朝3
 カイが、仕方なく小夜の服を診察室にある白い廃棄物箱へ、叩き付けるように力任せに放り込み、
思いっきりドアを蹴って閉め、足早に医務室を出た。

 カイが、船内を意味もなく、歩き回って苛立ちを納め、その挙げ句、船酔い気味になりながら
ようやく病室の小夜のところへ戻ったときには、小夜は、ぼんやりしながら小さな窓から、外を眺めて
いた。カイがせっかく持ってきた食べ物は、そのまま、手をつけられずにベッドの上に置かれている。

 船が昨日より揺れているようだ。今日は、波が高いのかもしれない。

「--小夜・・。」
カイは、呼びかけてみたが、小夜は、窓にもたれたままで、振り返ることはなかった。
「・・・ねえ、カイ。私たち、これからどうすればいいのかな・・。」
小夜は、まるで人ごとのように、ぽつりと呟いた。
「・・・お父さんが死んで、私たち、これから、どうなっちゃうのかな。」
「--小夜・・。」
「このまま、デヴィッドさんたちと何処かへ行って、そして、私、どうなっちゃうのかな。」
「もしかして、お前、何か聞いていないのかよ。」
「うん・・。まだ、何も。ベトナムへ行くことだけ。デヴィッドさんが後で、話があるって言ってたけど。」
カイは、そっと小夜のそばへ歩み寄る。
「ねえ、カイ、お父さんのこと、本当は、私のせいだよね。」
「・・何、言ってんだよ。」
「・・ごめんね。リクにも、申し訳なかったと思ってる。でも、あれしか方法がなかったの。
きっと、そうなの。きっと、そうだったの。」
「・・・・・・・。」
「・・さっき、夢を見たんだ。何だか、とても怖い夢。そして、目が覚めて、沖縄だと勝手に思いこん
でた。ただ、もう、嬉しくて・・。」
「・・・・・・・。」
「『そうだ、これからカイと海を見にいこう。』と思ったの。そして、うちに帰って、ご飯食べようって・・。」
「・・・また、連れて行ってやるよ。」
「・・・カイ、お父さんの作るご飯おいしかったね。」
「親父、器用だったからな。」
「私あんまりお手伝いしなかった。お店の仕事は、いつも、夜だから、もう寝ろって言われてた。
それより、部活を頑張れよって・・。」
「・・・・・・・・。」
「ねえ、カイ。お父さん、私がいなかったら、きっと、もっと長生きしていたよね。」
「小夜!関係ねえだろ!いいかげんにしろよ!」
「--ごめんね。カイ。」
カイは、首を振った。
「本当に、本当にに・・・ごめんなさい・・。わかっているの。本当はわかっているの。元気を
出さなくちゃって。こんなことじゃ駄目だって事。私は、今は自分でやれることを一生懸命やって
いかなきゃいけないの。お父さんのためにも。」
その言葉とは裏腹に、小夜は、泣き崩れて、床へ座り込んだ。

 船のエンジンの音と波の音だけが聞こえる。窓の外の小さな四角い青空を、白い鳥が、
すいっと横切っていった。

 カイは、声を殺して泣く小夜に、何と声をかけてやったらいいかわからなかった。
 小夜の詳しい事情は、ジョージからは何も聞かされていなかった。自分は、小夜がジョージの
ところへ来た経緯など、全く知らなかったが、彼は、小夜と関わるとどうなるかわかっていて、預かった
のだろうと思う。宮城ジョージという男は、そんな男だった。
 自分とリクの時だって、両親が事故で亡くなった後、親戚の誰からも引き取る話は出なかった。
子供心にも、自分の死んだ両親には、親戚に顔向けできない何かがあったのだろうと思う。
ジョージは、もちろん、そんなことを百も承知で、自分たちを引き取ったのだ。彼は、
そういう人間だったのだろう。


 部屋に入ってくる風には、この頃ではすっかり湿り気を感じるようになったとジュリアは思う。
そろそろ、ベトナムも近い。ハジとカイの去った医務室で、ジュリアはため息をついた。すっかり、日が
昇って、明るい。けれど、彼女の気分は優れなかった。自分でもかなり、疲れていると思う。

 昨夜は、港町で何があったというのだろう。突然真夜中に、当直室のインターホンが鳴り、医務室
まで呼び出された。白衣に袖を通すと急いで走っていき、慌てて医務室を覗いてみると、ハジが、
小夜を腕に抱え込んだ状態で立っていた。見るからに小夜の様子がおかしい。ひどく混乱して
いるようだった。彼が、騒ぐ小夜を引きずった来た後には、点々と血の跡が付いている。
 この状態はどう見ても、翼手と遭遇したのだろう。しかし、どうして遭遇してしまったのだろうか。
ジュリアには、理解できなかった。ベトナムが近くなったことと関係があるのとでもいうのだろうか。
そして、この血は?この血が翼手の返り血なのか、それとも小夜自身が怪我を負ったのかさえも
わからなかった。
 医師として、彼女の身体の状態を診ようとして、近づいたが、いきなり、その小夜に
顔をはり倒されたのだった。眼鏡が勢いよく飛んで床へ落ちた。
 何故か、ジュリアには、決して触れさせまいとする。そのくせ、不思議なことにハジにだけは、
抵抗せずに、大人しく抱えられているのだった。しかし、この状態では、手当も出来ない。戦闘態勢に
入ったままの小夜は、通常の時と違い、身体機能が圧倒的に上昇しており、気をつけなければ
いけなかった。
 しばらくの間、宥めたりすかしたりと自分なりに工夫して、処置を施そうと奮闘したが、とうとう足を
蹴られ、転倒しそうになった。
 それを見たハジが、さすがに、どうにかしなければならないと思ったのだろう。小夜の身体を
抱いて、放りあげるように診察台に載せた。さらに、その両手首をつかみ、上体を台へ押さえつけ、
その上へハジ自身の身体を載せて、小夜の身動きがとれないようにし、何とか、事なきを得たの
だった。

「・・・ジュリア、こんな朝早くから何の騒ぎだ。廊下まで、カイの声が聞こえていたぞ。わざわざ、
小夜におきたトラブルのことをカイに知らせたのか。」
突然、ジュリアの後ろで、声がした。
「仕方ないでしょ、デヴィッド。」
ジュリアは、診察室の椅子の背にもたれたまま、ぼんやりと天井を見ていた。
「それに、入ってくるときは、ノックぐらいしてくれないかしら。ここ、一応、診察室なんですけど。」
「そりゃ、すまなかったね。カイの声が大きかったので、つい、気になってね。」
デヴィッドは、右手をあごに当てたまま、壁にもたれてみせる。
「・・・私だって、わかっているのよ。あの子たちには・・・、親を亡くしたばかりのあの子たちには、
精神的なケアが必要だって事。癒してあげないといけないのよ。周りにいる大人が、きちんと
関わってあげないと・・。」
「・・そりゃ、賢明なことだ。」
「でも、私たちは、そんなことをしてあげる余裕はないわ。」
ジュリアは、目を閉じた。
「私たちだって、志半ばにして、命を落とした多くの同志たちの死から、立ち直れているとは
いえない・・。」
ジュリアは、そっと顔を両手で覆った。声が、震えて上ずっている。
「・・・そう。まだ、立ち直れてなんかいないわ。心の傷口は、塞がっていないの・・。」


 船の底に当たる波の音がしていた。船が波を切って、ベトナムへと進んでいる。そろそろ、
陸が近いのだろうか。外で泣いている海鳥の声がうるさい。カイと小夜の後ろで、静かにドアが
開いた。

 ドアのところに、ハジがトレーを持ったまま、無言で一人立っていた。ハジは、小夜の様子を見ると
持っていたトレーをベッドのテーブルに置く。そして、小夜へ静かに近づくと、その背後に立った。
カイがそれを黙ったまま、見つめる。
「・・・小夜、立てますか。」
小夜からは、返事はなかった。背の高いハジは、しばらく、見下ろした状態で、小夜の様子を
うかがっている。そして、様子を見計らって上体をかがめ、小夜を背中から抱えるようにして
立たせてやった。ハジに促されて、ようやく立ち上がった小夜は、ハジに引かれるようにそろりと
歩く。まだ喉を絞るように、しゃくりをあげていた。
 ハジは、そのまま小夜をベッドのあるところへ連れて行くとそのベッドの端に座らせた。だが、
小夜は、相変わらず、俯いたままだった。ハジは、じっとその様子を凝視していたが、今度は、
サイドテーブルから、先ほど持ってきたトレーを手に取って、小夜に見せてやる。
「小夜。ルイスが、これを小夜にと・・・。」
プラスチックの白いトレーの上には、橙色の透明なジュースの入ったグラスが載っていた。
「・・・飲み物が必要でしょうから。」
小夜は、何も言わない。ただ、ぼんやりとオレンジ色の液体を見つめているだけだった。
その色鮮やかな水面が、船の揺れに合わせるかのように、細やかに揺れている。






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