朝4
ハジは、グラスを小夜の手に持たせた。
小夜は、力なく、ひんやりとした透明なグラスをを受け取る。
「---大丈夫ですか。」
「・・・うん・・大丈夫。」
「気分は、どうですか。」
「よくわかんない・・。でも、いろいろ考えても仕方ないことはわかっているの。
ただ・・。ただ・・沢山のことがいっぺんに起きてしまって、時々よくわからなくなるだけ。きっと。
ごめんなさい。いつも、ハジにも手間ばかりかけさせちゃって・・。」
「いいえ。」
小夜は、かろうじて返事をすると、ぎこちなく口元へグラスを持って行った。唇が冷たい。さわやかな
酸味を帯びた甘さが口中に広がった。
と、とたんに咽せて、小夜が咳き込む。
ハジが急いで、小夜からグラスを取り上げるとテーブルに置いた。
「---大丈夫だから。少し、咽せただけ。」
 咳が収まると、小夜は今度はベッドの上に置いたままのトレーへ手を伸ばし指先で引き寄せる。
その上に載っている握り飯の一つを手に取った。そして、巻いてある透明なフィルムを剥がして、
口へ持って行く。さらに、その小さな口を懸命に動かして、無言のまま食べた。
「・・・おい、無理して食わなくてもいいぞ、小夜。昨日、吐いたってジュリアさんがいっていたから。」
カイが気にしている様子で、声をかける。
それを聞いた小夜が不思議そうな表情で、カイを見上げた。そして、視線をハジに移す。
「・・・私、昨日、吐いたの?」
ハジは、何も答えなかった。再び、冷たいグラスを小夜にそっと手渡す。
「飲み物は、ルイスがわざわざ作ってくれたようです。」
小夜が、小さくうなずく。両手に食べるものと飲むものを持ち、交互に口にする。
カイがその様子がおかしかったのか、吹き出しながら言った。
「・・・お前、食いもん食うと嬉しそうだよな。何故か、いつも機嫌もすぐ直るし。」
カイの言葉に、小夜が少し困ったような顔をして笑った。

 そういえばそう・・。美味しいものを食べると気持ちが落ち着く。いやなことを忘れられる。
辛いことも。悲しかったことも。
人間って、そんなものなのだろうか。お父さんが死んでしまったのに、お腹は、空く。
そんなときに食べるものは、やはり、美味しいのだった。

 それにしても、目が覚めてから、身体を動かしてみると、身体の至る所が痛い。

 ここ数日、船の中では、息が詰まるような気がして、たまらなかった。様々なことが頭の中を駆け
めぐっていた。
 昨日は、ルイスの買い出しに付き合うという名目で港町で降りる許可をデヴィッドから特別に
もらったのだった。
 本当は、買い出しには、全く興味はなく、ただ、東南アジアの町を観てまわりたいと思って
いたに過ぎない。
 ふらりと。遠くでなくていい。港のすぐ近くでいい。ちょっとだけでいい、ほんの僅かな時間だけで
いい、独りになりたいと思った。少し、考え事をして、自分の気持ちを落ち着けたかった。
 そしていざ、ルイスから離れて、こっそり出かけようとすると、それをハジが、めざとく見つけ、
危ないから一人では、絶対出歩かないよう、厳しく注意された。彼は、いちいち煩いと思う。
 そのハジを、うまくかわして、一人で外へ気晴らしに出たはずだった。
 船の着いた寂れた港のはずれで見つけた小さな屋台。そこで南国風の飲み物を小銭を出して
買い、受け取ろうとすると、突如、傍から手が出てきて、いきなりそのカップを横取りされた。
 ハジだった。外で生ものは、口にするなと言う。
 全く、彼はどこで私が出かけてしまったのを見たのだろうか。いつも、ハジの方が、一枚上手だ。

それから・・それからどうしたのだろう。

気がつけば、何かに引きつけられるように歩いていたような気がする。
まさしく、取り憑かれたように。
何かに。
そこへ、どうしても行かなければならなかった。

---あれらの声が聞こえてしまったから。

気晴らしのことも、独りになりたかったこともすべて忘れて。

---どこへ?

薄闇の中で、ハジが私に刀を投げてよこしたことは覚えている。重い刀身が腕に響いた。
なぜ、渡したのだろう。
いや、違う。私が彼に命じたのだ。昔のように。

---昔のように?

私は、彼に何かを命じたりはしないはず。
とやかく言ってくるのは、いつもハジだ。

その刹那、頭の何処かで、大きな軋む音を立てて、突然扉が閉じられた。
あとには、恐ろしいほどの静けさだけがあり、もはや何の気配も残っていなかった。

頭の奥が鈍く痛んだ。
深い淵の底へと沈んだものが、よどんだ水底で蠢いている。

「---どうしましたか。」
ハジの声が、すぐ頭の上でして、我に返った。
「・・なんでもないの。・・頭が痛くて、気分が悪いの。」
「少し、横になりますか。」
「・・・ううん、いい。身体もあちこち痛いから。」
「---身体中が、酷い打ち身でしたから、そのせいだと思います。怪我も多少はして
いましたが、どれも擦り傷程度で、たいしたことはありませんでした。」
「・・・私、怪我をしたの?」
小夜が驚いた表情でハジを見上げる。
ハジが、急に無口になった。今度は、カイが心配そうに小夜を見ている。小夜のいつもと違う
様子に少し、青ざめていた。
「・・・小夜、ジュリアさん、呼んでこようか。」
するとハジが、部屋を出ようとするカイの腕を、つかんだ。
「---カイ、ジュリアは、呼ばないで下さい。怪我の手当ならもう終わっています。」

沖縄の記憶は残っている。

懐かしい高校の校庭。
チェロを弾いていたハジ。
ジョージの店で会ったデヴィッド。
バイクを走らせるカイ。そして、リク。
通っていた高校での事件。
初めて出会ってしまった翼手。
ジョージが死んでしまったときのあの痛ましい記憶でさえ。
それなのに、つい昨夜の出来事の記憶がなかった。

一体・・・。


「・・・で、小夜はどうなんだ、ジュリア。」
デヴィッドは、口ごもりながらジュリアに尋ねた。その瞬間、彼女の表情に少し翳りが見えたような
気がしたのは、単なる気のせいに過ぎなかったのだろうか。
「・・・わからないわ。昨夜の様子は、確かにおかしかったわね。覚醒した状態だったのに、
錯乱していて、怯えていたわ。」
「小夜には、今現在は、問題は起きていないはずじゃなかったのか。君は確かにそういっていた。」
「そうよ、問題なんか、今までなかったわ。なんにもよ。記憶が戻らないこと以外はね。」
「では、どうして・・・。」
ジュリアは、頬杖をついて、窓から外を見た。
「・・・きっと、ベトナムが近いからだわ。もう、東南アジアだし、景色は似ているでしょうしね。
何かを思い出しそうになるのよ。本能的に。」
「・・・・・・・・・・。」
「仕方ない事よ、デヴィッド。いつかは来ることだわ。彼女自身にだって、いつまでも、封じておけない
でしょうから。記憶が戻るのも、そう遅くはないと思っていた方がいいと思うわよ。」







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