目に
なった。ハジは、サヤの着替えが終わるまで衝立の向こうの暖炉部屋に陣取っていて動く気
はないらしい。サヤは、仕方なくすっかり汚れてしまったガウンと白い寝間着を脱いだ。
「・・・あ。」
今まで気がつかなかったが、胸の辺りにも大きな引っかき傷がついている。胸を掴まれそう
になり払いのけるため抵抗したことを思い出した。
「サヤ、どうかしましたか?」
衝立の向こうから耳ざとく少女の声を聞きつけた青年の声がする。ハジにこの傷のことを言
えば、もっと機嫌が悪くなるだろう。
「・・・な、なんでもない・・。」
サヤは、大人しくオーリャが用意してくれた服に着替えた。


          *          *         *


 遅い夜明けが訪れつつあった。
 空の端が薄茜色に染まり始めている。冬の朝はなかなか明るくならない。だがもう雪は止
んでいた。厳しい寒さの中で川面も十分厚く凍りついているようだ。これならモスクワまで
トロイカを出せるだろう。二階から降りてきたサヤは、問いかけるようにハジを見遣る。彼
は無言で頷いた。サヤは暖炉のすぐ傍にいるオーリャのほうへ、ゆっくりと歩いていく。少
女は、気持ちを落ち着けるため深呼吸した。

「・・あのね、オーリャおばあちゃん、わかっているのかもしれないけど、私たち、そろそ
ろ、ここを出ないといけないの。雪も止んだし、急だけど出来たら今日中にここを立ちたい
の。・・・私たちあまり時間がないんだ。」

 事情を説明しようとするサヤの声は、いつの間にか涙声になっていた。・・・時折、ふい
に現れるようになった眠気。これは気のせいではない。休眠期が近づいているのかもしれな
かった。
 サヤは、雪の止んだ外を霜で曇った窓越しに眺めた。

―目覚めて、もう二年・・・。そろそろ時間との戦いになるだろう。私は、休眠期に入る前
に、果たしてデーヴァを仕留めることが出来るだろうか?もう悩んでいる暇などない。目の
前にいる人と別れを惜しむ時間さえないはずなのに。

 いつの間にか、ハジがサヤの傍に寄り添っていた。彼は、涙ぐむ彼女を胸にそっと抱きし
める。ハジは、少女の気持ちに気がついていた。サヤは一度眠りに入ってしまえば、どんな
に大切な人も切ない思い出も、この年老いたオーリャのことも全て眠りの彼方へと置き忘れ
てしまう。次に目覚めたとき、サヤは生きているオーリャに会うことは、おそらく叶わな
い。サヤが出会う人々は、皆、彼女の前から消え去っていく運命なのだ。

ハジは、胸に抱きしめていたサヤを離すとオーリャのほうへ向き直った。

「オーリャさん、私たちは準備が出来次第、ここを立ちます。いろいろとお世話になり、あ
りがとうございました。サヤにも暖かなおもてなしをしていただき、心から感謝します。」

オーリャは自分の女主人を呼び捨てにし、代わりに、勝手に挨拶する従者を呆然と見てい
た。そして、そっと胸に手を当て、目を瞑る。

・・・きっと時代は変わるのだ。自分の祖父母が農奴の身分から苦労して、ようやくまとも
な暮らしをやっと手に入れたように。

「・・・あんたたち、本当に、本当に、今日行ってしまうのかい?」
オーリャは哀しげに言った。
「ええ・・ごめんなさい。私たち、もう行かないといけないの。」
「・・サヤ、財産があったばかりにボリシェヴィキに住んでいたところを追い出されたんだ
ろ。ペテログラードは酷い状態になっているそうじゃないか。息子達にも帰ってくるように
手紙を出したばかりだよ。・・・何だか酷い世の中になったね。だけど、あんたたちさえよ
かったら、ずっとここにいてもいいんだよ。春になれば、畑もあるし、子馬も生まれるよ。
ここでの暮らしも悪くない。凄い贅沢はさせてやれないけど。食べるには、きっと困らない
よ。」
サヤは、老婦人の手を取った。
「・・・ありがとう。オーリャおばあちゃん。」
オーリャは、サヤの手をしっかりと握って言った。
「・・それにね、私は気がついていたんだけど・・。サヤ、これは良いところの娘の手では
ないね。軍隊に入って戦地へ行った男の手だよ。・・・良家のお嬢さんなのに、きっと人に
言えないような苦労したんだろうよ。何か理由があると思うから、聞かないけど、もっと、
若い娘らしい暮らしをおし。恋をして、結婚して、子どもを産んで、そして年老いて感謝し
ながら楽しく暮らすんだよ。・・実はね、息子の手紙でノボロシスクから国外へ逃げる船が
出ているらしいとか、シベリア鉄道で極東へ行くと船で脱出できるらしいっていう噂が書い
てあったよ。あんたのような資産家のお嬢さんは、うろうろしていないで、一刻も早くこの
国を出なさい、ね。」
そう言うと老女は、そっとハジの顔を見た。


          *          *         *


 降り続いた雪が止んだせいか、白い雪に覆われた庭には、弱い陽光が差し始めていた。
ハジは、大急ぎで荷物を橇に運び込む。
 片やオーリャは、下男とともに台所でライ麦パンや燻製肉、ピロシキ、蜂蜜菓子を懸命に
古い麻袋に押し込んでいた。サヤは彼女の提案で、息子が着ていたというコサック風の衣服
に着替えさせられ、シャプカ(毛皮の帽子)を被せられる。いかにも若い娘姿だと、また、
よくない連中に襲われるのではないかと心配したせいだ。

 身支度の終わったサヤとハジは素朴な木造りの玄関の前に立つ。外までオーリャと下男が
見送りに現れた。

「気をつけておいき。革命家を気取ったろくでもない連中には気をつけるんだよ。全く奴ら
ときたら・・・でもね、この国もすっかり変わるんだろうよ。少しばかり財産を持ってしま
った私には辛いことだけどね。でも、あんたたちには、良い日が来るかもしれないよ。身分
の違いなんて、ゴミくず同然になってしまう時代が来るよ。」
サヤは、目を伏せた。オーリャは、本当に親身になって心配しているのだ。頬を涙が流れ落
ちていく。すぐ傍らでハジは無言のまま、立っていた。
「・・どうか、あんたたちが無事に旅を終えられますように。無事を祈って、しばらくは、
あんたたちの使ったものは片付けられないね。」

サヤとオーリャは、玄関先でしっかりと抱き合う。少女は、老婦人に本当の孫娘のように、
三度キスをして別れを告げた。

 外に出ると、ハジは既にトロイカの御者席におり、準備が整っていた。サヤが橇の後ろに
乗り込むと、あっという間にトロイカが滑り出す。次第に速度の速くなっていく橇の中で、
サヤは帽子を手で押さえながら、急いで後ろを振り返る。オーリャが下男と共に雪の中に
立っていて、じっとこちらを見ていた。サヤがオーリャに手を振る。だが、重ね着をして膨
れ上がった姿のオーリャは身じろぎもせず、雪の中でこちらを見つめたままだった。牛馬の
ごとく働き続け、老いても新品の毛皮の外套一枚も持つことのなかったオーリャ。そのオーリャの
家さえ襲わせる『労動者のための革命』とは一体何なのだろうか?サヤには、ロシアで起き
ている現実が理解できなかった。この国を覆いつくす時代の流れは、僅かな財産を持つ者さ
え過酷に糾弾していくのだろうか。

 懐かしい田舎家がみるみる小さくなる。橇は枯れ果てた森の中へと入り、その家影は、あ
っという間に見えなくなった。長い時間大きな白樺の森を駆け続けると、突然視界が開け、
広い雪原が現れた。


「・・ハジ、橇を止めて・・・!」
サヤの上擦った声に、ハジが驚き、急いで馬を止めた。足元から真っ白な雪煙が上がる。
「サヤ、どうしました?」
振り向いたハジが静かに聞いた。
「・・ハジ。」
ハジがサヤを無言で見つめる。
「ハジ・・・これでいいんだよね。私はあそこにいては、いけないんだよね。」
少女は震える声で呟く。
「・・サヤ。」
「皆、ハジのことも使用人扱いしないで、私の家族のように接してくれたよね・・。」
「・・サヤ。」  
 サヤは、来た道を振り返る。もう、オーリャの家は森の向こうへ消え、見えはしない。


 大きなペーチカが温める田舎家。心を込めて作られた多くの食事。サモワールの上に載せ
られた小さなティーポット。オーリャと向き合って、おしゃべりしながら、施す刺繍。それ
を傍らでハジが見ていた。そして、彼によって絶妙のタイミングで登場するお茶。私が心か
ら欲しかったものがそこにはあったような気がした。

 昔、父と仰いだジョエルと過ごした懐かしい古城での日々のように。あの満ち足りた日々
が、『実験動物』に向けられた、ただのまやかしの愛情の賜物だったとしても、今となって
は、目の眩むような愛しい想い出に過ぎない。
 だが、そのような密やかで豊かな恵みは、自分にはもう許されることはないだろう。この
手がこの世界に災禍をもたらし続けるデーヴァを解き放ったのだから。

―私は、デーヴァを倒さなければならない。すべてを終わらせるために。

サヤは、橇の中でオーリャの手で編まれた白いショールをしっかりと抱きしめる。何を思っ
たのか少女は橇の中で立ち上がると、突然、雪の上へ飛び降りた。

「・・サヤ?」
ハジは、サヤの行動に驚いている。ハジの訝しげな様子をよそにサヤは、橇の荷台から、ハ
ジのチェロケースを引きずり降ろした。それを見たハジが橇を降り、サヤの横に走りよると
チェロケースを取り上げる。
「・・サヤ、何をするんですか?」
「・・ハジ、赤い盾が用意してくれたあの刀を出して頂戴。」
毅然としたサヤの主の口調に、ハジは頷くとチェロケースを開ける。蓋の内側にある隠扉か
ら刀を取り出した。それをサヤが受け取る。そして両手で掲げるように持つと、ゆっくりと
刀を抜いた。

 極東から来たという刀鍛冶に打たせたという刀は、銀色の鈍い光を放っていた。刃には、
独特の波形の模様が全体に広がっている。白く光るその輝きには殺気さえ漂っているような
気がした。

 サヤはこの日本刀を初めて見たとき、その短さには驚いたものだ。「たたら」という独特
の製法で鍛え上げられると言う日本刀の切れ味は生半可ではないと噂は聞いていた。だが、
この短さは自分の知っている剣とは、明らかに違っている。この短さで敵を確実に倒すため
には相手の懐に入るしか方法がない。しかし、それこそがデーヴァを解き放った自分の運命
なのだ。倒すべき相手に常に自分の命をも、晒し続ける、その現実こそが・・・。

―相手を倒すことと引き換えに自分の命が奪われることになっても、私はデーヴァを狩ろ
う。

 サヤは、その刀を斜めに構えて踏み込むと、渾身の力を込め振り上げる。固い決意とも
に、重い刀が凍るような冷気を斬った。 あの『動物園』を出てきた日に全ての覚悟は出来て
いたつもりだった。だが、それでもなお、何かを求めようとする、この心の疼きは消えてし
まうことがないのかもしれない。


 淀んだ灰色の雲間から森の間に広がる白銀の雪原に細い透き通った光が指す。その静謐な
光の輝きが雪の中に立つ二人をくっきりと照らし出していた。








雪道シリーズはこれで終了します。ロシア的な雰囲気を出そうと頑張ってみたのですが
どうだったでしょうか?
読んでくださった方々、ありがとうございました。


雪道4へ                          BLOOD+ファンページへ